第07話 可愛い婚約者
「はじめまして、レイツェル嬢。僕が君の未来の夫になる、アルギュロス・ヴェルデ・ジュアスプランドゥールだよ」
アルギュロスは、一輪の小さくて真っ白な花を婚約者へと差し出した。
目の前には、幼いレイツェルがアルギュロスの顔をじっと見つめている。今日は、アルギュロスがやり直して「初めて」彼女と顔を合わせた日だった。
(可愛い……)
己が過去へと戻った事に気付いたアルギュロスは、手始めに皇帝の元へと急いだ。
その日は、レイツェルがクラベールに見初められるお茶会の日。本来ならお茶会の裏手でレイツェルと出会うのだが、そんな事をしている暇はない。
とにかくクラベールより先にレイツェルと婚約をしなければならないと、アルギュロスは動いたのである。
『オルヴァーリオ侯爵家のレイツェル嬢と婚約したいです。理由? 僕の一目惚れです』
何故レイツェルなのかと問われた時、アルギュロスはそれっぽい理由を述べた。ついでに、自分とオルヴァーリオ侯爵が繋がる事への利点を延々に話し、最終的には皇帝が「分かった。お前がそこまで言うなら」と折れたのである。
まぁ、案の定と言うべきか。そのすぐ後にクラベールがレイツェルを婚約者にしたいと願い出た為、かなり揉めた。
クラベールは「俺が婚約したい」「兄上より幸せにする!」と泣きつき、両親もやんわりと弟に譲る気はないかと問うてきたが、アルギュロスは断固として首を縦に振らなかった。
「レイツェル・オルヴァーリオと申します。皇太子殿下の婚約者として恥じぬよう、精進致します」
微かに震えながら挨拶をするレイツェルに、アルギュロスは愛しさが込み上げる。可愛い。可愛いという言葉以外が出てこない。
「レイツェル嬢。急に婚約と聞いて、驚いたよね。でも、僕は君に何かを求めるつもりはないから安心してほしい」
婚約に対して不安げなレイツェルに、アルギュロスは彼女を安心させようと考えた。
クラベールのように理想を押し付ける事はしないし、芽生えない愛情を求めるつもりはない。レイツェルにとって政略結婚なので、自由に過ごしてほしかった。
「……は?」
しかし、どうやら選択を間違えたらしい。
浮気を容認する発言がまずかったのか、それとも出来が悪くても構わないと言った事か。いや、両方だろう。
(まずいな。僕は、レイツェルなら何だって良いと言いたかっただけなんだけれど)
明らかにアルギュロスを見るレイツェルの目には、怒りが宿っていた。どうやら、初日から嫌われてしまったようだ。
「シャトン・シャエランが、平民の青年と駆け落ちしたらしいよ。真実の愛とやらを貫いたんだね」
レイツェルと婚約をして、八年。アルギュロスは、献身的にレイツェルに尽くしたつもりだ。
今日は定期的にある、婚約者との交流会。今では見慣れた侯爵家の庭でお茶をしている。
(父上の判断は間違いではないが……)
前回ではアルギュロスの婚約となったシャトン・シャエランは、第二皇子の婚約者として収まった。レイツェルを諦め切れないクラベールに、皇帝が無理やり結んだ婚約だ。
(人選ミスは否めないな)
しかし、二人の相性は最悪だった。
レイツェルが理想的なクラベールは、いつもシャトンとレイツェルを比べていたようだ。
一方のシャトンも、口うるさい傲慢な男が婚約者となった反動なのか、年上で包容力のある庭師に夢中だった。破綻する事が目に見えていたのは、言うまでもない。
「……はぁ、そうですか」
興味がなさそうに返すレイツェルを見ながら、アルギュロスはただ微笑んだ。
「あれ、もしかして知ってた?」
「シャエラン伯爵が、あまりのショックに寝込んだらしいですね。令嬢たちの間でも、かなり噂になっていますよ」
「そうそう。父上に謝罪に来たシャエラン伯爵、顔面蒼白で可哀想だったな」
――嘘だ。
同情などしていないし、むしろ自分勝手に育ったシャトンについて思うところがある。
相手は、あの遊び人の庭師だ。クラベールの理不尽さに耐えるより、愛を囁く庭師との生活の方が魅力的だったのだろう。
「成人した途端に駆け落ちなんて、すごいよね」
「……あなたは、何も思わないのですか?」
「僕?」
「仮にも、弟の婚約者でしたし。心配するとか……」
「ははっ、僕には関係ないよ。それに、婚約して二年で逃げられた愚弟も悪い」
「冷たいですね。……まぁ、私は貴族としての義務を放棄した彼女に対して、少し思うところがありますが」
「……君はそうだろうね。彼女とは根本的に考え方が違うから」
実際、レイツェルは耐えていた。
貴族としての義務と自分の役割を受け入れ、アルギュロスへの想いも最後まで口にしなかったくらいだ。その気丈さは、シャトンにはない。
「シャトン様の事をよく知っているような口ぶりですね。まさか、密かに通じていたんじゃ……」
「やだなぁ。僕は、そんな愚かな事はしない。それに、彼女は平民の青年と駆け落ちしているじゃないか」
「……まぁ、そうですね」
「僕は、レイツェルが一番だよ。レイツェルが十八歳になったら、すぐに結婚する予定だしね」
そう言ってアルギュロスが笑いかけると、レイツェルの眉間に皺が刻まれた。露骨に嫌そうである。
(クラベール。今なら、お前がレイツェルに対して必死になっていた理由が分かるよ)
婚約してから二年が経った頃。レイツェルは、アルギュロスに対して本音を隠していた。冷めきった目で微笑み、決して心を開かない。
(彼女が離れて行くかもしれないと、僕も不安に思う事もあった)
このままではクラベールの二の舞いになると、アルギュロスは焦った。前回、彼女は耐えて、耐えて、耐えた末にクラベールを見限ったのだから。
(まぁ、自白剤はやり過ぎたけれど)
一度でも本音を話せば、これからは気兼ねなく感情を出せるだろう。
そう考えたアルギュロスは、同盟国でもある北の大陸を牛耳る魔法大国、ヴィンタレオーネ帝国のツテを使って自白剤を入手した事がある。
やり方は間違ってはいるが、強情なレイツェルが「本音で話そう」と言ったところで話す訳がないと考えた末の苦肉の策だ。
『私、アルギュロス殿下が嫌いです。顔を見る度に腹が立ちます』
あの時の薬の効果は、絶大だった。
好きな相手から嫌われているという事実は、やはり傷つくものがある。だが、アルギュロスはそれを受け入れた。
今でもアルギュロスは、自白剤を盛った事を後悔していない。その件以来、レイツェルは感情を押し殺す事なくアルギュロスと会話をしてくれるようになったからだ。
「解消なされたら、どうです? 今ならまだ間に合いますよ」
「絶対にしない。それに、僕以上に好条件の良い男はいないと思うけど?」
「そういう自信家な所も嫌いです」
精神が成人しているせいだろうか。感情を剥き出しにしてアルギュロスに噛みつく彼女を見ていると、猫がじゃれついているようにしか見えなかった。
(……本当、可愛いな)
レイツェルは、何度か「婚約解消すれば良いのでは?」と憎まれ口を叩いてはいたが、本気で行動を起こした事はない。
婚約をして、八年。あの黒真珠のような目が、アルギュロスだけに反応して感情を宿す事も知っている。それが好意的ではなくとも、嬉しかった。
(クラベールはまだ、レイツェルを諦めていない)
問題は、これからだ。
クラベールは、レイツェルを虎視眈々と狙っている。
いくら仲が悪くても、婚約者がいる身というのは十分クラベールの抑止力になっていた。だが婚約が破棄さた今、彼を止める者はいない。
(引き続き、レイツェルにはガーベルをつけよう)
レイツェルと婚約をしてからずっと、アルギュロスは従者のガーベルを彼女の護衛につけている。陰ながら守らせているので、レイツェルはその事実を知る由もないが。
不機嫌な婚約者を眺めながら、アルギュロスは紅茶のカップへと手を伸ばした。