epilogue
「――私たちにとって、人生を生きる上で必要なものとはなんだと思う?」
あれから何事もなく日々は過ぎ、変わらずバイトと夢の実現に精を出していたある日、甘いもの嫌いの偉そうな日本語を話すフランス人が突然そう問いかけてきた。
「そんなことより手を動かしてください。洗い物終わってませんけど」
今日は団体客が来たこともあり、なかなか忙しい日だった。今は閉店後の掃除や溜まった洗い物と苦戦しているところだ。
「なあ悠、君は何を必要とする?」
「続けるんですか、その話題……」
呆れて肩を落とした。こうなったら答えないと何もしてくれないことは経験から学んでいる。
「あー、じゃあ酸素で」
「それは単に生きる上だろうが! 違う、そういうことじゃなくて、生命維持的なことはなしにして答えてくれ」
注文の多い男だなと面倒になってくる。
「そうですね……」
けれどここで真剣に考えてしまうから、おそらくノアを調子づかせてしまうのだろう。わかっていても、長年に渡って培ってきた性格を直すことは難しい。
「人、ですかね」
「人?」
「よく言うでしょ? 人は一人では生きられないって」
「それは〝人〟なら誰でもいいのか?」
「誰でもはさすがに……。信頼の置ける人がいいですね」
「ならばそれ、私はどうだ?」
一拍おいて、ノアの意図を読み取れなかった悠は怪訝な顔で彼を見返した。
「どういう意味です?」
「私にとっては悠、君が必要だ。君と友人になりたいとずっと思ってきたが、それは撤回する」
「まあ、友人と言われると違和感がありますしね」
「というより、友人という枠では収まらないんだ。私も君と同じで信頼の置ける存在が欲しい。多くの人間は、おそらくそれが恋人だったり夫婦だったりするのだろう」
悠は頷いた。彼の言うとおりだと思ったからだ。人生を共にする相手と聞けば、ほとんどの人間が結婚を思い浮かべ、その相手を思い浮かべる。
「岩崎さん曰く、恋愛は人生における必須科目らしいですから。つまり人生における必要なものとも言えるかもしれませんね」
それだけではない。恋愛は人生のスパイスだ、と言った先人もいるらしい。
それをノアに教えたら、彼の眉間にしわが寄った。
「恋愛が人生のスパイスだと言うのなら、そこには当然好き嫌いが発生する。スパイスを好む人間もいれば、嫌う人間もいるということだ。もしくは好きでも嫌いでもないと発言する者だっているだろう。ならばなぜ人は、恋愛を人生における幸福度の指標のように扱うんだ? 個人の幸福などそれぞれだろうに」
彼は間違いなく愛の国フランス出身のはずで、だから悠は、彼がなぜそんなことを言うのかわからなかった。
「どの時代においても結婚が必ずしも幸せに直結しない。幸いにも今の時代は、それに気づけることが多くなった。そうだろう?」
「じゃああんたは、恋愛が嫌いなんですか?」
そう訊くと、彼はあしらうように手を振って。
「ノン。私は好きでも嫌いでもない。恋愛や結婚だけが人生の幸福とは思わないが、しないとも決めていないよ」
「ふうん?」
「だが一つだけ、憧れているものがあるんだ。なんだと思う?」
「いや知りませんけど」
即答すると、彼は素っ気ない返事になど構わず、遠くを見つめながら目を細めた。
「憧れているんだ」
もう一度、そう呟いて。
「ただ一つ、切っても切れない関係というものに憧れている。簡単に離婚する夫婦より、裏切る恋人より、互いに絶対の味方だと確信できるような、そんな関係に」
悠はドキリとした。だって、こんな彼を初めて見たから。
どこか脆く、どこか危ういような。
だから考える。彼の言葉の意味を。いつものように適当に流してしまわないよう。
永遠の愛を誓い合う夫婦。未来を甘く囁き合う恋人たち。
けれど現実は、全てが物語のようにうまくはいかない。それは悠も知っている。
永遠を誓っても、情熱的な恋に落ちても、憎しみ終わることだってある。
ならば、結婚とはなんなのだろう。愛とはなんなのだろう。余計にわからなくなる。
だからこそ、ノアの言いたいことが解るような気がした。〝夫婦〟がいつか離婚し、〝恋人〟がいつか別れてしまうなら。
そのどちらでもない、名前のない絆が欲しい――。
(そうか。俺も、同じだったんだ)
恋とか愛とかいう感情がピンとこなかったのは、一番身近な両親がいつも喧嘩ばかりしていたから。二人は愛し合って一緒になったはずなのに、蓋を開ければ誓い合ったはずの永遠なんてもうどこにもなかった。
それでも恋人たちを微笑ましいと、羨ましいと思っていたのは、互いが互いを大切にしようとする絆には憧れたから。
愛に終わりがあることを知っていたからこそ、余計に〝切れない絆〟というものを無意識にも探していた。
(俺はきっと、誰かを愛したいんじゃない。誰かを大切にしたいんだ。そして相手にも、大切に思ってもらいたいんだ)
こんなことを口に出してしまったなら、友人にはまた「変わっている」と言われるのだろうか。
言われなかったとしても、今後、この価値観を誰かと共有できる日は来るのだろうか。少しだけ不安が胸を過った。だってそうでなければ、自分の望む関係を誰かと築くことなんてできないように思えるから。
「……なんか、難しそうですね」
「さて、どうだろう。君が鈍感だから気づいていないだけじゃないか?」
思わず「おいちょっと待て」と、感傷的な気分も忘れて突っ込んでしまう。
「俺は鈍感じゃない。というより、気づいてないって、何にですか」
「ほら、鈍感だ」
「あんたが言葉足らずなだけです」
青筋を立てるも、ノアには全く効いていないようだ。ニヤニヤとした顔がこちらの神経を逆撫でする。わかっていてやっているのだから質が悪い。
「なあ悠、フランスはいいところだぞ」
「はいはいそうですね。てか話に脈絡を持たせてくれます?」
「フランスには有名なショコラトリーやショコラティエがたくさん存在する」
「知ってますよ。だからいずれは留学するつもりで語学の勉強をしてるんです。全然上達の兆しは見えませんけどね!」
半ば八つ当たりのように告げると、ノアの動きがぴたりと止まった。
「悠、フランスに来るのか?」
「そりゃあ本気でショコラティエ目指してるんで。憧れてはいますよ」
「そうか……なんだ、そうか。ははっ」
「え、今なんで笑いました?」
「柄にもなく緊張して遠回りした自分を笑ったんだ」
「はあ……?」
やっぱりこの男は言葉足らずだと思う。まるでひとり言のように意味の理解できない言葉を吐き出すくらいなら、いっそのことひとり言として喋ってくれればいいのに。
(そしたら絶対反応してやらないのに)
馬鹿にされたと勘違いした悠は、ムスッとした表情でノアを睨みつけた。
だから、「私がフランス語を教えようか?」という彼の提案には、素直に頷けなかった悠である。
これが、秋も終わり、吐き出す吐息が白くなり始めた頃のことだった。
やがて出会いと別れの季節と名高い早春がやってきて、悠は寝耳に水といった気分で目の前の男の顔を凝視した。
たった一年。されど一年。
いつのまにかノアはずっとシャトーにいるものだと錯覚していたらしく、そんな自分に驚いた。
「……仕事はどうするんですか」
「まだしばらくは休業だな。アロマセラピーと香水を融合した新たな取り組みに挑戦しようと思っているから、帰国したら忙しくなるだろう」
「そんなに日本語話せるのに、そういえばあんた、フランス人でしたもんね」
「そうだが……私はその言葉をどう受け取ればいいんだ、悠」
「いえ、ちょっとびっくりしただけです」
「なんだ、もしかして寂しいのか?」
「違う。揶揄うな」
「ははっ。だが私は少しも寂しくないぞ。なぜなら今度は君がフランスに来る。そうだろう?」
「――!」
確かにノアの言うとおり、悠はショコラティエになるためにフランス留学を考えている。いつになるかはわからないし、本当に実現できるかもわからないことなのに、ノアの中ではそれが決定事項になっているらしい。
そんな強引なところがこの人らしいなと、心の中で小さく笑う。
「出立は一週間後。見送りは不要だ」
「頼まれても行きませんけどね」
「悠ならそう言うと思った。最後に乃々に会えないのは寂しいが」
「一週間後のいつです?」
「平日だ。航空機代が安い」
なるほど。それは確かに重要なことだ。
「まあでも、今週末は連れてくる予定だったんで、会えますよ」
「本当か! ぜひ頼む! 最後にお別れのキスがしたかったんだ」
「誰がさせるか」
そうやって文句をこぼしたのも、すでに懐かしく感じている。
三月十三日。
ノアを乗せた飛行機が、出港ラッパよりも盛大な音を立てて離陸した。
「はるくん、本当に良かったの?」
今日も今日とてバイトにやって来ていつもどおり仕事をこなす悠を、和恵が心配そうに窺ってきた。
「何がですか?」
「正司さんと一緒にあの子の見送りに行かなくて。お店のことなら気にしなくて良かったのよ?」
そのことか、と苦笑する。
「いいんですよ。そもそも平日のど真ん中に帰るあの人が悪いんです。明日だって学校だし、それに――」
――〝なぜなら今度は君がフランスに来る。そうだろう?〟
ああ、そうだ。だから永遠の別れではない。甘いもの嫌いの偉そうな日本語を話すあのフランス人は、最後に悠にこう言った。
『また、悠』
それは、おそらくこの世で最も短い次の約束を取り付ける言葉だ。
満更でもない自分に、悠は一人になってから頬を掻いた。
「それに、きっと近いうちに、また会えると思いますから」
窓外の夜空を見上げる。そこには瞬く星々しか見えなかったけれど、同じ空のどこかにはあのフランス人もいるはずだ。きっと今頃は快適な空の旅でも楽しんでいるのだろう。
(面倒くさい人だったけど、また会えたら、そのときは)
そのときは、自信作のチョコレートを食べてもらおう。
だからそれまでより一層腕を磨こうと、約束のため、悠は夜空に背を向けた。