それぞれの葛藤4
翌日も、色々考えることが面倒で、彩芽はひたすら仕事に突き進んでいた。
コラボ案件は、逃げに使うなといわれているから、他の業務中心にひたすら没頭。できれば泊まり込みまでしたいくらいだったが、さすがにそれは出来ないから、仕方なく帰宅の途についた。
昨日歩美とやり合ったせいで、家に帰っても気まずいし、気が重い。こういう時は、いつも陽斗を呼び出して、愚痴を言ったり時間をつぶしたりしていたのだが、あの騒動以来、陽斗とも顔を合わせるどころか、連絡もしていない。
陽斗を気軽に呼び出すこともできなくなってしまっている今、ストレスだらけだ。陽斗と気まずいなんて、これまで一度も思ったことなかったのに。そんな中、勝手に婚姻届けを出されて。どうしたらいいのよ。
歩美は、ひざを突き合わせて向き合わせるとかいっていたが、これじゃ逆効果じゃないか。
気どころか胃まで、ずっしりと重くなっていたが、思いきって、玄関を開ける。
すると、身体によしかかっていた重さは、目の前に広がってる光景にすべて吹き飛ばされていた。
「この状況は……何?」
彩芽が玄関を開けた第一声は、それだった。
玄関に大量の段ボールが積み上がっている。旅行に行って大量なお土産買ってくるにしても、異常な量。あれだけくすぶっていた、モヤモヤが、その箱に吸い込まれていく。
「お帰りなさい」
段ボールの隙間から、声が響いてくる。頭の中でこの状況が処理できないまま、段ボールをよけ、声のしている方へと向かう。リビングも同じような状態。段ボールだらけだ。その中心に、母がいて、ポンポンと色々なものを入れ込んでいた。
「……何してるの?」
「見たらわかるでしょ? 荷物まとめてるのよ」
「……どうして?」
「そりゃあ、当然でしょう。引っ越すからよ」
何をいってるの? 本当に意味が分からない。彩芽は息が止まるほど唖然とする。細くなった気道の隙間から、何とか息をする。そして、吐き出す吐息が震えた。
「……この前から、いったい何なの?」
ドクドク音を立てながら、心拍数が急上昇。走ってもいないのに、勝手に息が切れる。血の巡りが、一気に早まるのに、指先がどんどん冷えていく。そして、ものすごい勢いで怒りが、雪崩れ込んできて、飲まれていた。
「勝手に他人の婚姻届け出したと思ったら、今度はここから、引っ越します? いい加減にしてよ!」
もう、何が何だかわからない。ただでさえ、勝手に結婚届を出され、こっちは混沌とした状況なのに、ここを引き払う? 私たちが引っ越ししたら、陽斗とはどうなるの? ちゃんと向き合うどころか、それじゃあ距離がどんどん離れていくだけではないか。冗談じゃない。
怒りだけではなく、悲しみまで押し寄せてきて、視界が滲んでいきそうになる。
そこに「どうやら、勘違いしているみたいね」と、歩美から呆れた呟きが聞こえてきた。
「引っ越すのは、お母さんと彩芽の二人でも、お母さんでもない。あなたよ」
歩美から飛び出してきた言葉が、彩芽の潤んでいた瞳を一気に乾しにかかっていた。
彩芽の滲んでいた視界はすっと引いて、絶句する。
「ちょっと待って。どういうこと?」
彩芽は、反射的に歩美が段ボールに詰め込んでいる品々を見やる。すると、確かにそこに収まっているものは、すべて自分のものだ。サーっと血の気が引いて、弾かれるように、リビング横の自室を確認する。
そこは、もぬけの殻同然だった。開け放たれたクローゼット。そこにかけられていたコート類は、すべて空。その下にある引き出しも開かれ、全部空っぽ。本棚や雑貨類も全部消えている。
怒る気力も消え失せていっている彩芽に向かって、歩美はいった。
「もう面倒くさいから、文句聞くなら一瞬で終わらせたい。どうやら、ずっと西澤家も揉めているみたいだし」
たしかに、西澤家の方からも何か言い合うような声と、ガタガタする音が聞こえてきていた。歩美は、はぁっと全身でため息をつく。
「というわけで、全員集合ね」
歩美は、壁をドンと、拳で強く一度叩いた。こちらへ集合という合図だった。
数秒で、インターホンも鳴らさすことなく、二人がドカドカ入ってきた。
佐和は辟易とした表情を見せ、陽斗は怒りが前面に出ている。陽斗がスーツのままだということは、彩芽同様、帰宅早々やり合っていた証拠だろう。
だが、そんなこと今はどうでもいい。目の前に並んだ二人の悪魔。それを陽斗と彩芽は、睨み付ける。
そんな二人の視線を二人の悪魔は顔を背けることない。二人は挑むように胸の前で、腕組みをしていた。
「こうなった経緯、ちゃんと説明しておくわね」
歩美がそういうと、佐和がその後に続いていた。その目つきは、厳しい。
「銅像のようにその位置から動かないあんたたちでも、婚姻届を出せば嫌でも、動き始めると思った。でも、実際は違った。威力抜群であるはずの紙切れさえも、あんたたちは、この壁を都合よく使って、隠れようとすることがよくわかった。だから、追い出すことにしたの」
「だからといって、このままバラバラと二人をこの家から追い出すと、いい機会だとばかりに、また逃げ出そうとしかねない。だから、首根っこを掴んで、逃げ場をなくして、向き合わせることにした」
「というわけで、あんたたち明日から帰る家、ここじゃなくなります」
歩美が窓の外をビシっと指さして、ぴしゃりと言い切った。
「目の前のマンション。賃貸契約しといたから」
もちろん、契約主は陽斗の名前でと、佐和が付け足す。
「冗談じゃない! いくら心が広い俺でも、我慢の限界だ! マジでふざけんなよ! 勝手に何でもかんでも決めやがって!」
陽斗が噛みつくように叫ぶと、続いて彩芽が叫んだ。
「二人の酒の肴にされる時期は、とっくの昔に終わってるの! 私には、私の感情があるの! 考えていることがあるの! それなのに、勝手に婚姻届け? 引っ越し? いい加減にしてよ!」
「へぇ。じゃあ、あんたの考えてることって何? どんなことを考えて、思って、これまで生きてきたの?」
今度は、二人同時にパンチをくらって、黙る番だった。歩美の投げかけた質問に答えることができず、俯く。
二人の沈黙が重なり合ったところで、鋭い矢が射られた。
「そんなにお互い嫌い?」
歩美の質問に答えられない二人。さらに質問を重ねてくる。
「そうじゃないんでしょ?」
真面目な顔をしている佐和の、核心をついた唐突でシンプルすぎる質問だった。二人の息の根を完全に止めにかかってくる。
二人の瞳は見開かれて、逃げ道を探すように挙動不審になっていた。
そして、最初は怒りで染めていた赤みとは種類の違う、赤が頬に差して始めていた。彩芽に至っては耳まで真っ赤になっている。
「ま、そういうわけで。明日から帰ってくる家はあっちで、よろしくね」
悪魔の尻尾を生やした母親二人は顔を見合わせて、ニタリと笑って頷いていた。




