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眠りのない街

作者: 篠江 一

〈メルクリウス〉は水の都です。市内には街区を縫うかたちで運河が網目状に張り巡らしてあり、水上タクシーや水上バスの他、船首・船尾の弓なりに高く反り上がった細長い伝統的な手漕ぎの舟が交通の便を担っています。運河の両岸にはセピア調に褪せた煉瓦造りの建築物が端正に櫛比しており、水面を辷る舟で巡る静謐な街並みには歴史ある上品さとでも呼べそうな落ち着いた雰囲気があります。この都にはいつも寝ぼけ眼なのんびり屋の人々が住んでいます。

 彼ら――ホモ・メルクリウスはまどろむ人々です。半醒半睡の状態で日々の生活を営む寝ぼけ眼の彼らには、完全な眠りもなく、また、完全な覚醒もありません。彼らの意識の針は常にその中間の微妙なレンジを揺らめいています。だから彼らの家にはベッドがありませんし、そもそも眠りという概念がありません。彼らは身を横たえて休むためのスペースを必要としないのです。仮に――ゆったりと過ぎる時間を何より愛する彼らにはそうないことですが――大変な仕事の後でへとへとに疲れ、針が眠りの側へと大きく振れていたとしても、椅子か何かに腰掛けてうとうとしている時間がいつもよりいくらか長くなる程度であり、生理的な意味合いで完全に意識を喪失することはありません。そしてそれで平気なのです。彼らの意識において明晰な部分とそうでない部分の境界は非常に曖昧なものであり、うっすら起きているのだとも、浅く眠っているのだとも言ってしまえるコンディションこそが彼らの常態です。だから彼らには夜とか朝とかいう眠りに付随する時間の感覚がなく、店は何時でも空きっぱなしだし、通りや水路を往く人影が時間帯で絶えることはありません。

 そう言うと彼らが働き者の種族のように聴こえるかもしれません。しかし先程申しました通り、彼らはまどろむ人々です。いつも皆眠たげで、動作もとても緩慢です。彼らの瞼が薄くでも開いているからと言っていつも相手してもらえるとも限りません。役所だろうが昼時のレストランだろうが、うとうとする方が大事な時間だったら、彼らは周りのことなんてお構いなしにうとうとします。店番がおつりを数えるときはまず片方の掌に硬貨を広げてから一枚一枚反対の手の人差し指で指していくという数え方をしますし、船頭が櫂で水を押すモーメントも本当にこれで舟が前に進むのかと不安になるほどにゆっくりしています。

 けれど、舟は確かに水面を辷り出します。都市の経済は平穏無事に回っています。彼らの都市を流れる運河のごとく、滞りなく、緩やかに。例え瞼の重たげな半睡の勤め人ばかりでも、意識の半分が常に覚醒している以上、引き延ばした時間で見るなら彼らの勤勉度は昼間一杯活動して夜にぐっすり眠るわたしたちとそう変わらないはずですから。

 案外上手くいくのです。眠りのない街、〈メルクリウス〉。

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