第07話 困った時は神頼み
カーンッカーンッと教会の鐘が鳴り、鳩が飛び立つ。
「レイツェル様、どうしたのですか?」
ハッと我に返ったレイツェルの目の前には、一人の幼い少女がいた。
赤みの強い茶色の髪を二つに結った彼女の名は、ニーナ。孤児院で、一番レイツェルに懐いている子だ。
(あぁ、そうか……今は、慰問中だったわ)
今日は、定期的に行われている孤児院への奉仕の日である。
これはアルギュロスの婚約者になった時からの恒例行事であり、元々は皇后を中心に行われていた。
数人の護衛騎士と侍女を連れて物資を寄付したり、子供達と交流をしたり。要は民衆からの好感度を上げるのが目的だ。
実際、民衆の支持があるのとないとでは、政務を行う上でかなり違う。レイツェルの評価がアルギュロスの支持にも繋がり、統治を円滑にするのだ。とは言え、レイツェル自身は打算ではなく楽しんで奉仕活動をしているが。
「ごめんなさい。考え事をしていたの」
レイツェルは、申し訳なさそうに眉を下げた。
(私とした事が、ぼうっとしていたわ)
アルギュロスから「君は僕を愛さない」と断言されてから、記憶が曖昧だ。怒ったり呆れた記憶もなく、ただ放心状態で屋敷に戻ったような気もする。
確かにこの八年間、レイツェルはアルギュロスに心を寄せなかった。だが、それは彼がレイツェルの事を好きではないと思っていたからだ。
(でも、断言されるとイライラするわね)
やはり腹が立つ男だと、レイツェルは思い直す。長年染み付いた恨み節は、短期間で昇華はされなかった。
「レイツェル様。困った時は、お祈りですよ。神様に悩みを聞いてもらうと、心が少し軽くなるんです」
その点、ニーナの純真無垢さは心に沁みる。
今年で八歳になる彼女は、孤児院と隣接している教会でいつも悩みを打ち明けているらしい。最近の悩みは、早く起きられない事。悩みまで、可愛い。
「そうね……。私も、神に祈ろうかしら」
レイツェルは、積極的に神に祈った事はなかった。決して無神論者ではないのだが、国の行事以外で祈った事がない。
レイツェルは、傍にいた侍女と護衛に声をかけた。礼拝堂で祈りを捧げるので、子供たちの事を任せたいと告げる。
(静かだわ……)
こじんまりとしているが、清潔感のある礼拝堂。ステンドガラスからは、燦々と光が降り注いでいる。
一人で祈りたいというレイツェルの気持ちが配慮され、お供の護衛は礼拝堂の外で待機していた。一歩、一歩、レイツェルは神像へと近付く。
(お祈りなんて、もう随分してないわ)
この世界は、三柱の神々によって成り立っていると言われている。ここにある神像も、それに合わせて三体あった。
(二年後……私は、愛を誓えるのかしら)
結婚式では、その中で唯一の女神であるアラガーナに愛を誓う。天秤の神器を持った彼女は、あらゆる万物の愛や憎しみを量るのだとか。
アルギュロスは、レイツェルが十八歳の成人を迎えたら結婚をすると決めている。婚約をして十年目になるので、節目としては申し分ない。
「……アラガーナ様。私は、分からないのです」
両手を組んだレイツェルは、小さく呟く。
アルギュロスは、レイツェルが彼を愛さないと言っていた。確かに今は異性としての好意――むしろ、嫌いが勝っている――はないが、未来は分からないのに。
(この八年、思い返すとアルギュロス殿下に冷たい態度しか取っていないわ)
婚約したばかりの頃は、レイツェルも猫を被っていた。いくらいけ好かない相手でも、皇族だからだ。
しかし、自白剤を盛られてからは「嫌い」を全面的に出していたように思う。
(私の事が好きだったなら、傷ついたはずよ……)
アルギュロスが本当にレイツェルを好いているならば、好きな相手から嫌われているという事実は辛いはずだ。なのに、彼はいつもレイツェルの傍にいて何でもないように笑っていた。
(……そもそも私、どうしてこんなにあの人が嫌いなのかしら)
最初の顔合わせで、傷付いて腹を立てた事は間違いない。だが、この八年。アルギュロスがレイツェルの為に献身的だった事実はある訳で……。
(今まで疑問に感じた事がなかったけれど)
レイツェルの性格が捻くれており、嫌いな相手からの善意すら嫌味に捉えていた事を差し引いても、果たしてここまで相手を嫌うだろうか。――いや、普通は多少なりとも歩み寄るはずだ。
(私、異常なんじゃ……?)
思えば、レイツェル自身もアルギュロスに執着をしていた。
本気で婚約解消を訴えた事はなく、確かに尻尾を巻いて逃げたくはないと意地にはなっていたが、今後の人生を考えるなら婚約解消に向けて働きかけても良かったはずだ。
(私、本当にアルギュロス殿下が嫌いなの?)
ふと、そんな疑問が芽生える。
レイツェルは急に、自分が分からなくなった。まるで見えない「何か」に支配されているようで、怖くなる。
「アラガーナ様。どうか、お導きください」
レイツェルは、必死に祈った。彼女の短い人生の中で、最も真剣に祈ったと言っても過言ではない。
「彼を愛するには、どうすれば良いのでしょうか」
グチャグチャになった思考を振り払うように祈りを捧げていると、不意に微かな風と人の気配がした。
「……僕ではなく、妹に祈るとは。随分と恩知らずですね、レイツェル・オルヴァーリオ」