第03話 現在の関係
――そして、現在。
残念なが未だにアルギュロスの泣きっ面どころか、悔しそうな顔をレイツェルは見た事がない。
(まったく、手応えがないのよね)
婚約者になってから、レイツェルはそれこそ血を吐く程に皇太子妃教育に取り組んだ。時には泣いた事もあるが、アルギュロスの事を――殺意的な意味で――想いながら努力を重ねた。
そして、気付けば八年の月日が経ち、レイツェルは誰もが認める皇太子の婚約者となった。アルギュロスが言った「出来の悪さ」もなければ、浮気などもした事はない。
「そう言えば今度、スミントス伯爵のお茶会に行くんだって?」
「えぇ、まぁ……」
「僕も行こうかな。あそこの庭園は見事だから、レイツェルと見たいし」
「私は、一緒に見たくはありませんけど」
レイツェルは、吐き捨てるように断る。
普通ならば、婚約者に対して多少なりとも愛想を振りまくものだが、レイツェルには猫をかぶる必要がない理由があった。
あれは、婚約してニ年ほど経った頃。定例となっていたお茶会で、アルギュロスはレイツェルに「自白剤」を一服盛った事がある。
北の大陸で最も力のある魔法大国、ヴィンタレオーネ帝国から取り寄せた「自白剤」は、実に強力だった。アルギュロス曰く、いつまでも他人行儀で猫を被り続けるレイツェルの本音を引き出したかったらしい。
『私、アルギュロス殿下が嫌いです。顔を見る度に腹が立ちます』
口から出るのは、アルギュロスに対する罵詈雑言。流石のレイツェルも、これは殺されると死刑を覚悟した。もしくは、良くて婚約破棄か。
『薬を盛ったのは、僕だからね。咎める事はしないよ。ただ、これからは溜め込まずに僕に直接言うと良い』
しかし、アルギュロスは怒らなかった。
確かに婚約者に自白剤を盛るなど人としてどうかとは思うが、レイツェルは自分に対して嫌悪感を露わにした婚約者を傍に置きたがる彼の事が分からない。
レイツェルは結局、こちらの気持ちなどどうでも良いのだろうと結論を出し、アルギュロスの望むように、彼の前では刺々しい婚約者となった。
「……大体、殿下は忙しいですよね。私とお茶会に行く余裕なんてあるのですか?」
「それが、ないんだよね。僕は執務を溜め込まない主義だけど、やる事は多いから困るよ」
そう言って肩を竦めるアルギュロスだが、大して困ったようには見えない。
(この人、本当に何を考えているのかしら)
人形のような伴侶を求めていたはずのアルギュロスは、婚約をしてからずっとレイツェルを大事にしている。
例えばレイツェルが他国の情勢について勉強をしていると、「この国の人間は特産品に対するプライドが高いから、詳しく覚えておくと良いよ」などと助言をしたり、レイツェルの社交界デビューの際にはダンスの練習を付きっきりで一緒にしてくれた。
傍から見てもアルギュロスは、レイツェルを大事にしている事は明白である。ただ、その善意も相手の捉え方によっては変わるのだが。
『そんな事まで覚えなくても良いのに。レイツェル嬢は真面目だね』
これは婚約して間もない頃。他国の情勢を勉強していた時に言われた言葉だ。
レイツェルはこの時、「無駄な事をしている」と言われた気分になった。勿論、屈する事なく他国の文化に詳しくなるくらいに勉強をしてやった。
『あぁ、ごめんね。レイツェルには難しかったかな?』
これは、社交界デビューの練習時に言われた言葉だ。
基本的なダンスは完璧に覚えていたレイツェルだが、アルギュロスがいきなり難易度の高い動きをした為、追いつけず足を踏んでしまった事が発端である。
『せっかくの社交界デビューなんだ。ありきたりなダンスだと、レイツェルが霞んでしまうかもしれない。レイツェルは努力家だから、頑張れるよね? 僕も協力するし』
レイツェルは、家に帰って怒り狂った。「あんの、クソ皇子!」と渾身の力で枕を殴り、中身の羽を撒き散らしたのは後にも先にもこの時だけである。
よくよく考えるとレイツェルの為を想っての発言なのだろうが、如何せん嫌いな人間の言葉は例え助言でも嫌味や煽りに変換されてしまうものだ。
不思議なもので、皇太子の側室を狙う令嬢達の嫌味攻撃は鼻で笑って聞き流せるのに、アルギュロスの言葉は一字一句記憶をしてしまう。
余程、自分は婚約者が嫌いなのだと、レイツェルが改めて気付いた出来事の一つである。
「相変わらず、レイツェルは懐かない猫みたいだね」
紅茶のカップを置いたアルギュロスは、突拍子もなく言った。
「……では、懐く猫でも飼えばよろしいのでは?」
レイツェルは、目の前に置かれたクッキーに手を伸ばす。侯爵家の料理人が腕を振るった菓子は、どれもレイツェル好みで美味しい。
「僕は自分の猫を可愛がるから、良いんだよ。懐こうが懐くまいが、大事なのは『僕のもの』という事実だからね」
アルギュロスの言葉に、レイツェルは眉間の皺を更に深くさせる。彼は冗談ではなく、本当にレイツェルを自分の「所有物」だと思っている節があった。
薄々、この皇子の「異常さ」については八年で身を持って感じてはいるが、レイツェルは恐怖や悲しみよりも「苛立ち」の方が勝っている。
(……本当、うんざりする)
この八年、アルギュロスは、レイツェルに「自分を愛してほしい」とは言わなかった。
いくら甘い言葉をかけられても、心はいらないのだと嫌という程に思い知らされる。まるで、自分の気持ちに価値はないような気がして、レイツェルは自分が惨めに思えた。――まぁ、元々ない好意を捧げる事は不可能だけれど。
(いらないなら、あげない)
だからこそ、心だけは絶対にあげないとレイツェルは決めている。仮面夫婦になろうが、どうせ互いに情などないので構わない。
「……殿下は、性格が悪いですね」
レイツェルが苦々しく言うと、アルギュロスはそれは嬉しそうに目を細めた。その視線はまるで、愛玩動物を愛でているようにも見える。
「君は、本当に可愛いね」
そう言って朗らかに笑うアルギュロスは、相変わらず物語に出てくる王子様のようだった。