第03話 証拠たち
アルギュロスがシャトンと約束をしてから、一年ほど経った頃。
「……今、何て言った?」
彼は今、レイツェルに対するクラベールの暴挙の証拠を集めた書類を眺めていた。ついでに傍らにはシャトンに関する不貞の証拠もある。
前者はレイツェルがクラベールと決別すると決めた時に使い、後者はシャトンに婚約の解消を渋られた場合の保険だ。
そしてつい先ほど、レイツェルがクラベールを見限ったという話がアルギュロスの耳に届いた。
「レイツェル様とシャトン様を比べて、出来損ないだと言ったそうです」
長年アルギュロスに仕えている青年――ガーベル――は、何とも言えない表情を浮かべる。
糸目以外は特に特徴のないガーベルだが、従者としてはとても有能だ。隠密に護衛、執務の補佐まで何でもできる。
そのガーベルの情報によると、クラベールはレイツェルに出来損ないと暴言を吐き、婚約解消をチラつかせたらしい。
「あいつは、馬鹿なのかな?」
「どうやら、シャトン様の入れ知恵みたいですよ。好意を確かめるなら、嫉妬をさせて冷たく突き放すと良いと」
「それで、婚約解消を匂わせた……と。シャトン嬢にも困ったな」
最近のシャトンは、アルギュロスとの婚約解消に消極的だった。
孤児院への慰問などを積極的に行い、周囲への評判を上げる事に躍起になっている。これでは、婚約を解消した際に周囲から反感を買う恐れが出てしまう。
(僕に婚約解消をさせたくないのだろうな)
アルギュロスは、約束通りシャトンと庭師の仲を取り持つ為に動いた。
しかし、蓋を開けてみれば庭師の元恋人とやらは、現在は伯爵家に仕える新人の侍女に夢中だったのである。
シャトンと付き合ったのは彼女からの猛烈なアプローチによるもので、彼自体は期間限定の刺激的な恋人を楽しんでいたようだ。要は、恋人「ごっこ」の遊びである。
(問題は、婚約中に不貞があった事実だけれど)
シャトンと庭師は、頻繁に不貞を働いていた。
これは伯爵家に潜らせていた諜報からの報告であり、庭師は二股をかけている事になる。それが、自分を破滅させると考えないのだろう。何とも頭の悪い男だ。
『私、目が覚めました。やはり、貴族としての義務を果たします』
シャトンがそう言って来たのは、少し前である。
アルギュロスはシャトンに何も教えていなかったのだが、どうやら庭師と侍女の逢瀬を目撃してしまったようだ。同じ屋敷にいるのだから、当然か。
因みに、例の庭師と侍女は適当な理由をつけて父親に解雇させたらしい。彼女は、行動力だけはある。
『殿下は、レイツェル様と一緒になる気はないですよね? なら、相手は私のままでも良いはずです』
厚かましいとは、この事だ。
シャトンがアルギュロスとの婚約を解消する理由がなくなった今、彼女は自分の居場所を守る為に躍起になった。
『彼と結婚をしない訳ですし、例の約束は無効ですよね? なら、婚約も継続できるはずです』
確かに二人の婚姻を後押しする約束は無効になったが、婚約を続ける以前の問題である。
(我を通す姿が、クラベールと似ている気がする)
アルギュロスは「君は、皇太子妃には向かないよ。近い内に解消する」とはっきり告げてた。しかし、未だにシャトンは納得していないようだ。
(レイツェル嬢に対し、敵対心を見せるようになったのもその頃かな)
シャトンは、アルギュロス――というより、皇太子妃になる事に固執している。
元恋人が別の女に入れ込み、自分はもう皇太子妃になるしかないと自棄になっているのだろう。相手を見返してやりたい気持ちは、分からなくはない。
(だからと言って、何でも許せる訳ではないけど)
レイツェルを敵視するのは、アルギュロスの想い人だからだろう。嫌いになったというより、単純に面白くないのだ。
「僕はレイツェル嬢に対する嫌がらせだと思っているけど、ガーベルはどう?」
くれぐれも余計な事はするなと釘は刺していたのだが、なまじ思い込みが激しく行動力もある人間は言う事を聞かない場合がある。
シャトンはレイツェルが婚約者の言動に耐えている事を知っているので、更に追い込んで苦しめてやろうと考えたのかもしれない。
「最近のシャトン様を見る限り、そう考えるのが妥当でしょう」
「そうだね。最近は目に余るし、良い機会だからさくっと婚約破棄に持ち込もう。相手の不貞行為の証拠もあるし」
「解消ではなく、破棄ですか?」
「これでも、怒っているからね。それに、クラベールの婚約を破談させた切っ掛けが彼女だと父上が知ったら、どちらにしろ婚約の継続は無理だよ」
「あの方も、まさか破談になるとは思わなかったのでしょうが……流石のレイツェル様もクラベール様に愛想が尽きたようですしね」
「当然だよ。彼女が愚弟の婚約者を続けられたのは、貴族としての責任感が大きいけれど……皇子妃教育を耐えた自負もあるだろうからね」
吹けば飛ぶような僅かな情すらも消えるほど、心が傷ついたのだろう。だが、レイツェルにとって結果的には良かったのかもしれない。
「これから、どうされますか?」
「……まずは、父上に会う。僕ができるのは、彼女が愚弟から逃げ切れるように手助けをする事くらいだからね」
レイツェルがクラベールを見限った以上、婚約関係を続けるのは絶望的だろう。
耐えて、耐えて、耐えた末に壊れてしまったものは、簡単には元に戻せない。何より我慢強いレイツェルが、無理だと判断したのだ。本当に限界を迎えてしまったのだろう。
「……アルギュロス様は、レイツェル様をどうするおつもりですか?」
「今は、どうもしないよ」
「今は……ですか?」
「僕も婚約を解消しないといけないし、父上を黙らせる必要があるな。後は、クラベールの評判を底辺まで叩き落としてから、第二皇子派を潰す」
今まではレイツェルがクラベールの婚約者だったので遠慮をしていたが、目障りな奴らの身辺調査は徹的にしていた。
爵位も低く権力を欲する輩の大半は、犯罪に手を染めがちだ。横領、脱税に違法薬物。叩けば出るホコリたち。第二皇子派とレイツェルが無関係になるならば、遠慮なく使えるカードである。
「差し出がましい事を言いますが、アルギュロス様なら最初からお二人の婚約を破談に持ち込めたのでは?」
確かにアルギュロスが本気になれば、レイツェルたちの婚約を破談に持ち込めただろう。実際、当初は考えていた。
「レイツェルが望まない事をするのは、単なる偽善の自己満足になるだろう?」
レイツェルは、クラベールを支える覚悟をしていた。だからこそ、アルギュロスは思う。自分の方が幸せにできるからと、その意思を無視して動く事が果たして最良と呼べるのかと。
「僕は、レイツェルの覚悟を踏みにじりたくなかったんだよ」
気高いその意志を無視するやり方は、理想を押しつけるクラベールと同じだ。アルギュロスには、それができなかった。
(それも、言い訳か)
自嘲気味に、アルギュロスは笑みを落とす。
アルギュロスは、レイツェルの意思を尊重し見守る事を選択した。だが、それは何もしなかった事と同じである。
それが正解なのか、アルギュロスにも分からない。それでも、逃げてると決めたレイツェルの手助けくらいはしてやりたかった。
「もし、許されるのなら……いつか正々堂々と、彼女を迎えに行きたいな」
「まるで、許されないような口ぶりですね」
「僕は皇太子だからね。僕が望めば、強制力が働くだろう? 『また』無理やり皇室に縛りつけるのは、可哀想じゃないか」
「レイツェル様は、喜ぶと思いますが。あなたを見る目は、いつも愛情に満ちていますから」
「そうだと嬉しいけれど。でも、事後処理とかほとぼりが冷めるまで数年はかかるかな……」
「では、諦めますか?」
「いいや。もう他の奴に取られたくはないから、頑張るよ」
――もちろん、彼女の意思は尊重するけれど。
アルギュロスは穏やかに呟くと、机に置いていた書類を掴んで立ち上がった。