第10話 人生の分岐点
「……はぁ」
盛大な溜め息と共にレイツェルがお茶会の会場へと戻ると、いつの間にか動悸が落ち着いていた。一体、あれは何だったのか。
周りを見渡すと、第二皇子を囲んだ令嬢たちの群れ以外は保護者を含めて各々が好きに過ごしている。主催者の皇后の姿はなく、どうやら席を外しているようだ。
(お母様を見つけて、帰らせてもらおう)
持っていた皿――お菓子山盛り――を泣く泣くテーブルに置き、レイツェルは花を持って母親の元へと向かう。幸いにも、すぐに見つかった。
母親は仲の良い数名の夫人とお喋りしており、レイツェルは少し躊躇いながらも近付く。
「お母様」
「あら、レイツェル。姿を見かけなかったけれど、どこに行っていたの?」
「……お花を見ていたの」
本当は隠れてお菓子を食べていたが、レイツェルは周りの婦人たちを気にして嘘をつく。食いしん坊だと思われるのは、流石に恥ずかしかった。
「まぁ、可愛らしい花を持っているわね」
「レイツェルちゃんは、花が好きなの?」
近くにいた夫人たちが、レイツェルの持っていた花に気付いて声をかける。レイツェルは「はい」と頷くと、気恥ずかしそうに母親の傍に寄った。
「お母様。これ、押し花にしたいの」
「あらあら。じゃぁ、帰ったら乾燥させないとね」
(殿下から贈られた事は、黙っていよう)
その方が、何だか「特別」な気がする。
レイツェルが大事そうに花を持っていると、横からヌッと手が伸びて手元から花が消えた。そして、この場にいるはずのない少年の声が響く。
「何だ。ただの雑草じゃないか」
そこにいたのは、レイツェルと同い年の少年だった。
アルギュロスとはまた違う、意思の強さが宿った若葉色の目に短く切られた金色の髪。本日の主役、エッセンディア帝国の第二皇子、クラベール・ジュアスプランドゥールである。
(この人、さっきまで令嬢たちに囲まれていたはずじゃ……)
母親の元へと向かう途中で見た、令嬢たちの群れ。その中にいた気がするのだが、何故か第二皇子はここにいる。いや、それよりも奪われた花だ。
「殿下、申し訳ありません。それは、私にとっては大事な花なのです。返していただけませんか?」
「この雑草がか? ……まぁ、良い」
クラベールは信じられないと言いたげだったが、花をレイツェルに返した。「そんなモノより、温室の薔薇の方が美しいのに」と言われたが、反論したら面倒くさそうなので聞かなかった事にする。
「君は確か、オルヴァーリオ侯爵のご令嬢だな」
「……はい、殿下」
お茶会の最初に挨拶をしたくらいで、レイツェルとクラベールに関わりはない。挨拶以外でまともに会話をしたのは、今が初めてだった。
何を言われるのかと身構えていると、彼は高らかに声をあげる。
「決めた。俺は、君を婚約者にする」
「……はい?」
聞き間違えかと思い、レイツェルは聞き返した。周りの――特に令嬢たち――の視線が痛い。
母親は「あら」と驚いた表情を浮かべ、夫人たちも「まぁっ」と興味津々だ。敵意と好奇。どちらの視線も居心地が悪い。
「聞こえなかったか? 君を婚約者にしたい」
「えっと……何故、ですか?」
レイツェルの素朴な疑問に、クラベールは当然と言わんばかりに胸を張った。
「俺は、妻にするなら薔薇が似合う華やかで美しい女性が良いと常々思っている。俺は、薔薇が一番好きだからな」
「はぁ……」
「君は、まさに理想だ。それに、君を見た時に雷が落ちたみたいに胸が震えた。きっと、俺たちは運命だと思う」
(……私は、何も感じないけれど)
どうやらクラベールは、ここに来た令嬢は全員自分に興味があると思っているようだ。自意識過剰だと、レイツェルは何とも言えない表情を浮かべる。
容姿を褒められて悪い気はしないが、何だか相手が偉そう――実際、偉いが――なので、まったく心に響かない。
(話を勝手に進めるのは、血筋かしら? いや、アルギュロス殿下は、まだ話を聞いてくれたわ……いや、あれは面白がっていただけだけど)
ふと、レイツェルは先程の事を思い出す。
『君、僕のお嫁さんになる?』
ポポポッ。レイツェルはアルギュロスの顔を思い出し、頬を染めた。治まっていた動悸が、また始まってしまう。
レイツェルは違う違うと首を振り何とか平静を取り戻すが、クラベールは彼女の反応に満面の笑みを浮かべた。
「そんなに嬉しいのか。俺としても、願ったり叶ったりだ」
「違います」
思わず否定したが、紛れもなく本心だ。しかし、クラベールにレイツェルの真意は届かない。
「恥ずかしがる必要はない。君は、素直に俺に選ばれた事を喜べば良いのだから」
(何故かしら。癪に触るわね)
レイツェルは嫌な気持ちが抑えきれず、思いっきり顔を顰めた。だが、それに気付いた母親が慌てる。
「で、殿下。この件は、娘だけの問題ではありませんので、主人と相談させていただきますわ」
正式に申し込むならばこちらも考えると母親が伝えると、クラベールは納得した素振りを見せた。
「それもそうだな。こちらから正式に申し込む事にしよう」
「ありがとうございます」
明らかに安堵する母親だが、レイツェルは今すぐにでも断りたい気持ちでいっぱいだ。だが、余計な事を言わせまいとする母親に口を抑えられているので、それは叶わない。
(お父様に、断ってもらおう)
オルヴァ―リオ侯爵家は古い家門であり、それなりに発言力がある。皇帝も父親には一目置いているので、無理強いはしないだろう。
しかし、レイツェルは幼い故に失念をしていた。いくら力がある家門でも、皇族には本気で逆らえないという事を――。
「すまない、レイツェル。殿下が、どうしてもお前が良いと言ってな……陛下を説得する事も叶わなかった」
――数日後。疲れ切った様子で謝罪をする父親に、レイツェルは幼いながらに申し訳なくなった。きっと、色々と働きかけてはくれたのだろう。
レイツェルは、あの申し出の時に完膚なきまでに振れば良かったとすら思うが、後の祭りだ。そもそも、一介の令嬢が皇子を振るなど言語道断である。
「特に皇后陛下は第二皇子を可愛がっているから、この縁談に積極的なんだ」
「……そう、ですか」
「レイツェル。この先、辛い事も多いと思うけれど……政略結婚は決して不幸ではないのよ」
そう口にしたのは、母親だった。
一見すると恋愛結婚の方が幸せに見えるかもしれないが、政略結婚も悪くないのだと説得される。だが、レイツェルの両親は恋愛結婚なので、あまり説得力がない。
「レイツェルは愛されているのだから、きっと幸せになれるわ」
「愛されていると、幸せになれるの?」
果たして、そうだろうか。そう疑問は浮かぶが、家族の愛情しか知らないレイツェルには、議論する為の経験がなかった。
「勿論よ。殿下はきっと、レイツェルを大事にしてくれるわ。幸せになれるかは、後はあなた次第よ」
一緒にいれば、いずれ愛情も芽生えるはずだと言われ、レイツェルは小さく頷く。
本当は嫌だが、確かに何もしないまま相手を拒絶するのは良くないと思い直す。それに、皇族に嫁ぐ事は名誉な事だ。
「……分かったわ、お母様。私なりに頑張ってみる」
ふとレイツェルを見つめる柔らかい若葉色が脳裏を過ぎったが、気付かないフリをする。
母親の慰めの言葉を頭の片隅に記憶し、レイツェルは第二皇子であるクラベールの婚約者となる事を了承した。