第06話 急に壁を作るじゃん
レイツェルが、クラベールを気絶させた数日後。
幸いにも城の騎士に連行されたり、指名手配される事もなく平穏である。正直、因縁をつけられる覚悟で過ごしていたので、レイツェルとしては拍子抜けだ。
もしかしたら、相手も現実を突きつけられ目が醒めたのかもしれない。――なんて、軽く考えていた。
「クラベールを気絶させたんだって?」
目の前で愉快そうに頬杖をつくアルギュロスに、レイツェルはぴくりと眉を動かす。
今日は、城の皇族住居区域にある庭園でアルギュロスとお茶を飲む予定だった。時間通りに城に来て、いつものようにテーブルの席に着いた途端、彼は開口一番に問うてきたのである。
「クラベール殿下から聞いた……訳じゃなさそうですね」
「レイツェルは皇太子妃になるからね。陰ながら護衛に守らせてるんだよ」
(暗殺者でも雇ってるのかしら……)
まったく気配を感じなかったので、あながち間違いではないだろう。レイツェルは小さく溜め息をつくと、軽く目を伏せた。
「……まさか、実の弟を八つ裂きにしませんよね?」
「レイツェルに振られた弟を八つ裂きにするなんて、可哀想でできないよ。まぁ、場合によってはそれも厭わないけれどね」
口ではそう言っても、アルギュロスの肩は震えて口も半笑いだ。一体、その護衛とやらはあの時の様子を何て説明したのか。
レイツェルがじとっとアルギュロスを睨むと、彼は笑いながら手を軽く挙げた。
「そう怒らないでよ。これでも、クラベールに君を取られなくてホッとしてるんだ」
「……私は、長年の婚約者を捨てるほど愚かじゃありません」
「そうだね。君は、良くも悪くも『理想の婚約者』であろうとする。クラベールには、勿体ないよ」
アルギュロスは、僅かに「クラベールには」と強調する。自分以外にレイツェルに相応しい人間はいないと、豪語しているようにも聞こえなくもない。
「……殿下の理想の婚約者は、婚約者に刺々しい態度を取る女なのですか? 随分と良い趣味をお持ちで」
「僕の理想の婚約者はレイツェルだから、刺々しくても甘えん坊でも構わないかな」
清々しい笑顔で言い返すアルギュロスに、レイツェルは口を噤んで眉間に皺を寄せた。何を言っても笑顔で返されるので、嫌味に手応えがない。
ムスッと不機嫌さを隠さないレイツェルに、アルギュロスは上機嫌に笑った。
「レイツェルは、僕といると幼くなるね」
「……子供っぽくて申し訳ありませんね」
「いや。君にそんな顔をさせるのは、僕くらいだからね。気分が良いよ」
「性癖、ねじ曲がり過ぎでは?」
「ありがとう」
「褒めてませんが?」
レイツェルは気分を落ち着かせようと、紅茶のカップを手に取る。ふわり、鼻をくすぐる香りは馴染みがあって落ち着いた。
「……そう言えば、妙な話を聞いたのですが」
「妙な話?」
「本当は、私とクラベール殿下が婚約をするはずだったのに、アルギュロス殿下が横槍を入れたらしいですね」
クラベールの一件もあり、レイツェルは両親から当時の事を聞いた。
八年前、母親の付き添いで行ったと思っていたお茶会は、実は第二皇子の婚約者候補となる令嬢が集められていたそうだ。この時、レイツェルが正式に婚約者に決まっていた訳ではなかったしい。
しかし、レイツェルを気に入ったクラベールが「レイツェル嬢と婚約したい」と本人を前にして宣言をしたとか。
当のレイツェルはクッキーを持ったままキョトンとしていたので、保留のままその日は解散した。だが、驚くべき事はその後だ。
何がどうして、そうなったのか。そして、どんな手を使ったのかは謎だが、レイツェルはアルギュロスの婚約者に収まったのである。
(まぁ、当の本人がクラベール殿下から婚約したいと言われた事すら覚えていなかったのだけれど)
レイツェルの両親もアルギュロスの婚約者になったのだからと、この件について触れなかった。むしろ、レイツェルが聞くまで思い出さなかったくらいだ。
八年経って知った事実は衝撃ではあったが、過去は過去である。レイツェルが、アルギュロスの婚約者だという事実は変わらない。ただ、気になる事が一つだけあった。
「弟の婚約をぶち壊したいほど、クラベール殿下が嫌いでしたか?」
当時の兄弟仲は分からないが、婚約を横取りするなんて余程の事だ。
「まさか。僕は、大事な弟だと思ってるよ。血を分けた兄弟だからね。……まぁ、クラベールにはレイツェルの件で相当恨まれてるだろうけど」
「……まさか、本気で私と結婚したかった訳ではありませんよね?」
「レイツェルは、不思議な事を言うね」
穏やかに微笑むアルギュロスに、レイツェルは自嘲気味に笑う。分かっている事を聞くのは、自分でも馬鹿らしいとは思った。
「僕は最初からずっと、レイツェルと結婚したいって言っていたじゃないか」
「分かってます。私だと、色々と都合が良かったんですよね」
「君が好きだからだよ」
――ガチャン。
レイツェルの持っていたカップが、大きな音を立てた。カップを戻す際、普段は小さな音すら出さないのだが、どうやら思ったより動揺したらしい。
「…………殿下は、私が好きだったのですか?」
あ然と問うレイツェルに、アルギュロスは「知らなかったのかい?」と目を瞬いた。彼にしては珍しく、本当に驚いているようだ。
「そうじゃなきゃ、弟に恨まれる事は目に見えているのに、想い人を横取りなんかしないよ」
「私に愛されなくても良いと言っていたではないですか……」
「それは、今でも思ってる。無理やり婚約した男が、心まで求めるのは傲慢だろう?」
「そ、れは……」
果たしてそうだろうか。レイツェルは、好きならば心も欲しいはずだと考える。とは言え、今更アルギュロスから「愛してほしい」と言われても困るが。
レイツェルが悶々と思考を巡らせていると、アルギュロスはまたいつもの調子で微笑んだ。
「レイツェル。君は、今で通りで良いよ。僕を愛して欲しいとは、思っていないから」
紅茶を飲んだはずなのに、レイツェルの喉は乾きを覚えた。何故か、言葉がうまく出ない。
辛うじて唇を動かすと、アルギュロスを真っ直ぐ見つめる。
「……あなたは、それで良いのですか?」
若葉色の瞳が、微かに揺れた。だが、アルギュロスは相変わらず微笑むだけだ。
「僕は、君が傍で生きてくれるだけで十分なんだよ」
「それは、本心ですか?」
「……君は、優しいね。文句を言いながら、僕の婚約者でいてくれるだけあるよ。でも、本当に気にしなくて良いんだ」
――君は、絶対に僕を愛さない。