第14話 完全な決別
(言った、言ってやったわ)
レイツェルは、少しだけ高揚した気分で廊下を歩く。
今までクラベールの顔色を伺っていたが、それももう終わりだ。後は、このサイン入りの紙を使って婚約解消に乗り出す。場合によっては「破棄」になるかもしれないが、そこは臨機応変で対応するしかない。
「修道院だろうが、勘当されようが構うもんですか」
普段より大股で歩きながら、レイツェルは興奮気味に呟いた。皇族の住居区域となるこの廊下を歩く事も、もうないだろう。
(……あっ)
不意に、皇族の住居区域にある庭園が目についた。
手入れの行き届いた生け垣の道を並んで歩く、二つの影。一つはアルギュロスであり、もう一つは愛らしい雰囲気の小柄な女性だ。
(久しぶりにお姿を見たわ)
亜麻色の長い髪に、翡翠色の大きな瞳。その女性こそ、アルギュロスの婚約者であるシャトン・シャエランだった。
二人の雰囲気は穏やかで、アルギュロスが何かを言うとシャトンが楽しそうにそれに答えていた。彼らはきっと、良好な関係を築けているのだろう。
(シャトン様。私は、あなたが羨ましい)
彼女は、レイツェルが欲しかった唯一を持っている。それがとても羨ましく、妬ましくも思う。
本当に、好きだった。叶うなら、隣に立つのは自分でありたかった。だが、もう何もかも遅い。
(最後に、ひと目だけでも姿が見れて良かった)
――どうか、お元気で。
この気持ちは、胸に秘めたまま墓場まで持って行くと決めている。レイツェルは唇をキュッと結ぶと、再び歩き出した。
レイツェルの訴えにより、クラベールの傍若無人ぶりが浮き彫りになった。
絶対に婚約を解消させると父親の侯爵は怒り狂い、皇帝に直談判をしたのは少し前だ。
皇帝は若さ故の過ちなので、更生する機会を与えて欲しいと願いでた。どうやら、クラベールがレイツェルと婚約解消するのは嫌だと泣きついたらしい。
「今度こそ、大事にすると誓う! 俺はただ、君の気を引きたかっただけなんだ!!」
そして張本人は今、レイツェルに縋っている。
(まったく、心が動かないわね)
本人からも事情を聞きたいと、レイツェルは城に呼び出されていた。
謁見の間では現在、「別れたくない」「考え直してくれ」と縋るクラベールの無様な姿が晒され、レイツェルはそれを冷ややかな目で見つめている。
「辛く当たったつもりはなかったんだ。君が俺の為に頑張る姿が嬉しくて……愛されているんだと感じたかった」
「私は出来損ないなので、さぞかしご不満だったのでしょう。婚約解消なんて言い出すくらいですから」
「君を否定するつもりはなかった。シャトン嬢から婚約者の愛情を確かめるなら、婚約解消をチラつかせて冷たくするのが効果的だって聞いて……」
「シャトン様から?」
「あの女が悪いんだ! 君に謝罪させるからっ……」
「……言い訳は結構。申し訳ありませんが、遅かれ早かれこうなっていました。もう、無理なのです」
「俺を『今は』愛さなくても良い。だから……」
「ははっ……この期に及んで、まだ自分が私から愛される人間だとお思いで?」
「レイツェル……」
「殿下と結婚するくらいなら、毒を飲んで死にます。このまま婚約を解消を受け入れるか、婚約者が自殺した問題のある皇子と後ろ指を指される人生を送るか。好きな方を選んでください」
レイツェルは、本気だった。もう、クラベールの婚約者として振る舞えるほど割り切れない。
「……クラベール。もう、諦めろ」
真顔で自殺を仄めかすレイツェルに、見守っていた皇帝も流石に二人の関係は修復不可能である事を悟ったようだ。
「父上!」
「聞き分けろ。これは、命令だ」
「そんな……うっ……」
皇帝の言葉に、クラベールは力なく膝を着いた。ようやく、もう無理だと悟ったようだ。
その後方では、父親同士がやり取りをしている。書類にサインをしているので、正式に婚約が解消されているのだろう。
「レイツェル嬢。愚息との婚約を解消する事を認めよう。どうしても令嬢と添い遂げたいという願いを、親としても叶えてやりたかったのだ。そのせいで、随分と苦しめてしまった」
ペンを置いた皇帝が、レイツェルを気遣うように言った。アルギュロスと同じ若葉色の少し垂れた目は、非常に残念だと言いたげだ。
「……いえ。ご期待に応えられず、申し訳ございません」
話し合いの結果、お互いの今後の評判の為に婚約は「解消」という形となった。
婚約解消の原因はクラベールにあるので「破棄」でも可能だが、慰謝料を請求しない代わりにレイツェルが婚約という貴族としての義務――家同士の繋がり――を放棄した事に関して問題にしない事と、今後はクラベールを関わらせない事を条件に和解した。
「解消の理由は、私の病気という事にしてください。療養という形で、数年は領地に引っ込みますので」
女性側の病気を理由に婚約を解消する話は、わりとよくある。大事なのは、跡継ぎを産めるかどうかだからだ。
(殿下は、体だけは丈夫だもの)
騎士団の訓練場で剣を振り回すクラベールを病気だと設定するには無理があり、何より「病気の婚約者を見捨てた」とレイツェルが悪く言われる可能性がある。
その点、レイツェルはクラベールが嫌がったので人前に殆ど出ていない。
『婚約者に迷惑をかけたくないので、身を引いた』
とでも言えば、それなりの美談になるだろう。逆にそんな婚約者を見捨てたとクラベールの評判が落ちる可能性もあるが、そんな事はどうでも良かった。
「それでは、クラベール殿下。今度こそ、お別れです。お元気で」
レイツェルは未だに放心状態のクラベールに挨拶をすると、父親と共に謁見の間を出た。