prologue
恋愛は人生のスパイスだと、誰かが言った。
それは確かに名言なのだろう。けれどいつだったか、甘いもの嫌いの偉そうな日本語を話す風変わりなフランス人は、悠にこう語った。
「恋愛が人生のスパイスだと言うのなら、そこには当然好き嫌いが発生する。スパイスを好む人間もいれば、嫌う人間もいるということだ。もしくは好きでも嫌いでもないと発言する者だっているだろう。ならばなぜ人は、恋愛を人生における幸福度の指標のように扱うんだ? 個人の幸福などそれぞれだろうに」
彼は間違いなく愛の国フランス出身のはずで、だから悠は、彼がなぜそんなことを言うのかわからなかった。
「どの時代においても結婚が必ずしも幸せに直結しない。幸いにも今の時代は、それに気づけることが多くなった。そうだろう?」
「じゃああんたは、恋愛が嫌いなんですか?」
そう訊くと、彼はあしらうように手を振って。
「ノン。私は好きでも嫌いでもない。恋愛や結婚だけが人生の幸福とは思わないが、しないとも決めていないよ」
「ふうん?」
「だが一つだけ、憧れているものがあるんだ。なんだと思う?」
「いや知りませんけど」
即答すると、彼は素っ気ない返事になど構わず、遠くを見つめながら目を細めた。
「憧れているんだ」
もう一度、そう呟いて。
「ただ一つ、切っても切れない関係というものに憧れている。簡単に離婚する夫婦より、裏切る恋人より、絶対の味方だと確信できるような、そんな関係に」
悠はドキリとした。だって、こんな彼を初めて見たから。
どこか脆く、どこか危ういような。
だから考える。彼の言葉の意味を。いつものように適当に流してしまわないよう。
永遠の愛を誓い合う夫婦。未来を甘く囁き合う恋人たち。
けれど現実は、全てが物語のようにうまくはいかない。それは悠も知っている。
永遠を誓っても、情熱的な恋に落ちても、憎しみ終わることだってある。
ならば、結婚とはなんなのだろう。愛とはなんなのだろう。少し、わからなくなる。なんて夢のない話だと怒る人もいるかもしれない。けれど、悠には彼の言いたいことも解るような気がした。〝夫婦〟がいつか離婚し、〝恋人〟がいつか別れてしまうなら。
そのどちらでもない、名前のない絆が欲しい――。
「……なんか、難しそうですね」
「さて、どうだろう。君が鈍感だから気づいていないだけじゃないか?」
「おいちょっと待て」
なぜここで貶されないといけないのか。突然の悪口に、珍しく真剣に話を聞いたことを悠は後悔する。
結局このあとは、のらりくらりと反撃を躱されてしまい、彼が急にそんなことを言い出した真意を訊くことはできなかった。
けれどこのときのことを、悠はふと思い出すことがある。
それは香ばしくほろ苦い、珈琲の香りとともに。
匂いが記憶を呼び起こすことを、プルースト現象と言うらしい。それを教えてくれた憎たらしい男と同じフランス人作家の書いた小説が由来なのだとか。
へぇ、そうなんですか。と、あの頃の悠は適当に流していたけれど、実際に体験すると複雑な気分だった。
なぜなら珈琲の香りが運ぶ記憶は、悠を穏やかな気持ちにも、そして迷子のような気持ちにもさせるから。
もうここにはいない彼が知ったら、きっとまた、彼は意地悪く笑うのだろう。