CHAPITRE II
季節は移ろい、ニュースで真夏日がレギュラー出演するようになった頃。
悠は、春の終わりにあった家庭のゴタゴタをなんとか落ち着かせて、今日もシャトーでバイトをしていた。
結局両親は一度離れたほうがいいということになり、離婚ではなく別居という形に落ち着いている。というのも、一連の騒ぎを聞いた父方の祖父母が父を問答無用で連れていったからである。頭を冷やさせて再教育すると言った祖母は、母でさえ父を憐れに思うほどの般若顔だった。
とまあ、宮下家にとっては激動の春だったが、地球が変わらず回り続けるように、世間は何事もなく夏の最中を迎えている。
チョコは好きだが甘いものは嫌いだという風変わりなフランス人も、いつもと変わらない美貌を前面に押し出しながら自分の手元を睨みつけていた。
「悠、由々しき事態だ」
これまでの経験からなんとなく面倒くさそうな気配を感じ取った悠は、カトラリーを磨きながらため息混じりに応える。
「今日はなんですか。あんたの『由々しき事態』は過去に何度か聞きましたが、一度も由々しかったことなんてないですよね?」
「そんなことはない。それより確認したいんだが、これはなんだ?」
「なんだって、見てのとおり珈琲ですけど」
「本当に? 本当にこれがあの酸味が嫌味な珈琲か? 嘘だろう? だってこれはおいしい。全くもって信じられない。太陽が西から昇ったくらい信じられない。まさか今日の太陽は西から昇ってないよな? なあ悠、確認してくれ。太陽はどの方角から昇った?」
「なに馬鹿なこと言ってんですか。確認しなくてもわかります、東です」
思わず半目になる。
悠と同じくシャトーでバイトをしているこの男は、名前をノア・ルフェーブルと言う。
少し前に知ったことだが、この男、甘いものだけでなく珈琲も嫌いだと言うのだ。酸味が嫌だと文句を言った彼に悠が無理やり珈琲を飲ませたのは、つい数分前のこと。
珈琲嫌いの彼は、しかしその香りだけは好きだと言ってたまにバイト中に香りを堪能していた。けれど、いくら正司の許可を得ているとはいえ、飲まずに捨ててしまうそれを前々からもったいないと感じていたのだ。
だから飲ませてやった。酸味を抑えた珈琲を。
「これで飲まず嫌いだったってことがわかりましたね」
「いや、私は飲まず嫌いではなかった」
「え? でもフランスならエスプレッソが主流ですよね? しかも日本よりずっと濃い味の。酸味より苦味のほうが強いと思うんですけど。その珈琲みたいに」
「残念ながら私が最初に飲んだのは、雄一郎の淹れた珈琲だ。店のものは苦いと言って自分で淹れていたからな。最初の一杯で苦手になってからは飲んでいない」
なるほど、と理解した。日本人であるノアの祖父がフランスの濃厚な珈琲に馴染めず手ずから淹れたというのなら、それはおそらく酸味の強い珈琲だったのだろう。
「つまり豆も、淹れ方も、あなた向きじゃなかったんですね」
「どういう意味だ?」
「そのままの意味ですよ。『本来珈琲とは、一概に不味いと言えることはない。あるとするなら、それは客の好む味を作り出せなかったバリスタの問題だ』。学校の講師の言葉です。俺はバリスタじゃないですけど、ようはあなた好みの味に出会えてなかったって話ですよ。高級なものが必ずしもその人にとっておいしいとは限らないでしょ? それと一緒です。わかったら、もう捨てないでくださいね」
淡々と言ってのけた悠だが、実はこれは、ちょっとしたお礼でもあった。春、いなくなった妹を見つけてくれたのはノアだったから。
さすがにチョコを作って贈るのは何かが違うような気がして――というより、作っている途中で男が男に手作りチョコを渡すのもどうかと思ったので、別のものに変更した。
結果、ノアの味覚の開拓でもしてみるかと思い珈琲を淹れてみたのだが、これが正解だったようだ。
彼は恐る恐る悠の淹れた珈琲を飲んでいた。
「……香水と同じだな」
「香水と?」
「ああ。香水も、客の好みで大きく評価が変わるんだ。香水が好きだとしても、香りによっては受けつけないものがあるのは当然だろう? 理解していたつもりだったが、珈琲にその考え方を当てはめたことはなかった。珈琲に酸味は付きもの。そういうものだと思っていた」
「付きものと言えば付きものですけど、抑えられるって話です」
それにしても、と悠は続けて。
「あなたが調香師だってことは前に正司さんから聞いて知ってましたけど、なんでワーキングホリデーで日本に来たんですか? 仕事は?」
大丈夫なのだろうか。というのも、ノアが日本で調香師の仕事をしているようには見えなかったからだ。
「なんだ、悠が私のことを質問するのは珍しいな。私に興味が出てきたか?」
「いえ、そういうわけでは。答えたくないなら答えなくていいですけど」
「まあそう言うな。働いていた会社なら、辞めてきた」
なぜか胸を張って答えるノアに、悠は「へぇ」と気のない相槌を打って――「ん?」と首を捻った。
もしかして今、このチョコ好きのフランス人は会社を辞めたと言ったのか。
いやでも、日本人がワーキングホリデーで海外に行くときも、人によっては会社を辞めるという。たとえば看護師なんかは勤め先の病院を辞めて渡航し、帰国後にまた別の病院で働くことがあるらしい。同じく手に職を得ている調香師なら、同様に復帰できるのかもしれない。
そう思ったのだが。
「いや、会社というより、調香師を辞めたと言ったほうが正確か。色々と面倒なことが起きて、だったらいっそのこと辞めてみるかと思い切ってみたわけだが、それがどう転ぶかは未定だな。帰国後の詳細も決めていない。ある意味、全てはこの滞在次第というわけだ」
ははは、と呑気に笑うノアを見つめて、思わず口をぽかんと開ける。
予想外の答えを返されて少しだけ申し訳なく思った。
「そうですか……じゃあ、帰国したら無職なんですね。なんていうか、不躾な質問をしてすみませんでした」
いつも尊大で悩みなんてなさそうなノアだが、そんなことはなかったらしい。
「でもまあ、あれですよ。人生色々ありますからね。誰だって無職になることもありますよ。むしろ正司さんたちならここで働けばいいって言ってくれるんじゃないですか?」
優しいあの小野寺夫婦なら、身内のピンチを放っておくはずがない。
「それかあなたなら、最終手段としてヒモ生活という手もあるのかもしれませんが……まあ、お勧めはしません」
「悠、おかしい。なんだその憐れみに満ちた目は。しかも君は私をなんだと思っている? ジゴロなど勧められてもお断りだ」
「ジゴロ?」
「女性から金銭的援助を受けて生きる男のことだ」
つまりヒモ男、と。
悠がノアの顔を観察するように見つめると、ノアは眉間に深いしわを刻んだ。まるで見るなと言わんばかりの表情だ。
「誘いがあっても断る」
「俺まだ何も言ってませんけど」
「口ではな。だが顔が明らかに私を軽蔑している」
「いえ、あなたというよりは、ヒモ男に――」
「待ってくださいっ!」
そのとき、客席から切羽詰まったような声が聞こえてきて、悠とノアは何事だと同時にそちらを振り向いた。
まばらに埋まる席のなか、一身に視線を集めていたのは一人の男だ。
三十代前半だろうか。ひょろりとしていて猫背気味だが、着ているシャツはしっかりとアイロンがかかっており、しわ一つなく清潔感に溢れている。
その彼が呼び止める先には、同年代くらいの女性がいた。
女性は男が集めた視線から逃げるようにそそくさと店を出て行ってしまう。みんなが痴情のもつれかと野次馬根性全開で見守るなか、悠だけは内心で「え、お会計」と思いながら女性の背中を追いかけようとした。
しかし、それをノアに止められる。肩を掴まれ、磨いていたカトラリーを無理やり奪われると、最後は顎を振って命令された。女性の方ではなく、男の方へ行け、と。
「なんで俺が」
「私では逆上される。それに、鼻が死ぬ」
「は?」
意味がわからない。が、確かにこのまま男を放置することもできそうにない。なぜなら猫背気味のその男は、何が引き金になったのか――間違いなく原因は逃げた女性だが――周りの目も気にせず涙をこぼし始めてしまったからだ。
シャトーはスイーツがおいしいカフェであるため、客の大半は女性である。
今の状況は、同じ男としてさすがにかわいそうだった。
「お客さ――」
しかし、男の許に近づいた瞬間、悠は思わず呼吸を止めた。止めざるを得なかった。なんとも言えない酔うような匂いがしたからだ。
なるほど。ノアの言ったことがようやくわかった瞬間である。
(そういえばこの客を案内したの、あの人だったな)
自他共に認める鋭い嗅覚を持つ彼は、すでにこの匂いに気づいていたのだろう。似合わない服を着ているみたいな、なんとも言えないミスマッチな香りに。
それでも悠は、意を決して声をかけた。
「お客様、大丈夫ですか? もしよろしければお使いください」
そう言っておしぼりを手渡すと、同じ男という仲間を見つけたからか、洟をすすっていた男が勢い良く悠の腕を掴んできた。
ぎょっとしたのも束の間。
「か、彼女」
「え?」
「お兄さん、彼女、いるっ?」
「は?」
ぷるぷると身体を震わせながら、男が悠に訊ねてくる。
助け舟を求めて周囲に視線を配るが、他の客はさっと視線を逸らした。そりゃあ面倒事に巻き込まれたくはないだろう。
最後にノアを見やると、彼は小難しい顔で首を横に振っていた。ノーと答えろということか。それとも相手にするなということか。
わからなかったが、答えないと手を放してもらえそうにない。
「い、いないです」
「いない!? 本当に!?」
なぜか嬉しそうな反応をされる。
「そっか、そっか。じゃあ仲間だね。君みたいな子でもいないなら、俺にいないのも、し、仕方ないよねぇぇぇっ?」
「えぇー……」
あまりの情緒不安定さに腰が引く。ちょっと面倒くさいと思ってしまう。
とりあえず、他の客の迷惑にならないよう彼を移動させることにした。
「おい悠、なぜこちらに連れてくる」
会計ならあっちだ、とさすがのノアもレジを指差すが無視をする。
シャトーに常設のカウンター席はないけれど、正司や和恵を慕って来店する常連客のために臨時の席を設けられるようになっている。木製の丸椅子を持ってきて、悠はそこに男を座らせた。
「とりあえず水でも飲みますか?」
ぐすんと鼻を鳴らす男が頷く。カウンター内に戻った悠は冷たい水を注いで渡した。ノアは見えない壁でもあるように近づいてこない。
水を一口飲んだ男が、落ち着きを取り戻したように息を吐く。
「すみません、取り乱したりして。迷惑でしたよね」
男が力なく微笑む。そうですねとも、そうでもないですよとも、悠は答えられなかった。
「ほんと、お店だけじゃなくて、年下の若い子にも迷惑かけて……どうして俺ってこんななんだろ。だからモテなくて、彼女もできなくて……うぅっ」
男がまた泣き始める。悠は額を押さえた。だめだこれは。何を言っても泣かれる気がする。
「これでもう十回目……! なんでだめなんだ。女性の好きそうなお店を探して、清潔感だって保って、俺なりに頑張ってエスコートしてるのに。自慢話だってしないように気をつけてるし――といってもできる自慢話もないけど――いきなり夕食は警戒されるだろうから昼に誘ったことしかないし、仕事だって公務員で安定してて、それなりの大学だって出てるのに……! なんで……なんで彼女ができないんだよぉぉお」
完全に周りの目を気にしなくなった男が赤裸々に語り出す。なるほど、十回も振られていれば確かに自棄にもなりたくなるだろう。だからといって店でやられても困るが。
「やっぱり見た目なのかな。イケメンじゃないとだめなのかな。ねぇ、お兄さんはどう思う?」
「え、俺ですか?」
好きなだけ泣いて帰ってもらおうと思っていた悠は、ここでまさかの質問をくらい、引きつりそうになる口元をなんとか誤魔化そうとした。
「俺はその、そうでもないと思いますけど。っ、えーと、そうでもないっていうのは、別に悪い意味じゃなくてですね!」
途中で男がまた泣きそうになるから、悠は慌てて弁明した。どうやらこちらの「そうでもない」という言葉を、じゃあ彼女ができない自分は顔も性格もだめということか、と受け取ったらしい。
「顔が良くても、彼女がいない人はいると思いますよって、そっちの意味です。たとえばほら、そこの人だって」
悠は、一人だけ逃げるなという意味も込めて、離れた場所で我関せずを貫くノアを指差した。
ノアの恨みがましい視線は見なかったことにする。
「いませんよね、彼女」
むしろいたとしても「いない」と答えろ。言外にそう圧力をかける。
短く嘆息したノアは、営業スマイルで答えた。
「ええ、いないですよ」
「嘘だ!」
間髪入れず男が反論する。
「絶対嘘だ。そんなはずない。あなたみたいなイケメンに彼女がいないはずがない。どうせ俺が面倒だから合わせてるんでしょ。いいんですよ、そういうの。余計に俺が惨めじゃないですかっ」
男がカウンターに泣き伏せる。
ほらみろ、と言わんばかりの顔をするノアに、悠は瞳を揺らした。ここまで卑屈になるとは思わなかったのだ。
ノアに手招きされて、男からそっと離れた。
「だから言っただろう、私では逆上されると」
「まさかあそこまでとは思わなかったんです。てかもしかして、こういうことってよくあるんですか?」
「それなりにな。全く身に覚えがないのに恋人をとられたと言って拳を握ってきた奴もいたか。まあ、もちろん返り討ちにしてやったが。この顔が原因だとわかってはいるが、そんなもの、私にどうしろと言うんだ。整形でもしろって?」
ノアが鼻で笑う。
「誰もそこまで言わないと思いますけど。なんか、かっこよすぎるのも大変なんだなって、あんたを見てると思いますね」
「かっこいい? 悠もそう思うのか?」
「それはまあ。……なんですか、思われるのは嫌ですか?」
「そうではなく、君はそういうことに興味がない、もしくは美的センスが壊滅的なのかと思っていた。ほら、私を見てもなんの反応も示さなかったから」
「自意識過剰すぎません? 興味がないから反応しないだけです。俺の美的センスは平均的です。少なくとも、これまで学校でその点を指摘されたことはありません」
悠の通う製菓専門学校は、美的感覚を養うための授業もある。悠はショコラティエ志望だが、あらゆる菓子を作る人間にとって自らの手で生み出す菓子は作品であり、それは芸術性を求められることがしばしばある。
「俺は興味のないことに労力を使わないだけです。わかったら、『センスがない』なんて二度と言わないでくださいよ。目指している職業柄、地味にショックなんですから」
苦言を呈すると、ノアは聞いているのかいないのか判断のつかない様子で頷いた。どうしたんだと思ったけれど、今はそっちより対処しなければならない別の問題がある。
「それで、どうするんですかあれ」
カウンターで泣き伏せる男を指すと、ノアは現実に戻ってきたように眉を顰めた。
はぁ、と二人揃って悩ましげな息を吐く。
一組、また一組と客が帰っていくなか、男だけがずっと居座り続けている。まるで閉店間際まで居座る酔っ払いのようだ。
ついに客が男を残すのみとなったとき、とうとうノアの堪忍袋の緒が切れた。
「いい加減鬱陶しい!」
それは、ノアが初めて客に乱暴な口を利いた瞬間である。
悠は目を丸くしながらその動向を見守った。
「いつまでそうしているつもりだ? 振られたならその原因を突き止めろ。そして直せ。とりあえず一番の原因は教えてやるから、即刻帰宅してシャワーを浴びろ。臭い!」
ひっ、と男の肩が飛び跳ねる。突然のノアの変貌に、男は恐怖と困惑の混じった表情を浮かべている。
「いいか、どう考えても香水の付けすぎだ。自分で気づいていないところを見ると、その量が常態化しているな? しかも推測だが、体臭と合っていない。ろくに試しもせず購入したか。それでは付けられた香水のほうが不憫だ」
他にも、とノアは攻撃の手を緩めない。
「香り付きの柔軟剤も使っているだろう? まさに香りの暴力だ。正直、お近づきになりたいとは思えない。あの女性も同じことを思っただろうな。むしろ君は会って数秒で逃げ出さなかった彼女に感謝すべきだ。性格に関してはよく知らないから言わないが、まずはその暴力的な臭いからなんとかしろ。〝匂い〟というものは、人が思うより強く相手を印象づける。断言しよう。君に出会った今までの女性は、君のことを嗅覚的な意味で『気持ち悪い男』という印象しか抱いていないぞ」
男が雷を落とされたような顔をした。今にも死にそうな顔である。
いくらなんでも言いすぎだと嗜めるには、確かに男の臭いは強烈だった。彼の周りの席の客が、彼が来店してから早々に席を立ったのも良い証拠かもしれない。
悠は人の匂いなど意識したことはなかったけれど、その影響力を初めて思い知った気がする。
意外と人は、無意識に匂いというものに支配されているらしい。だって言ってしまえば、男から香るなんとも気分の悪くなる臭いがなければ、その周囲の客はもう少し談笑していたかもしれないし、相手の女性は逃げるように帰らなかったかもしれないのだから。
「俺、そんなに、く、臭いですか……?」
「臭い。酔う。気持ち悪い」
ちょっと失礼、とノアはものすごく強張った顔で一瞬だけ男に鼻を寄せるように近づいた。
「ああ、やはりだ。もともと肌自体が甘めの香りを持っているのに、さらにグルマン系を重ねてどうする。しかも柔軟剤はフローラルだな? 酔うに決まっている」
滅多斬りという表現が適当なくらい、ノアに遠慮はなかった。刀にロングソード、レイピアと続き、とどめにダガーまで突き刺したような容赦のなさである。男は瀕死状態だ。
「酔う……気持ち悪い……」
「わかったなら出口はあっちだ。その前に会計を済ませよう。悠」
名前を呼ばれて、悠は多少気まずい思いを抱えながらも大人しくレジでスタンバイした。男はふらりと椅子から立ち上がるが、その足取りは完全に亡霊である。
――さすがにかわいそうじゃないか。
悠は、会計を済ませたあと、思い切って男を引き止めることにした。
「あの、余計なお世話だったら申し訳ないんですけど、このあと時間ありますか?」
「え? それは、まあ。独り身で暇だからね、はは……」
応えづらい自虐はあえて無視をして。
「なら、どんな香水があなたに合うか、この人に相談してみませんか? この人、一応元調香師みたいなんで」
「悠!」
ノアの悲鳴のような声もあえて無視をすると。
「なんていうか、さすがに見て見ぬ振りもできないと言いますか。その、今にも死にそうな顔ですし」
下手をすればこのまま線路に飛び込むんじゃないか。そう思ってしまうほど、男は疲れ切ったように肩を落としている。さすがに心配だった。
「はは……大丈夫だよ。いくらなんでも死にはしないよ。君は優しいなぁ。同情なんて惨めになるだけだって思ってたけど……っも、同情でもいいから優しくされたい! このまま独りは嫌だよぉぉお」
がしり。男が悠の腰に抱きついてくる。
思わず乾いた笑みをこぼした悠は、呼び止めたことをさっそく後悔し始めていた。
「岩崎孝也。三十三歳、独身。職業は公務員で、趣味は読書と映画鑑賞。もうかれこれ十年近く彼女がいなくてね。でもそろそろ結婚したいなあって、マッチングアプリとか結婚相談所とか色々試してるんだけど、なかなか思うようにいかなくて。これでも会うまではなんとか持っていけるんだけど、絶対二回目がなくて……なのに周りはどんどん結婚していって、俺だけ置いていかれて……っ」
と、長めの自己紹介をしてくれたのが、匂いがきつくて振られた先ほどの男である。
孝也曰く、今日振られた女性はマッチングアプリの相手だったのだとか。
悠は知らなかったが、今の時代、アプリを使って異性と出会うのは普通のことらしい。孝也の同僚にもアプリを使って結婚した男がいるらしく、ひと昔前のいわゆる出会い系とはまた違うという。
まあ、中にはそういう目的を持ってアプリを使っている人もいるらしいが、真剣に結婚相手を探している割合も多く、また運営側も色々と骨を砕いているため、出会い系よりは安全に恋人を探すことができるそうだ。
そして何よりも、意外と出会いの少ない社会人にとって、これほど手軽に見知らぬ誰かと出会えることもないという。
「せめて……せめて二回目のデートまでは行きたいっ」
そう言ってカウンターに再び項垂れた孝也は、まだ一度も二回目のデートにこぎつけられたことはないらしい。
閉店時間を過ぎた店内は、オーナーである小野寺夫婦の好意の下、悠とノア、孝也の三人しかいない。
「教えてくださいっ。俺、どうすればいいですか。本当のことを言うと、香水とか今まで付けたことなくて、買いに行くのもなんだか恥ずかしくて。でも香水を付けてる男性ってかっこいいじゃないですか。だから自信持てるかなって。ネットには『女性の好きな香りから選べば間違いなし』って書いてあったから、婚活を始めるときに今の香水を買ってみたんです。ほら、女の人って甘い香りが好きですよね? 女性の人気ナンバーワンって書いてあったんですよ、これ!」
ノアが天井を仰いでいる。よほど衝撃的だったのだろうか。青い瞳はどこか遠くを見るように焦点が合っていない。
悠はそんなノアを背中に隠し、取り繕うように口を開いた。
「ちなみに、いつもどれくらい付けてるんですか?」
「えーと、まずは膝裏に付けて、次に腰と背中、肘、耳の裏かな。あ、あと手首と脇の下にも付けてるよ」
「だから付けすぎだ!」
「ひっ」
我慢ならなかったのか、ノアが悠の背後から勢い良く突っ込んだ。
悠はもう笑うしかない。たとえそれが、砂漠のように干からびた笑みだったとしても。
「悠、珈琲」
「え?」
「珈琲を淹れてくれ。一度リセットしないと死にそうだ、鼻が」
訳知り顔で頷いた悠は、てきぱきと三人分の珈琲を淹れた。
珈琲は、ノアが店内に充満する甘い香りに酔ったとき、いつも応急処置として処方している香りだ。悠はその恩恵に与ったことはないけれど、今なら存分に与れそうな気がした。
「孝也、こうなったら順番に正していこう」
さっそく淹れ立ての珈琲の上品ですっきりとした香りを堪能しながら、ノアが言う。
「やるからには真面目に聞けよ。それと、この馬鹿みたいなお人好しには感謝しておけ。私はどんな人間にも偏見はないが、香りの合わない人間には本来近づかない主義だ」
「わ、わかりました。ありがとう、えーと、『はるかくん』?」
「宮下です。どうぞ名字で呼んでください」
「え、あ、うん?」
ノアの威圧もさることながら、悠の笑顔の圧力にも負けた孝也は、これ以上ないくらい縮こまる。この場で一番年上のはずの孝也だが、その威厳は微風で吹き飛ぶティッシュも同然だった。
「そうだな、まずは香水の基礎知識からさらうか。香水を買う上で、最低限知っておいてほしいことだ。そもそも香水には主に四つの種類があるんだが、それは知っているか?」
悠は自分用の椅子を引っ張り出してきて、孝也の隣で同じように生徒役になる。
悠にとっても香水は未知の領域だ。使ったこともなければ買ったこともない。洒落た人種が付けるもの。そういう認識しかない。
悠も孝也も首を横に振ったのを見て、ノアは予想どおりというように頷いた。
「香水には上から順に、パルファン・オードパルファン・オードトワレ・オーデコロンの四種類が存在する。何が違うかと言えば、簡単に言うと香りの強さと持続時間が違う」
「香りの強さ?」
悠が訊き返すと、ノアは「そうだ」と首肯した。
「『上から順に』と言ったのが、まさにその強弱を表している。つまりパルファンが一番香りが強く、また香りの持続時間が長いというわけだ」
へぇ、と孝也が興味を持って聞き入っているところを見るに、彼はそんなことも考えずに香水を購入したのだろう。
「悠が訊いた『香りの強さ』についてだが、そもそも香水というのは、香料とアルコールから作られている。香料は香りの基となるもの。ローズやオレンジなどがそうだな。他にも多くの種類があるが、とにかく香りが強いというのは、香料の濃度が高いものを指す」
「じゃあ、パルファンだとどのくらいの濃度なんですか?」
「別にそこまで覚える必要はないが、だいたい十五~三十パーセントだ。持続時間は五~十二時間」
どれもメーカーによる、とノアは付け足した。同じパルファンでも香水メーカーによっては濃度が五十パーセントのものもあるらしい。
「香りの状態から推測して、孝也の香水はオードパルファンだな?」
「えっと、そうなんですかね? 何も見ずに買っちゃったから。あはは」
「私がなぜ香水の種類から話したかというと、それによって付け方が変わるからだ」
え、と。孝也が目を点にした。気持ちは悠も同じである。
「先に言ったように、パルファンは一番香りが強い。だからこそ馬鹿みたいに身体に付けてしまえば、それは間違いなく香害――匂いによって他人に不快感を与えることになる。次に濃度の高いオードパルファンも、付け方には注意が必要だ。さて孝也、ここまで聞いて反省することは?」
「せ、制汗剤みたいに、付けてました」
「ほう?」
「だってその、毎日付けてるうちに、だんだん最初の頃より香りを感じなくなってきて。本当にちゃんと香ってるのか不安でっ」
ふぅ、とノアが持っていた珈琲を置いて腕を組んだ。
「まあ、よくあることだ。嗅覚疲労を起こしたせいだろう」
「きゅ、嗅覚疲労?」
「同じ香りを嗅ぎ続けたせいで、嗅覚の感度が低下し認識しにくくなることだ。つまり香りがしなくなったと勘違いして、孝也のように香水を付けすぎてしまうことがある。しかし周囲にはしっかりと香っているから、これからはそういう現象があることを理解して適量以上は纏わないことだな」
孝也が背中を丸める。そうします、と言葉にされなくても言っているようだった。
そして同じく香水初心者の悠は「はぁ~」と感心した声を漏らした。
「こういうのを聞いてると、あんたもちゃんと社会人に見えますね」
「待て。それはどういう意味だ、悠。日本語の『社会人』とは、社会に参加し、その中で自身の役割を担い生きる人間、という意味で教わっているが、間違っているか?」
「いえ、合ってると思います」
「ならばおかしい。私はどう見ても社会人だろう。まさか学生に見えるのか?」
そういうわけではないのだが。
ただ、たまにバイト中に手を抜いたり、出掛け先で興味のある香りに惹かれてそのまま迷子になったあげく遅刻したりと、社会人としてどうなのだろうと思うことが多々あったので、思わず口に出してしまっただけである。
「すみません、話の腰を折りました。続けてください」
少しだけ不服そうなノアだが、気を取り直すように話を戻した。
「オードパルファンなら、一般的に〝線〟をイメージして付けることが推奨されている。といっても、スプレータイプに線はイメージしにくいだろう。プッシュで言うなら、一回で十分だ」
「えっ、たった一回ですか? 同じところにプシュップシュッて何回かしてたんですけど……」
「だから付けすぎだ。何回言わせる」
「でもですよ? ネットにはそう書いてあったんですよ。俺も、それくらいのほうが男らしいかなって」
「おい悠、帰っていいか」
「なんでそうなるんです。どうしたんです? 今日はいつになく不機嫌ですね」
指摘されて、ノアは喉奥で唸りながら両手で顔を覆った。まるでそう、初めて彼に会ったあの日のように、満員電車でもみくちゃにされたときのような顔色の悪さだ。
悠はもしかしてと椅子から立ち上がってノアの許に駆け寄った。
「ビニール袋入ります? そんなにやばかったんですか」
本人を前にして失礼だとは思ったが、今は体調不良者が優先だ。
正直、悠はまだ我慢できるほうだったが、人より嗅覚が鋭いと豪語するノアにはある意味拷問だったのかもしれない。
とりあえずコップに水を入れていたら、ぐんっと服を後ろに引っ張られた。びっくりして顔だけ振り返れば、ノアが背中に顔を埋めているではないか。
――まさか。
「待て、待て待て待てっ。吐くならこっち。せめてシンクに! 俺の背中に吐こうとするなっ」
「無理、げんかい……ショコラ」
「わかった! 作る。ショコラならいくらでも作るから、とにかくそこで吐くのだけは――」
その瞬間、シャキーン! と効果音がつきそうなくらい、ノアが光の速さで回復した。
「よし、なら続きといこうじゃないか孝也。悠、言質は取ったからな。日本ではこういうのを怪我の功名というのだろう? 孝也に感謝しなければ」
「え、あの、え?」
戸惑う孝也とは反対に、悠の額には青筋が浮かぶ。
まさか今のは演技か。演技だったのか。あの雪女も逃げ出す顔色の悪さは、嘘だったというのか。
だったら一発殴っていいかと、悠は内心で誰とはなしに訊ねる。
右の拳を静かに持ち上げたとき、しかしすぐにノアが悠の後ろに戻ってきた。たまに乃々がするように背中に頭をぐりぐりと押しつけられる。それは、この偉そうなフランス人曰く、乃々が悠の匂いで安堵するための行為らしかった。
妹ならば微笑ましい行為も、相手が大人の男では全く微笑ましくない。が。
「だめだ。やはり無理だ。これは気合いでどうにかなるものじゃなかった」
うっ、と口元を押さえるノアに、悠は右の拳をすっと下ろした。
どうやらさっきのは演技ではなかったらしい。仕方ないので、悠は大人しくノアの好きなようにさせることにしたのだった。
あれから数日後。孝也が再びシャトーに来店した。
来店して、数秒。
「ありがとうございましたお客様。またのお越しをお待ちしております」
ノアが笑顔で追い返そうとしている。
孝也は明らかにショックを受けた顔で、誰かを捜すようにおろおろしていた。
そして捜されているのが自分だと直感した悠は、カウンターの内側でしゃがみ込む。面倒事は嫌いだ。
「お兄ちゃん、なにしてるの? かくれんぼ?」
しかし妹に見つかってしまった。
日曜日の今日、母が仕事に行っている間、悠は妹の乃々を連れてバイトに来ていた。悠の家庭の事情を知っている小野寺夫婦は、孫が遊びに来てくれるようで嬉しいと乃々を歓迎してくれる。それもあって、休日はよく一緒に出勤していた。
「乃々、おいで。かくれんぼは見つかったら負けだよ。一緒に隠れよ?」
「うん!」
乃々が笑顔で駆け寄ってくる。
あの日から姿を見なくなった父に、乃々も最初は不思議そうにしていたが、母の「パパはお仕事で、遠くに行ってるの」という言葉を信じてくれたようだ。特に混乱することなく受け入れてくれたのは、不幸中の幸いだった。
でも、もし両親が離婚するとなったら、そのときは彼女にも本当のことを伝えなければならないだろう。
悠のようにある程度年齢を重ねていれば、人生にはそういうこともあると割り切れる。けれど、まだ幼い彼女は両親の別れをどう思うだろう。悠にはその心境を正確に推し量ることはできないけれど、せめて寂しい思いはさせないようなるべく乃々との時間を大切にすると決めていた。
そんな妹との心温まる時間を邪魔する、無粋な声が降ってくる。
「見つけたぞ、悠。一人だけ逃げられると思うなよ」
イイ笑顔でこちらを見下ろすノアに、チッと舌打ちした。
「ノアだ! ノアがオニさんだったの?」
「ああ、乃々も一緒か。昼食はもう終わったのか?」
「ちゅーしょく?」
「お昼ご飯」
「うん、たべたよ! オムライスおいしかった」
「そうか、それは良かった。ちなみにな、乃々、鬼は私じゃなくて、あっちにいるおじさんだ」
ノアが孝也を指差す。
「おじさん!? え、俺のこと!? いやまだ年齢的にはお兄さんだと……って、その前に誰ですかその子っ?」
「私の恋人だ」
「ふざけるな。俺の妹だ殴るぞロリコン」
悠は仕方なしにカウンターから出ると、ノアをひと睨みしてから来店した孝也を席に案内しようとした。
が、そこでぴたりと足を止める。
「えーと、岩崎さん? 確かこの前、この人に香水の付けすぎについて指摘されたと思うんですけど……」
「うん。だから今日は、その成果を見てもらおうと思ってね。どうかな? 大丈夫? 俺、臭くない?」
はっきり言って臭い。と、口に出して言えない悠とは違い、遠慮のないノアは営業スマイルで切り捨てた。
「どうやらお客様は私の話を聞いていなかったようですね。人があんなに耐えながら教えたというのに、変わらず漂ってくるその気持ち悪い香りはなんでしょう。仮にも飲食店で漂わせるものではありません。さあ、お帰りはあちらです。最後の助言として、帰りは公共交通機関ではなく、窓を開けられるタクシーもしくは徒歩で帰ることをお勧めします」
「そ、そんなに……!?」
この間の滅多斬りに並ぶ、滅多打ちだった。ボクサーにレスラー、力士、空手家まで、様々な格闘家たちの拳をお見舞いされている。敗者復活戦もできそうにないほどの打ちのめされ方だった。
けれどおそらく、今回トドメを刺したのは。
「……お兄ちゃん、くさい……」
「「え!?」」
純粋な子どもの、そんなひと言だった。
乃々のひと言にダメージを受けたのは、何も孝也だけではない。
聞きようによっては「悠」が臭いと言われているようにも聞こえたそれは、一瞬とはいえ勘違いした悠自身にもダメージを負わせた。
かわいい妹に「臭い」なんて本気で言われた日には、一生立ち直れない自信がある。
「で? 以前より改善されたとはいえ、なぜまだそんなに臭う?」
ノアはカップに淹れた珈琲片手に、孝也から少し離れた位置に立っている。
場合によっては営業妨害になりかねない孝也は、もちろん臨時のカウンター席に座らせた。
「そもそも使用している香水の香りが合っていないとも教えたはずだが」
「えっ。そうでしたっけ?」
「ほう? 本当に何も聞いていなかったようだな」
「ひっ。すみません違うんです! 一応あの、ちゃんとワンプッシュに抑えてはきました!」
ノアのほうが年下のはずなのに、孝也はなぜか彼には敬語だ。見た目で年上と勘違いしているわけではなさそうだが、おそらくノアの放つオーラのようなものに圧倒されているからだろう。
シャトーは今、まるでどこかの国の王宮のようだった。他の客が優雅な貴婦人のお茶会中とするならば、カウンター付近だけは殺伐とした御前会議を思わせる。誰も王には逆らえない。
「ならば言ってみろ。ワンプッシュでどこに付けた」
「え? えーと、膝の裏と腰、背中、肘、耳の裏、手首、脇の下です」
王の眉根に小山のしわが現れた。
「こういうときに日本語の難しさを痛感するな。私の言ったワンプッシュは、『どこか一か所にワンプッシュ』という意味だった。文字どおりの〝一回〟だ。ワンプッシュなら何か所に付けてもいいという意味ではない」
「えっ、そうなんですか? でもいつもそこに付けてるので……。それに今日は、実はこのあと、またアプリで知り合った子と待ち合わせしてるんですよ。なのでやっぱり物足りなくて、胸にもつけてみたんです」
照れ笑いする孝也とは対照的に、王のしわが小山から大山へとレベルアップした。気づいた悠は乃々を抱き上げ、そのまま安全地帯へと避難させる。いつそれが火山となって噴火するとも限らない。
「今日の子は写真だと清楚系なんです。見てください、この子です。かわいくないですか? 料理が得意らしくて、趣味は読書なんですって。しかもミステリーものを読むらしくて、俺とも合いそうだなって。というか、なんかギャップ感じません? こういう感じの子って、恋愛小説とかのイメージですし。でもそのギャップがいいんですよね~」
「そうか、それは良かったな。何時に待ち合わせている?」
「えっと、十四時なので、もうすぐですね。とりあえず最初はお茶だけということになったので」
「よし、なら日当たりのいいとっておきの席を用意してやろう。思う存分振られてこい」
「振ら……え?」
そうしてノアの予言どおり、ものの見事に振られた孝也は、再びカウンター席に戻ってきていた。お相手の女性はとっくに退店している。
「なんでっ……なんでまた、俺、振られ……っ。ノアさんの言うとおりにしたのにっ」
「どこがだ!」
今度のお相手は、途中で席を立つようなことはなかった。
悠が遠目に見ていた感じでは、顔色も悪くなっていなかったように思う。
というより、むしろ――。
「これも全部ノアさんのせいですよぉっ。彼女、俺といるのにずっとノアさんのことばっかり見てて、全然、俺と目、合わなくて……っ」
そう、顔色はむしろ健康的以上だっただろう。ノアに熱い視線を送っていたのだから。ノアが空いた食器を下げるとき、彼女は何か言いたそうにノアだけを見つめていた。
まあ、当のノアは、その視線に気づいていながら完全スルーだったが。
「ノアさん彼女いるんでしょ。日本人でも外国人でも誰でもいいんで、もういっそのこと『彼女大好き。一筋です』って看板を首からぶら下げててくださいよぉ!」
悠はそんなノアを想像してみる。
しかし首から下げた看板には「ショコラ大好き。一筋です」の文字が。なんてしっくりくる看板だろう。
「ふっ」
「おい悠、なぜそこで笑った? まさか君も同じことを言うのか?」
「いえ、すみません。なんでもないです」
ノアの眼光がいつもより鋭い。よほど笑われたのが気に食わなかったのか。
悠は話題を変えるべく、カウンターに伏せる孝也に話しかけた。
「でもあれですよね、そういえば岩崎さんって、この人が日本語ペラペラでも驚いたりしないんですね」
変えるにしても、もう少し自然な変え方はなかったのか。悠はそう自問したが、押し通すことにした。
それに、孝也が「日本人でも外国人でも」なんて言うから、ちゃんとノアのことを外国人だと認識していたのかとちょっとだけ驚きもしたのだ。瞳の色が青色だったとしても、孝也はノアを日本人だと思っているのではないかと思えるくらい自然とノアを受け入れていたから。
「だってほら、だいたいの人はこの人を見ると、必ず『外国の人?』って切り出すのに、岩崎さんからその質問は聞かなかったなって」
「そりゃあね。仕事柄って言っていいのか、外国人とはよく接してるから。日本語が話せる外国人なんてそう珍しいものでもないよ。ああでも、ノアさんほど流暢に話せる人はなかなかいないかなぁ。みんな独特のイントネーションが残ってるから。ほら、日本人のカタカナ英語みたいに」
「仕事柄って、もしかして岩崎さん、外務省にお勤めなんですか? 前に公務員って言ってましたよね」
「え、違う違う。区役所勤めだよ。僕が勤めてるところは特に外国人が多く住んでてね。まあ、といっても、みんながみんな日本語を話せるわけじゃないから、大変なときもあるけどね」
「へぇ」
調香師もそうだけれど、世の中には色々な職業があって、たとえよく知る職業でも知っているイメージと異なることもあるんだなと、新しい発見に興味深く頷く。
「そういえばノアさんは、ここにお住まいなんですか? だったら区役所で会うこともあるかもしれませんね」
「いや、住所の届出はもう済ませた。ワーキングホリデー中に住所変更をすることもないだろうから、おそらくそこで会うことはないだろう」
「え、ワーキングホリデーなんですか? じゃあ一年で帰っちゃうんですね。日本に永住する気はないんですか?」
「さてな。日本には長い休暇を楽しみに来たつもりだったが、予想以上に居心地が良くて悩んではいるけどな」
そうなんですね~と軽く相槌を打つ孝也とは逆に、悠はノアの表情の変化を敏感に感じ取っていた。
いつも無駄に明るいノアだが、今は笑っているのに笑っていない。その笑みの中に少しの翳りを見つけて、悠はつい先日偶然聞いてしまったことを思い出していた。
(この人は――)
たぶん、言葉どおりに、ただ休暇に来たわけではないのだろう。
ある日、悠がバイト終わりにバックヤードで聞いてしまったのは、ノアと正司の会話だ。
ノアは出入り口に背を向けていたし、そのノアの背中に隠れて正司の表情もわからなかった。けれど、二人の声が真剣なものだったから、思わず中に入るのを躊躇い、身を隠すように立ち止まってしまったのだ。
『こっちの生活には慣れたか』
『ああ、それなりに。日本はいいな。誰も私を知らないし、外国人というだけで特別視される。今の私にはその疎外感がちょうどいいよ』
『なに言ってんだ。そんな寂しいこと言うんじゃねぇよ。俺も和恵も、悠や乃々ちゃんだって、おまえさんのことを仲間外れだなんて思っちゃいねぇよ』
『……そうだな。確かにそうだ。逃げたいと思ったとき、こうして逃げられる場所がある私は幸せ者だろう。その場所を提供してくれる正司や和恵には心から感謝しているよ。その中で悠や乃々のような存在と出会えたことにも感謝している。だが、だからこそ……』
思ったよりも重い空気が漂い始め、自分がここにいるのはまずい気がしてきて退散しようとしたとき、ノアが静かに続けた。
『なあ、正司。このまま日本に残ることは、逃げ続けることになると思うか』
逃げる。さっきもそんなことを言っていた。いつも無駄にテンションが高くて、ショコラを食わせろと迫ってくる諦めの悪いあのノアが、何かから逃げるために日本に来たと言う。その事実が、なぜか悠の足を縫い止め、息を殺させた。
『たとえ逃げ続けることになったとして、それの何が悪いんだ。心にだって休みは必要だろ。それに、俺もあの事件の全部を知っているわけじゃねぇが、何も悪くないおまえさんが我慢し続ける必要なんてないはずだ。兄さんもそう思ったから、おまえさんを日本に寄越したんだろう?』
『……』
『ノア。前から言ってるが、おまえさん、日本に残ったらどうだ』
結局、ノアはその提案にうんともすんとも発しなかった。悩んでいるようだった。
今度こそ二人に気づかれないようそっとその場を後にした悠は、夏が始まってまだ仄かに日を残す空を見上げた。
そのとき思ったのは、「そうか。いつか帰るのか、あの人」というなんとも間抜けな感想だ。いや、それは最初からわかりきっていたことで、別にずっと一緒にいたいとも、一緒にいられるとも思っていなかったけれど、初めてその認識に実感が伴ったような気がしたのだ。
(――この人は、いずれフランスに帰る。日本に残ることは、この人にとっての〝逃げ〟になる。何から逃げてるのかは知らない。でも……)
らしくない、と身勝手にも思ってしまった。
ノア・ルフェーブルという男を、悠はほとんど知らない。出会ってまだ半年も経っていないのだ。なのにどうしてか悠はそう思った。逃げることはいい。逃げること自体がだめだと思ったわけじゃない。悠だって両親からずっと逃げ続けていたのだから、人のことは言えないだろう。
ただ、「逃げ続けることになると思うか」と正司に訊ねたノアの様子が、どうしてか心に引っかかっていて。
「居心地がいいなら、日本に移住すればいいじゃないですか」
孝也とノアの会話が耳に届く。過去から目の前の二人に意識を戻した悠は、その会話を止めようとほぼ反射的に二人の間に割って入っていた。
「あの、その話はそれくらいにして、今はそれよりも、今日は何がだめだったか聞いておいたほうがいいんじゃないですか、岩崎さん」
「うっ。そ、そうだね。ちょっと怖いけど」
「いや待て。その前に、それよりってどういう意味だ、悠。前にも言ったが、君はもう少し私に興味を持ってもいいと思うぞ」
人がせっかく話を逸らしたのに、気づかないノアに勝手な苛立ちが募る。
しかも、彼は無遠慮に「珈琲」と続けた。
「まさか淹れろと?」
「孝也とこれ以上話せというなら、珈琲だ」
「ちょっとノアさん!? それ本人の前で言うんですか!?」
「本人の前だから言うんだ。陰で言うほうが陰湿だろう」
「そう言われると確かにそうかもしれませんけど……でもやっぱり傷つくというか、内心で思うだけにしてほしいというか……っ」
「ほら悠、珈琲」
「僕の話聞いてない!」
「嫌ですよ。さっき淹れ方は教えたでしょう? 飲むなら今度は自分で淹れてください」
「宮下くんもナチュラルに返事しないで!?」
「あ、すみません。つい」
「悠、私を無視するな」
あっちもこっちも面倒くさい。悠はげんなりと嘆息した。
「言っておきますけど、俺はあんたの執事でもなければ小間使いでもないんですよ。ましてやあんたは客でもないでしょ」
「それはそうだ。悠は私の……同僚だったか?」
「なんでそこ疑問形なんですか」
それ以外の何があるというのか。まあ確かに、ちょっとだけしっくりこない呼び方だなと、悠自身も思わなくもないけれど。
悠にとって〝バイト仲間〟とは、金属みたいな関係だ。当たり障りない無機質さがあって、時には冷えてさえいる関係。でも、人によって温かくもなる関係。
金属は、人が触れれば熱を帯びる。その金属を温めるかどうかは、その人次第なところがある。そして悠は自ら温めようとしないタイプだ。シャトーの前のバイト先ではそうだった。
だから、同僚という関係が耳に馴染まない。その枠に収まらないほどの感謝をノアには感じているから。
まあ、後が面倒なので、そんなこと口が裂けても本人には言わないけれど。
「宮下くんとノアさんって、結構仲いいんだね」
孝也が羨ましそうに目を細めた。疑問を通り越して顔を顰めた悠とは反対に、ノアは当然だと嬉しそうに胸を張る。
「それはもう。悠のこの素っ気ない感じを気に入っている」
「やめてください。あんたはマゾか」
ノアの言葉にドン引きして、思わず軽蔑の眼差しをやった。だというのに、孝也は全く違う解釈をしたらしい。
「いいね、楽しそうで」
「え、今のどこがそう見えました? まさか岩崎さんもマゾですか?」
「なんで!?」
そのとき「すみませーん」と他の客から呼ばれて、ノアが応対に出ていく。一瞬で営業スマイルを貼りつけられるところは彼の祖父による特訓の賜物だろう。
「でもさぁ、ノアさんはきっと彼女がいるだろうから措いておくとしても――むしろいないとか逆にやめてほしいんだけど――宮下くんもいないの? 本当に?」
「前も訊いてきましたよね。いませんよ、本当に」
なぜ突然そんな話になるのかと思いながら、悠は豆を挽き始めた。今日は酸味が少なく重厚なコクで有名なインドネシア産マンデリン種だ。どこかの偉そうな外国人の母国が由来となっている、深煎りした豆を使う。
「もったいないなぁ。宮下くんって今いくつ? 学生さん?」
「今年で二十歳です。専門学生ですね」
「へぇ! じゃあやっぱりもったいないよ。若い頃はたくさん遊んでおかないと。もちろん恋愛的な意味でだよ? じゃないとほら、俺みたいになっちゃうからね」
はは……と孝也が遠くを見つめる。自分の言葉で傷つくくらいなら言わなければいいのにと思うのだが、涙目の孝也にそんなことを言えるはずもない。
挽いた珈琲豆の粉を整えながら、そこで悠は、ふと思ったことを口にしてみた。
「岩崎さんは、結婚したいんですよね?」
「そうだけど。なに、俺には無理って?」
「言ってませんよね?」
やっぱりこの人も面倒くさいな、とハンドドリップ用にセットした粉にお湯を注ぐ。
「どうしてそんなに結婚したいんですか?」
粉がじわぁと膨らんできた。手を止めて、蒸らしながら。
「不思議なんです。だって結婚は、我慢の連続だってよく聞くので」
「そんなの! 独身の寂しさに比べたらマシだよ!」
ドンッと孝也がカウンターを叩いた。彼の中で何かのスイッチが押されたのか、続けて捲し立てる。
「宮下くんも三十を越えればわかるよ。周りがどんどん結婚していって、なのに自分だけ取り残される焦燥感が。みんな新婚で幸せそうにしてるなか、俺だけ独り寂しくご飯食べてさ。俺も誰かに『おかえりなさい』って言われたい。誰かの作ったご飯が食べたい。嫁に癒やされたい。あーっ、早く結婚したーい!」
蒸らした粉を揺らして混ぜて、悠は再び粉にお湯を注ぎ始めた。
気持ちはわからなくもない。悠は今家族と暮らしているけれど、これが一人暮らしをするようになったらきっと寂しさを覚えるのだろう。特に妹の乃々は悠の癒やしだ。
でも、それでも悠は、やはり〝結婚〟という言葉に魅力を感じない。どうしてだろう。そう考えるとき、一番に思うのは両親だ。いつかあんなふうに互いを憎んでしまうのなら、最初から結婚なんてしなくていいと思ってしまう。最初から、誰かを愛せなくてもいい。そう考えることはいけないことなのだろうか。
「そんなに結婚したいなら、まずはその臭いをなんとかしろ」
すると、客に呼ばれて注文を取っていたノアが戻ってきた。
「自分を知ってもらう前に逃げられていては、結婚など夢のまた夢だぞ?」
容赦のないセリフだ。でも一理ある。
孝也は反抗するようにそっぽを向いた。
「別に、俺なんか匂いをどうこうしたところでそんなに変わりませんよ。モテない奴はモテないんです。モテるノアさんにはわからないでしょうけど」
孝也は完全にいじけモードに入ったようだ。
ただ、モテる人間もまた苦労しているということを悠は春に知った。自分が異性に好かれやすいことを自慢に思う人間がいる一方、そうでない人間もいる。
ノアは後者だ。
「まあ、確かにわからないな。孝也に私のことがわからないように。私は孝也ではないし、孝也もまた私ではない。互いのことを真に理解できると思ったら、それはただの傲慢だ。違うか?」
また孝也の臭いに引きずられてか、ノアの言葉が少しずつ辛辣さを帯びてくる。「問題は」とさらに続けようとする彼に、悠は淹れ立ての珈琲を顔前に突き出してやった。
ノアがぱちぱちと目を瞬いて――むせるように笑う。
それでもなお話を続けようとするので、悠は珈琲作戦の失敗を悟る。これなら機嫌が直ると思ったのに。
口の中で小さく舌を打って、珈琲を引っ込めようとしたとき。
「問題は、互いを完全に理解できなくとも、互いに理解しようと歩み寄ることができるか否か、ということだろう。たとえばこんなふうに」
ノアは悠から珈琲を受け取ると、顔の前で掲げてみせた。
躊躇うことなく一口飲んで。
「うん、さすが悠。君はバリスタも目指せる」
「目指しませんよ。将来的に役に立つ技術なので学んでるだけです。それより、リセットできました?」
「ああ、おかげさまで。店の匂いも混ざってそろそろ限界だったんだ。助かった」
ならいいです、といつものように答える。素っ気ないとよく言われる態度だが、これが自分にとっての通常運転なので変えるつもりはない。
しかしノアと孝也は、なぜか二人して意味ありげな視線を寄越してきた。
「互いに歩み寄ること、か……」
「どこかの誰かみたいに、無意識にそれをやる人間もいるがな」
「?」
いまだに見つめられるので、しっしっと手でその視線を払う。
ノアは口端に笑みを残しながら。
「ちなみにこれは、恋愛においても同じことが言えるな。歩み寄ることは、何も相手を理解しようとすることだけじゃない。自らも理解してもらおうとしなければ歩み寄るとは言わないと私は思う。たとえば『あなたのことを理解したいけれど私のことは理解しなくていい』なんて、どちらにとっても虚しいだけだろう? しかも孝也の場合は『どうせ俺なんて』と殻に閉じこもろうとする。そんなことを言われた相手としては『じゃあ勝手にすれば』と後ろを向きたくなるというものだ。相手に前を見てほしいなら、たまには自分から殻を破ることも大事なんじゃないか。なあ? 悠」
「はい?」
和恵の作ったサンドイッチを客席に運ぼうとしていたら、いきなりノアに呼び止められた。
話を聞いていなかったので、悠としては何が「なあ?」なのか見当もつかない。
「なんの話か知りませんけど、ちょっと後にしてもらえます? 俺、これを運ばないといけないんで」
返事も待たずに客席に向かう。背後ではノアだけでなく孝也の笑う声も聞こえてきて、悠にはそれが不可解だった。
「その珈琲、おいしいですか?」
孝也がノアに質問する声がかすかに届く。
「フランス人らしく言うなら『C'est tres bon』だ」
「お~、本場の発音だ。フランス語って発音が難しいんですよねぇ。今のもどうやって発音してるんだか。といっても俺、英語も話せないですけど」
「仕事で外国人を相手にするのに?」
「しますけど、なんとかなっちゃいますし。この年になると勉強する気も起きなくて」
悠が戻ってきたときには、男が二人、カウンターで他愛のない話をしていた。
どうやら珈琲作戦はちゃんと上手くいったらしい。今日も女性に振られたはずの孝也は、しかし前回のように落ち込むばかりではない。今は談笑している。ノアに対する劣等感も忘れて。
「気持ちはわからなくもないが、言葉が話せると出会いも増えるぞ」
「ノアさんと宮下くんのように?」
「ははっ、わかってるじゃないか。何も恋愛に発展する男女が出会うことだけを『出会い』とは言わないからな。少なくとも、私の日本語講師はそう教えなかった」
「誰に習ったんですか?」
「祖父だ。祖父は日本人だから。――さて。ところで孝也、話を戻すが、今夜の予定は空いているか?」
「えっ、俺ですか? ご存じのとおり独り身なんで、まあ」
「ならば講義のリトライといこうか。私も君に歩み寄ってみよう」
そうしてシャトーの閉店後、前回と同じく孝也への香水指導が始まった。
*
「――ああ、わかります。私もあの監督の作品が大好きで」
「大胆な演出をするのに心理描写は丁寧で、もう何度泣かされたか」
「ふふ、私もです。岩崎さんも泣くんですね」
「えっ、あ、な、情けないですかね!? 男が泣くなんてっ」
「いいえ。共感するところが同じなんだなって、むしろ親近感が沸きました」
相手の女性が朗らかに笑っている。
少しふくよかで素朴な雰囲気の女性だ。母性を感じさせる温かさがある一方、会話の端々に芯の強さが覗く。
今日は、シャトーに限るなら、孝也にとって三度目のデートの日だった。
「今のところ順調そうですね」
悠は窓際の席に座る二人を見守りながら、カトラリーを磨くノアに言う。
二度目の講義は、それはもう徹底的に行われた。
『明日から香水は腰以外に付けるな』
初っ端から禁止事項を告げられた孝也は、ぽかんとしていた。その少なさに言葉を失ったらしい。
『それと、グルマン系の香りも禁止だ。本当は好きな香りを纏えばいいと言ってやりたいが、孝也は元々肌の香りが強いタイプのようだから、合わない香りというものがどうしても存在する』
『そ、それはつまり、体臭がやばいってことですか……?』
『違う。そうではなく、人は誰しもその個人特有の体臭を持っているということだ。それが良い匂いになるか悪い臭いになるかは、相手の感じ方次第になる。ただ、自分の肌の香りも参考に香水を選んだほうが外れる確率は低い』
ノア曰く、孝也の場合はグルマン系のような甘い香りの肌タイプらしい。
『肌が甘い匂いを持つ――もちろん病気のせいではないぞ――そういった人間には、瑞々しい香りのほうが合うんだ』
なるほど、と孝也の目が興味津々に輝き出した。
『人気の香水が必ずしもその人物に合った香水とは限らない。たとえばだが、孝也と悠が同じ香水を付けたとしても、二人から漂う香りは別物になる』
『え? 同じ香水を付けてもですか?』
『そうだ。その原因が個々で違う肌の匂いだ。付けた香水と肌の匂いが混ざって初めて、その人物だけの香りというものが出来上がる。だから本当は、香水は肌に付けて試してから買ったほうがいいんだがな』
ノアの一瞥に孝也が冷や汗を流した。試しもせず香水を買った過去が胸にちくりと刺さったのだろう。
『とにかく孝也、まずはシトラス系の香水を腰にワンプッシュ、これを厳守しろ』
『ほ、本当にそれで大丈夫ですか? 腰だけで?』
『ああ。日本人女性は特に匂いに敏感だと聞く。そして香りは下から上へ漂うもの。であれば、いい感じに仄かな香りを演出できるお勧めの場所が腰だ。大丈夫、私を信じろ。こう見えて私は、それなりの調香師だったのだから――』
その言葉が嘘偽りでないことを、悠はネットで知った。
彼の名前を検索してみれば、有名ブランドの専属調香師という経歴が目に飛び込んできた。最初は同一人物か疑ったが、ネットの中の「ノア・ルフェーブル」が調香師を辞めていることまで書かれていて、かつ、一度見たら忘れることなどできないだろうその美貌まで披露されていては、同一人物だと認めないわけにはいかなかった。
見る人が見れば、かなりの有名人。
しかし当の本人は、微塵もそれを感じさせない気安さで「今のところ順調そうですね」と言った悠に応えた。
「当然だ。私が直々に助言したんだぞ? 臭いなどと言わせるはずがない」
「話も弾んでるみたいですし」
「孝也は初対面の相手とも会話を繋げられるからな。その点は心配していなかった」
確かにそうだ。なんなら初対面の悠に「彼女いる?」と突然訊いてきたくらいだ。人見知りするタイプではないのだろう。
「でも人の印象って、香りであんなに変わるもんなんですね」
相手の女性は、これまでの二人に比べて一番楽しそうに会話が続いている。もちろん香りだけが全てではないだろうけれど、おそらく孝也の臭いに耐えきれなくて退席した最初の女性のときよりは幾分もマシに違いない。
「だから言ったろう? 香りは人を強く印象付けるものだと。乃々にとってショコラの香りが悠を連想させるように、香りで付く人のイメージというものは記憶に残りやすい。ちなみに、私にとっても悠はショコラの香りだな」
そんなに匂うのかと、悠は首を傾げた。自分ではよくわからない。
しかし。
「香りの記憶が残りやすいっていうのは、なんとなく理解できる気がします。最近は珈琲の香りがするとあんたを思い出しますから」
「私を? そんな香り、させたことがあったか?」
「というより、よく嗅いでるじゃないですか。だからですかね」
「そうか……。そういう現象をなんと言うか知っているか、悠?」
知るはずがない。なにせ香水関連の知識については、孝也と同レベルだったのだ。ノアに散々呆れられた記憶は新しい。
彼もそれをわかっているのか、悠が返事をする前に続けた。
「そんなふうに特定の匂いが記憶を呼び起こすことを『プルースト現象』と言うんだ。フランスの文豪マルセル・プルーストが書いた『失われた時を求めて』という小説に、主人公が紅茶にマドレーヌを浸してその香りから幼年のことを思い出す描写がある。それにちなんで名付けられたんだが……すごいと思わないか? 匂いだけで思い出すんだぞ。マドレーヌを紅茶に浸す音でもなく、その光景でもなく、味でもない。香りが記憶のトリガーになる。そもそも人は嗅覚がなければ味を感じられない。そんなに重要な器官なのに、嗅覚にはいまだ謎が多い。アロマセラピーだってそうだ。香りは人の感情をも左右できてしまう。興味深いだろう?」
「アロマセラピー……。そういえば、講義のあとに岩崎さんに渡していた小瓶、あれってもしかして」
「エッセンシャルオイルだ。あのとき帰り際になって『やっぱり不安だ』『本当に大丈夫ですか』と泣きついてきたから、ネロリをブレンドした香りを渡したんだ」
「ネロリ?」
「ビターオレンジの花から抽出されるエッセンシャルオイルのことだ。上品で爽やかなフローラルシトラスの香りで、天然の精神安定剤と言われるほどリラックス効果の高い香りだ。稀少なものだが、よく香水の原料にもなるし、アロマセラピーにも使用されている」
「へぇ」
そんな香りもあるのかと感心する。普段自分がどれだけ〝匂い〟というものに無頓着に生きてきたかわかるというものだ。
「なんというか、調香師というより、セラピストみたいですね」
「……それはもしかして、私のことか?」
「あんた以外に誰がいるんですか。だってここにいるあんたは、やたらとそうやって香りの力で人を助けようとするじゃないですか。そういう人をアロマセラピストって言うんでしょう?」
「それは、まあ、そうだが」
ノアはどこか腑に落ちないという顔をする。
「実は今日、岩崎さんが来店したとき『すごくリラックスできたって、ノアさんに言っておいて』って言付かったんですけど、あれはそういうことだったんですね」
ちょうどそのときノアは他の客を接客していたため、孝也は悠に伝言したのだ。なんでそんな報告をノアにするのだろうと思っていたが、ノアからもらったエッセンシャルオイルの効果を伝えたかったのだろう。
悠も以前、同じようにノアからもらった香りがある。レモンとラベンダー。あの香りに助けられたことは忘れていない。
何よりも、誰かが自分のために心を砕いてくれたという事実が、一番嬉しかったことを覚えている。
「あなたは調香師で、アロマセラピストなんですね。というか、もしかしてそっちの資格も持ってたりします?」
何気ないひと言に、ノアが大げさなほど目を丸くした。
「? どうしたんですか、そんな変な顔して」
「いや、なんというか……とりあえず、私の顔を変だと言ったのは悠が初めてだ」
「別に顔の造形については言ってませんけど。あ、そうか。調香師はもう辞めてるんでしたっけ。でもそれでそんな反応します?」
「そうじゃなくて……ちなみに言っておくと、調香師とアロマセラピストは全く違う職業だぞ。調香師は化学を扱う芸術家だが、アロマセラピストは己の欲より人の欲を満たすために香りを操る。混同されがちだが似て非なるものだ」
「へぇ。調香師で化学って、なんか意外です」
「そうか? 調香において香気成分の知識や分析は必要不可欠だ。そのためには化学知識も必要になってくる。香りの強弱は香気成分の濃度によって決まるくらいだからな」
「濃度?」
「たとえばこれはよく知られた話だが、天然ジャスミンなどの多くの白色の花に含まれるインドールという有機化合物は、低濃度ではフローラルな香気を持つが、高濃度では糞臭がする」
「えっ、ふ、糞?」
「こんなところで出す話題ではないだろうが、わかりやすい喩えだろう? 調香師はそうやって複数の香気成分を分析し、掛け合わせ、決まったテーマを表現するために香りを創造するんだ」
それで芸術家なのか、とその話を聞いて納得する。
「だからアロマセラピストと調香師では、仕事の内容も、目的も、共通するところはそれほど多くない。それでも悠は、私をそう思うか?」
「そう思うって?」
「私を、アロマセラピストだと」
ノアはなぜか恐る恐るといった感じで訊ねてきたが、これには即答した。
「思いますよ。だってさっきも言いましたけど、香りの力で人に癒やしや元気を与える人をアロマセラピストって呼ぶんでしょう? 正直、俺にはあんたの言う業界の事情はわかりませんけど……まあ、救われたのは事実ですから」
口元を手で覆い隠すノアの瞳が、見たことがないくらい揺れている。
そんな彼の様子に気づいた悠も固まってしまった。だって、意外すぎる。いつも偉そうなこの男の動揺する姿なんて、あまり見たことがない。
「……悠」
「はい」
「悠は、どう思う? 私はセラピストのほうが向いているか?」
らしくもない重みを言葉に乗せて、ノアは俯いた。
今度は悠が動揺する番だった。なんだか予想外に真剣な話になっている。ついさっきまで孝也のデートを温かく見守っていたはずだが、どうしてこんな空気になってしまったのか。
(もしかして、だけど)
ノアもまた、何か悩みを抱えているのだろうか。いや、だろうなということは、以前意図せず聞いてしまった正司との会話から察してはいた。
けれど、その悩みの種が何かまでは知らなかった。
(もしかして、調香師のことだったのか?)
そして自分は、わざとでないとはいえ、その種を芽吹かせてしまったのだろうか。
「えーと、正直に言っていいですか」
「むしろ気を遣う悠なんて悠じゃない」
「それどういう意味ですか。俺だって気を遣うときもありますよ。でもどうやらあんたには不要みたいなので言います――知りません、そんなこと」
だって、と続けて。
「俺、調香師のあんたを知りませんし」
本当に包み隠さず思ったことを口にすれば、ノアは一瞬だけぽかんとしたあと、ぎこちなく頷いた。
「確かに。それはそうだ」
「でしょう? だからどっちが向いてるかなんてわかるわけないじゃないですか。相談相手を間違えてます」
「それも、確かに」
「いや、少しも否定されないと逆にムカつくんですけど」
そう言うと、ノアが空気の抜けるような声で笑った。それに我知らずほっとする。
「これは学校の講師の受け売りですけど。人生一度きり。自分が何をしたいか、を常に考えるといいそうですよ。しがらみとか、周りのこととか、色々あるかもしれませんけど、一度しかない人生をそんな無駄なことに費やすなって言ってました。まあ、だからですかね、その講師は『目指すものが変わったなら学校は辞めろ。中途半端に目指せる世界じゃないし、何より金の無駄だ』とも言って生徒をドン引きさせてましたけど」
でも悠の心には残った。残ったからこそ、こうしてノアに話している。
「それで、ノア。あなたは何がしたいですか?」
沈黙が二人を包む。嫌な沈黙ではない。
それに、この場ですぐに答えが出るなら、あのノアが悩むこともないだろうと思うのだ。
悠は空気を変えるようにふいっと視線を外すと、あえていつもどおりの淡々とした口調で言った。
「じゃ、その磨いたカトラリー、こっちに入れてもらえますか。俺はおしぼり入れていくんで」
作りかけのカトラリーセット――二人分のフォークやスプーン、箸、おしぼりの入った入れ物――を指すと、ノアも我に返ったように仕事を再開する。
そんな彼を盗み見ながら、悠は内心で「うーん」と唸った。
(やっぱり今度、チョコ作るか?)
弱っている人や困っている人を見ると、どうしても弱い。そんな自分をなんとなく自覚している。
ノアといえばショコラショコラと口うるさいイメージなので、彼を元気づけるならそれが一番有効だろう。
(でもなぁ、この人、たぶん舌肥えてるからな)
あんなにチョコレートにこだわりを見せる男だ。これまで多くのプロのものを食してきたに違いなく、今の悠は少し自信がなかった。春のお礼としてチョコを作らなかった理由には、実はこれも含まれている。
(最初の頃は単純に面倒だったから断ってたけど……お世話になったし、なったからこそ、今度は別の理由でまだあげたくない)
そう、どうせなら自信作を食べてもらいたい。
でも今の自分ではまだだめだ。中途半端なものしか作れない。
「なあ、悠」
「なんですか」
意識半分で返事をしたら。
「今、無性に悠のショコラが食べたい」
「……突然ですね」
まるで心の中を覗かれたみたいなことを言われた。どんなタイミングだ。わずかに動揺した自分を咳払いで誤魔化す。
「突然じゃない。いつも言っているだろう? でも、今はいつも以上に食べたい」
「あー、俺もいつも言ってますけど、作りません」
「なぜだ」
「逆に訊きたいんですけど、なんでそんなに俺に拘るんですか? って近いな!」
ノアがずいっと顔を近づけて迫ってくる。この男のパーソナルスペースはどうなっているのか。
なんとか逃げていたとき、視界の端で孝也が席を立つのが見えた。相手の女性も共に立ち上がっている。
「ちょ、ノア。ノア。いったんストップですっ」
「なんだ? 名前を呼んで私を喜ばせて話を逸らす作戦か?」
「どんな作戦だ! そうじゃなくて、俺、レジ行ってきます。岩崎さんが女性と一緒に席を立ったんです!」
途中からすっかり忘れていたが、今日は孝也の大事なデートの日なのだ。
三度目の正直よろしく、孝也は今回初めて快挙を成し遂げたらしい。だって、これまでの二回とも、孝也は女性に振られて先に帰られている。共に席を立ったのは今回が初めてだった。
「お会計お願いします」
「はい!」
女性が財布を出そうとすると、孝也が我先にお札を出した。かなり恐縮する女性に、孝也は「じゃあ次、さっき話していたお勧めのフラペチーノをご馳走してください。それでおあいこにしませんか?」と別人のようにフォローしている。どうやら女性のほうはあまり奢られ慣れていないらしい。孝也の言葉に嬉しそうにはにかむ女性を見て、悠も好感を持った。
女性が先に外に出る。孝也一人になった隙に、悠は短く彼を祝う。
「良かったですね。次も会う約束、できましたね」
「そうなんだよ! こんなこと初めてで、今からもう緊張しちゃって。これも全部、宮下くんとノアさんのおかげだよ。本当にありがとう」
「いえ、俺は特に何もしてないので、お礼ならあっちの人に」
カトラリーセットを作っていたノアが、気にするな、と雑に手を振った。その表情は馬鹿な愛弟子を見送るようで、悠もくすりと笑う。
それから数週間後。孝也が小さな紙袋を持ってシャトーに来店した。
「お礼が遅くなってすみません。二人には、二回目の結果報告も一緒にしておきたいなって思ったので」
紙袋の中身を見る前に、ノアの顔がひときわ輝いた。それはもう、普段から人を惹きつけてやまない美貌が、今なら無機物まで惹きつけてしまいそうなほど神々しく輝いている。
なるほど。袋の中身がなんなのか、確認する前に悠にもわかってしまった。
「とりあえずこれ、どうぞ。有名ブランドのチョコなら、嫌いな人も少ないかなって」
「大好きだ!」
孝也の言葉に被せてノアが飛びつく。相変わらず恐ろしい嗅覚をしている。
「孝也、君はなんてセンスの良い男だろう。ブランドものでも味が微妙なショコラはあるというのに、このブランドは全く外れがないんだ。陶酔を誘うこの香りが何よりの証明だ。これを選んだ君は控えめに言って最高だ。悠、今食べていいか。待てない」
幻覚の大きな尻尾が揺れている。
悠は、はああ、と透明なガラスを曇らせるほど盛大なため息をついてから、
「バックヤードで」
短く許可の意を示した。
「さすが悠、君も最高だ!」
とかなんとか言いながら奥に引っ込んでいったノアのことを、悠は早々に頭の中から追い出す。
孝也に席を勧めると、今日はお礼をしに来ただけとのことで、彼はそのまま続けた。
「ノアさんにも伝えておいてくれるかな。実はあの日の女性と、三度目の約束もできたんだよ。穏やかな人だし、価値観は一緒だし、趣味は違うけど、お互いがお互いの趣味の話を聞くのが楽しくてね。頃合いを見て、その、交際を申し込もうと思ってて」
「すごいですね。もうそんなところまで?」
「今まで散々振られてきたから、このチャンスを逃したくないっていうのもあるかな。でも、本当に今が楽しいんだ。紗織さん――あのときの女性のことなんだけど――に早く会いたいなって、毎日彼女のことばかり考えてね。自分でも単純だなって思うんだけど、次会える日が待ち遠しくて仕方ないんだよ」
弾んだ声だった。全身で喜びを伝えてくれる彼を見ていると、あの日声をかけて良かったと心の底から安堵する。
人が恋をする姿は、悠も好きだ。キラキラと輝いていて、楽しそうで、時には辛いこともあるのだろうけれど、それを乗り越えようと頑張る姿も含めて、悠は人のそんな姿が好きだと思う。
だから決して、恋愛自体が嫌いなわけじゃない。
なのに――。
「宮下くんもさ、彼女とか作ってみたら? 今は若い子もアプリやってるって聞くし、なんなら俺、やり方教えるよ?」
「あー……」
自分のこととなると、途端に冷めてしまう。
「いえ、大丈夫です。今は勉強してるほうが楽しいですし、無理に作っても仕方ないですから」
「えー、勉強が楽しいって、君、変わってるね?」
「はは……」
嘘偽りのない言葉だったからこそ、「変わってるね」という言葉が胸にちくっと刺さる。
いつだったか、友人にも同じことを言われたことがあるけれど、自分はそんなに変わっているのだろうか。そんなに「変」なのだろうか。
ただ恋に興味を持てないだけで。
ただ愛が何かわからないだけで。
どうして人は、そこまで恋愛というものを主軸に置くのだろう。
「悠、口を開けろ」
「は、いっ?」
つい反射的に返事をしようと開けた口の中に、戻ってきたノアがチョコを放り込んできた。慌てて口を閉じると、舌の上ですーっと甘みが溶けていく。なんて滑らかな舌触りだろう。ガナッシュには林檎の洋酒をきかせているらしく、ふんわりと鼻を通る香りが上品さを醸し出す。どこかの国の女王を思わせるひと粒だ。
さすが有名店のチョコレート。これは学べると、黙々と味わう。
「いやあ危なかった。もう少しで悠の分も食べてしまうところだった。どうだ? おいしいか?」
おいしいよな? と、まるでテストで満点を取った子どものように、なぜかノアが自慢げに訊ねてくる。全く意味がわからない。これを作ったのは彼ではないのに。
でも、心に適うチョコを食べて興奮しているのか、そのあまりに燦爛とした碧眼に悠はぷっと吹き出した。
これでは子どもというよりも。
「やっぱ犬だな」
「犬? なんの話だ? 犬の話でもしていたのか? ああ、わかった。犬か猫か、どちらが好きかという話だな? なら私は断然猫派だ。あの気まぐれな性格が愛おしい」
「奇遇ですね、俺も猫のほうが好きですよ」
「さっきは犬と言っていなかったか?」
「好きというより、最近笑わせてくれるのが犬のほうってことです」
孝也と目が合う。彼は、悠の言葉に混乱するノアをチラリと見やったあと、また悠に視線を戻した。
岩崎さんもそう思いません? と同意を求めるように小首を傾ければ、孝也もまた納得したように微笑む。
「そうだね。とびきり綺麗だと、ギャップがあって面白いかもしれないね」
「たまに面倒ですけどね。それじゃ、店の前まで送ります」
「え、別にいいよ?」
「岩崎さんの新しい門出を見送りたいだけですから」
「お、それはいいな。私も見送ろう」
「あんたは店番」
ノアの顔にレシートを叩きつける。さっき帰った客が置いていったものだった。
店の外に出ると、夏の日差しが容赦なく照りつけてくる。暦の上ではとうに秋に入ったというのに、もはや暦など無意味なくらい肌を焼く暑さが続いている。
湿気のこもった太陽の匂い。アスファルトの匂い。これまで、全く意識してこなかったもの。
「岩崎さん」
悠は、暑さにやられる前にと、早々に切り出した。
「岩崎さんにとって、恋愛ってなんですか? どうしたらその人を好きだって、わかるんですか?」
唐突な質問である自覚はあった。下手をすれば笑われる質問だ。実際悠は笑われたことがある。『好きって何?』となんとなく口に出した疑問に、昔の級友は笑って答えた。
『そんなの適当でいいんだよ、適当で』
そうか。適当でいいのか。だから別れる恋人たちがいて、離婚する夫婦がいるのか。
ならば、なぜ人は、人を愛すのだろう?
孝也なら笑わないで答えてくれると思った。
「んー、そうだなぁ。改まって訊かれると難しいな……。なんだろう、俺にとって恋愛は、人生における必須科目みたいな、そんな感じ? 当たり前のようにみんなが恋愛してるから、深く考えたこともなかったかなぁ」
「……そうですか」
「うん。まあこれはあくまで俺の考えなんだけど、恋って人の感情を豊かにしてくれると思ってるんだ。恋でしか知り得ない感情があるとも思ってる。恋愛で学ぶ、みたいなね。俺はたぶん、それが好きなんだろうね。淡々とした毎日に彩りを添えてくれるようで。どうしてその人を好きかは……えー、んんん、なんだろう、こう、その人とずっと一緒にいたいなって思ったときにわかる感じ? えっと、伝わってる?」
よほど自分が悩ましい顔をしていたのだろう。こちらを窺ってきた孝也は「やっぱり伝わんないよね!」と恥ずかしそうに顔を赤くした。
「で、でもさ、突然どうしたの? そんなこと訊いてくるなんて」
「すみません、ちょっと気になったものですから」
「そっか? でも宮下くんはあんまり恋愛に興味がないのかと思ってたから、少しびっくりしたよ」
「俺がですか?」
「だってほら、さっき俺が宮下くんにアプリの話を振ったとき、そんな感じの反応だったからさ。もしかしてそうなのかなって。だったら申し訳ないことしたね。俺、押し付けがましかった?」
「いえ、そういうわけじゃ……。それに、興味がないというよりは、よく、わからなくて」
「なるほどなぁ。だから今の質問だったんだ。ノアさんをわざわざ遠ざけるから、俺、どんな話されるんだろってちょっとドキドキしたよ。怒られるんじゃなくて良かった」
なぜ自分が孝也を怒るのだろう。不思議に思っていたら、孝也が「顔が真剣だったから」と先に答えをくれた。確かに直前まで訊くかどうか悩んでいたけれど、それほどだったとは。なんだか申し訳ないことをした。
温風が肌に纏わりつく。じんわりと額に汗が滲み出てきた。
「でも、俺にそういう質問をしても大丈夫って信頼してくれたことは、素直に嬉しいよ。俺、あんまり後輩から好かれるようなタイプじゃないからさ、なんだか宮下くんみたいな子は新鮮で、本当に嬉しいんだ」
「そうなんですか? どこかの面倒くさいフランス人より断然いいと思いますけど」
「いや、さすがにそんなこと言うのは宮下くんだけじゃないかな……はは……」
まあでも、と孝也は眉をハの字にして。
「今は興味がなくても、いつかは興味が出てくるかもしれないし、逆に出てこないままかもしれないし。誘った俺が言うのもなんだけど、宮下くんのペースでいいんじゃないかな」
しかしそう言ってすぐ、孝也は考え込むように押し黙ってしまった。いったいどうしたのだろう。訊ねる前に孝也がまた口を開く。
「うん、そうだね、宮下くんのペースでいいとは思うんだけど、ただ、もしだよ? もし君がこの先、誰とも結婚しない道を選ぶなら、老後のことは考えたほうがいいかも。だってほら、独りだと大変だからね、色々と。世の中には老後の世話のために奥さんを迎える人だっているんだから。夢のないこと言ってるけど、現実は見たほうがいいと思うんだ。ああでも、やっぱり若い子に老後のことなんてまだ早いかな? と、とりあえず、お金は貯めといたほうがいいかもね、うん!」
ぶはっ、と。耐えきれずに腹を抱えた。予想外の答えだった。
だからこそ、彼に訊いたのは正解だったと確信する。
自分の話を笑わずに聞いてくれた。相手にしてくれた。それだけでなく、ちゃんと考えてもくれた。
孝也と悠では、恋愛に対する価値観が重なることはないだろう。疑問が解決したわけでもない。
それでも、思い切って訊いて良かったと、そう思える。
「わかりました。お金、貯めておきます」
「そ、そうだね。あって損するものでもないしね。……ところで宮下くん、笑いすぎじゃないかな」
「いや、すみません。だってほんと、予想外で」
もう少しだけ、諦めないでみようか。恋愛というものを。だって孝也のような人が人生における必須科目とまで言うのだから。
「またいらして下さい、岩崎さん。できれば、次もまたあの女性と一緒に」
「うん、頑張るよ。願掛けじゃないけど、付き合えるまでここはお預けにしておこうかな」
「それ、単に男一人で来るのが気まずいからですよね?」
「いやあ……まあね」
孝也の視線が気まずそうに逸らされる。
それにもまた笑って、今度こそ彼を見送った。たった数分の立ち話だったのに、すでに頭はバーナーで炙られたように熱い。
さあ店内に戻るかと踵を返そうとしたとき。
「Hello! I know this is sudden but are there a French guy here?」
いきなり英語で話しかけられた。発音に少し訛りがある。
相手はノアと同じ、ひと目見ただけで外国人とわかる風貌をしている。彫りが深く鼻筋のしっかりとした凜々しい女性だ。黒に近いダークブラウンの髪が胸のところで軽やかに揺れている。瞳が印象的で、どこか寂しげで妖しげに見えるそれは、おそらく緑色ではないだろうか。いくら今がぎりぎり夏に分類される季節とは言え、胸元が大きく開いたタンクトップ姿は目のやりどころに困るというものだ。
すっと視線を斜め下に落としながら、悠は少し考えた。自分の耳が間違っていなければ、今彼女は「ここにフランス人の男はいる?」と訊いてきた。心当たりが一人だけいるけれど、はたして正直に答えていいものか。というのも、ノアの美貌を冷やかしにくる客は日本人だけではないからだ。
黙ったままの悠を英語がわからない日本人だと思ったらしく、彼女は再度、先ほどよりも一音一音をはっきりと発音して同じ質問を繰り返してきた。
苦笑しながら答える。
「Why are you asking me that?」
女性の目が見開いた。それは悠の英語に驚いたからか、それともそんな返しをされると思っていなかったからか。
――なぜそんなことを訊くんですか?
これまで、ノアの噂を聞きつけてやってきた客の中に、正しく〝客〟はいなかった。
ノアは祖父から「客は神様」と教わって日本に来たらしいが、悠は違うと思っている。確かに客は大事な存在だ。けれど、客が店を選ぶように、店側にも客を選ぶ権利はある。シャトーを踏み荒らそうとする客から、シャトーを愛してくれる客を守る権利はあると思うのだ。
(あの人が自分の顔を嫌がる理由がよくわかってきたな。今度着ぐるみでも被せるか?)
悠がこうしてノア目当ての客を追い払うことはすでに何度かある。最初こそ本人に任せて放置していたが、記念撮影を店内で始められたときはさすがに物申したものだ。他の客もかなり迷惑そうにしていた。
以来、番犬よろしくそういう客には目を光らせているが、いい加減面倒になってきた。ノアの顔が目当てなら、その顔を隠してしまえば問題解決となるのではないだろうかと光明を得る。
そんなことを頭の片隅で考えていたら、女性が続けて英語で言った。
「捜している人がいるの。もしこの店にノア・ルフェーブルというフランス人がいるなら会わせてほしいのだけど」
おそらく彼女は日本語が話せないのだろう。癖のある英語は、基本的な英語にしか慣れていない悠には聞き取りづらいものがある。
(でも今、あの人の名前が聞こえた。それもフルネームで)
ルフェーブルの名を出してきた客は、これまで一人もいなかった。
(もしかして知り合いか?)
その可能性が高いと踏んだ悠は、逡巡したあと、警戒心を残したまま英語で答える。
「少し待っててください。ちゃんと英語を話せる人がいないか確認してきますから」
相手の返事は待たずに店内へ戻る。
カウンターで暇そうにしているノアの許へ向かえば、彼の腕を掴んで無理やり引き寄せた。
「あんたの知り合いにダークブラウンの髪の緑の瞳が印象的な訛った英語を話す人はいますか」
いきなり耳元でそう質問されたノアは、最初こそ目をぱちくりとさせて状況の把握に努めていたが、やがて意味を理解したらしい。顔つきががらりと変わった。悠が今まで見たこともないような、怖い顔に。
「それは女性か」
「はい」
「髪は長くて背は百七十センチほどの」
「日本人女性なら高い部類です」
「私の名を出した?」
「フルネームで」
そう答えた瞬間、思い出し笑いならぬ思い出し苦悶でもするようにノアの眉根が寄った。
「悠は何か答えたか?」
「英語の話せる人を呼んでくる、と。本当にあんたの知り合いなら追い返すのもかわいそうですし、でも本当にそうか確認しないと、また変なのに来店されても困るので」
「Perfait! さすが悠、機転の利いたいい返しだ。そのまま私のことは知らないふりをしてくれ。英語の話せる従業員がいなかった、ということにするんだ」
「……わかりました」
この反応、どう考えても知り合いだと思うが、本人が会いたがっていないのなら仕方ない。
悠はもう一度店の外に出ると、ノアに言われたとおりのことを、今度は少しだけ英語が苦手な風を装って告げた。
すると、女性は真偽を確かめようとするようにじっと悠を見つめてくる。負けじと見つめ返していたら、向こうが先に視線を逸らした。
「ノアが……彼が私に会いたくないのは当然だわ。でも私、どうしても彼に謝りたくて、はるばるフランスから来たの」
相手が殊勝な態度を取り始めるが、悠は全く動じない。
「えーと、そうなんですか。それはお疲れ様です。でもノアって人がここにいるとは言ってませんよ、俺」
「ずっとずっと会いたくて、やっと日本に来れたの」
「そうなんですね。でも人の話を聞いてください」
「だって私、知っているのよ。ノアがここにいることは彼のお母様から聞いたんだから。なのに出てきてくれないっていうことは、やっぱり私に愛想を尽かしたからなのよね?」
「えっ? 母親に……あー」
ちょっと待て、と額に手をやる。なんだそれはと思った。ノアの母親に聞いて来たなら、彼女はここにノアがいると確信しているということではないか。だったら最初からそう言ってほしいし、家族ぐるみの付き合いがある相手だったなら、ノアもノアでそう言ってほしかった。これではとんだ茶番ではないか。
「それでも私は、ノアともう一度やり直したいの!」
「え!」
本当に茶番だった。
悠はすぐに店内へ戻ると、常連のおば様方と談笑しているノアの腕をもう一度掴み、今度は強引に引っ張った。そのまま店の外へ出て、女性の前にノアを突き出す。
「どうぞ。お目当ての男です。彼はこれから休憩に入りますので、好きなだけ話し合ってください。ただし、店から離れた場所で」
据わった目でそう言った悠に女性は喜色満面の笑みで礼を言い、ノアは絶望を宿した表情で悠を引き止めようとする。
「待て悠、私を売るのかっ。私は彼女と話すことなど……」
「なくても話してきてください。いいですか、痴話喧嘩は、外でやれ」
パタン、と無情にも扉を閉めてやった。
店内は冷房が効いていて涼しい。冷やされた頭で「やっぱりやりすぎたか?」と己の所業を少しだけ反省してみたが、色恋沙汰の面倒に巻き込まれるのはごめんだ。ましてや店内には他の客だっている。
(……それにしても、愛嬌のある人だったな)
今までノアに恋人がいなかったとは思っていなかったけれど、いざ本物が登場するとびっくりするものらしい。勝手に美人を想像していたが、ノアの元恋人だという女性はどちらかというと笑顔がかわいい人だった。
(やっぱ、溢れてるなぁ)
この世界は、〝恋愛〟が溢れすぎている。あのノアだって少なくとも恋を経験している。
周りが恋で溢れると、やはり孤独感を覚えるのはどうしてだろう。虚無にも似た感情が胸の中に広がっていく。
(いや、でも岩崎さんも言ってた。焦る必要はない。俺のペースで考えていけばいいんだ)
すみませーん、と客の声がして、悠は胸の中のモヤモヤを振り払うようにそちらへと向かった。