CHAPITRE III
あの女性が初めてシャトーを訪ねてきた日から、一週間。
毎日のように彼女は来店するようになった。
お目当てはもちろんノアだが、彼女が来店すると決まってノアはバックヤードに引っ込んでしまう。
もらった休憩時間を利用して、悠は今もまだ絶賛引きこもり中のノアの許へ足を運んだ。
「いい加減にしてください」
「それはこちらの言葉だ。いい加減にしてほしい。なぜサンドラは毎日来るんだ。暇なのか」
「それは俺も思いますけど、あんたに会いに来てるんですよ」
彼女の名前がサンドラ・アヴェッカーというのは、あのあとノアから聞いた話だ。
彼女は予想どおりノアの元恋人で、彼が日本に来る数か月前に別れているらしい。振ったのはノアという話で、未練があるサンドラはこうして海を越えて彼の許までやって来たという。
彼女は幼少の頃をほとんどイタリアで過ごしたらしく、そのせいでイタリアとフランス両方の訛りが混ざった英語を話してしまうのだとか。
また、ノアとは所属する企業の香水の新作開発のメンバー同士として出会ったという。ノアは調香師として、彼女は営業として、最初は気の合う同僚という関係だった。
なぜ悠がここまで詳しいかというと、彼女の名前以外は全て彼女本人から聞いたからだ。
「はるくん、ちょっといいかしら」
休憩室でノアと向き合っていたら、入り口から和恵が顔を出して手招きしてきた。悠の休憩と入れ替わるようにホールに立っていたはずの和恵だが、何か問題でもあったのだろうか。
「もしかして混んできました?」
「いいえ。でもね、サンドラさんがあなたを呼んでほしいって」
またか、と悠はうんざりする。そう、悠がノアとサンドラについて詳しいのは、ノアの代わりを悠がさせられているからだ。
「ノア、いい加減にしてくださいよっ。あんたならサンドラさんの魂胆くらいわかってるでしょ!」
彼女が悠を頻繁に話し相手にする理由は、それを見かねたノアを誘き寄せるためだ。なぜなら毎回彼女は最後に「そろそろ出てきてくれるかしら」と悪戯っ子のように悠に訊ねてくるのだから。隠す気のない確信犯だ。
「なんで俺が他人の痴話喧嘩に巻き込まれなきゃいけないんですかっ。二人の馴れ初め話は別にいいですよ。惚気話もまあ良しとしましょう。聞いていて微笑ましいですからね。でもあんたはいいんですか!」
「……というと?」
「第三者の俺が聞いていてだんだんと恥ずかしくなってくるんですよ。そんな話を勝手にされていいんですかって訊いてるんです。なんで俺が罪悪感を抱かないといけないんですか!?」
「ちょっと待て。サンドラはいったいどんな話をしているんだ。悠の顔色が真っ赤なんだが!?」
「俺の顔色を今指摘しないでください!」
ただこれだけは言える。これまで恋愛に興味のなかった自分に、恋人同士の甘い雰囲気を匂わせられるだけで羞恥心に耐えられない。自分で言うのもなんだが、これまで興味のないことに時間を割こうと思ったことがなかったため、誰かとまともに恋バナすらしたことがないのだ。免疫力はゼロである。
「彼女を狙う他の男性に『私の女に手を出す気か?』って啖呵切ったって、どこの漫画のヒーローですか!」
「まさかそれで顔を赤くさせているのか!? 悠もどこの初心な乙女だ!?」
人の荒い息だけが狭い部屋に反響する。自分に恋愛の耐性がないことくらい百も承知なので、ノアの言葉には反論できなかった。でも乙女はない。
「とにかく、俺はこれ以上耐えられません。二人から聞く分にはいいですけど、あんたが嫌がってるのにこれ以上勝手に聞いていいとは思えません。ていうか! なんで初日に『来るな』って言わなかったんですか!」
「言った! 二度と来るなと言ったんだ」
「普通に来てますけど!?」
「だから私も頭を抱えているんだろう!」
「もう一回ガツンと言ってくださいよ!」
「言って聞く女性なら苦労していない!」
「あんたの元カノだろうが! 自分で振ったなら落とし前つけてこい!」
「振ったが振られたようなものだ! 落とし前はすでにつけている!」
ノアとここまで言い争うのは初めてかもしれない。悠も自分に被害が来ていなければここまで声を荒げるつもりはなかった。あと、ノアがここまで逃げなければ、こんなに食い下がることもなかったのだ。
まだ言い合っていたら、さすがに騒がしさを心配したらしい正司が二階から下りてきて、入り口のところにいた和恵に状況を訊ねていた。
「なんだなんだ。何を言い争ってるんだ、二人は」
「ふふ、痴話喧嘩よ」
「痴話喧嘩ぁ?」
ぴく、と耳がノアのものと同時に反応する。
「はるくんが本気で怒ってるところなんて初めて見たわ」
「ノアが怒らせたのか? やるなあ」
「『やるなあ』じゃないですよ!」
それはいくら正司といえど聞き捨てならない。
「そうだ、茶化すな二人とも。私たちは真剣な話し合いをしている最中だぞ」
「「だからこれは痴話喧嘩じゃない!」」
重なった文句に夫婦が顔を見合わせてくすくすと笑い始めたことが、全くもって理解できなかった悠である。
その日の閉店後、さっさと帰ろうとした悠を呼び止めたのは、喧嘩したはずのノアだった。
どこか気まずそうな表情は、悠を巻き込んでいる負い目を感じているからか。それとも悠がまだ怒っていることをただ気まずく感じているからか。
後者なら許すのは先になりそうだなと思いながら、悠はぶすっとした顔で言外に「なんですか」と返事をした。
閉店後の店内はがらんとしていて寂しく、窓から覗く闇が余計にそれに拍車をかけている。
「このあと、時間はあるか?」
いつもこちらの都合など気にしたことがないくせに、こういうときに限ってお伺いを立ててくるなんて卑怯だ。
悠はため息を一つついて、おもむろにスマホを取り出した。
「あ、もしもし。母さん? 今日遅くなりそうなんだけど……うん、うん。大丈夫。ありがと。乃々のことよろしくね。……え? あー、違うよ。ちょっと大事な用事ができたから。うん。わかった。じゃあ」
通話の終了ボタンを押すと、悠はノアへと視線を戻した。彼の口が面白いくらい不格好に開いている。
「ふっ。なんですか、その顔。初めて炭酸を飲んだときの乃々みたいな顔ですね」
「……悠、その喩えでわかるのは君の乃々への溺愛ぶりだけだ」
「? よくわかりませんけど、まあいいです。座って話します? あ、正司さんたちに許可もらってこないと」
今頃バックヤードで今日の締め作業をしているだろう正司の許へ行こうとしたら、ノアが必要ないと止める。すでに話を通しているらしく、好きなだけ使っていいと言われたのだとか。
「根回しありですか。そんなにサンドラさんの話が長くなるんですか?」
少しだけ揶揄ってみた発言だったが、思いの外ノアは神妙な顔つきを崩さなかった。
彼に促されて一番テーブルの椅子に腰を下ろす。シャトーではカウンターに近い順にテーブル番号を振っているので、わざわざ覚えなくても忘れたら数えればなんとかなる。
背の高いノアは、椅子に座って早々足を組み、腕まで組んで難しい顔で黙り込んだ。そんなに言いにくい話なのかと、こちらまで身構えてしまう。
「あの、俺は別に人のプライベートを暴きたいわけじゃないんで、言いにくいなら言わなくていいですよ? ただこっちを巻き込まないでくれれば、それで」
「いや、悠には、聞いてほしい。君とは長く友人でいたい。そのためには話しておいたほうがいいと思うんだ」
友人。その言葉に衝撃を受ける。
「え、俺とあんたって友人なんですか?」
「待て悠。今それを言われると話が盛大に逸れる」
「いや、だってなんというか、友人っていうより恩人で、バイト先のオーナーの身内で、やたらショコラとうるさい外国人って感じだから」
「だんだん心の距離が遠ざかってないか? それなら恩人で止めてくれ」
「じゃあ恩人で」
「待て待て! じゃあってなんだ。それに、そういう意味じゃない。私は悠ともっと仲良くなりたいんだ。冷めた態度を取るくせに人一倍相手のことを気遣う悠を気に入っているんだ。今日も時間を取ってくれたし、サンドラが勝手に私のことを話すのに罪悪感を抱いてくれただろう? そんな人間、今まで一人もいなかった。他は勝手に私の話を他人に聞いて、勝手に広めていくというのに。だから悠とは、今以上に親しくなりたいと思っている」
そんなことを直球で言われたのは初めてで、どう反応していいか困ってしまう。いやそもそもの話、なんでこの男はそんな恥ずかしいことを平気で口にできるのか。外国人だから?
――違う。この男がそういう、馬鹿みたいに真っ直ぐな性格をしているからなのだろう。
「私はようやく学んだぞ、悠」
「……何を」
「悠は表情のほうが雄弁だ。言葉よりも顔を見たほうがわかりやすい。見ろ、真っ赤だぞ。照れているのか?」
「ちょ、スマホの画面をこっちに向けるな!」
わざわざ内カメラになっている画面を向けてくるなんて、なんて意地の悪い男だ。本当に真っ赤な顔の自分が映っていて羞恥心が跳ね上がる。
ノアはひとしきり笑ったあと、最初とは打って変わって穏やかな顔で切り出した。
「聞いてくれ。これはまだ、私が日本に来る前の話だ――」
そうして始まったのは、ノア・ルフェーブルという男の身の上話だった。
彼は日系二世の母と、フランス人父の間に生まれたという。
母はフランスでモデル業をしていて、父が調香師だった。二人とも忙しい身だったため、ノアを育てたのは母方の祖父である雄一郎だったらしい。
それでも、恋愛に奔放な母より仕事一筋だった父を尊敬していたノアは、いつしかその背中を追いかけ始め、彼自身も調香師を目指すようになる。
「父の許で修行するのが一番近道だっただろうが、私はあえて正攻法を選んだ。今思うと、父と同じ土俵で、自分の力でのし上がるところを見せたかったのかもしれない。自分の息子を誇りに思ってほしくて」
そう語るノアの横顔は、誰が見ても寂しげだった。まるで小さな子どもを見ているようで、子どもに弱い悠はその頭を撫でそうになる。
「だが、見事調香師として成功を収めた息子を見ることなく、父は他界してしまった。それからだ、私が自分のことを考えるようになったのは」
それまではひたすら父の背中を見ていた。仕事一筋で、周囲から尊敬される父が自慢だった。そんな父と同じ土俵で成功すれば、父に自分を認めてもらえると思っていたという。
けれど、それは一生叶わない夢となってしまった。父が事故で亡くなったからだ。
「たとえ大切な人が亡くなっても、世界は変わらず回る。私の許にも変わらず仕事が舞い込む。あんなに打ち込んでいた調香が、途端に味気ないものに変わったんだ」
自分がなんのために調香師をしているのか、どうして調香師になったのか、急にわからなくなった。
そんなときに出会ったのがサンドラだ。
「サンドラはまあ、あの調子だからな。私の事情などお構いなしに踏み込んできたよ。だが、それがちょうど良かった。遠巻きに腫れ物扱いされるより、居心地が良かったんだ」
間もなく彼女と恋人関係になってからは、悩むよりも、惰性でもいいから働こうと思った。
「同じコレクション開発チームにいるんだから、かっこ悪いところは見せられないだろう?」
「へぇ。あんたでもそんなふうに思うんですね」
「悠は私をなんだと思っている?」
しかし、それが逆効果だったことは過去が物語っている。
「とにかく私は熱意をもって開発に打ち込んだ。先に話した理由もあったが、元々企業から依頼されていた香水のテーマが『悲しみを乗り越え日常を生きていくための香り』だったこともあって、当時の私が精魂を傾けるのも当然だったんだ。だが――試行錯誤の末に完成した香水の処方箋が、盗まれる事件が起きた」
処方箋というのは、料理のレシピのようなものだとノアが教えてくれる。香水を調合するためのレシピ。どの香料をどれくらいの割合で混ぜるのかといったことが書かれている、調香師にとって自分の作品とも言えるもの。それが、別の調香師に盗まれた。
それも、同じ企業に所属する別の専属調香師に。
「彼はいわゆる崖っぷちだったらしい。ある程度の成果を上げられなければ、次年の専属契約を打ち切ると通告されていたんだ」
「じゃあもしかして、盗んだあんたの作品で……?」
「ああ。彼の首は繋がった。見るか? この香水だ」
ノアはさっとスマホを操作すると、悠でも知っている有名ブランドの公式通販ページを開いて見せた。そこには香水が一覧で表示されていて、その中の一つをノアがクリックする。香水の名前やコンセプトなどが書かれた専用ページに飛ぶ。日常を生きていくための香りであるからか、思っていたより手頃な価格設定だ。まあ、だからといって、悠が買いたいかというとまた別の話になってくるが。
「売れてるんですか?」
「皮肉なことにな」
「言わなかったんですか? これは自分の作品だって」
「言えなかった……いや、言う気力がなかった」
「気力が?」
「情報を流したのは誰だと思う?」
「誰って、そんなこと俺に聞かれても。あんたの会社の人なんて知らな――」
と言いかけて、ハッと気づく。そうだ、知らない。ただ一人を除いては。
「まさか……」
「悠は察しがいい。そんなところも気に入っている」
「茶化すな。それより、なんでサンドラさんが? だって彼女はあなたの恋人だったんでしょ? それとも、そのときにはもう別れてたんですか? 振られた腹いせ? それにしたってやりすぎだと思いますけど」
「いや、あのときはまだ別れていなかった」
「はあ? だったら最悪じゃないですか!」
「そうだな」
「そうだなって、なに他人事みたいに言ってるんです!? あんたの作品を、あんたの恋人が他の男に売ったんですよ。もっと怒ったらどうですか!」
しかも彼女はノアのそのときの状況を知っていた。彼が尊敬する父を亡くし、落ち込んでいたことを知っていたのだ。
それだけじゃない。ノアが調香師としての自分に悩んでいたことも、彼女は知っていたはずなのだ。
知っていながら、その仕打ちは――。
「酷すぎます。ありえない。そういうことはもっと早く言ってください。知ってたらあの人をシャトーには入れなかったのに!」
「ふはっ」
怒る悠とは対照的に、なぜかここでノアが噴き出した。今のどこに笑う要素があったのかと睨み上げる。
「すまない。でも悠が怒るとは思っていなかった」
「そりゃ怒りますよ! こんな話、正司さんや和恵さんだって怒るに決まってます。むしろなんであんたは落ち着いてっ……――は、ないのか」
落ち着いていないから、ノアはサンドラを避けている。彼女の猛攻撃を躱している。
「すみません。ちょっと頭を冷やします」
「なぜ謝る? 私は自分のことのように悠が怒ってくれて嬉しい。おかげで心が少し軽くなった」
「なんですか、それ。意味がわかりません」
はぁ、と疲れたように息を吐きながら、両手で顔を覆う。サンドラのことを最悪だと言ったが、それは自分も同じだ。元カノだと聞いて簡単に信用してしまったけれど、するんじゃなかったと反省する。どうしてノアがあそこまで彼女を拒絶したのか、ノアにもっとちゃんと理由を聞くべきだった。
「あんたは人を見る目がないです」
「そうか?」
「そうですよ。サンドラさんといい、俺といい」
自分が決して『いい人間』でないことを理解している身としては、そんな自分のことを気に入っていると言うノアは人を見る目がないと思う。
しかも、恋人の誇りを傷つけるような裏切り方をする女性を好きになるなんて、やはり見る目がない。
「だが、私はそうは思わない。悠は素直だし、人の痛みを知っている。それに警戒心が強いだけで、一度懐に入れた相手には甘いしな。まさに悠の香りのように」
「……チョコと俺の性格は関係ありませんけど」
そこでムッと返せば、ノアが小さく笑った。目を伏せて笑う姿は、どこか感傷的にも見える。
「それにサンドラも……仕方ないと言えばそうだった」
「仕方ない? 先にあんたがサンドラさんを裏切ってたとか?」
まさか、と自分で言って鼻で笑う。この大型犬みたいに好きなものに一直線なこの男が、恋人を裏切るとは思えない。
「裏切ってはいないが、放置していた。ということに、後から気づいた」
「放置?」
「言っただろう? 新作のテーマはそのときの私に誂え向きだったと。どうしても完成させたかった。これさえ完成させれば、父の死を乗り越えられると思っていた。だがそのせいで、熱中しすぎてしまったんだ」
恋人よりも調香を優先し、サンドラが寂しがっていることに気づけなかった。彼女は何度か息抜きのデートに誘ってくれたが、ノアはそれが彼女のSOSだとわからなかったという。
気づいたのは、全てが起きてからのことだった。
「彼女は言ったよ。寂しさに耐えられなかったと。そんなときに差し伸べられた手をどうして振り払えるのかと。解らなくはないと思った。私も同じだったからな。父が死に、空虚だったときに差し伸べられたサンドラの手を取った」
だから、彼女を責めることはできなかったと。
だから、彼女に別れを告げ、逃げるように日本に来たと。
「――いや、おかしいだろ」
そのとき口をついて出たのは、サンドラと、間男と、そしてノアに対する怒りだった。
「あんたら全員おかしいだろ! 寂しいからって恋人を裏切る彼女も、彼女を利用して出世を目論んだ男も、そんな二人を恨まないあんたも! 父親が死んだんだ。それも尊敬する父親が。一緒にするなよ……っ」
恋人に放っておかれた寂しさと、大切な人を亡くした空虚さを、一緒に考えるなと思う。
むしろ恋人なら、好きな人なら、その空虚を埋めようとする熱意に寄り添ってあげるべきではないのか。
「そりゃ、恋人がいたことも、大切な人を亡くしたこともない俺がなに生意気なこと言ってるんだって思うかもしれませんけど、あんたが『仕方ない』なんて言わないといけないほど何かをしたとは思えません。だってそうでしょ。寂しいからって、あんたは誰かを裏切ったわけじゃない。寂しいから裏切ってもいいなんて、そんなの間違ってる」
「悠……」
「もしかして、そのせいですか? あんたが調香師を辞めたのって」
ノアが『逃げ』たのは、サンドラからだけではなく、調香師という自分からもという意味まで含まれていたのか。
「いや、それだけが原因じゃない。元々は父に認められたくて始めた仕事だった。その指針を失い、自分が本当にやりたいことが何かわからなくなっていたんだ」
そんなときにやっとの思いで完成させた香水を盗まれ、他人の作品として発表されたノアは、何もかもがどうでもよくなったと言った。それは当然の心理だ。
「まあでも、悠に話して幾分かすっきりしたな。自分のために誰かが本気で怒ってくれるというのは存外いいものかもしれない」
呑気に笑うノアが恨めしい。普段あまり怒り慣れていない悠としては、胸くそ悪い話に心が苛々して仕方がないというのに。
「そういうわけだから、今後はサンドラが来ても無視でいい。一方的ではあったが復縁するつもりはないと伝えたし、そのうち彼女も諦めるだろう」
話はこれで終わりとばかりにノアが立ち上がる。
「待ってください」
だが、悠の中では何も終わっていない。何一つ解決していない。
「それで、ノア。もう一度訊きます。あんたはどうしたいんですか?」
「どうしたい?」
「俺はまだ、あんたの本音を聞いてませんよ」
「はは……珍しいな、悠。君は私に興味などないだろう?」
「あるって答えたら、出しゃばってもいいんですか」
ノアの青い瞳がまん丸と見開く。面倒な性格をしている彼には、これくらい意地の悪い返し方のほうが効くだろう。
「俺の知ってるノア・ルフェーブルは、ちゃんと未来を向いて悩んでましたよ」
――〝私はセラピストのほうが向いているか?〟
その質問は、ノアが自分のこれからを真剣に考えているからこそ出たものだろう。このままではいけないと無意識にも思っていたからこそ、咄嗟に口から出てしまったもののような気がした。
そういう人間は、きっと逃げ続ける自分をどうにかしたくて、水面下で必死に足掻いている。
きっかけがないなら、作ればいい。
「前に舞台を整えてくれたのはあんたでしたね。じゃあ、今回は俺が整えます」
「待て悠。私は別に、サンドラが諦めてさえくれれば……」
「いいんですか? 本当に? 俺、知ってるんですよ。ワーキングホリデーは一年。延長はできないから、終われば帰国しないといけないんですよね。ちゃんと調べたんです。逃げられるのにも限界がある」
「そうだが、私は日系三世だ。日本に移住しようと思えばできる。そうすれば、ずっとここにいられる」
「いたいとも思ってないのに?」
言ってすぐに、これでは語弊があるか、と思い直す。
彼はここにいたくないとは思っていない。そうじゃなくて――。
「あんたのやりたいことは、本当にここにあるんですか?」
彼が嬉しそうに頬を緩めるのは、おいしいチョコに出会ったときと、興味のある香りに出会ったと話すとき、そして自分の贈った香りが誰かの役に立ったとき。
人はたぶん、誰よりも自分に嘘をつくのが苦手な生き物だから。
「今度は、俺があんたにもらいすぎた恩を返す番です」
*
あれから数日、悠は舞台を整えるために奔走した。
予想どおり翌日にもやって来たサンドラに、ノアからの伝言だと偽って舞台となる日時と場所を指定した。さらにその前日に閉店後の店を貸してほしいと正司たちに願い出て、母にもその日の帰りが遅くなることを伝えた。
そして前日に使うものを準備するため、同じ専門学校に通う同級生を連れて様々な店を訪ね回った。彼は「宮下が遊びに誘ってくれるなんて感激なんだけど! 俺たちやっぱ親友だよな!?」と最初こそ無駄にテンションが高かったが、最後のほうは「え、まだ行く? まだ行くの? 俺もう鼻が死にそうよ」と疲れ切っていたので今度何かしら礼はしよう。
しかし彼の鼻を犠牲にした甲斐はあり、目当てのものは見つかった。あとは時を待つだけだ。
ノアとはあれからまともに口を利いていないが、彼は彼で何か考えているようだったので邪魔をしないよう放っておいた。
そうして明日を当日に控えた今日。閉店後の掃除中、ノアがテーブルを拭きながらぽつりとこぼす。
「なぜ悠は、ここまでしてくれるんだ?」
「え? 今なんか言いました?」
掃除機をかけていたため、その音に掻き消されて言葉が耳に届かない。というか、掃除機をかけている最中に話しかけないでほしいと思ったのは悠だけか。
「だから! 悠はなんでここまでしてくれるんだ! 悠にとっては他人事だろう!?」
今度はちゃんと言葉が届いたので、掃除機の停止ボタンを押す。
思わず呆れ目になってしまったのは仕方ない。
「それ、あんたが言います? そっくりそのまま返したいんですけど」
「どういう意味だ?」
「俺の家庭の事情なんて、あんたにとっては他人事じゃないですか。でもあんたは見守ってくれた。助けてくれた。逆に訊きますけど、なんであのときあそこまでしてくれたんですか。乃々のことは別としても、そのあとわざわざ母との間に入ってくれる必要はどこにもありませんでした。むしろ普通は『あとは家族で』って関わらないものなんですよ。誰だって面倒事に巻き込まれたくないですし、家庭の事情ってセンシティブだから躊躇うのが普通なんです」
でもノアは違った。面倒を厭うことなく、真に悠と乃々を心配してそばにいてくれた。人によってはその干渉を疎ましく思う人もいるだろう。けれどあのときの悠は、ずっと誰にも助けを求められなくて、自分でも自分の心が限界だったことに気づけていなくて、どうすればいいのかわからない状態だった。
そんな悠の無言のSOSを受け取ってくれたのがノアだ。ビニール袋をあげた恩にしては返ってきたものが大きすぎて困っていた。
「これでトントンです。もらいすぎた恩を返します。あんたが本当に逃げたがってるなら、俺もここまで強引なことはしません。でもあんたは違うでしょ? 調香師を辞めたと言っておきながら手元に商売道具を残してる。香りで人を元気づけてる。あんたはただ悩んでるだけです。逃げてるわけじゃない」
本当に逃げている人間は、そうなった理由の元を遠ざけるはずだから。
「だから明日だけ、ちょっとだけ頑張ってみてください。それでもしだめだったら、そのときはここに来ればいい。ここは『petite château』。きっとあんたにとっても、もう一つの家なんですから」
初めは和恵が悠にくれた言葉だ。小さなお城。誰かの安らげるもう一つの特別な家のような店にしたい。そんな願いが込められた店名は、同時に正司と和恵が夢を叶えた『もう一つの家』でもあった。
悠はバイトを始めて間もない頃に店名に込められた願いを聞いていたから、和恵から「ここはあなたのお城にもなったわねぇ」と言われたとき、言外にシャトーは悠の家でもあるのよと言ってもらえた気がして心が軽くなったことを覚えている。
「ここは逃げ場所じゃない。正司さんと和恵さんのお城で、誰かの安らげる場所で、俺と乃々のもう一つの家で――そしてあんたの、もう一つの家でもある。あんたを逃がすためじゃなくて、癒やすための場所です」
サンドラが来てからずっと心配そうにノアを見守っている小野寺夫婦も、きっと同じことを言っただろう。本当は自分で伝えたかったかもしれない。
けれど、彼らは見守る選択をした。ノアが迷っていることを知っていたから。
我慢できなかったのは悠だ。見守ることがこんなに忍耐の要る難しいことだったとは知らなかった。ずっとヤキモキして、しまいには一番大変なはずのノアにその苛立ちをぶつけてしまった。
(正司さんと和恵さんはすごい。見守る覚悟を決めて、でもこの人が本当にどうしようもなくなったときのために迎え入れる準備をしてる。俺にはそんなことできない。――けど)
だからこそ、自分は自分の思う方法で、ノアの力になりたい。
「これ、あげます」
持っていた掃除機を脇に置き、準備していた小瓶をポケットの中から取り出すと、悠はノアの右手を取った。
小瓶はいつかにノアからもらった物と同じアトマイザーで、彼にもらったものよりは小さいけれど、売ることを目的とされているためデザイン性は高い。
それを彼の手首に向けてワンプッシュする。その瞬間広がったのは、甘い香りだ。ケーキのような洋菓子の香りを甘ったるいと感じるノアでも、この香りは嫌いではないはずだ。
なにせこれは――
「悠の香りだ……」
「違います。チョコレートです」
「似たようなものだ」
「違います。チョコレートです」
大事なことだから二回繰り返した。ノアにもらいすぎた恩を返すと決めた悠だが、さすがに自分の香りだと言って人に贈るのは気恥ずかしいものがある。
それに、用意した香りは本当にチョコレートの香りを再現したものだった。
「あんた、言ってたでしょ。この香りが落ち着くって。正直俺には門外漢もいいところなんで、効能から選ぶのはちょっと難易度が高かったんですけど、その香りなら役に立つかなって。まあ、『チョコレートの香り』も意外と種類が多くて苦労しましたけど」
そもそも乃々やノアが落ち着くと言った香りを、その発信源である自分が知るには限度がある。
そこで引っ張ってきたのが同級生の立花竜二だった。
「乃々を色んな店に連れ回すわけにはいかないですから、友人に協力してもらって探したんです。一番香りの近いものを。どうですか、これまで自分がやってきたことを、自分がやられる気分は」
訊ねられたノアは、しばらく答えることなく呆然と自分の手首を眺めていた。
今は特に急ぐこともない。邪魔をしないよう無言で待っていたら、やがてノアが口を開いた。
「悠、由々しき事態だ……」
「今それを言います?」
はぁ、と息を一つついて。
「なんですか」
「だって……嬉しい。嬉しいのに、泣きそうだ」
ずっと自分の手首を見つめていたノアが顔を上げて、ラムネのビー玉のように青い瞳を揺らしていた。まるで太陽の光に透かして覗いたときのように、確かに彼の瞳はきらきらと光が反射している。
初めて彼を綺麗だと思った。子どもの頃、光に反射して輝くビー玉を綺麗だと思ったように。
「今すごく悠を抱きしめたい。でも日本人はハグの習慣がないから、余計な面倒の種を芽吹かせないためにも安易に抱きつくなと雄一郎に注意されている。だがこの溢れる喜びを伝える方法を他に知らない。どうすればいい」
よくわからない葛藤をし始めたノアに、思わず噴き出してしまう。
本当にこの外国人は、郷に入っては郷に従え精神に溢れすぎている。そんなに気を遣う必要はないだろうに。
「雄一郎さんが言ったのは、たぶん女性に安易に抱きつくなってことじゃないですか。あんたがそれをやると、確かに勘違いする女性が出てきそうですし」
「! じゃあ悠にはいいのか?」
「いや遠慮します」
「なぜ!」
なぜも何もない。ハグの習慣がないので、違和感しかないからだ。両親とでさえそんなことをしないのだから。
「それで、腹は括れそうですか」
サンドラのことだけではない、自分のこれからとも。
じっとノアの瞳を見つめていたら、彼は霧が晴れるように笑った。
「それは当然、括るさ。悠からこんなに熱烈に応援してもらったのだから」
ノアがもう一度自分の手首に鼻を寄せる。目を閉じて、全身でその香りを感じようとしている。
そこまで気に入ってもらえたなら贈った甲斐もあるけれど、なんだか照れ臭い。
「人から心を砕いてもらえるというのは、こんなに嬉しいものなんだな。いい香りだ。トップはビターなショコラがなめらかに香り、だんだんとバニラが混ざり込むことでセミスイートのショコラに変わるのが面白い。ああ、珈琲の香りも仄かにするな。これが悠の香りに近い理由か。ミドルに変わりきるにはもう少し時間が必要だが、香りに惹かれてショコラが恋しくなってきた。ラストが楽しみな香りだ」
「? トップとかミドルって、また香水用語ですか?」
「ああ。香りは時間の経過と共に変化するんだが、調香師はその変化を意識して香りを調合する。それをトップノート、ミドルノート、ラストノートと呼んで分けているんだ。香水を付けて最初に香るのがトップノート。その香りを印象付ける重要な役割を果たしている。次に香るのがミドルノート。ここがその香りの核となる部分で、調香師が一番力を入れるところだ。そして『残り香』とも呼ばれるラストノートがあって、一つの香水が出来上がる」
へぇ、と期せずして手に入れた新しい香水の知識に聞き入る。チョコレートの香りを探して選んだものが香水だっただけで、悠としてはそこまで知った上で選んだものではなかった。
「じゃあやっぱりそれ、あんたが俺にくれたエッセンシャルオイル? とは、また違うものなんですね?」
「そうだな。前にも言ったかもしれないが、香水は元々体臭を隠す、もしくは誤魔化すために作られたものだが、エッセンシャルオイルを使用したアロマセラピーは心身のリラックスなどを目的として発展したものだ。だから調香師とアロマセラピストが似て非なるものと言ったように、香水とアロマセラピーもまた、似て非なるもの、で……」
「そうなんですね。まあ、俺みたいな素人からすれば、どっちも香りを楽しむものってイメージですけど」
ただそうなると、買ってきたものが香水だったのは失敗だったか? という思いが一瞬頭を過る。それでもノアは喜んでくれた。
悠の目的は、チョコレートの香りで彼を癒やすことだ。その目的が達成されたならまあいいかと、自己完結しようとしたとき。
「そうか……そうだな。似て非なるものだが、合わせることはできるのか」
ノアがぽつりとこぼす。悠に聞かせるためにこぼしたというよりは、思いついたことがつい口から出てしまっただけのようだった。
「よくわかりませんけど、俺の用事は以上です。それじゃ、明日は頑張っ――」
「悠!」
「っ。なんですか、いきなり大声で」
「悠、君は私の神だ。ああ、一度浮かべば次々と浮かんでくる。悠の言うように、どちらも香りを楽しむものだったんだ。なぜ今まで気づかなかったんだろう。いや、知ってはいたがそんな視点で香りについて考えたことがなかったから気づかなかった」
「あの、何をぶつぶつ言ってるんです?」
「悠のおかげで今まで見えそうで見えなかったものが見えたって話だ。君は本当に最高だな!」
「ちょっと!?」
何をそんなに興奮しているのか。ノアが突然正面から抱きついてきた。まるで大型犬が全力でじゃれてきたようだ。さっきの遠慮はどこいった。
「本当はずっとしっくりこなかったんだ。でも父に認めてもらいたい心が、ヴェールのようにその違和感を隠していた。父が亡くなってヴェールもなくなった今、どうしたいかわからなくなっていたが、選んだ香りが悠の役に立ったのが嬉しかった。孝也に感謝を伝えられて喜びを実感した」
そう言って、ノアはこちらの両肩を掴むと。
「でも、調香師のままでは客の喜ぶ顔を直に見ることはなかなか叶わない。おそらくそれが悲しかったんだ、私は」
「……やりたいこと、見つかったんですか」
「君のおかげで!」
全身で喜びを表現するようにまた抱きついてきたノアを、悠は嘆息して受け入れる。本当に大型犬にじゃれつかれている気分だった。顔を寄せて擦り寄ってくるところが全く同じだ。
(そういえばじーちゃん家のコタロー、あいつもこんな感じだったな。あいつは嬉しいと顔中舐めてきたし、まあ、それよりはマシか)
すでに老衰で亡くなってしまった祖父母の愛犬を思い出して、されるがまま頭をぐしゃぐしゃに撫でられる。いつもなら抱きつかれた時点で頭を叩いてやるところだが、今日だけは特別に許そう。
なぜなら、放っておけない寂しがり屋の恩人が、初めて泣きそうに笑ったから。
*
次の日、約束の時間を大幅に過ぎてサンドラはやってきた。なぜかシャトーに。
「Bonsoir!」
「ボ、ボンソワール……?」
いやなんで! と悠は内心で混乱した。悠が彼女に伝えたのは、昼時を過ぎて落ち着いた時間を狙った別のカフェだ。決してシャトーではない。
ノアにも同じ時間、同じ場所を伝えているので、まさかノアはまだその店で待ちぼうけを食らっているのかと慌てる。
「サンドラさん、どうしてここに? 俺が言ったのはここじゃないですよ」
英語で理由を訊ねると、予想外の答えが返ってきた。
「? でもノアにここって聞いたわよ。時間も、ちょっと過ぎちゃったけど、この時間を指定されたもの」
「はあ?」
どういうことだと頭を捻る。今日はこの話し合いのため、土曜日だがノアはバイトに入っていない。代わりに悠が長時間労働を買って出ている。
だからもちろんノアはここにはいないし、今はもうシャトーの閉店時間である。悠は最後の常連客を見送るために店の扉を開けたところだった。決してサンドラを迎え入れるために開けたわけじゃない。
「ねぇ、ノアは? 中にいるの?」
「ちょ、ちょっと待ってくださいっ。もう閉店なんです。勝手に入れるわけには――」
「問題ない、悠。正司と和恵には話を通してある」
困っていたときに背後から聞こえたのは、いつもの偉そうな日本語だ。
これまた今聞くはずのない声を聞いて反射的に振り返ると、そこには堂々とした微笑みを浮かべるノアがいた。
店の中にいるのに、彼は私服だ。長い足を際立たせるジーンズに、シンプルな白シャツと黒のジャケット。バイト前や後には何度か見たことのある格好だが、店の中で見るのは初めてだった。だからか、妙な違和感がある。
「あんたが場所と時間を変えたんですか?」
「サンドラの連絡先が変わっていなくて助かったよ」
近寄ってきたノアから仄かに甘い香りがした。この男がシャトーで何かの香りを纏っていることに驚いたが、よくよく匂いを確かめてみれば、悠が昨日渡したチョコレートの香りだった。
「気づいたか? これを纏っていれば、冷静でいられそうな気がして。心を落ち着かせるために香水を纏ったのは初めてだったが、いい体験をさせてもらっている」
「……そうですか」
まさか当日にも使ってくれるとは思わなかったので、心がむずむずして仕方ない。自分の贈ったものを人に喜んでもらえるというのは、やはり嬉しいものだ。
ただ、自分の作ったチョコレートがそうさせたわけじゃないことが、ちょっとだけ悔しくもある。悠の夢は、自分の作ったチョコレートで、大切な人の、たくさんの人の幸せそうな笑顔を見ることだ。
いつか絶対に叶えると決意を新たにしたあと、ハッと思考が現実に戻った。
今はそれよりサンドラだ。ノアが場所と時間を変更したらしいことはわかったし、別に二人がどこで話そうとも構わないけれど、そうなると二人が帰るまで閉店後の掃除ができないのが問題である。今日は掃除含めたラストまでシフトが入っているから。
仕方ない、と今回は悠が折れることにした。
「わかりました。じゃあ、話が終わったら教えてください。まだ掃除してないんですよ。終わるまで正司さんのところにいるんで」
「掃除のことなら今日は免除でいいと話をつけてある。代わりに、悠には重要な仕事がある」
「……嫌な予感がします」
「さあ、いつまでも外にいても仕方ない。中へどうぞ」
どうぞじゃない。明らかに座るよう促されているその魂胆は、悠も同席しろということだろう。ノアの尻を蹴って応援することは別にいいけれど、なぜ元恋人同士の話し合いに無関係な自分が同席しなければならないのか。
「ちょっと、俺がいたら話しにくいでしょ。二人で話してくださいよ」
「だが彼女にちゃんと悠を紹介したい」
「そんなの適当でいいです。ワークメイトとでも言っておいてください」
「それだけじゃない。悠にも聞いてほしいことが――」
「ねえ! 日本語で話さないで。何を言っているかわからないわ。私だけ仲間外れは嫌よ」
早口なフランス語がサンドラの口から飛び出してきて、聞き取れなかった悠はノアに視線をやる。
「一人だけ仲間外れにするな、と」
「ああ、それはそうですね。日本語は通じないんですもんね。じゃあ英語で話しましょうか」
このシャトーで三カ国語が飛び交う異様な状況に、すでに悠はため息が出そうだ。
今回は、二階にいる正司や和恵の迷惑にならないよう、階段から一番遠い席を選択して座る。二人掛けのテーブルを隣同士になるよう二つくっつけて、サンドラを奥のソファへと促した。対面にあるファブリック素材の椅子にはノアが座り、悠はサンドラの斜め前に腰を下ろした。
「サンドラ、もう顔見知りではあると思うが、ちゃんと紹介しよう。彼は宮下悠といって、日本に来たばかりの頃に助けてもらった恩人だ」
「改めまして、宮下です。助けたと言っても、ビニール袋をあげただけですけどね。なんかお邪魔してすみません」
日常でこれほど英語を使ったことは今まで一度もない。ノアの綺麗な発音を隣で聞いていると、若干自分の発音が悲しくなってくるのは気のせいか。
「ハルカね。そういえば名前はまだ聞いてなかったわ。改めて、サンドラよ。あなたも同席していいならって条件でノアが会ってくれると言ったの。だから気にしないで」
「えっ」
なんだその条件は。聞いていないが、今さら文句を言っても仕方がない。
それより。
「サンドラさん、悠ではなく、宮下です」
「ミヤシタ?」
「そうです。じゃ、俺のことは置物とでも思って、ここからは二人でどうぞ」
「二人じゃない。だが、そうだな……サンドラ、君は最初に日本で会ったときこう言ったな。『一緒にフランスに帰ろう』と」
「言ったわ。私たち、もう一度やり直せると思うの」
「あのときは言い逃げするような形になってしまったから、君には届かなかったらしい。残念だが、私は君と復縁するつもりはない」
「どうして? あのことなら謝ったじゃない! ライアンに処方のことを話すつもりはなかったのよ。つい愚痴と一緒にこぼしてしまっただけで……」
この話の流れからして、おそらく〝ライアン〟が噂の間男なのだろう。
なんだか居心地が悪くて、いっそのことフランス語で話してくれればいいのにと思った。
(この人、何を考えてるんだ?)
わざわざ悠を同席させた狙いを、図れずにいる。
「それにノアがっ……あなたが、私より仕事のことばかり優先するからっ。記念日なんて全部忘れてたでしょう! デートだって誘うのはいつも私! あなたから誘ってくれたことなんて最初の頃くらいじゃない。私だって寂しかったのよっ」
「ああ。今さらだが、ちゃんと解っている。恋人らしいことを何もしてあげられなかった。それは私にも責任がある。だから香水の処方については怒っていない。というより、最初から怒ってなんかいなかった」
「……そうなの?」
「怒りよりも悲観した。なぜ人生はこうも試練続きなんだと。心に余裕がなくて、全てが敵に見えて、全てから逃げるように日本へ来た。あのときの私は君からも逃げた。中途半端だった。だから君は追いかけてきたんだろう?」
「だってノア、言ったもの。私を嫌いになったわけじゃない。それでも今は顔を見たくないって。なのに『別れよう』のメッセージだけ送っていなくなるなんて納得いかないわ」
「君に会って冷静でいられる自信がなかった。実際、このシャトーで再会したときがそうだっただろう? 君の話を聞こうとしなかった」
「……今は?」
「冷静だ。この上なくね」
「……冷静になったから、私を振るの? 私を嫌いになるの」
「違う。父を亡くしたばかりの私にとって、君は確かに希望だった。いつも明るくて楽しそうに笑う君に救われた。君のことは、人としては好きだよ。でももう、愛してはいない」
「っんで、冷静になっちゃったのっ、ノア。そんな言葉を聞くくらいなら、冷静にならなければ良かったのに……っ。私、本当にあなたを愛してるわ。寂しさに負けたけれど、一度だって許してくれないの?」
ノアは何も答えない。ただ穏やかに微笑むだけ。
やっぱり見る目ないなこの人、と悠は自分の今の顔を誰にも見られまいと下を向いた。
「サンドラ。最後に私から、君に贈り物がある」
そう言って、ノアは席を立つと、店のバックヤードへと消えてしまう。
まさかこの状態で二人きりにさせられると思っていなかったので、気まずい空気が流れる。
「ねぇ、ミヤシタ」
か細い声で話しかけられて、悠は一瞬自分の名前を呼ばれたことに気づけなかった。それくらい、そういえば最近は「悠」と呼ばれることのほうが多いことに気づく。
「な、なんですか」
「ノア、日本で恋人でもできたの?」
「え? それ聞いてどうするんですか」
「だから私を振るのかしら」
「いや、違うと思いますけど」
身から出た錆だ、と言ってやりたかったが、それを英語に直す力は悠になかった。
「だってノア、『最後』って言ったわ! つまり別れるだけじゃなくて、もう会ってもくれないってことでしょ? それって新しい恋人に気を遣ってるからじゃないのっ?」
「知りませんけど」
「ミヤシタ冷たい! なに、日本人の男はみんなこうなの? もっと愛情深く接して! これでも傷心なのよ」
「はあ」
なんかこの人も面倒くさいな、と思ったのは内緒である。そもそもの話、あのお人好しを裏切った相手に愛想良くする必要がどこにあるのか甚だ疑問だ。
「待たせてすまない」
そのときノアが戻ってきて、戻ってきた瞬間に彼の頬が引きつったのがわかった。
「なんだ、この空気。わずか数分で何があったんだ、悠」
「なんでそこで私に聞いてくれないのよ!」
サンドラがいきなり訳のわからないことを叫び、机に突っ伏す。なんというか、全てにおいてパワフルな人だなと一周回って感心してしまう。
「特に何も。俺がちょっと冷たくしすぎたみたいです」
「ちょっとじゃないわ。氷のように冷たかったわ」
「らしいです」
肩を竦めて見せれば、ノアは交互にこちらを観察してから、短く息を吐いた。
「サンドラ、悠は初対面の人間を躊躇いなく助けてくれる優しい男だ。冷たくはない。悠に当たるのはよせ」
「なんでノアが私よりそっちを庇うの!? 私はあなたの――」
「恋人じゃない。何度も言うが、復縁する気はない」
「……っ」
傷ついた顔で俯くサンドラの対面に、ノアがもう一度腰を下ろした。
「サンドラ、これでも私は、君には感謝しているんだ」
穏やかな声だった。とても恋人に裏切られた男の声とは思えないほどに。
その凪いだ声に、サンドラがゆっくりと顔を上げる。
「父を亡くして途方に暮れていた私に、君が元気をくれた。少し強引なところはあったが、君がそうして色々なところに気分転換として連れ出してくれたおかげで、私はもう一度調香師としての自分に向き合えた。とても感謝している」
「やめて。まるでお別れの言葉だわ」
「別れの言葉だ。私は自分で思うよりも狭量な人間だった。もう以前のように君を純粋に見つめることはできない」
「新しい恋人ができたから?」
「いや、そんな人はいないが……新しくやりたいことは見つけた。たとえ復縁したとして、私は結局同じことを繰り返すだろう。一つのことに熱中すると他が何もできなくなる人間だから。そういう意味でも、復縁はしない」
「絶対? 絶対に無理なの? 今度は我慢すると言っても?」
「一方が我慢する関係なんて、私は望んでないよ」
「…………」
とうとう黙り込んでしまったサンドラの前に、ノアが持ってきた小瓶を差し出した。
もう今となっては見慣れたアトマイザーだ。最後に彼女へ贈るつもりで用意していたのだろう。
「これが、私のやりたいことだ」
「? これ、香水よね。別の企業で働くの?」
「いいや、これは香水とは少し違う。悠には話したし、君はもちろん知っていると思うが、香水は主に他人への印象を上げるために利用するものだ。たとえば体臭を隠したり、『良い匂い』で異性の関心を惹きつけたり。そして調香師にとっても、香水は自分の芸術作品である認識が高い。父の背を追っていただけの私は、それがどうにもしっくりこなかった」
ノアが自分の手首の内側に鼻を寄せる。ほっと息を吐き出したように見えたのは、たぶん気のせいではない。
「なぜしっくりこなかったのか、日本に来てやっとわかったんだ。私は芸術作品を作りたいわけじゃない。誰かの手助けがしたかったんだ。私自身、香りで気分が上がることや、幸せな気分になることがある。その感覚を多くの人にも知ってもらいたかった。良い香りは人を癒やしたり、元気にさせたりできることを多くの人に広めて、それを知った人の人生がより豊かなものになってくれたら最高だと思っていた。私はただ、人の喜ぶ顔が見たかっただけなんだ」
調香師ではそれは叶わないと、ノアがそっと瞼を伏せる。
「私は人と直に接する仕事がしたい。私の香りが誰かの役に立てるなら、これ以上嬉しいことはない」
なるほど、と思う。
「それが、あんたのやりたいことですか?」
「ああ! 君と孝也が気づかせてくれた」
「だから俺を同席させたんですね。昨日の答えがそれですか」
ウイ、とそこはなぜかフランス語で返された。
「だが、アロマセラピーだけでは『私の香り』とは言えない。そこで悠が大活躍だ」
「俺?」
「悠は無知がゆえ、香水とエッセンシャルオイルの区別がついていなかった」
「それは、まあ……でも俺以外にも絶対いますよ、そういう人」
自分の未熟さを認めるのは癪だったので、一応弁明しておく。
「違うんだ悠。君がそうだったからこそ、私は見つけられたんだ。サンドラ、それを手首にワンプッシュしてみてほしい」
「……ノアが作ったの?」
「そうだ。私が調香した」
おずおずと手を伸ばしたサンドラが、言われたとおり手首に香りを吹きかけた。そのときふわりと香ったのは、悲しい気分を弾き飛ばすようなフレッシュな香りだ。
「サンドラはグレープフルーツの爽やかな香りが好きだっただろう?」
全てエッセンシャルオイルで調香している、とノアが付け足す。
「気分をリフレッシュさせたあとは、心を落ち着かせてくれるラベンダーの香りが優しく香るように調合した。君は森林浴も好きだったから、ラストは森の中をイメージしてウッディ調に仕上げたんだ。これはファッションでも、アートでもない。誰かの心に働きかける、その人のためだけの香りだ。つまりサンドラ、これは君だけの、君を癒やすための香りだよ」
香水とアロマを融合した、アロマ調香と呼ばれるもの。ノアは調香師として一心に働いていたから、近年新しく誕生していたそのジャンルを知らなかったと言う。
知らないながらに、自分のやりたいことはこれだと気づいた。そのきっかけが悠の無知な言動らしい。
「私の世界はあまりにも小さかった。既存の枠に囚われず、新しいことに挑戦している人が何人もいた。その挑戦を素晴らしいと感じるし、今の私のやりたいことに見事はまっていたんだ」
だからサンドラ、と優しく名を呼んだノアに、サンドラの瞳から一粒の涙が零れ落ちる。
「君とは一緒にいられない」
気分を変える香りは、受け取り方によってはノアからの決別の意味を含んでいる。自分のことは忘れてほしいという隠されたメッセージだ。
サンドラはそれに勘づいてしまった。流れた涙がその証拠だろう。
「酷いわ、ノア。最後にこれを贈るなんて」
「ああ。そんな男とは別れて正解だろう?」
「……っ、そう、ね。本当に…………本当に、優しい人……っ」
涙に濡れた声は震えていたが、サンドラは気丈に微笑んだ。
優しくはないとノアが困ったように眉尻を垂れ下げたが、サンドラのその文句には悠も賛成だ。自ら悪役を買って出るなんて、自分を裏切った相手に破格の待遇すぎる。
優しくて、意外と照れ屋な、大型犬みたいな男。
涙を拭って落ち着きを取り戻したサンドラが、軽やかに席を立つ。
「L'essentiel est invisible pour les yeux. 私のようになっちゃだめよ、ノア」
フランス語で伝えられた言葉は、おそらく悠に聞かせないためのものだろう。面白くはないけれど、視線を移した先にいるノアも訳してくれる気はなさそうで、彼は苦笑していた。
「肝に銘じておくよ。見送りは――」
「結構よ。せっかく遠い日本に来たんだもの。こうなったら〝Ramen〟を食べて帰ってやるわ」
そのとき耳に馴染み深い単語が聞こえてきて、悠は思わず「ラーメン?」と目を白黒させた。
こう言ってはなんだが、サンドラは派手な見た目の女性だ。独特の熱気と匂いの立ちこもるラーメン店にいるイメージはない。
が、ノアの次の言葉でそれが聞き間違いではなかったことを知る。
「そういえば好きだったな、ラーメン」
「本場を食べなきゃフランスには帰れないわ。餃子も捨てがたいわね。帰りの飛行機で隣の席の人が眉を顰めるくらい食べてやるんだから」
ノアが「はは……」と乾いた笑みをこぼしている。鼻の利く彼のことだ。きついにんにく臭でも想像したのだろう。
けれど、そうやって笑えるなら良かったと、悠も人知れず笑みを口の端に乗せる。
扉はノアが開けた。シャトーでは、そうしろと言われたからではないが、客が少ないときは外まで見送ることがある。そのときと同じように、ノアが浅く腰を折った。
「ごめんなさい、ノア。それと、ありがとう。……ばいばい」
「ああ、さようなら。サンドラ」
二人とも、「また」とは言葉にしない。それが二人の決めた〝別れ〟なのだと、恋愛に疎い悠でもわかる。
「……夜の匂いがするな」
サンドラの姿が見えなくなった頃、ノアが空を見上げて呟いた。
とっぷりと闇に浸かる空は、小さな煌めきを散りばめて穏やかにこちらを見守っている。
「夜の匂いって、どんな匂いですか」
「それは難問だな、悠」
ノアがふっと優しく笑う。
「香水で『夜の匂い』をイメージした香りを作ることはできるが、それと今感じている匂いは別物だ。そのときの気温や湿度、街によって『夜の匂い』は変化する。今私が言った『夜の匂い』は、私の記憶に基づく香りと言ってもいい」
「? ちょっとよくわからないです」
「ほら、前に言っただろう? 匂いが記憶を呼び起こすことがあると。私の中で『この場所の夜はこんな匂い』という記憶が出来上がったことで、同じ匂いを感じると『夜の匂いがする』と思うわけだ」
「……なんか、わかるようでわかりませんね。まあいいです。とりあえず中へ戻りましょう。正司さんと和恵さんに終わったことを伝えないと」
「賛成だ」
じゃあいつか、今感じる匂いを『夜の匂い』と感じることがあるのだろうかと、悠はこっそりと深呼吸してからシャトーに戻る。
切なくも、晴れ晴れしい夜だった。