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petite château  作者: 蓮水涼
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CHAPITRE I

 宮下悠という男は、どこにでもいる平凡な男である。

 黒髪黒目の薄い顔。運動も学力も平均的。

 そんな悠は、ショコラティエになるという夢を追いかけて製菓専門学校に通っている。

 せっかくの晴天を曇らせるような濁ったため息を、悠は空に向かって吐き出した。

 とても夢溢れる人間が吐くものではない。けれど、なぜ自分がショコラティエになりたいのか、最近はその理由を見失いかけている自覚があった。

(バイトまでまだ時間あるな)

 奨学金で学校に通う悠は、交通費も節約するため片道四十分の道のりを自転車で通っている。バイトは高校生のときからしていて、今も同じ店で働いていた。

 そこは老夫婦が経営するカフェで、店名は『petite(プチットゥ) château(シャトー)』。フランス語で小さなお城。でも夫婦は日本人。バイトが一人だけでも回せるほど、名のとおり小さなカフェである。

 家から近く、何よりここのスイーツはおいしい。その味に惚れて始めたバイトは、今や悠の唯一心安まる時間だった。

 早めに行って困ることはないだろうと、バイト先に向かう。

 最寄駅の大通りから一本、また一本と入ったところにひっそりと佇む英国式チューダースタイルの二階建て一軒家がシャトーである。

 一階がカフェ、二階が住居だ。剥き出しの柱や梁が特徴的で、いかにも女性受けしそうなかわいい外観。

 ただ、建物はイギリス風なのに、店名はフランス語というチグハグ。いつかイギリス人かフランス人に怒られはしないかと内心恐れていることは秘密である。

 その小さなお城に着く手前の最寄駅で、悠は自転車のブレーキをかけた。

 太陽が地平線へ帰り始める夕方は、朝の次くらいに人通りが多い。その中にあって、なのに埋もれない存在に悠は目を止めた。

 黒い髪。青い瞳。まるでラムネのビー玉のようだと思う。一つ一つの顔のパーツがはっきりしていて、ひと目で外国人とわかる風貌。でもそれだけなら今の時代、日本の首都ではそう珍しくもない。

 ただ、その顔が、あまりにも整っていて。

 薄手のコートに身を包み、傍らには黒のキャリーケース。駅前のベンチに座りながら憂いを帯びた眼差しで地面を見つめる様子は、さながら小雨の続く庭のように儚い雰囲気がある。道行く人が彼を盗み見ていた。

 悠は、道の端に自転車を停めると、一人だけ雨に降られている美貌の男の許に早足で近寄った。

「大丈夫ですか?」

 悠が彼に目を止めたのは、その類稀な美貌でも、外国人に興味を持ったからでもない。

 ただその男が、せっかくの美貌も台無しなほど青白い顔をしていたからだ。

「気分でも悪いんですか? っと、その前に日本語、わかります? 吐くならここ。ここに、オエって」

 自分でも酷い伝え方だと思ったが、それ以外に適当な言葉が出てこなかった。

 ちょうど持っていた使い古しのコンビニのビニール袋を広げて、ジェスチャーでこの中に吐けと伝える。

 男は突然現れた悠を見上げると、

「――オエエエェ」

 その美貌に似合わず、盛大にビニール袋の中に己の憂いを吐き出した。


 駅前のコンビニで水を買ってきた悠は、どうぞと美貌の外国人に手渡した。憂いの詰まった袋は、なんとか動けるようになった男自身が駅のトイレですでに処理している。口をゆすぎ、すっきりしたらしい彼は笑顔で悠に礼を言った。

「いやあ、本当に助かった! 礼を言うよ少年。不特定多数の不躾な視線には業腹だったが、君のような人間に会えたのは僥倖だった」

 悠は耳を疑った。目も疑った。業腹に、僥倖。見た目は文句のつけどころもない外国人のくせに、なんて難しい日本語を使うのだろう。むしろ悠は使ったこともない。

 ぽかんとしていたら、男が小首を傾げた。一拍置いて、「ああ」と察したように口角を上げる。眉をハの字に寄せる様はどこか皮肉めいていた。

「日本語なら難なく意思疎通が可能だ。おかげで通りかかる人間の言葉も理解している。憂い顔がたまらない? いつまでも見ていられる? 酷い話だ。私は今にも倒れそうだったというのに」

 人の不幸をうっとり眺めるなと、言外に非難する表情だった。

「助けてほしいとは言わないが、せめて観賞するなとは言いたかった」

 悠は重く頷いた。どうやらイケメンにはイケメンの苦労があるらしい。確かに逆の立場だったらと考えると、気分の悪いときにじろじろと眺められるのは嫌なものだと思う。

「まあ、下心を丸出しにして不必要に声をかけてこない分、日本はまだしも救いがあるが」

「えーと、日本人では、ないんですよね?」

「Je suis Francais」

「……フランス人?」

「ウイ」

 フランス語で「はい」と答えられる。

「それにしては日本語が上手ですね」

「祖父が日本人だからな。それでも不安はあった。私の身近な日本語話者は祖父しかいなかったから。私の日本語は、問題なく君に伝わっているか?」

「はぁ。びっくりするほど伝わってます」

「ならいい」

 少し偉そうな響きはあるものの、どこにもおかしなところはない。それどころか、日本語を話す外国人にありがちな独特のイントネーションもない。目を瞑って聞けば日本人と間違えることだろう。

 悠は改めて、そんな男を観察した。西洋人といえば金髪を想像するが、彼はさらさらの黒髪を風になびかせ、小さい頃太陽に透かしたビー玉のように透き通った青の瞳を細めている。

 これも勝手なイメージだが、西洋人なら髭が濃そうなものなのに、彼の場合はそれを剃った痕すらない。人類の神秘だ。目鼻立ちのきりっとした、美人を超えた美人。あまり人の美醜を気にしたことのない悠でさえ、何か感想を抱かずにはいられない容貌。

 まあ、だからといって、それがなんだという話ではあるのだが。

「じゃあ俺、このあと用事があるので失礼します。お大事に」

「待て。その前に、君はショコラティエか?」

 急な質問に心臓が跳ねる。あまりにも的中した質問だった。

 悠はショコラティエではないものの、それを目指す学生だ。が、初対面の彼がそんなことを知るはずもない。

 しかもそれは、今の悠にとって痛くもない腹を探られるような質問だった。ショコラティエを目指している、と堂々と答えるには、心はモヤに包まれている。

 そのまま黙っていたら、掴まれた腕をぐっと引き寄せられて男に距離を詰められる。首元に他人の気配を感じて咄嗟に相手の身体を押しのける前に、相手のほうが身を引いた。

「やはりだ。君からショコラの香りがする。ここまで香るということは、一日の大半はショコラに触れていたからだろう? 素晴らしい。甘く、苦味の少ない、ほのかに酸味の効いた香り……ああ、果物が混ざっているのか?」

 甘い。果物。そう聞いて、悠は今日の実習を思い出す。砂糖漬けのオレンジにチョコレートをコーティングする、オランジェットという菓子を作った。

 けれど、そんなふうに言われるほど匂いが染みついていたのかと、自分の腕を持ち上げて匂いを嗅いでみる。何も匂わない。

「俺、そんなに匂いますか?」

「ああ、最高の香りだ! 私はついている。助けてくれた恩人がショコラティエとは」

「いえ、違います。ショコラティエじゃないです」

 美貌の男は、じゃあなんだ、と言うように首を傾げた。

「あー、その、製菓系の専門学校に通ってるだけで……」

「つまり、ショコラティエの卵というわけか?」

 Tres bien! と男が瞳を輝かせる。悠は思わず後退りした。

「私はノア。ノア・ルフェーブル。君は?」

「えーと」

 正直、初対面で、しかも特に関係を築こうとも思っていない相手に答えたくはない質問だ。でも性分なのか、それとも国民性なのか、ノーと言えない悠は躊躇いがちに名乗った。

「宮下、です」

「ミヤシタ……prenom?」

「いえ、名前じゃなくて名字です」

「なんだ、君はフランス語がわかるのか」

「え、今俺、試されたんですか?」

「いや、つい出ただけだ。それで名前は?」

「……悠です」

「ハルカ? そうか、ハルカか」

「あの、あまり名前で呼ばないでください」

「なぜ?」

 悠は少しだけ視線を泳がせたあと、観念したように口を開いた。

「そんなに、好きな名前じゃないので」

 女っぽくて。とは、内心に留めておく。

「ふむ。漢字はどう書く?」

「え?」

「私は漢字も書けるフランス人だ。なかなかすごいだろう?」

「はあ」

 すごいと言えばすごいのかもしれないが、それを得意げに自慢されると反応に困る。しかもなぜ初対面の、それも今後会うこともないだろう外国人に漢字まで教えなければならないのか。

 悲しいのは、やはりここでも嫌ですと言えない自分の性格かもしれない。

「悠久の悠って言って通じますか?」

「馬鹿者。先ほど漢字も書けると言っただろう。わかる。なるほど、悠か。なら悠、君のショコラが食べたい。どこに行けば食べられる? 連れて行ってくれ」

「は?」

 何を言い出すんだ、この男は。悠はぽかんと口を開けながらそう思った。

 人の話を聞いていたのだろうか。

「俺はショコラティエじゃありません」

「聞いた」

「名前は好きじゃないと言いました」

「それも聞いた。君は私を金魚と勘違いしているのか? ああ、日本だと喩えるなら鶏だったか。三歩歩けば忘れるのだろう? どちらにしろ、心外だ」

 悠は、今初めて、たとえ言葉が通じようとも通じないものがあることを知った。

 これは逃げるに限る。道の端に停めていた自転車のところへダッシュした。

 どうせ一度しか会わない相手である。嫌われようが罵られようが構わない。因縁をつけるにしても、この広い世界、名前だけでは見つけられないだろう。

 自転車のスタンドを蹴る。片足をペダルにかけて、いざ漕ごうとしたとき。

「ちなみに、ここから遠いか?」

「は!?」

 ノアと名乗った男が、平然と悠の隣にいた。

「あまり運動はしたくない。見ろ、荷物もある。せめてゆっくり歩いてくれ」

「ならついて来ないでくださいっ」

 今度こそ自転車を漕ごうとしたが、服をがっしりと掴まれてしまう。振り払おうとするも、ノアはなかなかしつこかった。

「ちょ、放してください。警察呼びますよ!?」

「問題ない。私はやましいことなど何もない」

「あるでしょう! これ、この手! なんなんですかあんたは!」

「人酔いしたフランス人だ」

「はあ?」

 意味がわからない。悠はめげずにノアの手を引き離そうと奮闘する。しかしそれもお構いなしに、ノアは大げさに嘆いてみせた。

「君は知っていたか? 日本の電車は地獄だ。あんなに人が乗っているなんて聞いていない。もみくちゃにされた。鼻が死ぬかと思った。体臭、化粧、柔軟剤、付けすぎの香水――完全に香害だ。やはりタクシーにすれば良かった。ああ、思い出したらまた気分が悪くなってきた」

 ノアは手で口元を押さえると、本当に顔から色を失っていた。演技ではなさそうだ。どうやらこの美貌の外国人は、電車で酔ったらしい。確かに平日の夕方ならそれなりに混んでいただろう。

 しかし、それとこれとは話が別だ。

「だったらホテルでもなんでも行って、そこで休めばいいでしょう? 見た感じ観光客ですよね? なんで俺について来るんですか」

「観光客ではない。ワーキングホリデーで来日している。滞在先も親戚のところと決まっているが、今はそれよりも私自身の回復を優先する。端的に言ってショコラが食べたい」

「……もしかして、好きなんですか?」

「ショコラは私の人生だ!」

 思いもよらない熱をぶつけられ、悠は少しだけ目を瞠ったあと、すぐに半目になった。つまりあれだ。この外国人は、悠にチョコをねだっているわけである。コンビニかスーパーで買えよ、と思ったのは言うまでもない。

「言っておくが、すぐに手に入るようなものに今は興味がないんだ。私はショコラには味と香りを求めているんだが……たとえばそうだな、今は君の持つ明らかに手作りだろうショコラに俄然興味があるかな。それを譲ってくれるというなら、ここで別れても構わないが?」

 ニヤリ、とノアが上目遣いにこちらを見上げた。彼のほうが背が高いからか、わざわざ身を屈めながら。

 自転車のハンドルに引っかけていた紙袋を、悠は一瞥した。

「……犬ですか、あんたは」

「失礼な男だな。嗅覚が人より鋭いだけの、歴とした人間だよ。だがしかし、私を天使やら神やらに喩える阿呆どもは腐るほどいたが、よもや犬とは。世界は広いな!」

 なぜか嬉しそうなノアにちょっと引く。

「さあ、そうと決まれば最後まで面倒を見てくれよ、恩人」

 どこにこんな図々しい病人がいるのだろう。助けたことを少しだけ後悔しながら、せめてもの抵抗として悠は長いため息を吐き出したのだった。


 *

 

 紙袋の中のオランジェットは、家族のために残してあった。悠には十三も年の離れた妹がおり、彼女は悠の持って帰るお菓子が大好きなのだ。

 そしてバイト。学校を出たときは時間に余裕があったのに、急がなければあわや遅刻という状況に陥っていたことに悠が気づいたのは、紙袋を凝視するノアからそれを守っていたときだ。

 以上から、悠はノアを無視してバイトへ急ぐことにした。ついて来る彼を邪険にすることも、逆に気を遣うこともしない。

 そうしてなんとかバイト先に着いた悠は、隣で唖然と店を見上げるノアにげんなりとした視線をやった。まさか本当について来られるとは。彼の持つキャリーケースは見かけだけで、中身は空っぽなんじゃないかと本気で疑う。

「じゃ、俺はこれからバイトなんで、甘いものが食べたいなら中で買ってください」

 従業員用の裏口に向かおうとすると、またもや腕を掴まれる。

「ちょっと! 俺本気でやばいんですって。もうバイトが……」

「悠、ここが君のバイト先か?」

「そうですけど」

「君はフランス語がわかるのではなかったか?」

「え? いや、わかるって言っても、簡単なものしかわかりませんよ? 今の学校で習い始めただけなんで」

château(シャトー)が男性名詞だということは?」

「あー……、それは、まあ」

 そのひと言でノアの言いたいことを察した。店名のことだろう。

 フランス語の名詞には、面白いことに〝性〟がある。男性名詞と女性名詞。たとえば鉛筆は男性名詞で、消しゴムは女性名詞。不思議だ。何が男で女なのか、大まかな見分け方があるにはあるが、それでもわからないときはある。じゃあそういうときはどうすればいいのかと訊ねられたフランス語講師は、「辞書を引け」と身も蓋もないことを生徒に言った。

 しかし、その性の違いによって、名詞につく冠詞や形容詞が変わってくるのである。今回の場合はchateauが名詞であり、その前のpetiteが形容詞に当たるわけなのだが。

「嘆かわしい。petiteは女性名詞につくものだぞ。正しくはpetit(プチ)。petit châteauだ。信じられない」

 いつか母国の人に怒られはしないかと常々思ってきたが、やはり怒られるらしい。

 英国風の建物に、フランス語の店名。それはもちろんのこと、ノアの言うとおり、この店の名前はフランス語として間違っている。専門学校でフランス語を学んで初めて悠はその間違いに気づいた。

 気づいたところで、今さら指摘なんてできようはずもなかったが。

 ノアはなんの躊躇いもなくシャトーの扉を開けた。

「いらっしゃいませ」

 慌てて後を追う悠の耳に、この店で軽食作りを担当している老婦人の優しい声が届く。小野寺和恵(かずえ)。オーナーである小野寺正司(しょうじ)の妻だ。白髪は目立つものの、御歳七十二とは思えない健康の持ち主である。

「お一人様で――ってあら? あらあらまあまあ。懐かしいお客様だわ。もしかしてあなた、雄一郎ゆういちろうさんの?」

「ボンジュール、和恵。いかにも、雄一郎の孫のノアだ。覚えていてくれて嬉しいよ。再会を心から喜びたいところだが、それにはまだ私の心が整っていない。正司はどこだ。文句がある」

「あらまあ。やっぱりあなた、ノアなのね? 前に会ったときはもっと小さかったのに、こんなに大きくなっちゃって。美人さんに育ったのねぇ」

 穏やかに微笑む和恵と、不穏に微笑むノア。悠は絶句した。両者を交互に見つめては、声にならない驚愕を吐息と共にこぼす。

「あら、はるくんも一緒だったの? まあまあ、なんて偶然かしら」

「和恵、挨拶は後できちんとする。雄一郎から預かった土産も渡したい。しかし先に物申したいことがある。正司はどこだ」

「うふふ、お土産だなんて嬉しいわ。正司さんなら奥で休憩してるわよ」

「メルシー」

 フランス語でありがとうと返すと、ノアは和恵の指した奥へと遠慮なく突き進んでいった。

 客は二組だけ。どちらも突然現れた西洋美人に呆気にとられており、いまだにノアの消えた方を凝視している。できれば悠も一緒になって呆然としたかったが、仕事がある。

 何がなんだかわからないまま、とりあえず制服に着替えた。持参の黒のパンツに、支給されている黒のシャツ、同じく黒の長いソムリエエプロンを着用する。全身真っ黒だが、汚れが目立たないのでありがたい。

 着替え終わった悠がカウンターに戻ると、和恵がカウンター内にあるパイプ椅子に座って待っていた。地元民に愛されるこのカフェは、個人経営ということもあって自由度が高い。和恵が椅子に座ってのんびりとしていようが、客は何も言わないのだ。

「今日もよろしくね、はるくん」

 名前を呼ばれるのが苦手な悠だが、不思議とここのオーナー夫婦に呼ばれるのは嫌ではなかった。

「はい、こちらこそよろしくお願いします。でも和恵さん、和恵さんたちとあの人――ルフェーブルさんでしたっけ。お知り合いなんですか?」

「ええ。正司さんのお兄様夫婦のお孫さんよ。なんだったかしら、確かワー……ワーキュルデー? で日本に行くから、しばらく面倒を見てあげてほしいって、フランスにいる雄一郎さんから連絡があってね」

「たぶん、ワーキングホリデーだと思います」

「そうそう。そんな名前だったわ」

 どんなときもマイペースな人だ。

 ワーキングホリデーとは、その名前から想像できるように休暇を目的としながら一定の就労が許された入管法上の在留資格ビザの一つである。

 ワーキュルデーではどんな資格か想像もできないが、この抜けているところが和恵のかわいいところでもあった。

「はるくんにも紹介しようとは思っていたけど……ふふ。二人がさっそくお友だちになっててくれて嬉しいわ。どこで知り合ったの?」

「いえ、友だちというわけでは……」

 悠は駅であったことをそのまま伝えた。気分が悪そうだったノアを見かねて声をかけたら、なぜかチョコをねだられている現状を。

「まあ、そうだったの。あの子の身内としてお礼を言うわ。あの子を助けてくれてありがとう。じゃあ歓迎会にはチョコレートを準備しなくちゃね。あなたにはお礼としてケーキを包みましょう。もちろん、妹さんの分もね」

「いえ、お礼をされるほどのことじゃないです」

「気にしないで。渡すのは正司さんの作った新作ケーキなの。ぜひ味の感想を聞かせてちょうだい」

 そう言われては断れない。ここのオーナー夫婦は、こうやって何かと心を配ってくれるから悠はいつも感謝でいっぱいだった。ここに来るだけで日常で荒んだ心に優しさが戻る。

 そうして二人で店番を終え、閉店の十九時を迎えると、図ったように正司とノアが顔を覗かせてきた。

「二人ともお疲れ様。悪いな、任せきりにしちまって」

「いいのよ、正司さん。それよりお話は終わりました?」

「ははは! 終わった終わった。だがノアの日本語には驚かされたよ。喋り方が兄さんそっくりだ。あと、頑固なところも兄さんそっくりだ。店名を変えろとしつこかった」

「店名を変えろとは言っていない。余計なeを消せと言ったんだ。身内にフランス人がいるくせになぜフランス語を間違えるのか、全く理解できない。それと、頑固は否定するが、言葉は当然だ。私に日本語を教えたのは雄一郎だからな」

「ほんと、顔が似てないのが救いだよなぁ。これで似てたら兄さんに怒られてるようで身が縮む縮む。兄さんは強面だから特に」

 ははは、と正司が大口を開けて笑う。これが彼の通常運転だ。悠が惚れた繊細なケーキを生み出しているとは思えないほど、豪快豪傑ザ・適当人間である。

 背中をバシバシと叩かれているノアは、痛いと文句を言いながらも本気で怒っている様子はない。人柄だろう。和恵も正司も、この夫婦は不思議と憎めない雰囲気を持っている。

「で? ノアと悠が知り合いって聞いたが、そうなのか? おめえらいつのまに知り合ってたんだ。世界は案外ちっせぇなぁ」

 悠はソムリエエプロンを外しながら曖昧に微笑んで見せた。

 驚いたのは悠も同じだ。まさか助けた外国人が、バイト先のオーナーの身内だと誰が予想できるだろう。確かにノアは親族のところに滞在するとは言っていたが、その親族が純日本人の小野寺夫婦だとは思うまい。

 ただ。

「ルフェーブルさんは知ってたんですか?」

「何がだ?」

「俺のバイト先が、あなたの親族が経営しているところだと」

「まさか。君が私をここに連れてきたとき、私だって驚いたさ。だから確認したろう? ここが君のバイト先かと」

 連れてきたかどうかは措いておくとして、確かに確認された。あれはそういう意味だったのか。

「だが素晴らしい偶然だ! これで私は君のショコラを思う存分要求できるというわけだな」

「うわ……」

 遠慮がないにもほどがある。フランス人はみんなこうなのだろうか。いや、そんなことを言ったら他のフランス人に文句を言われそうだ。ただ単に彼が厚かましいだけのような気がする。

「なんだぁノア。おまえさん、そんなに甘いものが好きだったのか? だったら俺が作ってやるぞ?」

「ノン!!」

 あまりに力強い否定に、正司はもちろん、悠も目を瞬く。まるで仇敵を前にしたように憎しみすら込もった否定だった。

「違う。私は甘いものが好きなわけじゃない。そこは勘違いするな。香りを嗅ぎ続けるだけでも気持ち悪くなる。私が愛してやまないのは、ショコラ! のみ!」

「お、おぅ……」

 珍しく正司が迫力負けしている。悠もその気迫には押されたが、和恵だけは相変わらずのんびりと微笑んでいた。

「わかるか? あの気品ある香り、多様性に溢れた味。いつまでも食べていられる飽きのない芸術品! それがショコラ! ただ甘いだけのガトーとは全然違う!」

「ノア、おまえさん、俺がパティシエだって知ってて言ってんのか? 泣くぞ」

「私がこうなったのは誰のせいだと思っている。全て雄一郎のせいだ! 新作が出来上がるたびに食べろと口の中にガトーを放り込まれ、売れ残りがもったいないからとまた放り込まれ、しまいにはもっと食べないからそんな筋肉のない身体になるのだと放り込まれる始末……! 人の筋肉がガトーで作られてたまるか! 私は十分筋肉質だ。あれはテロ以外の何ものでもない。私が何度吐いたと思っているっ」

 それはテロだ。間違いない。悠は同情するように首肯した。

 隣にいた和恵が「雄一郎さんもパティシエなのよ」とそっと教えてくれる。なるほど、兄弟揃ってパティシエなのか。兄は渡仏し、弟は母国にほんに残ったという。

 すると、ノアが自分の身を守るように悠の後ろに回ってきて、盾よろしく両肩を掴んできた。

「そういうわけだから、正司、絶対に私の口にガトーを放り込んでくれるなよ。ガトーに興味はない。私の興味は、ショコラだけだ」

 まあ、と和恵が嬉しそうに声を上げ。

 そんなっ、と正司がショックを受けたように項垂れる。

 とばっちりを受けた悠だけが、真冬の半袖人間を見るように白けた目をしていた。


 petite(プチットゥ) château(シャトー)

 正しくは、petit(プチ) château。小さなお城。それは、ここが私たち夫婦の小さなお城だからよと、いつだったか和恵が教えてくれたことがある。ここはあなたのお城にもなったわねぇと、彼女は自分のことのように喜んでくれたが、早くもその城が崩れていく予感がして悲しくなる。

 ノア・ルフェーブル。

 話す日本語は偉そうで、無類のチョコ好きで、そのくせ異様に甘いものを嫌う風変わりなフランス人。

 はたして彼と良くなれる仲など存在するのだろうかと、悠はその日、考えすぎて風呂で溺れる羽目になったのだった。

 


 ***



 ノアが来日してから数週間が経った。その間に、悠にはわかったことがある。

 ノア・ルフェーブルという男は、祖父が日本人ではあるが、国籍はフランス。チョコ(ショコラ)が好き。ケーキ(ガトー)は嫌い。珈琲も嫌い。ただ珈琲の香りは好きという、なんとも面倒くさい人間。二十七歳。そして人より嗅覚に優れ、英語も話せるトライリンガル。

 他にも――。

「いらっしゃいませ」

「あらやだ! 本当にイケメンがいる!」

「でしょ~。だから言ったじゃないの」

「お兄さん外国の人? 日本語わかる?」

「ええ、わかりますよマダム」

「マダムだなんて、やだも~! なんだか貴婦人になったみたいね」

 平日に限らず、土曜日の午後も比較的主婦の多いシャトーは、最近ノアを目当てにやってくる女性客が増えている。

 どれも口コミだ。といっても、主婦の井戸端会議による口コミだが。おかげで客が押し寄せるほどでないのが救いだろう。駅から少し離れた立地も功を奏している。

 何はともあれ、彼の美貌は日本人女性にも通じる威力を持っているようだ。

 しかし悠は、一つだけ納得のいかないことがあった。

「やっぱりあんた、丁寧な日本語喋れるんじゃないですか」

 二人の女性客を席に案内してからカウンターに戻ってきたノアを、悠はじとりと睨みつけた。確か日本語は祖父から学んだ影響で、彼の口調のままにしか話せないと言っていたはずなのに。

「馬鹿者。私はフランス人だが、日本では客が神様だという文化は雄一郎から叩き込まれている。普段は話しにくいから話さないが、TPOくらいは弁えるさ」

 なんとも意外な。この外国人は、誰に何を言われようと己を曲げそうにないイメージだったが、祖父の弟夫婦の店をいたずらに荒らすことはしないようだ。

「私が来日すると決めたとき、雄一郎から鬼の講習を受けさせられた。何があっても笑顔、笑顔、笑顔。とにかくおまえは笑っていればなんとかなると言われ、困ったときは日本語がわからないフリをしてもなんとかなると言われたな。大方そのとおりだった」

 納得しながら首を縦に振るノアを見ながら、だろうなと悠も思った。人の美醜に興味のない悠から見ても、ノアの顔面偏差値は飛び抜けている。

 美人は得だな、と初日のノアを見ていなければ思ってしまったことだろう。

「それより悠、由々しき事態がある」

「なんですか。名前で呼ばないでください」

「逆に君は名前で呼んでくれ。名字は慣れない。それでだな、悠」

 結局呼ぶのか、とイラッとする。ここずっと名前で呼ぶなと何度も注意しているのに、ノアがそれを改めたことはない。

 そのくせ自分のことは名前で呼べと言ってくるのだから、なんて勝手な人間だろう。

「私はまだ、君のショコラを食べていない」

「三番テーブルのオーダー取ってきまーす」

「待て悠、まだ呼ばれてないだろう。なぜ逃げる」

 それさえ無視して、悠は先ほどノアが案内した女性客の許へと向かった。

 悠の予想どおり、唯一の憩いの場だったシャトーが最近はノアのせいで憩えなくなっている。

 あの風変わりなフランス人は呼ぶなと言っても名前を呼ぶし、どれだけ無視をしても悠のショコラを食べたいと口にする。じゃあそんなにチョコが食べたいのならと、百貨店で購入した有名ブランドのチョコを叩きつけてやったら、それはそれで喜んでいたのも気に食わない。もちろんお金は返してもらったが、つまるところ、おいしいチョコさえ食べられれば彼はなんでもいいらしい。

 その事実は、悠の心の柔らかい部分を無数の針で刺すようだった。自分の将来に悩み、本当にこのままショコラティエとしての道を進み続けたいのかわからなくなっている悠の心に、ぶすぶすと穴をあけてくる。そこから自信という名の空気が抜けていって、いつかはぺちゃんこの気泡緩衝材のようになるのだろう。

 わかっている。これは、八つ当たりだ。

「いらっしゃいませ。何名様で――」

 悠が三番テーブルのオーダーを取っていると、ノアがまた新たな客を迎えたようだ。

 しかし何名様でと聞こえた後から続かないノアの声に、悠は注文を取りながら訝しんだ。入り口に背を向けているから状況は見えない。何かトラブルなら助けるかと思案していた悠の足元に、不意打ちの衝撃が走る。

「お兄ちゃんっ」

 バランスを崩す。なんとか耐えて下を見れば。

「の、乃々《のの》!?」

 なんと、足に妹が抱きついていた。


 *


 店が落ち着いてきた頃合いを見計らってノアにホールを任せた悠は、従業員用の休憩室(バックヤード)で乃々と隣り合って座っていた。

 小さな木製テーブルには、和恵が出してくれたオレンジジュースがある。正司が気を利かせて差し入れてくれたクッキーもある。どれも乃々の好きなものだ。

 でもそのどれにも乃々は手をつけない。大きな瞳は涙に濡れ、声を出すことなく静かに泣いている。鼻水がしきりに垂れてくるのか、ズズッと何度も洟をすすっていた。

 この春に小学一年生になったばかりだが、乃々は決して泣き虫ではない。むしろ悠が心配するくらい泣かない。だから、こんな状態の妹に悠も動揺を隠せないでいた。

 そもそも今日は土曜日だ。両親が共働きの家庭とはいえ、今日は父母共に休みの日だったはずである。

 父さんと母さんはどうしたんだと思ったが、すぐに「ああ、だからか」と思い直す。

「乃々、落ち着いた? とりあえずジュース飲む?」

 乃々がこくりと頷く。子ども用のプラスチックコップを両手で持つと、ストローでごくごくとオレンジジュースを飲み始める。

 泣いたせいで喉が渇いていたのか、コップはすぐに空になった。

「ここまで一人で来たの?」

 ゆっくりと妹の背中を撫でながら、悠は優しく訊ねた。

 こくん。乃々がまた頷く。

「そっか。よく一人で来れたね。迷わなかった?」

 こくこく。今度は何度も頷いて、迷わなかったと一生懸命伝えてくれる。

「乃々は賢いね。よく頑張った」

 どうして妹が一人で冒険に出たのかわからないほど、悠は鈍いわけではない。

 少しだけ癖っ毛のある長い髪を撫でながら、悠は妹を抱きしめた。兄の温かい腕に包まれて、妹がまた涙をぼたぼたと零す。

 彼女が声を出して泣けなくなったのは、いったいいつからだったろう。悠にもわからないほど、彼女は必要のない急成長を遂げていた。

 それが悲しくて、やるせなくて、唇をぎゅっと噛む。

「あのね、ママとパパがね」

 しばらくして、乃々がぽつぽつと話し始めた。

「またね、ケンカしたの。のの、お兄ちゃんのおへやでね、こうやってお耳をふさいでたんだよ」

「うん、怖かったね。お兄ちゃんの部屋ならいつでも入っていいから。一人にしてごめんな」

「ううん、だいじょうぶ。だってね、にゃーさんがいるから。いつもは、にゃーさんといっしょにがんばってるの」

 にゃーさんとは、悠が乃々にプレゼントした猫のぬいぐるみだ。ぶすっとした顔で愛嬌の一つもない猫だが、なぜか乃々はそれがいいと言って聞かなかった。乃々の誕生日プレゼントだったので、本人がいいと言うなら、と贈ったのだが。

 乃々はそれを今も抱きしめて眠るくらい、大事にしてくれている。

「でもね、きょうは、いつもよりすごかったの。おっきな音がいっぱいしてね、ママ、ないてた。パパはおこってた。だからのの、こわくなって……」

 それきり、乃々は俯いたまま口を閉じる。

 両親の喧嘩は今に始まったことではない。悠が中学生の頃から喧嘩をするようになり、今では顔を合わせるだけでゴングが鳴る。

 悠がバイトをしているのは、学費を稼ぐためだ。

 でも本当はあの家から逃げたいだけではないのかと、置き去りにする乃々に罪悪感を持つこともある。

「乃々、今日は一緒に帰ろうか。お兄ちゃんの仕事が終わるまで、ここで待っててくれる?」

 そう言うと、俯いていた乃々がぱっと顔を上げた。

「うん、まってる! ののね、ちゃんといい子でまてるよ!」

 怖くて家を飛び出したと言う妹の笑顔に、悠の胸は今にも握り潰されそうだった。


 悠の家庭の事情を知っているオーナー夫婦は、快く乃々を預かってくれた。

 彼女が一人で家を飛び出したのはこれが初めてだが、悠が乃々をバイト先に連れて来たことは何度かある。わざわざ家の近くでバイトを探したのは、こういうときのためだった。

「なんだ、辛気臭い」

 ホールに戻ると、美貌の外国人が容赦ない感想をぶつけてきた。言われなくても自覚はしている。

「そういうあんたは無駄にキラキラしい」

「ほう、八つ当たりか。いいぞ、受けて立とう」

 言われて我に返った。

「すみません。今のは俺が悪かったです」

 自分の狭量さを恥じて謝ると、ノアが盛大に噴き出した。

「君は存外素直だな。別に構わないのに。子どもの癇癪を受け止めるのも大人の仕事だ」

「俺は子どもじゃないです」

 そう言うと、ノアが喉を鳴らして笑う。

 確かに二十七歳の彼から見れば、やっと二十歳になろうかという悠は子どもに見えるのかもしれない。

 でも悠だって、彼との間にそこまで歳の差を感じたことはない。ショコラショコラと恥も外聞もなくねだってくるからだろうか。

「悠」

 彼は懲りずに名前を呼ぶ。意味はないとわかっていても、いつものように咎める視線を向けようとして――顔の前にハンカチを突きつけられた。

 突然のことにびっくりしていると、そのハンカチから爽やかな香りが漂ってくることに気づく。その正体を探ろうとして無意識に深く息を吸った。

 酸味と、少し苦味のある香りだ。馴染みがある。さっぱりとしていて、鬱蒼とした気持ちがさあっと晴れていく香り。

「これって、レモンの匂い、ですか?」

「ウイ」

 ノアがそのままハンカチを押しつけてきた。顔面を潰してくる勢いだったので、渋々受け取る。

 彼は満足そうに仕事に戻っていったが、思案に沈む悠は動けなかった。これをどうしろと言うのだろう。ハンカチを渡された理由に見当がつかない。

 まさか、と思って自分の頬に触れてみたが、涙はない。鼻水だって垂らしていない。

「なんだったんだ……?」

 ノアが何をしたかったのか。わからなかった悠と、爽やかなレモンの香りだけがその場に取り残されたのだった。


 *


 あの日から、乃々が頻繁にシャトーを訪れるようになった。原因は明白だ。両親の喧嘩がエスカレートしているからである。

 事情を知るオーナー夫婦は、それでも嫌な顔一つせず乃々を歓迎してくれる。悠としても幼い妹を家に残さずに済むのはありがたいことだった。

 ただ、一つだけ不満を漏らしていいのなら、あの風変わりな外国人に声を大にして言いたいことがある。

 ロリコン滅びろ、と。

「はいノア、あーん」

「あーん」

「っじゃないですよ何してんですかあんたは!」

 今日は平日だが、悠がバイトの日だけ乃々はシャトーにやって来る。彼女もまたシャトーを避難場所と認定したのだろう。

 最初は、学校が終わって帰宅した乃々が一人でやって来たという。いつもどおりバイトに来た悠は、いるはずのない妹を抱っこするノアを見て危うく通報するところだった。

 そうして今に至るのだが、さすがに一人でシャトーに来させるのは心配だった。両親も心配し、なんとかやめるよう説得したが、乃々は弱々しく首を振るだけ。

 それを見かねてある提案をしてくれたのが、なんとノアだった。

『では、私で良ければ私が学校まで乃々を迎えに行こう。家を教えるのは抵抗があるだろうが、学校ならまだ抵抗も少ないだろう?』

 悠を見てくすくすと笑うノアは、おそらく最初に出会ったときに悠が名前を教えるのを躊躇ったことを揶揄ったのだろう。

『それに、私の身元は明々白々であり、かつ私は暇人だ。こんな適任もいないと思わないか?』

 優しく諭すような声に、ムッとした心が萎んでいく。こちらの事情なんて何も知らないはずなのに、何を訊ねることなく、一切の迷いもなくそう言った彼に、このときの悠は胸を詰まらせながら首を縦に振った。

「何って、乃々から夕飯を食べさせてもらっているだけだが?」

「自分で、食え」

「乃々、君の兄は怖いな。心が狭い。こういう男には引っかかるなよ」

 何がこういう男には引っかかるなだ。あの提案を受けたときは少しばかり感謝したが、やっぱり気の迷いだった。

 しかし残念なことに、乃々はノアを気に入っている。人見知りの彼女だが、人間離れした美貌を持つこの男を綺麗なお人形さんだと思っているらしい。

「お兄ちゃん、ノアとケンカしたの?」

「いや、そういうわけじゃないけど」

「ケンカはだめだよ。あのね、ケンカするとね、ここがジンジンするんだよ。だから、なかなおり、してね」

 乃々がジンジンすると言って押さえたのは、人体の胸にあたる場所だった。両親の喧嘩する姿を見て彼女自身が痛みを覚えた場所なのだろう。

 乃々の悲しむ姿に、悠は弱い。

「……大丈夫。俺とこの人のは、別に喧嘩じゃないよ」

「そうなの?」

「そうだぞ、乃々。なにせ私と悠は名前を呼び合う仲だからな。日本では互いを名前で呼び合うのは、仲の良い者だけだと聞いた。そうだろう? 悠」

 くく、と意地悪く笑う男が心底憎たらしい。できれば「ふざけんな」と叫んでやりたいが、悠にそんなことができないことをノアは知っていてやっている。

 その綺麗な顔をぶん殴ってやりたい衝動をなんとか抑えて。

「ええ……そうですね……っノア」

 渋々、嫌々、苦虫をこれでもかと噛み潰したように、悠はノアの名前を呼んだ。


 *


 バイトが終わるタイミングを待っていたのだろう。閉店の十九時を過ぎてすぐに悠のスマホが着信を知らせる。母だ。パートとして働く母もまた、仕事が終わったのだろうか。

 悠は一度外に出てから、通話ボタンをタップした。

「もしもし」

『もしもし悠? バイトは終わった?』

「ちょうどね。そっちも?」

『少し前にね。乃々と一緒に気をつけて帰ってきなさいね』

「わかってる。それで、何かあった?」

『それがね、聞いてよ。さっきあの人から電話があって』

 その瞬間、また父の愚痴か、と悠は内心でげんなりした。

『今度会社でゴルフがあるから、新しいクラブを買ったって言うのよ。私が怒るのわかってるから電話で言ってきたのよ? しかも全部で十万。もう頭にきて。うちにそんな余裕はないって言ったら、あの人なんて言ったと思う? おまえのやりくりが下手だから金がないんだろって言ってきたの!』

「またそんなこと言ったんだ」

『酷いでしょ!?』

 悠は、自分の心が冷めていくのを感じていた。こうやって母の愚痴を聞くのはもう何度目だろう。

 傍若無人な父は、少しも家庭の金銭状況を考えない。しかも一つの火種をきっかけに過去のことまで掘り下げて口撃するから、モラハラもいいところだ。

 だから悠は母の愚痴を受け止めていた。母にも吐き出す場所が必要なんだとわかっているから。

 けれど、それが何年も続くと、さすがに悠だって嫌になることがある。

 父の暴言は酷いと思う。母の怒りも尤もだと思う。ただ、本気で母に同情できない自分もまた、酷い人間だと思っている。

 母の愚痴を聞くときは、いつも耳に一枚の透明な幕が張られているような感覚がする。

「わかった。俺からも父さんに言っておくよ。それでいい?」

『……ごめんね、いつも聞いてもらって。こんなこと、子どもに言うことじゃないってわかってるのに』

「別にいいよ。俺に言うくらいは。乃々の前じゃなければね」

『そうね。あの子にも本当に……。やっぱり離婚したほうがいいのかしら』

「……」

 悠は答えない。答えても、結局母が離婚しないことを知っている。

 というのも、いつだったか母が「乃々が、ね」と口を滑らせたことがあるからだ。乃々がいるから離婚できない。

 でも悠は、そんなことを言うくらいなら離婚してしまえと叫びたくなった。

 離婚したいのにしない理由を乃々のせいにするくらいなら、さっさと離婚すればいいと思った。

 そうしたら愚痴を聞かずに済むし、毎日喧嘩をする両親を見ずに済む。ひょっとしたら乃々もそのほうが心穏やかかもしれない。

 経済的なことと、精神的なこと。どちらを優先するかは人それぞれだ。

「ごめん。そろそろ切るよ。いつまでも残ってたらバイト先に迷惑だし」

『ああ、それもそうね。ついカッとなって電話しちゃった。ごめんね。今日は乃々の好きなハンバーグだから、楽しみに帰っておいでって伝えといて』

「ん、わかった」

 通話を切る。長めのため息を空に向かって吐き出した。呼吸が苦しい。そう思うのはどうしてなのか。身体はいたって健康的で、人生のどん底のような目に遭ったわけでもないのに。

「お兄ちゃんおそーい。どこいってたの?」

 店内に戻ると、乃々が待ってましたと駆け寄ってきた。ソムリエエプロンを外したノアもいる。悠が外で電話をしている間、面倒を見てくれていたのだろう。意外と彼は面倒見がいい。

「すみません。乃々を見てもらっちゃって」

「気にするな。店の片付けより魅力的だった。それだけだ」

 悠の目が一瞬で据わる。やはりこいつロリコンか、と警戒した。

 ノアはそんな悠を面白そうに眺めたあと、ふと真顔に戻って首を傾げた。そのままじ~っと観察してくる。

「なんですか?」

 じろじろと見られるのは慣れていない。

「悠、由々しき事態だ」

「またそれですか。チョコは作りませんよ」

「違う。いや、諦めたわけではないが。君は自分で思うよりわかりやすい人間だと自覚したほうがいい」

「はあ?」

 いきなり何を言い出すのか。騙し討ちのように連れて行かれた合コンで店員をナンパする男を見たときと同じくらい、意味不明だと思った。

 すると。

「何がいいかな。好みがわからないが、手持ちも少ないし、無難なのでいいか」

 一人納得して店の奥に消えるノアを、悠は釈然としないまま見送る。

 戻ってくるかもわからない彼を待つつもりはないので、すぐに更衣室で着替えを済ませると、乃々と手を繋ぎ、正司に挨拶をするためバックヤードへ向かった。

「正司さん、お疲れ様です。お先に失礼します」

「おう、今日もありがとな。乃々ちゃんもまたな」

「うん。おじさん、バイバイ」

 和恵と正司にはまだ完全に慣れていないのか、乃々は悠の後ろから顔を出してそう言う。

 それでも、ちゃんと挨拶ができるだけマシだ。他の人ではこうはいかない。

「待て悠、なぜさっさと帰ろうとしている」

 そのとき後ろから声をかけられ、振り向くと嘆息するノアがいた。

「おお、ノア。ノアもお疲れさん。今日はもう上がっていいぞ」

「安心しろ正司。言われなくても時間外労働はしない。それより悠、これを」

「?」

 手渡されたのは、ガラス製の小さなアトマイザーだった。

 同級生の女子が使っているのを見たことがある。その女子に好意を持っていた友人の一人が話しかける口実として訊ねたところ、香水を纏うためのスプレーだと教えてくれた。

 そんなものを、なぜ今、自分が差し出されているのだろう。

「まさかですけど、これ、俺に?」

「そうだが?」

「え、本気で?」

 男から推定香水をもらっても嬉しくもなんともないのだが。

「だってこれ、香水ですよね?」

「ほう。それくらいは知っていたか。だが残念、香水ではない。これは精油(エッセンシャルオイル)――正しくは、精油を用いて作ったアロマスプレーだ」

 もっと意味がわからなくなった。香水も精油も、悠には馴染みがない。

 こちらの様子からそれを察したのだろう。ノアが続けた。

「精油というのは、植物から抽出した天然のオイルのことだ。香水よりも香りが柔らかいから君にも馴染みやすいはずだ。特にラベンダーは今の君に効果的だろうな。まあ、合わなかったら捨ててくれればいい」

「ラベンダーが? っていや、そんなことよりなんで……」

「言ったろう? 君はわかりやすいと。帰宅してから鏡を見るといい。面白い顔が見られるぞ。それは眠るときにでも枕に吹きかけて使ってくれ」

 それだけ言うと、ノアは役目を果たした配達人のようにさっさと二階に上がって行ってしまう。

 手に収まるアトマイザーが、小さなびっくり箱に思える。中身がわかっていてもノアの真意がわからないからどうしたものかと困惑する。

「悠、それ、もらってやってくれ」

 一部始終を見ていた正司が困ったように微笑んで言った。

「あいつは兄さんによく似てるんだ。言っておくが喋り方のことじゃないぞ? 義理を重んじるっつーかな。だからそれは、あいつなりの恩返しなんだろう。来日初日のノアを助けてくれたのはおまえさんなんだろ?」

「助けたってそんな……ビニール袋をあげただけですよ?」

「だけじゃなかったんだろうなぁ、あいつにとっては。いや、だけだったとしても、あいつも少し複雑な家庭で育ってるから、似たものを感じ取ったのかもしれない。放っておけなかったんだろうよ」

 ドキリとした。正司には家庭の事情を知られているとはいえ、起こったことを逐一報告しているわけではない。それでも正司は、息がしづらくなっている今の悠を全て見透かすように続けた。

「無理に話さなくていいんだ。でも俺も、和恵も、あとノアも。みんなここにいる。みんなここで、おまえさんを待ってるよ」

 だから好きなだけここに来るといい。バイトがあってもなくても、好きなだけ。ここはおまえさんの城でもあるのだから、と。

 和恵にも、似たようなことを言われたのを思い出す。

 ――〝ここは、あなたのお城にもなったわねぇ〟

 込み上げそうになるものを、ぐっと呑み込んだ。

「ねぇ、ののも。ののも、お兄ちゃんをまってるよ!」

 ぐいぐいとズボンを引っ張られる。乃々に視線を移すと、一心に見返された。

 平日は乃々のほうが早くシャトーに来ているから、おそらくそれを勘違いして言ってくれているのだろう。

 わかってるよ。ありがとう乃々。そう伝えたいのに、口がうまく動かない。

「ははっ。そうだよなぁ、乃々ちゃんを仲間外れにしちゃあ、いけねぇよな」

「ののも、いい子で、まてるもん」

 正司がくしゃりと乃々の頭を撫でている。ちょっとだけ怖々とした様子を見せているけれど、乃々は拒絶することなく受け入れている。

 胸に、熱いものがじんわりと広がった。

「でも……なんで、これなんですかね」

 もらったものに不満があるわけじゃない。ただの純粋な疑問だった。人から精油をもらうなんて初めてだったから。

「そりゃあ、それがあいつの十八番おはこだからだよ」

「十八番?」

「なんだったかなぁ。兄さんから聞いてはいたんだが……ほらあれだ、香りを作る仕事ってなんて言うんだ? 女がつけてるやつ、香水。あれを作ってる仕事だ」

「もしかして……調香師ですか?」

「おお! たぶんそれだ!」

 なんとも珍しい職業である。

 悠自身も調香師の何たるかは知らないが、数年前、偶然テレビで珍しい職業特集をやっていたときに紹介されていたのを観たことがある。

「え、あの人、調香師なんですか?」

 遅れて驚きがやってきた。祖父兄弟がパティシエだったから、てっきり彼も似たような仕事に就いているものだとばかり思っていた。

「そうだそうだ、調香師。あんまり日本で馴染みがねぇもんだから、ど忘れしてたよ。あれ、でももうやめたんだっけか?」

 正司のひとり言をなんとなく聞きながら、悠はもう一度アトマイザーを眺める。調香師なんて初めて会った。香水を作る仕事。

 その割には、彼自身から香水の香りを感じ取ったことがないことに気づく。

(もしかして、香りが混ざるから?)

 ここはカフェだ。わざわざ何かの香りを演出しなくても、常に何かしらの香りに包まれている。

 ケーキの甘い香り。紅茶の芳醇な香り。珈琲の深く渋みのある香り。それらが反発することなく調和して、優しく温かい空間を作り上げている。

 それを、阻害しないために。

 甘いものは匂いからして苦手だと言った、あの男が。

 そのせいでたまに顔色を悪くしている、あの男が。調香師だというあの男が。

 店のために、香水を遠ざける。

 あの風変わりなフランス人は、意外なところが多すぎて調子が狂う。

「……あの人には今度、お礼を言っておきます」

 悠が気まずそうにそうこぼすと、

「ああ、ぜひそうしてやってくれ」

 正司がにかっと歯を見せて笑った。


 *


 その日の夜、悠はベッドで仰向けになりながらスマホで検索をかけていた。

 ――調香師。

 食品や香粧品の香料を調合する職業。食品香料(フレーバー)を調香する調香師をフレーバリストと言い、香粧品香料(フレグランス)を調香する調香師をパフューマーと言うらしい。さすがネット社会。なんでもすぐに調べられる時代だ。

 とするならば、香水を作ると聞いた彼は、パフューマーに当たるのだろう。

 そういえば、と悠は思い出す。彼に無理やり押しつけられたハンカチには、レモンの爽やかな香りがした。あれのおかげで沈んでいた気分が晴れたのだが、意地とか恥とかが邪魔をして彼にお礼を言いそびれている。

 もちろんハンカチは洗って返したけれど、あの香りもまた、彼なりの気遣いだったのだろうか。

 今度は「レモン」「ラベンダー」「効能」と入力して検索する。

 レモンとラベンダー、それぞれの香りの効能について書かれた記事がいくつもヒットした。

 レモンは心をリフレッシュさせてくれて、明るい気分にさせてくれる。

 ラベンダーは心をリラックスさせてくれて、不眠やストレスを解消してくれる。

 悠は、スマホを力なく放り投げた。両手の甲で目元を覆う。なんなのだろう、あの外国人は。

「だから、苦手なんだよ……」

 この心の葛藤を、醜さを、自分でもわからない何かを、彼には見透かされているような気がして。

 まだ出会ってひと月も経っていないのに。図々しくチョコをねだるだけの、それだけの存在でいてくれれば良かったのに。

 愚直にも枕に吹きかけていたラベンダーの香りが、痛いほどの安らぎをもって悠の胸を満たしていた。



 ***



 翌日。せっかくの金曜日だというのに、悠の気分は憂鬱に塗れていた。

 いつものこととはいえ両親は朝から喧嘩をするし、いつもより口論が激しかった。乃々にだけ行ってくると告げて家を出たのは数時間前のことだ。

 けれど、憂鬱の原因はそれだけではない。

 眠れてしまった。それはもう、ぐっすりと。夢すら見ることなく。

 普通なら嬉しいはずのそれは、悠を複雑な気分にさせる。なんとなくノアにしてやられた感が否めない。

(あれはラベンダーが良くなかった)

 香りで気分を整えることを芳香療法(アロマセラピー)と言うことは悠も知っていたが、ノアからもらった香りはまさにそれだった。さすが調香師。香りの専門家だからこそ、その効能を利用することなど朝飯前なのかもしれない。

 自分の体調を彼に見抜かれたことが妙に悔しくて、悠は眉間にしわを寄せる。

「おはよ~宮下。朝から怖ぇ顔してんなぁ」

 教室に入ってすぐに声をかけてきたのは、同じクラスの立花たちばな竜二(りゅうじ)だ。何を気に入られたのか知らないが、よく悠に絡んでくる同級生である。いわゆるヤンチャ系の見た目をしているが、笑うと覗く八重歯がかわいいと同級生女子に人気の男だ。

「おはよう。顔は生まれつきだから突っ込むな」

「いやいや、おまえ元々の顔は全く怖くねぇからな? なに、なんかあった? いややっぱ待て、言わなくても俺にはわかる。どうせあれだろ、今日のフラワーデザインの授業だろ。意味不明だもんな、あれ。わかるわ~」

 なんか勝手に理解されたが、面倒なので訂正はしない。

「いや、さすがの俺だってあの授業の趣旨は理解してるよ? 俺たちにとって感性は大事だからな。それを鍛えようって魂胆だろ? でもさ、人間誰しも得意不得意があると思わね?」

 一人で話し続ける竜二に適当な相槌を打っていると、ポケットの中のスマホが振動した。学校だったので最初は無視していたが、何度も振動するそれを不思議に思って画面を確認する。母からの着信とLINEだった。――乃々がいなくなったの。学校に来てないって連絡が。ないとは思うけど、そっちに行ってない?

 鞄を引っ掴む。

「え、宮下!? もうすぐ先生来るぞ!?」

 どこ行くんだ、と背中に飛んでくる声を無視して、悠は五階から階段を駆け下りた。右手でスマホをタップすれば、ツーコールのあと繋がる。

「もしもし母さん? どういうこと、乃々がいなくなったって」

『それが私にもわからないの。今朝小学校から連絡があって。とにかく今、先生と一緒に捜してるところ。そっちには来てない?』

「来てないよ。さすがに乃々には遠いだろ。父さんには?」

『電話したけど繋がらないのよ。こういう肝心なときにはいっつもそう』

 仕事だから仕方ないのだろうが、それでも悠は舌打ちした。

「わかった。俺も捜す。俺のバイト先には連絡した?」

『まだだけど……そうだわ、そこもあったわね。気が動転してて……なんで思いつかなかったのかしら』

「じゃあ俺が電話で確認してみるから、母さんはそのまま捜してて。ちなみに今どこ?」

『今は通学路の途中。家の近くとか、学校の近くを捜してるところよ』

「わかった。見つけたら連絡する」

 通話を切ると、悠はすぐにシャトーの番号を電話帳から呼び出した。駐輪場ではなく最寄りの渋谷駅に向かう。コール音が何回か続いたあと「petite châteauです」と本場の発音が応えてくれた。

「もしもし、宮下です。営業中にすみません」

 悠? と穏やかな低音が耳に響く。

「急にすみません。そっちに乃々が行ってませんか? 捜してて」

『乃々? 来ていないが……まさか行方不明なのか』

 ああ、なんて勘のいい男だろう。緊張を孕む声は、事態の深刻さまで理解しているようだった。

 駅の自動改札機にSuicaをかざす。

「いえ、来てないならいいんです。確かめたかっただけですから」

 でも、シャトーにも行っていないとなると、それこそ乃々の行方に心当たりがなくなってしまった。嫌でも頭を過ぎる最悪の事態に、心臓が変に速度を増していく。

 この後はどうすればいい。どこを捜せばいい。とりあえず電車に乗って、家とシャトーの最寄駅まで行けばいいのか。でもシャトーには来ていなくて、家の近くにもいないのに、はたして行く意味はあるのだろうか。万が一乃々が誘拐でもされていたら、犯人はどこに向かうものなのか。

『……るか』

 呼吸が乱れる。耳の奥で心音がうるさい。電車は――。

『悠っ! 私の話を聞いているか!?』

 その瞬間、ゴウッと急に現実が戻ってきた。

 風の音。人の声。電車が加速していく音。

 聞こえていなかったわけではないのに、幕を張ったように遠くに聞こえていた雑音がノアの声でクリアになった。まもなく電車が到着するというアナウンスもしっかりと耳に届く。

 どうやら通話を切り忘れるほど気が動転していたらしい。

『落ち着け、悠。基本的だが深呼吸をしろ。しながら聞け』

 相変わらず偉そうな日本語だが、今はそれも気にならない。

『今の状況を整理しよう。乃々がいなくなった。君がここに乃々の在店を確認してきたということは、学校と家、その周辺も含めて捜したが見つけられなかった。あるいは捜索中だ。それは学校の教師か君の両親あたりが担当しているのだろう。君自身は今、渋谷駅にいる。間違っていれば訂正を』

 悠は首を横に振った。何も説明していないのに、どうして彼はそこまで言い当ててくれるのだろう。おかげで説明の手間が省けた。今の状態でどこまで正確に説明できるか自信がなかったから、ありがたすぎて涙が出そうだ。

「っにも……何も、間違ってないですっ」

 縋るような声が出てしまったのは、自分と違って冷静沈着なこの男に頼もしさを感じてしまったせいだろう。

 あの家では、誰よりも悠が頼もしく在らねばならなかった。父も母も頼れない。自分が妹を守らなければ、しっかりしなければと、常に気を張っていた。

 その、反動が、今。

『なら、君はそのままシャトーに来い。その間にシャトーの周辺は私が捜す。それからのことは会って決めよう』

「……わかりました」

 通話を切ったタイミングで、ちょうど電車が滑り込んできた。心は不安に塗り潰されているものの、焦燥感は少しだけ和らいでいる。

 誰かを頼ることがこんなにも心を軽くするのだと、久々に思い出したような気がする。

 悠がシャトーに到着したとき、ノアは店の前で待っていてくれた。

「行くぞ」

「行くって、どこにですか。シャトーの周辺にはいなかったってことですか?」

「ああ。だからこそ、一か所だけ心当たりがある。そこにもいなければ警察に連絡しよう」

 悠は目を見開いた。母にも、悠にも思い当たらない場所を、知り合って間もない彼が知っていると言う。

 やがて辿り着いたのは、小学校とシャトーを結ぶ道中の近くにある、一つの洒落た店だった。ショコラティエ・ヤザワ。グレーのオーニングに筆記体でそう書かれている。全面ガラスウィンドウで、中の洗練された雰囲気が店の外にも伝わってくる。大人の女性をターゲットにしていそうな店だ。

 その店先に、不釣り合いなほど幼い少女が一人いた。

「乃々!」

 悠は思わず叫んで、ノアを追い越して駆け寄った。

 そんな悠に気づいた乃々は、怯えの表情から一転、ぱっと顔を輝かせる。

「お兄ちゃん!」

「乃々、乃々っ。良かった……本当に良かった……!」

 小さな身体をぎゅっと抱きしめる。無事を確かめるように強く、強く。

 後から来たノアがスマホで和恵と正司に連絡する声を聞きながら、悠はぼんやりと母にも連絡をしなければと思う。

 でも今はまだ安堵がまさってしまい、抱きしめる乃々を離せなかった。乃々もまた、悠を離すまいと必死にしがみついてくる。首の後ろに回る小さな手が、感じたこともないくらい震えていた。

 だから悠は、今はただただ、その小さな身体を労わり続けたのだった。

 

 *


 それからノアが代わりに母に連絡を入れてくれたので、シャトーで待ち合わせることになった。

 家にしなかったのは、乃々本人が嫌がったからだ。見つけてからずっと、乃々は悠から離れようとしない。必死に首にしがみついて、言外に抱っこから下ろさないでと言われているようだった。

 和恵と正司が二階のリビングを貸してくれたので、おそらく第三者がいたほうがいいだろうと言うノアも一緒にこの場にいる。

「悠、乃々が見つかったって――乃々っ!」

 階段を上がってくる音から、母が来たことはわかっていた。

 強く名前を呼ばれたからか、乃々がびくりと反応する。

「乃々、いったいどこに行ってたの。お母さんもお兄ちゃんも心配したんだからね。学校の先生だって一緒に捜してくれたのよ。急にいなくなったらだめじゃない」

「母さん、ちょっと落ち着いて。乃々が怖がってるから」

「でも本当に心配したのよ。誰かに連れ去られたんじゃないかって。見つかって本当に良かった……。でもね乃々。みんなに迷惑をかけたことは、いけないことよね。それはお母さん怒るわ。わかるでしょ?」

「だから、お願いだから落ち着いて。頼むから今説教なんてしないで」

 心配していたのはわかる。だからこそ怒るのもわかる。学校をさぼったことも、いけないことと言えばいけないことなのだろう。

 でも、そうやって大人が頭ごなしに怒るから、子どもは言いたいことも言えなくなるのだ。身体中を引っ掻きたくなるほどの激情の鎮め方を、子どもはまだ十分に知らないから。

「悠、怒りたくない気持ちもわかるけどね、子育ては厳しくしないといけないときもあるの。甘やかしてばっかりじゃ、将来困るのは乃々なのよ。いけないことはいけないって言ってあげるのも優しさなの。わかるでしょ?」

 そのとき、悠は明確な怒りを覚えた。

 これまでどれだけ両親が喧嘩しようが、たまに手を上げられようが、悠は怒ったことなどなかった。

 怒るというのは、意外と体力と気力を使うものだ。

 でも悠はここにきて初めて、自分が本当はずっと怒り続けていたことを知った。

「……っにが、優しさだよ」

 濁流のように喉元まで押し寄せてくるこの怒りは、今生まれたものではない。新鮮な卵が水に沈むように、生まれたばかりの怒りなら、きっと悠は沈めていられた。

 けれど、腐った卵が水面を目指して浮かぶように、長い時間溜め込んだ怒りはもう水底に沈め置くことはできなかった。

「母さんの言うその優しさがっ、今の乃々を傷つけてるってなんでわからないんだよ! 心配したって言いながら頭ごなしに怒って、なんで乃々に訊いてやらないんだ。何があったのって、そのひと言だけでいいのに!」

 こんなに感情のコントロールが効かないのは久しぶりだ。

 だって震える小さな手が、守ると決めた幼い手が、今、他の誰でもない自分に縋っているから。

「母さんは父さんの悪口をよく言うけど、俺と乃々からしたらどっちもどっちだよ。二人とも俺たちのことなんて考えてない。今日だってそうだ。また喧嘩して……俺はいつも先に学校に行くから知らなかったけど、そういう日、乃々は一人で家を出るんだってな。行ってきますって言っても、行ってらっしゃいって返さないんだろ? そんなのほぼ毎日一人で家を出てるようなもんだよ。そんなこと、俺は今日まで知らなかった。わかるか、母さん。乃々は一人で耐えてたんだよ。俺にも言わなかったんだ。ただでさえ親が共働きで、俺だって満足に一緒にいてやれなくて、乃々には寂しい思いをさせてた自覚があるのに、なんで両親が揃ってるときにまで寂しい思いをさせてんだよっ。おかしいだろ、そんなの……っ」

 吐き出して、吐き出して。

 今まで溜め込んでいたものを全て、一欠片も残さないように。

 我慢したって意味がないと、気づいたのなら。

「乃々だってみんなを困らせようと思ってこんなことをしたんじゃない。登校中、手を繋いで歩いてる親子を見たんだって。お父さんとお母さん、三人で笑って歩いてたらしいよ。それを見て……会いたくなったんだ」

 会いたくなった。自分の家族に。

 でも、そのとき乃々が思い浮かべたのは、喧嘩ばかりしている父と母ではなく、悠だったらしい。

 バイトでいないときもあるけれど、乃々にとって悠はいつも優しくて、甘えられる存在だった。

 ――お兄ちゃんに、あいたい。

 乃々はシャトーに向かうことにした。学校からシャトーまでの道を彼女は覚えていたのだ。迎えに来たノアと歩く、彼女にとっては短くはない道のりを。

 それはどれだけの冒険だっただろう。それでも歩くと決めたのは、どうしても今、兄に会いたかったからだと彼女は言った。

 ただ、その途中で乃々が足を止めたのは、風に混ざってどこからともなく流れてきた悠と同じ香りのせいだった。

 そうして自分の鼻を頼りに進んだ結果が、あのチョコレート専門店(ショコラトリー)だったのだ。

 幼い乃々には、ガラスの窓から見える店内のチョコが悠のチョコに見えたらしい。悠が実習で作るたびに持ち帰ってくる、宝石のようなチョコレートに。食べると口いっぱいに甘さと幸せが広がる、特別なチョコレートに。

 それでも人見知りの乃々は、店内に入る勇気はなかった。

 代わりに、その香りを堪能するためにじっと店先に佇んでいたという。その香りに包まれるとまるでお兄ちゃんに抱きしめてもらっているようだったからと、乃々はしょんぼりと打ち明けた。

「これで乃々を怒れって? 怒れるわけないだろ。俺が怒るなら、父さんと母さん、それと俺自身にだよ。大人が三人もいるくせに……ほんと、何やってんの、俺たち」

 些細なことで怒鳴る父。離婚できないことを子どものせいにする母。そんな両親と向き合わず、面倒くさいと諦めた兄。

 三人が三人とも、自分のことで精一杯だった。一番守られるべき幼い乃々を、誰も本当の意味で思いやってあげられなかった。

「悪いけど、乃々が落ち着くまで俺たちはここにいるから。オーナーにも許可はもらってる。だから先に帰って。そんで、父さんと本気で話し合ってきて」

 母は泣いていた。その泣き方が乃々と同じで、悠の胸が小さく痛む。

 乃々も、母も、泣き喚けばもっと相手を怒らせるだけだと知っているから、そんな泣き方をするのだ。母は結婚してからそんなふうになったのだろうか。確かなことは、乃々がそういう泣き方をするようになった原因が父だということだ。

 憎めはしないけれど、尊敬もできない父のようには、なりたくないと思っていた。

 でも母にそんな泣き方をされると、まるで自分が父のようになってしまったような気がして母の顔が見られなくなる。

 悠が本気で怒らないのは、面倒だからということもあるけれど、その根底には怒ることを恐れているからでもあった。

 気まずい空気が流れる。母も悠も、互いに目を合わせない。

 乃々が恐る恐る悠の顔を覗き込んだ。母と兄の喧嘩が終わったと思ったからだろう。それから母の様子も確認して――乃々の顔が、くしゃりと歪んだ。泣き出す一歩手前。なんとか泣くまいと堪えた顔をして……。

「いえ、息子さんと娘さんですが、今日はこちらに泊まらせます」

 今まで空気に徹していたノアが、そこで初めて口を挟む。

「外野から失礼します。ですが、今は互いに考える時間が必要でしょう。幸い明日は土曜日です」

 突然の第三者の登場に母が固まった。無理もない。母からすれば見知らぬ男で、外国人で、でも流暢に日本語を喋っていて。

 人は、インパクトがありすぎることが起こると、それまで互いの間にあった気まずさすらも忘れてしまうらしい。母は悠に助けを求めるような視線を寄こしてきた。

「あー、その人は、その、ここのオーナーのお兄さんのお孫さん? らしくて」

「初めまして、ノア・ルフェーブルです。悠のショコラを狙っています」

 いやどんな自己紹介だ、と悠は思う。そしてまだ諦めていなかったのかと、こんな状況なのについ半目になった。

「それで、いかがです? 今日と、場合によっては明日も、こちらで二人を預かりましょう。この店のオーナーには私から話しておきます。彼らなら快諾してくれることでしょう」

「ってちょっと、何を言ってるんですかあんたは。そんな迷惑、かけられるわけないでしょ」

「迷惑かどうかは、君の働き次第だ」

 おい、とつい突っ込みそうになる。それはつまり、働かせる気満々ということか。別に文句はないけれど、同じバイトの彼に言われるのは納得がいかない。

 まあ、確かに明日は、元々バイトではあったけれど。

「私はあなた方の事情を存じ上げません。ですが、息子さんにあそこまで言わせたんです。大人として、親として、一つのけじめをつけてはいかがですか。ちなみに私が申し上げているのは、離婚云々の話ではありませんよ。そこまで出過ぎた真似はしません。そうではなく、あなたがこれからも悠や乃々と温かい関係を続けていきたいと思っているなら、以前と同じでは無理だということです。一度破裂した風船は元には戻りません。新しい風船を用意するか、膨らませること自体を諦める、二者択一です。そうは思いませんか」

 しんと沈黙が落ちる。

 場違いなことを思ってしまうが、この外国人はなぜこんなにも日本語がうまいのだろう。まるで悠の心の中を代弁してくれたようだ。

 正直悠は、離婚をする・しないについては、そこまで早い決断を迫ってはいない。

 感情論では離婚すればいいのにと思ってはいるけれど、理性ではそれが簡単ではないことも解っている。

 でも、今のままは無理だった。もう限界だった。日々の小さな不満の積み重ねが、自分で思うよりも溜まっていた。

 このままではいつか壊れる。そんな予感があった。それは家族の絆かもしれないし、乃々か悠の心かもしれない。それ以外の何かだったとしても、壊れることは不可避の未来のように思えた。

 それでも、二人は悠と乃々の父母なのだ。嫌いにはなれない。なりたくない。二人が子どもへの愛情を失くしたわけじゃないことを、子どものほうだってちゃんと理解しているのだから。

「……わかりました。お言葉に甘えて、今夜はこちらで二人を預かっていただけますか? 今夜は旦那も早く帰ってくるはずですので、今日のことも含めて、話し合ってみます」

 母は、これまでとは違う、決意を秘めた顔をして言った。

「悠、ごめんね。悠にあんなふうに怒られるまで、お母さん何も気づいてなかった。悠があんなに我慢してたなんて、全然気づいてあげられなかった。ちょっと本気で情けなくて……。乃々もごめんね。前は行ってらっしゃいって、手を振ってたのにね。……おかえり、乃々。行ってらっしゃいができなかった代わりに、おかえりって、抱きしめてもいい?」

 乃々が母と悠の顔を交互に見やる。最後はうずうずとしながら悠をじっと見つめてきた。

「いいんだよ、乃々。したいようにすれば」

 そう背中を押してあげると、乃々は悠に下りたいと告げてくる。希望どおり下ろしてやると、そのまま母のところに駆け出した。

「ママ!」

「おかえり。おかえり乃々。ごめんね、いっぱい我慢させたね。ママ、もう絶対こんなことしないから。パパとちゃんとお話してくるからね」

「でもママ、なかない? パパ、ママをいじめない?」

「大丈夫。乃々が心配しなくていいの。明日迎えに来るから、それまでお兄ちゃんと一緒に待っててくれる?」

「うん! のの、まつのじょうずだよ。それにね、ノアもあそんでくれるの。ノアはクッキーきらいだから、こんどはチョコたべようねって、やくそくしたんだよ」

 いつのまにそんな約束をしていたのか。悠と母の視線がノアに集まる。

 強く頷く彼に、母が小さく笑った。

「素敵なお友だちができたのね、乃々。ならお母さんも安心だわ」

 そう言って、抱きしめていた乃々を悠に預け直すと、母は気合いを入れるように表情を引き締めた。

「じゃあお母さん、闘ってくるわね。何かあったらLINEして」

「あのさ、母さん。今更こんなこと言うのもあれだけど、本当に大丈夫? 誰か間に入れたほうがいいんじゃない? ほら、父さんってその、人の話聞かないし」

「乃々にも言ったけど、悠も心配しなくていいの。あの人も子どもには弱いのよ。だからね、今日のことを伝えれば、あの人もちゃんと聞いてくれるわ。悠が持って帰ってきてくれる実習で作ったお菓子があるでしょ? あれ、あの人も私もいつも楽しみに待ってるんだから。私たちが喧嘩しないのなんて、そのお菓子の感想を話すときだけよ。おかしいでしょ?」

 ふふ、と母が目尻を下げて笑う。ああ、この顔だ。久しぶりに見た、母の優しい笑顔。悠が初めてお菓子を作って、食べてもらったときと同じ顔。

 悠がショコラティエを目指したのは、十七歳のときだ。その歳に初めて、悠はホワイトデーでチョコを作った。

 男が手作りなんて珍しいだろう。しかもチョコ。日本でホワイトデーといえば、クッキーや飴などチョコ以外のものが主流だ。

 ただ、その年のバレンタインで、悠はチョコレートに秘められた健康効果を知った。なんでもチョコに含まれるカカオ・ポリフェノールが冷え性や血圧低下に一役買ってくれるらしい。他にも効果はあるようだが、母が冷え性に悩み、父の血圧が高いことを知っていた悠は、唐突に「これだ」と思った。手作りになったのは予算との兼ね合いだ。

 結局、チョコレートの恩恵を受けるには続けて摂取しなければ意味がないと後から思い至ったが、それでも自分の作ったビタートリュフを二人がおいしいと笑って食べてくれたことが、本当に嬉しかったのだ。

 その頃にはもう、両親の喧嘩も日常茶飯事だったから。

 だからこそ、父と母が向かい合って微笑む光景が、より感動的だった。

 悠の夢が決まった瞬間だ。

「それではルフェーブルさん、悠と乃々をお願いします。こちらのご夫婦にもまた改めてお礼に伺いますとお伝えください」

 母を見送ると、悠は突然の脱力感に襲われた。なんだか立っていられなくて、乃々を落とさないよう気をつけながらしゃがみ込む。

 腕の中から抜け出した乃々が「どうしたの?」と頭を撫でてくれた。

「なんでもないよ。ちょっと疲れたというか、それだけだから。乃々も疲れたね?」

「のの、おなかすいた」

「ははっ、それもそっか。何も食べてなかったもんね」

「あのね、ハンバーグたべたい」

「いいよ。ちょうどメニューにあるし、バイト代も入ったばっかだし。ここで食べようか」

 平日の、しかもお昼前の今なら、店もそんなに混んではいないだろう。

 乃々が嬉しそうに階段を下りていく。勝手知ったる我が家のようだ。いや、これまでのシャトー来店率を鑑みれば、乃々にとってここは第二の我が家で間違いない。

 そう思うと、ここは乃々にとっても〝小さなお城〟になるのだろう。人知れず笑みをこぼした。

「そういえば」

 悠は、乃々を追ってゆっくりと歩き出しながら、振り向かないまま後ろをついてくるノアに声をかけた。

「どうして乃々があそこにいるって、わかったんです?」

 あの、ショコラトリーに。

 小学校からシャトーに向かう道中からは、少しだけ離れているあの場所に。

「香りだ」

「香り?」

「初めて会ったときもそうだったが、君はよくショコラの香りを纏っていた。知っているか、悠? 嗅覚というのは、人間の持つ五感の中で唯一大脳辺縁系に直結している。簡単に言えば、五感の中で最も記憶に直結しているんだ。たとえばそうだな、土や草の香りから幼少期を思い出すことはないか? 香水の香りから好きな人を思い出すとか。それと同様に、ショコラの香りから、同じ匂いを纏う人間を思い出すこともある」

 ――あ。

 吐息にも似た声が漏れた。

 ノアが得意げに笑う。

「これは以前にも言ったが、私は人より嗅覚が鋭い。あの道でショコラの香りがすることはすでに知っていた。そして乃々が君に抱き上げてもらうとき、首元に鼻をすり寄せるような仕草をしていたことにも気づいていた。無意識に君の匂いに安心感を覚えていたのだろう。今回のことが事件に巻き込まれたわけではなく、乃々の自発的な行動だと仮説するなら、最近の君と乃々の様子からもしかしてと考えたわけだ」

「俺が渋谷駅にいるってわかったのは?」

「それは簡単だ。電話口に駅の構内アナウンスが聞こえたからな」

「あ」

「どうだ、私はなかなかやる男だろう?」

 冗談なのか、本気なのか。自慢げな声に苦笑する。なかなかどころかとても頼もしかった、とは口が裂けても言わないけれど。

 ビニール袋をあげただけの恩にしては、返ってきたものが多すぎて困ってしまう。

 悠は階段の途中で足を止めると、ただでさえ背の高い彼をいつも以上に振り仰いだ。

「色々と、ありがとうございました――ノア」

 初めて自発的に彼の名前を口にする。

 なのにいつも名前で呼べとうるさかった彼のほうが呆けた顔をするものだから、思わずふっと笑みを浮かべた。

「……笑った」

「え?」

「初めて悠が私に笑った。それに、名前も。どうしたんだ悠。日本ではこういうとき、明日雨が降ると言うのだろう?」

「それ失礼な使い方ですからね。……別に、ただ意外とお人好しな外国人に、素直に感謝しただけですよ」

 そう言うと、ノアが動揺したように視線を泳がせる。

 なんとも予想外の反応だ。まるで照れているみたいではないか。もしかして、顔は抜群にいいこの男は、褒められることには慣れていても、感謝されることには慣れていないのだろうか。

「ちょっと、照れすぎじゃないですか」

「違う。別に顔以外を褒められたからといって、動揺などしていない」

「してるんですね」

「それに私は当たり前のことをしただけで、これくらいで感謝される覚えはないし、悠に素直に感謝されると変な感じがする」

「どういう意味ですかそれ」

 聞き捨てならない。じと目でノアを見やると、彼は珍しくぶすっとした顔で、

「Je viens de rendre ma faveur」

 逃げるように店内へと消えていく。

 なんで最後だけフランス語なんだとか、早すぎて聞き取れなかったとか、色々と文句はあったけれど。

「今の、もしかして照れ隠しか?」

 だったらあの尊大なフランス人もかわいく思えるなと、悠は一人噴き出した。


 ――カラン、と店の扉が開く音がする。

 一緒に外の空気が流れ込んできた。立夏を迎えた、爽やかな緑の匂い。

 いらっしゃいませ、と和恵が応える声がする。その穏やかな声のように、悠の心もまた何年ぶりかの穏やかさに包まれていた。無意識に溜めていたものを吐き出したこともそうだが、悩んでいた将来についても光を取り戻したからだろう。

 自分がどうしてショコラティエになりたかったのか。日常に埋もれて忘れてしまっていたそれを、悠はもう一度思い出した。

 ただ笑っていてほしかったのだ。両親に。妹に。

 そして父と母が、もう喧嘩をすることのないように。

 今後それが叶うかはわからないけれど、自分の作るものがまだ両親の心に届くと知った今、夢への活力が再び湧き始めている。

 それはちょうど、今の季節の新緑のように。

 青く、瑞々しい、生命力に溢れた夢だ。

 今度こそこの思いを忘れないように、悠は自分の頬を叩いた。

 乃々が呼んでいる。同じテーブルにはノアもいる。

 仕方ないなと呆れたように笑ってから、悠は二人の許へと歩き出したのだった。



Je viens de rendre ma faveur

私は恩を返しただけだ。

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