第01話 あの子は、弟のもの
ここから、アルギュロス側の話です。
レイツェルと想いが通じ合ったその日の夜、アルギュロスはとある場所へと足を運んでいた。
そこは城の敷地内にある小さな離宮で、罪を犯した皇族を隔離する為に建てられた場所でもある。周囲は閑散としていて、実に寂しい。
(ダメだな、顔がニヤけてしまう)
長い廊下を歩きながら、アルギュロスは緩みそうになる顔を片手で押さえた。
レイツェルに愛情を注ぐ見返りを求めていた訳ではないが、やはり向けられると嬉しさが込み上げてくる。
(手に入れる事を諦めていたのに……ヘルレーゼ様には感謝しかないな)
今日まで、色んな事があった。他人には話せない己の人生を、アルギュロスは振り返る。
「君は、美味しそうに食べるね」
最初は、ただの好奇心だった。
隠れてお菓子を頬張る少女を見つけた時、面白いと思ってついアルギュロスは声をかけてしまったのである。
「あれも、城の花には変わりないですよね」
いざ話をしてみると、レイツェルは少し大人ぶろうと背伸びをする可愛らしい少女であった。
アルギュロスの中で小さな興味が膨らみ、小さな花を差し出した時のキラキラとした黒真珠の瞳と気恥ずかしそうな表情に、胸の辺りがきゅうっと締め付けられる。
「僕のお嫁さんになる?」
その言葉は、半分本気だった。
予感があったのだ。きっとこの少女を知れば、興味が好意へと変わる事を。
時間をかけて距離を縮め、頃合いをみて婚約の打診をしよう。アルギュロスの中で、瞬時に未来予想図が出来上がったのは言うまでもない。
しかし、次に再会したレイツェルはクラベールの婚約者になっていた。
レイツェルがクラベールの婚約者になったと知った時、アルギュロスは多少なりともショックだった。
正式に発表される前に破談に持ち込もうと考えた事もあるが、クラベールが「絶対に大事にする」と言うので踏み止まった。そこまで言うならばと、泣く泣く身を引いたのである。
――それが、間違いだった。
「俺の婚約者なら、できて当然なんだ。もう少し頑張れないのか」
皇子妃教育で躓いた婚約者に対し、クラベールが放った言葉は酷いものだった。
レイツェルは泣き出しそうな顔を見せたが、ぐっと我慢をしてクラベールに謝罪をする。良くも悪くも、貴族の娘としての自分の役割を理解していたのだろう。
――クラベールの望む婚約者になる事。
まるで呪いのように、それはレイツェルに課せられていた。
「レイツェル嬢。僕で良かったら、分からない所を教えようか?」
婚約者ではないアルギュロスがレイツェルにできる事は、少しでも彼女の気が休まるように手助けをしてやる事だけだ。とは言え、出来る事は限られたが。
それでも、アルギュロスは手を差し伸べずにはいられなかった。
「いつもありがとうございます。アルギュロス殿下」
レイツェルは、人前で弱音を吐かない。皇子妃の教育が進むにつれ、作り笑顔と嘘が上手くなっていた。
しかし、アルギュロスを見つめる瞳だけはずっと変わらない。熱を含み、キラキラと星が散ったように輝かせる。
その瞳の意味が分からないほど、アルギュロスは鈍くはない。だが、立場がそれを受け入れる事を許さなかった。
「未来の義妹になるからね。助けるのは、当然だよ」
これは、レイツェルが弟の婚約者だという事を忘れない為の言葉だ。
もしアルギュロスが彼女を奪えば、醜聞になる。皇太子である彼は、失脚を狙う第二皇子派に弱みを見せる訳にはいかない。あんな脳筋でも、権力を欲する輩の傀儡にはなるからだ。
それに、レイツェルも無傷では済まない。不貞を疑われ肩身の狭い思いをする事は勿論だが、クラベールのレイツェルに対する執着が年々酷くなっていた。
「僕は、君には幸せになってほしい」
――できれば、君らしく生きられる場所で。
気丈で美しいが、本質は強がっているだけの可愛らしい女の子。アルギュロスにとってレイツェルは、誰よりも大切にしたい人物であった。
クラベールから逃してやりたいと思うが、婚姻は家同士の契約のようなものだ。それに、レイツェル本人がそれを受け入れている。
(もどかしいな……)
結局、アルギュロスがレイツェルにできる事など何もないのだと思い知らされるだけであった。