見れども飽かぬ
「ようこそ、私の研究室へ。あなたが来てくださることは、明瞭に見えていましたよ」
噂の男の元を、俺は藁をも縋る思いで訪ねた。
「そちらに座って。冷たいコーヒーをどうぞ」
内陸県の某宗教都市・S市に、鏡の神を宿した男がいる。心の奥深くまでを映し出し、叶わなかった望みをひとつだけ実現させてくれるのだそうだ。
俺は「奇跡」としか言えない力を求め、男が働くS大学へ電車を何本も乗り継いだ。
「遠路はるばる、大変だったと顔に書いてあります。さあ」
男が俺の方へ手を向けると、どこからともなく事務服の女が現れて、コーヒーをローテーブルに置いた。愛想が無く、目つきが悪い。俺を品定めしているようだった。
「カミさんです。極度のあがり症でしてね。本当はあなたへ丁寧な挨拶をしたいんです」
突然、口の中に苦い唾液が流れた。俺はそれをやり過ごしながら、コーヒーをもらった。
「あなたの望みも、私の頭に映っております。ですが、望む者が言葉にしなければ、虚像のまま。さあ、表現して」
何だって叶えてくれるんだよな? 俺を生んだ奴に会わせろ。
「少々、意地の悪さが含まれていますが?」
けっ、教授様は賢いぜ。しかも、俺にしかけを言わせようとしているあたりが、きどってやがる。
俺を生んだ奴は、とっくの昔にあの世へ逝っている。俺をニュージインとやらに即押しつけて、ドラマでありがちな「ごめん」とか「達者でな」の手紙も付けずにな。俺の声がヘリウムガスから、重低音に変わった頃だったか、インチョウが「アナタノオカアサマハテンニメサレマシタ」と告げられた。
「あなたの仰りたいことは、分かります、分かりますよ」
嘘つけ。裕福な暮らしをしてきたくせに。早く神の力ってやつを使えよ。
「学部長、失礼します」
事務服の無愛想な女が、一礼して男の耳に唇を近づけた。
「そうでしたね。ありがとう」
男は女の手に接吻した。イチャつくんじゃねえよ。
「これはすみません。カミさんとの約束なんです。でも、私は学部長ではないですよ、カミさんは毎度、昔の肩書きで呼んでくるんですよ……」
「学部長」
「どうしました?」
本棚から事務服の女が、おずおずと白い顔を出した。
「会議に遅れそうなこと、学科主任に連絡しましょうか?」
「いえ、あと三分で済ませますから」
俺が透明人間か幽霊かというぐらいに、男は甘い声で返事した。
「あなたは気が利きますね。惚れた理由のひとつです」
ここまでは、苛立ちで平常心を保っていた。もう、我慢ができない。
なんで、同じ顔の嫁が三人もいるんだよ。
俺にコーヒーを出して、そばで立っている女。
男の隣で、妖しく微笑む女。
本棚に抱きついている女。
まるで、鏡映しのようじゃねえか!
「素晴らしい。知恵は少々、おありのようだ」
どれが本物の嫁だ?
「カミさんに本物も偽物もありませんが。カミさんは、カミさんです」
おまえの望みは、嫁の増殖かよ。狂ってやがる。
「私が精神を病んでいると仰るんですか?」
重症な奴に限って、健康なアピールをしやがるんだよ。
「あなたとずっと一緒にいたい、カミさんの切なる望みを叶えた私が、異常ですか?」
ズレている。全然女の扱いがなってねえ。もっと単純なやり方だと気づけよ。
「一万人の『最愛なる人』がいれば、私も安心します。誰一人欠けないことがベストですが、一人欠けてしまっても、カミさんはまだ九千九百九十九人そばについているんです。恐れなど、ありますか?」
俺は身体を曲げて、口を押さえた。気色悪い。発想が人を超えている。こいつは、何者なんだ!?
「私は何者にも分類できないですよ。裏を返せば、好きな時に何者でもなれるということです」
男が女の名前を呼ぶ。たったひとりのものだが、一万。一万だが、たったひとりの存在。
「学部長、儀式の準備が整いました」
「学部長、お客様の具合がよろしくないようです。いかがいたしますか」
「学部長、汗をかいていらっしゃいます。空調を下げましょうか?」
「学部長」「学部長」「学部長」「学部長」「学部長」「学部長」「学部長」「学部長」「学部長」「学部長」「学部長」「学部長」
行ってはならなかった。後悔しているのか? 違う、俺は奴に会える可能性に賭けて、一回コッキリの人生、奴の面を見てから身の振り方を決めようと、俺は奴に言ってやりたいセリフがあってー。
「なぜひとつしか叶えて差し上げられないのか? 答えはその身を以て、理解していただけたのではありませんか」
それが、俺が最後に聞いた男の言葉だった。
鏡の神は、あの世にいる奴を連れて来てくれた。俺は大人でありながら、奴の腕の中に包まれている。白くて、細くて、か弱い腕だ。顔は、俺によく似ている。そりゃそうだろうな、俺が奴の子なんだから。
奴は、心地よい声で俺を許してくれる。今まで重ねてきたあれもこれも、帳消しにされた。俺は、ずっと求めていたんだ。帰れる場所を、落ち着ける場所を。
おふくろ……もう、どこにも行くなよ。
「またも実験は失敗に終わりました」
寄り添う母と息子が映る万華鏡から目を離し、男はため息をついた。椅子に腰かける男の周りには、事務服の妻が幾人もはべっていた。
「我が母マソカガミよ、生かしたまま望みを叶えてあげるには、未だ光の道筋が届かぬようです」
妻の頬を撫でて、男は万華鏡を落とし、踏みつぶしたのであった。
あとがき(めいたもの)
改めまして、八十島そらです。
僕の身内に、寝る前に怪談を聞く者がおります。その話が夢に出てくるのではないかと思うと、気が気でありません。
鏡に惹かれはじめたのは、ランドセルをしょっていた頃から……だったはず。鏡の中には別の世界がある、映る姿は、ここにいる自分とは違う人生を歩んでいる「自分」、割れた鏡で傷つく心と身体、など、想像が止まらなくなります。
ちなみに、マソカガミは「見る」「清し」を導き出す枕詞(和歌の用語)、まそかがみからきております。