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未だ夜明けじ

ソエは焦っていた。

旅人とはその道程の上で必要なものを取捨選択し、できるだけ少ない荷物で土地を渡り歩くものであろう。

まだソエはそのように思いきることはできなかった。

ときたま、何の行商かと問われることがあるが、背中の巨大な荷物の中身は刺繍の気に入っている毛布、大きさの違う椀六個、繕い物に使おうと取ってあるぼろ布…………殆どが、何かのためにと溜め込んでいる物だった。

そして背嚢にどうにも収まりきらないズボンだのスカートだの、見た目は悪くなっても着込んでしまえば運べるだろうと考えたのが始まりで、常に重ね着するのが癖のようになっていた。

そのため、ズボンにスカートが絡まり、足さばきが上手くいかない。さらに突然出現した火柱に絞り出される汗が、衣服を身体に貼り付かせる。

汗が出るのは暑いからだけでもない。

本当は、荷物の中にもっと動きやすいサンダルも持っているのだ。それもやはり大きさの関係で、嵩張る木靴を履いてうろついていたのである。

端的に言って阿呆である。

だが、装備が適切ならばコルハクーを簡単にいなせたかというと、そうはならなかっただろう。

腕力や脚力だけでは覆せない、経験や洞察力によって目に見えない罠へと徐々に追い込まれていっている錯覚を覚える。

顔の皮膚は赤い空気に圧迫され息苦しい。身体からは粘つく脂汗が滲み出し、己の鼻腔に届く臭気はこの時には不快である。

おまけに敵を油断させてミンフの毒の髪を編み込んだ飾り紐―――これは意識して身に付けていた―――をぶつけるという渾身の作戦が不発に終わってしまった。

昔読んだ小説では、主人公はこの手で強敵を打ち倒していたのだが。

ソエの身体能力では限界があるのなら、もう一つの奥の手を使おうか?

それは、ミンフの伸びた爪を切って集めておいたものである。

コルハクーの腕より飛びだす斬撃から逃げ回りながら、ポケットから小袋を取り出す。これを周辺にばら蒔けば、どこか露出している皮膚に触れるかも知れない。

そのとき、どこからか現れた矢が、ソエに程近い空間を切り裂いて飛んで行った。

見ると樹の根元、昼間には獣のように繋がれた女がいた場所に、今は男がいて次の矢を弓につがえていた。

――――この男の標的はどちらなのか。

コルハクーも同じく逡巡したのか、一瞬の隙間ができる。その赤く照らされた顔は、怒りとも喜びともつかぬ表情によって口が耳まで裂けたように見えた。

今だ!

ソエは手に握ったままであった飾り紐を、コルハクー目掛けて投げつけた。

コルハクーはそれを目の端で捕らえ、剣で絡めるように受け取り、弓を構えている男に向かって放り投げた。

男は慌てて構えの姿勢をやめて、弓の先で汚なげに紐をはたき落とした。

力無く地面にへたりこむ紐。

ソエは地団駄を踏んだ。比喩ではなく。この紐を作るのにどれだけの時間がかかったと思うのだ。まず髪を鋤いたときの抜け毛を集めておき、用意した糸と撚り合わせ…………。

ならば爪をと思ったが、情報をくれたミシニのことを思い出す。もし弓の男がミシニの夫役であれば、撒いた毒に巻き込まれて死んでしまうのは忍びない。

――――邪魔くせぇなぁ!

ソエは心の中で口汚く罵りながら、必死で応戦した。

弓の男も剣に持ち変えて、共に戦いだした。

しかしコルハクーは更に進化したようである。その刃は一層鋭さを増し、炎すら下僕として従える鬼神のように二人を圧倒していた。

その大仰なようで巧緻な動作によって、相手にしている二人が相討ちするよう誘導されることも数度。さりとて片方が離脱することもできぬ、まるで掌の上で遊ばれているような状態だった。

だが、コルハクーは止めを刺す楽しみを大事に取っておいたわけではない。

結局は二人の健闘が、コルハクーに決め手を与えなかったのである。

三人を遠巻きに、まだ生きている村の男たちが集まってきていた。皆、魅いられたように棒立ちでいる。

ソエの意識が、僅かに朦朧としてきた気がする。

熱による皮膚の痛みにはほぼ無感覚になり、周囲の時間の流れが遅く見える。爪の入った小袋は、いつの間にか地面に落ち踏みにじられていた。

飾り紐を再び拾いあげ、コルハクーに向かって投げる。

それは今度は火の中へと打ち落とされた。

ソエの手には紐から毟り取った繊維があった。この中にミンフの髪があるのかも判らぬが、片手に持っていた矢の先に力任せに巻き付けてコルハクーに襲いかかった。

背後を取る。だがあらぬ方から腕が伸びてきて次の瞬間には脚を掴まれ転びそうになる。そのとき首筋を狙って腕を振り下ろしても、地を削る衝撃ばかりが身に残る。



そのときは突然やってきた。

「どれ」が「どこ」に作用したのかは誰にも判らない。

コルハクーの動きが停止した、と思うと、その全身に無数の球のようなものが膨れ上がった。

明らかな異常にヨクンは固唾を飲んだが、襟首を掴まれ、コルハクーから引き離された。

ソエが安心したように息を吐くのが聞こえた。

自分の腕力で打ち倒す気も十分にあったが、やはりミンフの力がなければ無理だったろう。

何が起きたのか、コルハクーは身体中の血管全てを突き刺されるような肉を挽き潰されるような脳を掻き回されるような

痛い!!!!!

子供のように泣き喚くことすらできぬほど押し潰され、視界は回転し続ける。

だが、この毒を受けて尚、倒れず二本足で立ち続けている人間を初めて目の当たりにし、ソエが少なからず恐怖を感じていることを知れば彼の慰めにもなろうか。

相手が飾り紐を持ち出してきた時から、何かが起きるのだろうという、漠然とした予感が敷いた理性のみがただコルハクーの体勢を維持せしめている。

心臓はとうに止まっていた。醜く膨れ上がった身体は顔面から地面に倒れた。

見守っていた男たちは呆然と立ち尽くす中、ソエはためらうことなく死体を持ち上げ、都合よく燃えている巨大な火の中に投げ込んだ。

コルハクーの影は緑色に発光しながら消えて行った。

そうだ、最初にも一人、毒で死んだ男がいる。

自分たちにあてがわれた小屋に飛び込むと、死体は消えていた。暗がりの中、荷物がひっくり返されているらしいのを見ると、検分が入って処理されたのだろう。

特殊な死に様のものを残して置きたくはないが、今は探している時間はない。

振り返り、再び走りかけたソエの前に、共に戦っていた男が立ちはだかった。毒はくらっていないようである。

「お疲れ様……ミシニから聞いたと思うが、俺はヨクンと言うんだ。麓の街から来た」

「ああ、お疲れさん」

初めての会話だ。

「コルハクーのこの死に方は……」

言葉を続けるヨクンを背に、ソエは駆け出した。

ミンフのいる屋根!

確かここだったと登って探ってみるが、いない。

やはり、先ほどフシエに連れられてどこかへ行ったのは見間違いではなかった。この暑さの中で、内臓が搾られるように冷たくなる。

「おおい」

気まずそうにヨクンが声をかけてきた。

「さっきそこにいたミンフに会ったんだ。他の奴に見付かっていたから、お嬢さん付きのフシエという召使いに預けたんだよ」

ソエの内臓が少し元に戻った。屋根から降りる。

「なんだ、フシエも仲間なのか」

「いや…………わからない」

「あ゛っ?」

変な声が出た。

「信頼できそうだったから、屋敷の中ならむしろ安全だろうと連れて行ってもらったんだ」

ヨクンは開き直り、背筋を伸ばして説明した。

「わかった。屋敷の中案内しろ」

静かにソエは命令した。顔は炎以上に紅く染まり、筋肉が引き攣って鼻の上に横皺が何本も刻まれている。

ミンフの身に何か起きていれば、ヨクンはそこで八つ裂きにされるだろうと思う。

それは当然だろう。仕方あるまい。

そう思っても、ヨクンの心に影がさすことはなかった。

コルハクーが死んだ。













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