第02話 因縁のはじまり
――遡ること八年前。
レイツェルがアルギュロスと婚約したのは、彼女が八歳の頃だ。
皇后のお茶会に呼ばれた母親と共に城へ行った数日後、何故か婚約者になっていた。記憶が正しければ、皇后とは会話をしたが皇太子とは話をしていない。
その日の行動を敢えて言うならば、王宮のお菓子をモリモリと食べた事くらいか。
「はじめまして、レイツェル嬢。僕が君の未来の夫になる、アルギュロス・ヴェルデ・ジュアスプランドゥールだよ」
親同伴で行われた顔合わせの日。そう言って一輪の小さな白い花をレイツェルに差し出したアルギュロスは、物語に出てくるような王子様そのものだった。
(この人が、私の婚約者……。この人を見ていると、何だかとっても――)
――殺意が湧く。
脳裏に浮かんだ思考に、レイツェルは混乱する。だが、何とか頭を下げて誤魔化す。淑女の礼をとる手が、微かに震えた。
「レイツェル・オルヴァーリオと申します。皇太子殿下の婚約者として恥じぬよう、精進致します」
何度も練習をした挨拶を口にし、レイツェルは顔をあげた。
少し熱を帯びた若葉色の瞳と視線が交じり、彼は「うん。よろしく頼むよ」と優し気な声色でレイツェルに微笑みかける。
(殿下は、こんなにもお優しいのに……)
しかし、何故か相手の顔を見ているだけでレイツェルは胸の辺りが不愉快になるのだ。無性に腹立たしく、何なら嫌悪感すらある。
まだ八年しか生きていないが、レイツェルの人生でこんなに他人に対して嫌な印象を持った事はなかった。つまり、本能でアルギュロスに対して何かを感じているのかもしれない。
(お母様は、幸せは私次第だって言っていたけれど……)
レイツェルは、愛だの恋だのはまだよく分からない。それでも、燃えるような愛はなくとも将来は妻として夫を支え良き理解者でありたいとは思っていた。
それは貴族の令嬢としての役割を理解した上で、覚悟もしていたからだ。しかし、今は「この婚約、取消した方が良いのでは?」という気持ちが強い。
「レイツェル嬢。何か、心配事でも?」
婚約者同士の挨拶を済ませ、互いの両親が部屋を出た所でアルギュロスが声をかけてきた。俗に言う「後は若い者たちだけで親睦を深めなさい」という状態だ。
レイツェルは目を伏せながら、迷った末に口を開く。
「その、ご挨拶の時はあぁ言ったものの……やはり、私では役不足かと。私より相応しい方は、沢山いらっしゃいますし」
――主に、気持ち的な意味で。
間違いなく、優秀でアルギュロスの事が好きな令嬢はいるはずだ。少なくとも、相手に対してマイナス感情しか湧かないレイツェルよりは、マシである。
「レイツェル嬢。急に婚約と聞いて、驚いたよね。でも、僕は君に何かを求めるつもりはないから安心してほしい」
アルギュロスは、レイチェルを労るように言った。
「婚約者として最低限の義務さえ守ってくれれば、君は何をしても構わないよ」
「それは、どういう……?」
「君にとって、これは政略結婚だ。もしかしたら、君に好きな相手が出来るかもしれない。でも、僕は心が広いからね。その時は――」
――僕に知られないように、浮気をしてくれ。
真剣な顔で僅か八歳の少女に提言するアルギュロスに、レイツェルは目を瞬いた。あまりに予想外の言葉に、思わず聞き返す。
「……もし、殿下に知られた時は?」
おずおずと問うレイツェルに、アルギュロスは小さく笑った。その表情は、年相応に見えなくもない。
「うーん、その時は嫉妬で相手を八つ裂きにしちゃうかもしれないな」
それはまるで、世間話でもするかのように穏やかな声だった。
「八つ裂き……」
「でも、知らなければ怒りも湧かないから大丈夫。浮気をする時は、細心の注意を払うんだよ?」
(それ、ほぼ無理な話では?)
レイツェルは、何だか頭が痛くなってきた。
浮気は許すが、発覚すれば相手は八つ裂き。結局それは、許さないのと同じだ。
「……殿下は、私に何を求めているのでしょうか?」
婚約者として、妻として。義務を果たすのは当然として、相手が何を考えているのかが分からない。それに、アルギュロスと歳の近い婚約者候補もいたはずだ。
何故、選ばれたのがレイツェルだったのか。
「特に何も。君が、僕を愛さなくても構わない。僕と結婚をしてくれるなら、勉強の出来が悪くても、節操のない浮気性でも僕は受け入れるよ」
慈愛に満ちた微笑みを浮かべるアルギュロス。レイツェルは思わず、低い声で「はっ?」と声が出てしまった。
慌てて口をつぐんだが、まだまだ本音を隠すには未熟である。だが、確実にレイツェルの中である答えが導き出された。
(やっぱり私、この人嫌いだわ)
レイツェル自身、頭が悪いと誰かに言われた事はない。むしろ、家庭教師からは褒められている方だ。それに、まだ恋を知らないものの、浮気をするような人間ではないと自負している。
何より腹が立ったのは、レイツェルの気持ちなど「必要ない」と言われた事だ。まるで、中身のない都合の良い人形が傍にいれば良いと言われている気分である。いや、実際にそうなのだろう。
『幸せになれるかは、あなた次第よ』
ふと、レイツェルは婚約が決まる前に母親が言っていた言葉を思い出す。あれは、この皇子の性格を見越しての発言だったのかもしれない。
(……要は、誰でも良かったのね)
年下を選んだのも、自分に逆らわない可能性があるからだろう。
か弱い令嬢ならば、ここで悲観しながらも受け入れるか、成功する可能性は低いが両親に泣きついて婚約を解消してもらうかの二つだ。しかし、レイツェルは違った。
(私を婚約者にした事を後悔しなさい! 絶対いつか、泣きっ面を拝んでやるわ!)
レイツェルは、根本的に負けず嫌いだ。アルギュロスの言葉を嫌味や煽りと考え、宣戦布告と受け取った。
こうしてレイツェルは、いつの日かアルギュロスの泣きっ面を見る為に並々ならぬ努力をする決意をしたのだった。