第08話 愚弟は諦めが悪い
――再び、現在。
アルギュロスは離宮の一番奥にある部屋の前に立つと、一呼吸置いた。今日はまだ、ひと仕事残っている。
「開けてくれ」
扉の前に立つ護衛たちに声をかけると、ゆっくりと重厚な扉が開かれた。
「……少しは、頭を冷やせたかい?」
部屋の中へと踏み込んだアルギュロスは、薄暗い部屋の奥で動く何かに声をかける。すると、ゆらりと黒い塊が動いた。
「兄上! 何故、俺をこんな所に閉じ込めるんだ!?」
部屋の中にいたのは、クラベールだ。彼は怒りを露わにし、苛立ちげにアルギュロスへ掴みかかる。
「……離せ」
しかし、アルギュロスの表情は変わらない。冷たい眼差しでその手を払うと、乱れた襟を整えた。
「何故? お前が、僕の婚約者に手を出そうとしたからだろう?」
「兄上が俺から奪ったんだろう!? 俺は、自分のモノを取り返そうとしただけだ!」
「奪った? おかしな事を言うね。僕の方が先に父上にレイツェルを婚約者にしたいと頼んだのに」
「それがおかしいんだ! 兄上は、レイツェルと会った事がなかっただろ!?」
クラベールの言い分は、正しい。婚約者として対面するまで、アルギュロスはレイツェルと会話すらした事がなかった。
「何度も言わせないでくれるかな。僕はレイツェルに一目惚れをした。だから、婚約者にしたんだ」
「それは、俺だって同じだ。だから、レイツェル嬢と婚約したいと父上や母上に頼んだのに……」
「だが、レイツェルの婚約者は僕だ。お前こそ、どうしてそこまで彼女に拘る?」
クラベールは、出会った当初からレイツェルに異常な執着を見せている。それも、盲目的に。
『彼女を見た時、自分のモノだって感じたんだ。きっと、これが運命なんだよ。兄さんは、別の人を探してよ』
レイツェルとの婚約が正式に決まった時、クラベールは言った。
この時のアルギュロスは、婚約は「早い者勝ち」であり、絶対に譲らないと確固たる意思を貫いた。思えば、この時点でクラベールの異常性が少し顔を出していたと思う。
「僕は、警告したよね。レイツェルには近づくなと」
弟の諦めの悪さを知っているアルギュロスは、今までレイツェルとの接触を試みるクラベールの邪魔をしていた。必要最低限、顔すら合わせないようにと徹底的に。
幸いにもシャトン伯爵令嬢が婚約者になってからは、その動きも落ち着いてはいた。一応、不貞行為は不誠実である常識はあったらしい。
「でも、まさか婚約が解消された途端、僕の目を盗んでレイツェルに会いに行くとは思わなかったよ」
スミントス伯爵邸でのお茶会のリストには、クラベールの名はなかった。しかし、彼は伯爵家の嫡男の協力によってレイツェルと接触したのだ。
「可哀想に。スミストン伯爵は、真っ青な顔で僕に謝罪をしてきたよ」
後から分かった事だが、伯爵家の嫡男は「落ち着いた場所で、好きな薔薇を眺めたい」とクラベールに頼まれたらしく、まさかレイツェルを狙っていたとは想像もしていなかったらしい。
嫡男が家族にも知らせなかったのも、クラベールの周囲が煩わしくならない為の配慮だったようだ。しかし、その息子の善意のせいで、伯爵はアルギュロスに謝罪をする羽目になったのだけれど。
「これで、分かっただろう? レイツェルの心に、お前は少しも存在していない事が」
本当ならその場で八つ裂きにしたいくらいだが、アルギュロスが影で守らせていた護衛――ガーベル――の活躍もなく、レイツェルは自分で解決してしまった。
その話を聞いた時、アルギュロスは弟に同情するよりも先に愉快過ぎて笑い泣きしたくらいだ。婚約者がたくましくて、何よりである。
「……じゃないか」
ボソボソと、クラベールは呟いた。どこか虚ろな目は、恨めしそうにアルギュロスを見ている。
「聞こえないな。はっきり言ってくれないか?」
「……兄上は、何だって持ってるじゃないか。俺には何もない」
「お前には、ご自慢の剣があるじゃないか」
「でも、一番にはなれない。俺は、どこまでも半端だ」
クラベールは剣の才能に恵まれているが、天才ではなかった。
騎士団は、それこそ剣で成り上がった猛者たちの巣窟なので、経験不足のクラベールでは力量に差が出ても不思議ではない。
「俺には、何もないんだ。レイツェルだけで良いから、俺に譲ってくれよ。誰よりも美しく着飾って、大事にするからさ」
そう言って縋るクラベールに、アルギュロスは眉を寄せた。
(大人しく諦めれば良いものを……)
過去に戻った時、アルギュロスは決めていた事がある。
クラベールがレイツェルを諦めれば、監視はするが放置するつもりだった。「まだ」罪を犯していない弟を罰するのは、違う気がしたからだ。
「お前は、レイツェルを使って自分の自尊心を満たしたいだけだよ。美しい理想的な婚約者に選ばれ、愛されている自分に酔いたいだけの身勝手な男だ……本当に、反吐が出る」
しかし、一線を超えてしまったクラベールに容赦をするつもりはない。
前回は報復する前に過去に送られたのでできなかったが、今は違う。アルギュロスは、膝を着いて項垂れるクラベールを見下ろした。
「……兄上に俺の何が分かるんだよ」
「分かるさ。……僕は、お前をよく知っているからね」
嫌というほど、知っている。
クラベールの婚約者となったレイツェルは、常に理想を押しつけられていた。
何か上手くいかない時には責められ、当然と言わんばりにクラベールは彼女を己の所有物のように扱った。当然、許される事ではない。
それでも、一生懸命に努力をし、泣き言一つ言わずにレイツェルは耐えていた。
気丈で美しいが、頑固で情を捨て切れない甘さがある。だからこそ、愛おしい。
「お前は、レイツェルにとって害になる」
だからこそアルギュロスは、レイツェルを脅かす存在は許せなかった。