紐、あるモブの死ー2
結局、狡い人間でいるのが一番気楽だと思う。
最後に成功しようがしまいが、目の前の利益に簡単に飛びつける賢さ、貪欲さ、俊敏さ…………
屋根の上で見つけた物の話をした後のヨクンの豹変ぶりに、ヤーンシは自分が下手を打ったのだと思った。
きっとあれは今暴れている女の仲間であれをどうにかすればお頭に褒美とかもっと偉くなれたり良いことになるのにそれをヨクンに横取りされてしまう。
普段、花瓶か何かのように静かな男が、今はさながら風を切り裂き駆ける獣である。目指すは「何か」のいる屋根の上。
ヤーンシも必死でその後を追った。
道を片付けている男が、死体を蹴るなと怒鳴る。
この男は何よりも死体処理が好きだ。
件の屋根の下に到着し、見上げるとヨクンが屋根の横木に話しかけていた。だが、横木にしては太いので、やはりあれは人間が寝ているのだろうと思われる。
「ミ…フ…聞いた……ソエ……伝う………」
口八丁手八丁で丸め込めるのというのか、相手は黙って話を聞いているようだった。
「オイお坊ちゃんよぉ!!すげぇ速さで走ってたなぁ?」
耳を澄ませているヤーンシの背後で突然大声が響き、彼は飛び上がった。
ノホイテが、取り巻きの二人とともに屋根の下に立つ。
致し方あるまい。ヨクンの動きはそれほどに不自然だった。
「なんだぁ?そこに誰かいるのか?」
握った槍の柄で地面を叩きながら、ヨクンを睨み付ける。ノホイテは育ちの良さそうな者を目の敵にする人間である。
ヨクンは一瞬、目を泳がせ、遠くにある人物を見つけて大声で呼ばわった。
「フシエ!!フシエさん!!ちょっと来てくれ!!」
「答えろよテメェ!!どこ見てんだ!!」
やがて、小屋の裏手からフシエが現れた。地上のヤーンシたちからは見えなかった位置である。
「……どうかしましたか?」
警戒するようにフシエは男たちを見回して訊ねた。
この村において、女の地位は地を這うように低いが、フシエは特別である。
コルハクーにしてみればただの召し使いだが、その娘ハンミーヤの唯一の侍女。気まぐれに残酷な戯れに興じるお嬢様。そのお気に入りであるフシエに男たちは一目置いていた。
「そこにいるヤーンシが侵入者を見つけました」
ヨクンが落ち着いた声でそう説明したので、ヤーンシの心に光が差した。そうだ、俺の手柄だ!このお坊ちゃんはやっぱり良いやつだ!
「それで、この者はもう諦めて降参するというので、お頭の所に連行しましょう。案内してもらえますか?」
なるほど、生け捕りと言うわけか―――――ならば、もう一人のさっきから暴れている女はどうする?
ヤーンシは考え始めた。何か良い方法は?頭の中が高速回転して、周囲の変化が見えなくなる。
ヨクンは、侵入者に屋根を降りるよう促した。
丸太がぎこちなく起き上がり、細長い女の影が夜空の僅かな明かりの中に浮かぶ。それは怯えており、確かに戦闘する気配は見えなかった。
その身長ならば苦もなく降りられるであろう屋根から、不器用に滑り降りて、侵入者はフシエに駆け寄った。
まるで友人のように。
―――――閃いた!!
今度はヤーンシが一目散に駆け出した。睨み合う男たちはそれに一瞬気を取られたが、あいつは捨て置こうと思った。
今、ヨクンも何食わぬ顔で必死に思考を纏めている。
地上のこの位置からは見えないが、屋根の上で村を取り囲んでいる結界が消滅するのを目撃したのだ。
つまり魔法使いが死んだ。
そう見せかけた罠だという可能性は切り捨てる。ソエに期待し続ける。
タミーウンが消えたとて、ヨクンの頭にあるのは喜びではなく新たな焦燥と処理すべき課題ばかりだ。
まず、麓の街への合図だが、発信できたとしてこの深夜に受け取って貰えるのだろうか?しかもここ数年は全く連絡できていない……
さらに、この村の男たちの逃亡について。
結界は支配者である男たちも、結局は閉じ込めていた。もうすでに逃げ出した者もいるかも知れない―――コルハクーに忠誠を誓った者ですら、安心できない。
そして目の前のこと。
ミシニから聞いた話では、ミンフは戦うことなど出来ないと言う。ヤーンシが誰かを発見したと言うので、もしやと思って来てみたが、全く攻撃の様子を見せないので事実かもしれない。
何か作戦を担っているのではと思って接触したが、余計に事態を混乱させてしまった気がする。
そしてどうしようかと思案する内に結界が消え、ノホイテが来て、両腕のなさそうな人影が歩いてくるのを見つけた。
ヨクンはフシエと言葉を交わしたことなどない。ハンミーヤの後ろに付いて駆け回るのを目にするだけだ。
だが、賭場でコヨーセトは言っていた。「お嬢さんが女二人を拾ってきた」
これは偶然だろうか?
勘ですらない、祈りと共に侵入者を権力者の側近に託す。
フシエは入り口の方角に目をやり―――村の中に立つ樹を見たようだ―――ミンフを屋敷へ連れて行こうとした。
「おーい待てよ」
ノホイテがフシエの首筋に槍を突きつけた。
「この女はあんたが連れてきたんだよな」
言い終わらない内に、ヨクンは男の首に握りしめた矢を突き立て、取り巻き二人も流れるような動きでまた倒された。
彼がこれ程素早く動くとは、誰も予想だにしなかった。
「行け!!」
ヨクンが叫び、二人は駆け出した。
見送る間もなく、ヨクンはノホイテの手から槍をもぎ取り――――名家の跡取りとして武具の扱いは一通り心得ている――――見張り台の下へ走り、肌守りの小袋から小瓶を取り出した。
魔法の火種が入っている、秘密道具その2だ。
蓋を開け、見張り台に投げつけた。
魔法が、包んでいた炎を材木に塗りつける働きをする。
この小瓶一つで屋敷が買える。
瞬く間に見張り台全体に火が回り、巨大な火柱となる。あとは自然な燃焼に任せるばかりだ。
結界に覆われていなければ、街からは十分に見える筈…………。
ヤーンシが何をしに消えたのかは分からないが、仲間を引き連れて裏切者の制裁に来ることも覚悟すべきだ。
「ヨクン!?お前が火を点けたのか!?」
聞き覚えのある声。仲間として関わっていた男。彼は躊躇なく飛びかかって行った。それは付きまとう不安を少しでも拭うためでもあった。
ヤーンシは良い方法を思い付いた。あまりにも良いので震えたほどだ。
武器庫から縄を借りて、自分の小屋に飛び込んでランプを掲げると、女はさっきのまま上体を起こして赤ん坊を抱いていた。
「おい、そいつ貸せ!」
赤ん坊の腕を掴んで取り上げる。
「いやっ………!何するのよ!?」
珍しく抵抗するのを蹴り倒し、ヤーンシは体に縄を回して、子供を己の胸にくくりつけようと試みた。
あの戦闘に入っているのは男だけだ。もし赤ん坊が盾になっているのを見たら、侵入者も少しは怯むだろう。その隙に腕か足でも傷付けて捕まえてやれば、俺の手柄だ!
ああ、うまく縛れない!
背中の腕は上手く避けて縄を回せたのに、問題はこの赤ん坊だ。まるで水袋のように崩れるのでちっとも縛れない。
泣き続けてうるさいので叩いてみるが泣き止まず、待てよ、うるさいほうが敵にもよく分かるだろうと思い直す。
なんとか押さえつけて、いけるか―――――突然、頭の中が弾けるような感覚。
もがきながら、女房に縄の端で首を絞められているのだとやっと理解する。
耳の外でうねる叫びは赤ん坊か己のものか。
あらん限りの力での抵抗は、むしろ首に噛みついた獣にこの身を蹂躙されている錯覚を起こさせた。
どれほどの時間が経ったか、女は、男の背中の腕がこれまでにない垂れ下がりかたをしているのに気付いた。
亡骸を後ろに引き倒し、血を流し鈍痛の広がる掌で床に転がされて泣いている子供を抱き上げる。
今はただこの子に乳をやりたい。
胸を出して乳首を唇に当てれば、子供は一心に吸い始める。
女は、そのまま外の物音をぼんやりと聴いていた。