コルハクー
遠くの戦闘の音を、土地の主は寝台に横たわったまま聴いていた。
この居室は屋敷の奥、村の小屋群から離れた場所に位置するが、コルハクーの耳は早い段階で異変を察知していた。
状況を報せに来るものはいない。些細な問題は事後報告で済ませるようにと命じている。
そのまま耳にざわめきを通し続け――――もう俺は終わりだな、と結論づけた。
今までにない程に騒動が長引いているのは、ヤカフがもうコルハクーの側近として動いていないからだろう。
死んだか、それとも裏切ったか。産まれたときから隣
にいた男だが、どんな可能性でも考えられる。
そして、いないのならこの村を維持する理由も力も自分には無い。
まだコルハクーが少年の歳の頃である。
麓の街に、「中央」からの巡視官がやってきたので街の領主や名士たちが盛大な宴を催した。
コルハクーも父親に連れられてそこに参じた。
少年が巡視官の男に抱いた印象は「愚劣」。宴席の一角から眺めただけでそう感じた。
男は大量に並べられた料理を時折つまんでは不味そうに押しやり、酒を周囲の者に押し付けては大量に飲ませては、ひたすら自分の偉大さをまくし立てるのだった。
領主や権力のある大人たちは、その男に媚びて侍る。
余興として用意していた踊り子と楽師が会場に進み出たとき、巡視官はそんなものには飽きたと言い出した。自分は「中央」で散々鑑賞してきたのだし、都会と田舎では質の違いを比べるまでもない、と。
狼狽する領主たちに巡視官は、彼らの妻や娘を代わりに踊らせるよう提案した。もてなすのに相応しいではないか。
男たちは帯同していた妻や娘を会場の中央へ押しやり、ここにいない者は家に早馬を向かわせた。
酔っ払いの集団に囲まれた女たちは、なんとか笑顔を造り、手足をぎこちなく踊らせる。同郷である周りの男たちは、妙な興奮に突き動かされ口笛やおひねりを飛ばした。
その端で、立ち竦んで震えている若い娘がいた。その貿易商人の娘はコルハクーと同年代で、顔を会わせることも多かった。
愉快そうに女達を眺めていた巡視官は、その娘に目を止め、初めて腰を上げて歩み寄った。
「どうした?私を歓迎する気がないのか?」
その舐め回すように娘を見る視線!場内の空気はみるみるうちに冷えていく。コルハクーも知らず拳を握りしめていた。
華奢な肩に、汚い手が伸びる………その時、鋭い声がその手を遮った。
「わきまえられよ。歓迎を要求するならば、こちらはそれ相応の品位を求める」
静かに怒りを湛えた眼で周囲をぐるりと見渡したその男は、この街で領主に程近い地位の高い者―――つい先日、ヨクンという男児が産まれた―――だった。
諫言により、巡視官よりもその周りの人々が冷静さを取り戻してゆく。
あの頃は、まだ権力者達の間にも良心というものがあった。領主を除いては。
女たちは皆その場を後にし、男たちは巡視官を宥めてまた飲み食いを始めた。
コルハクーは心の中で密かに熱狂していた。
あの可憐な娘が汚されなかったことよりも、ヨクンの父親の厳粛さに焦がれた。
遥か後にコルハクーの知ったことだが、そもそも巡視官に宴会や贈り物を提供するのは不法であった。
このときの巡視官は、様々な罪によってやがて処分されたという。
そして二十数年の後、その男が正義の為に息子を間諜として送り込み、自ら命を絶った。
ヨクンが接触してきた目的は見当が付いていたものの、まさか工作の為に自殺までやってのけるとは………
報告を受けたコルハクーは歓喜のあまり卒倒しそうになった。
そして今、その決意の死の落とした種が花開こうとしている。
惜しむらくは、この騒動の張本人であろうソエとミンフが、おそらくヨクンとは無関係だということだ。
「中央」の軍部が、こんな地方に兵士として女二人を派遣するとは考えにくい。ヨクンが外部と接触した様子もここ数年は見られない。
女たちが騒動の火種を起こし、ヨクンがそれに便乗して行動していると想定する。
醜い顔をしたソエの裸を見た後の、ヤカフの浮かれた様子を思い出す。さて、あの兄貴は今どうしているのやら。
部屋の隅に控えている側女も、ようやく外の騒ぎに気付いたようである。衣擦れの音が増え、落ち着かない様子だ。
コルハクーは動かない。
あれから程なくして彼の父は亡くなった。
跡を継いだのは、父の兄である伯父だった。若年ではあるが能力に優れたコルハクーではなく、祖父に後継者として選ばれなかった伯父。
それは父の妻、コルハクーの実母の影響があった。
あの女は常に何かを憎まずにはいられない人間だった。さほど高い身分ではないが庶民でもない家に生まれ、父と結婚したことで地位が引き上げられたのが、むしろ父に見下されているようで気に入らなかったのだろうと思う。
だがそんなことは、あの女に面と向かって問いただしたことなどない。息子が幼いときから、互いを肯定し合える会話が成立しなかった相手である。
伯父とは我儘同士で気が合ったのだろう。父の生前から二人の密会は噂になっていた。
やがて父は不自然でない死を迎え、家督は条件も能力もそれに耐えうる息子ではなく、伯父が継いだ。実母が全ての反対を押し切り、決定させた。
そうなることを予測していた父は、予め密かにコルハクーに別に財産を遺していてくれた。――――そんな、落ち度を作らないような性格も、根本的に実母には合わなかったのだ。
生まれ育った屋敷を発つ朝は、程よい涼しさで気持ちがよかった。冬になるまでにどこか都会で居を構え、女房になる女でも見つけて適当に働こうと思った。
働いたことなどないが、なんとかしよう。海を見たことがないので、それに近い所に行ってみたい。
そんな計画を立てながら馬を取りに厩舎へ行くと、ヤカフが当然の顔で待っていた。壮年の馬丁は、悲劇に見舞われたお坊ちゃんの旅立ちに涙ぐんでいた。
二人とも、この屋敷が真の主に取り戻されるのを期待していた。
――――というわけだからまた帰ってきて伯父夫婦や種違いの弟妹を殺しました、などということは口が裂けても言えない。
清浄なヨクンの父親に対して感じた崇拝の念とは、「異端者」であることへの憧れだ。
その眼光でつまらない日常を切り裂き、衆愚の投げる石によって斃れる、滑稽なほどの厳しさ、美しさよ。
昔のコルハクーは端から見れば、穏やかで公正な人間だと評されることが多かったが、その実、興味を持てない事柄が多かっただけである。
街道で初めて通りすがりの商人を手にかけ積み荷を奪ったときも、まず考えたのは盗品の売り方だった。罪の意識が欠片も生まれないことに、自分でも些か驚いた。
それから徐々に部下を集めていったが、魔法使いのタミーウンに偶然会うまでは、その先どうするか考えていなかったことも周囲に露呈していないのなら良いと思う。
剣の腕、知識と教養、機をみる力。コルハクーに大きく欠けているものはないが、この「村」はヤカフの優れた交渉力や社交性があって成り立っていた。
だから、これで自分は終わるのだ。既に倦んでも、なお他人を玩具にして遊んだ者が懲罰を受けるときだ。
「報告致します、…………お頭、村に賊が現れて、戦闘しています。仲間がもう、大勢殺されました」
側女が扉を開け、若い男が震える声で状況を述べた。
主の逆上するのを恐れているのだろう。
「今行く」
男の言葉が終わる前に、コルハクーは身支度を整えていた。常に居室に用意されている、簡素で頑健な鎧と、よく手入れされた愛用の長剣である。
自分は終わるのだからと言って、手をこまねいて死を待つつもりはない。
賊は始末する。ヨクンの父親とも、徹底的に対決するつもりでコルハクーは外へ足を踏み出した。




