ターン98 飛び出せ内臓
俺の問いかけに、ヌコ・ベッテンコートさんは答えない。
彼はただ無言のまま、短い両足を車内の床に踏ん張った。
左手は、天井のアシストグリップ――には届かないな。
ドアにあるグリップをしっかりと掴み、体を安定させる。
さーすが、チューンド・プロダクション・カー耐久選手権にも参戦してたショップの社長さん。
質問内容だけで、俺が何をしようとしているのか理解したみたいだ。
俺は〈レオナ〉の進路を右に変え、対向車線へと出た。
直線終点の闇の中で、緑色の光が踊る。
コース係員役がLED誘導灯を振って、対向車がいないことを教えてくれていた。
突然、左前方を走っていた〈エリザベス・ジェノサイダー〉のブレーキランプが点灯する。
奴はものすごい勢いで後退した――ように見えた。
実際にはただ、ブレーキを踏んだだけだ。
俺がまだアクセル全開だから、後ろ向きに突っ込んできたように見える。
そのままダークブルーの車体は、〈レオナ〉の後方に下がった。
これでひと安心。
奴が俺と張り合い、ブレーキングポイントを見失って事故らないかが心配だったんだ。
だけど、杞憂に終わったみたいだな。
さ~て。
そんじゃ俺もそろそろ、ブレーキを踏みましょうかね。
――ほっ!
ブレーキペダルを踏み込んだ瞬間、減速Gで4点式のシートベルトが体に食い込んだ。
キュッ! と、一瞬だけタイヤが鳴く。
ブレーキってやつは、なるべく制動序盤で強く踏みたい。
スピードが乗っている時は慣性力が働いているから、強い踏力を立ち上げてもロックしにくいんだ。
ただ普通の市販車は、ハードにブレーキングすると後輪が浮きやすい。
レーシングカーはウイングとかの空力部品が生み出す風の力で路面に強く押し付けられるけど、普通の車にはそんなの付いてないからね。
カートやフォーミュラカーみたいに、いきなりガツン! とブレーキを踏むと安定しない。
市販車だとンギュー! って感じの踏み方かな?
前輪が沈み込んだタイミングで、最大踏力になるイメージ。
だけどそのまま強い力で踏み続けると、やっぱりロックしてタイヤが滑っちゃう。
だから微妙に踏力を抜いて、コントロールするのが腕の見せどころ。
使うのは腕じゃなくて、足だけどね。
「ぐニニニ……。なんて強烈なブレーキングだニか……」
助手席でヌコさんが、苦悶のうめき声を上げていた。
俺達レーシングドライバーの運転に素人さんを乗せると、ブレーキかけた時に「内臓が飛び出す」とか言われるからな。
でもヌコさんは走り屋向け改造ショップの人なんだから、これぐらいのハードブレーキングには慣れていそうだけど――
〈レオナ〉のボディは軽いもんだから、速度はあっという間に落ちる。
ヒール&トゥでエンジン回転数を合わせつつ、ギヤを4速から2速まで落とした。
迫りくる左のヘアピンカーブを、充分曲がり切れる速度にまで減速。
俺は次のステップに入る。
「タイヤちゃん達、負担をかけてゴメンね」
そう断ってから、後輪を滑らせる。
ハードブレーキングで後輪が浮き気味だったから、ハンドル操作で簡単に尻は流れ出すんだ。
コーナー出口で〈レオナ〉の車体を真横に向け、完全に〈エリザベス・ジェノサイダー〉の行く手を塞いでやった。
この「スターダストウェイ」は、片側1車線の峠道。
〈レオナ〉が真横を向いて停車すると、後続車が横を抜けて逃げることは不可能だ。
停車した〈エリザベス・ジェノサイダー〉が、狂ったように警音器を鳴らしてきた。
バカか?
そんなんで、どくわけがないだろう?
下り坂で〈レオナ〉が転がってしまわないよう、俺は強くサイドブレーキを引いておく。
エンジンは――かけたままだ。
何かあった時、すぐに走り出せる方がいいだろう。
直前までブン回しながら走ってきたことだし、急なエンジンオフで冷却水の流れを止めるのは避けたい。
エンジンが、痛みそうだ。
素早く停車措置を済ませた俺は〈レオナ〉から飛び降り、〈エリザベス・ジェノサイダー〉へと駆け寄る。
最優先は、ヴィオレッタの救出だ。
俺が後部座席のドアを開ける前に、車泥棒の痩せた男が降りてきた。
厄介なことに、ナイフをヴィオレッタに突きつけながら。
「おーっと少年! それ以上近づいたら、この子の首筋からナイフが生えるぜ!」
自分では、気の利いた脅し文句を言ったつもりなんだろうな。
俺とヴィオレッタの冷ややかな視線には、気づいていないようだ。
運転席の大男も降りてきた。
素早く〈エリザベス・ジェノサイダー〉の助手席側に回り込み、キンバリーさんを引きずり出して、これまたナイフを突きつける。
う~ん。
この状況からの打開策が、ないわけじゃないけど――
奴らがもうちょっと、気を逸らしてくれたらなぁ――
今の状況からだと、ヴィオレッタやキンバリーさんが怪我するかもしれない。
ヌコさんはというと、〈レオナ〉の助手席から降りてこない。
大人なのに情けない――とは思わない。
戦闘力に自信がないのなら、安全なところでじっとしていてもらう方がこちらとしても助かる。
「おい! 少年! なに上着のポケットに、手を突っ込んでいるんだよ!? 手を出して、頭上に挙げろ!」
あ~。
ダメかな?
仕方ない。
リスクはあるけど、このまま仕掛けるか。
俺はヴィオレッタに視線を送り、合図をした。
怪我しないよう、上手く逃げてくれよ。
そこへ、野太い排気音が響き渡る。
たぶん、俺らを追ってきたクリス君の〈ヴェリーナ〉だ。
車泥棒コンビの視線が、一瞬だけ道路の上り方面を向く。
その一瞬だけで、俺には充分だ。
「ギャアッ!」
痩せ男のナイフを持った手から、血が噴き出す。
それに気を取られた大男の方も、次の瞬間には手の甲に穴が開いていた。
「ぐあっ! なんだ!? 銃を持っているのか!?」
「俺みたいな学生が、そんな物騒な物を持ってるわけないだろ?」
このマリーノ国で、銃の所持は違法。
持ってるのは国防軍の軍人さんと、警察官ぐらいのもんだ。
たまに犯罪組織とかが、ガンズ国家連邦から密輸したものを使っているらしいけど。
「お前らの手に穴を開けたのは、コレさ」
ポケットから取り出し、指でつまんで見せつけたもの。
それは、金属製のナットだ。
自動車をはじめ、様々な機械に用いられるありきたりな部品。
ウチの整備工場に、いくらでもある。
こいつを親指で弾き、撃ち込んでやったのさ。
射程距離は、約10m。
それ以内なら百発百中だし、それこそ小型拳銃並みの威力を出せる。
「嘘つけ! そんなもので、人の体を撃ち抜ける化け物がどこに……ギャッ!」
嘘じゃないって証明するために、足でも撃ち抜いてやろうかと思っていたんだけど――
その前にヴィオレッタが、痩せ男の股間を蹴り上げ悶絶させてしまった。
ならば残った大男の方を無力化しようかと振り向けば、すでにキンバリーさんに投げ飛ばされている。
こちらも失神。
なんだよ、キンバリーさん。
やっぱり強いじゃんか。
どうしてあっさり誘拐されるような、ヘマをやらかしたんだ?
脅威が無くなってひと安心していたところに、クリス・マルムスティーン君が車を降りて駆けつけてきた。
――危ね!
クリス君は見た目がザコ悪党だから、反射的にナットの指弾で撃ち抜いてしまうところだったぜ。
「キンバリー、無事か!?」
俺とヴィオレッタのことも、心配しろよ。
執拗に痩せ男の腹を殴り続けているヴィオレッタが無事なのは、誰の目にも明らかだけどさ。
心配されたキンバリーさんは、クリス君と目を合わせると無表情で――いや。
少し寂しそうな表情で、言い放った。
「クリス……。今頃ご到着ですか。ずいぶん遅くなりましたね」
それは単に、到着が遅れたことを非難しているんだろうか?
それとも――
「……チッ! 俺みてーに喧嘩の弱いザコが駆けつけたって、なんの助けにもなりゃしねーだろうが」
クリス君は、キンバリーさんから視線を逸らした。
ちょっと、拗ねているようにも見える。
「相変わらず、臆病な男……」
「ああ!? テメエ、喧嘩売ってんのか!?」
う~む。
キンバリーさんって、こういう辛辣なことを言う人だったか?
ぬらりとした怪しい笑顔を浮かべる変態さんだとは思っていたけど、こんな風に突っかかるなんてな。
クリス君、喧嘩を買うのはやめときなよ。
たぶん君、キンバリーさんには瞬殺されるよ?
「どうどう。2人とも、落ち着いて。とにかく、全員無事だったからいいじゃないか。警察を呼んで、車泥棒どもを突き出そう。……ヴィオレッタ。それ以上殴るのは、やめなさい。過剰防衛になるから」
俺が宥めると、クリス君とキンバリーさんはお互いプイッと顔を背け黙り込んでしまった。
その後――
俺達は麓のパーキングエリアまで降りて、キンバリーさんの携帯情報端末で警察を呼んだ。
そしたらクリス君は警察が来る前に、〈ヴェリーナ〉で走り去ってしまった。
あの野郎!
こんな山奥まで俺を連れてきて、置いて帰るとはどういう了見だ。
でもよく考えてみれば、これで良かったのかもしれない。
クリス君は車泥棒達の仲間だと間違われて、捕まっちゃいそうな風貌だからなぁ――
俺はヴィオレッタと一緒に、キンバリーさんの車で送ってもらえるし。
「FOOOOOO!!!!! 大変な目にあっただニ。死ぬかと思っただニよ」
一瞬「ヌコさん何もしてなくね?」なんて思ってしまったけど、よく考えたら違う。
ヌコさんが〈レオナ〉を貸してくれたから、ヴィオレッタ達を助けることができたんだ。
普通は初対面の――しかも免許取りたての少年に車を貸して、さらにカーチェイスを許すなんてあり得ない。
感謝すべきだろう。
「ヌコさんと〈レオナ〉のおかげで、助かりました。ありがとうございます」
俺に倣って、ヴィオレッタとキンバリーさんも頭を下げる。
「いやいや、こちらも助かっただニ。車泥棒どもには、おいちゃんも頭を悩ませていただニ。犯罪者が出没するようだと、この峠の使用許可が警察から取り消される可能性もあっただニよ」
ああ、なるほど。
ヌコさんは主催者の1人だから、車泥棒どもを捕まえてしまいたかったわけね。
「それよりランドール。おみゃーカートレースの経験しかない割に、ハコ車でも速かっただニね。ハコ車に興味があるならウチのショップ……『デルタエクストリーム』へ、遊びにこないだニか?」
き――きたー!
これはヌコさんのショップから、レースに参戦させてもらえるというフラグじゃなかろうか?
「デルタエクストリーム代表取締役」という肩書が入った名刺を受け取って、俺は舞い上がってしまった。
「ぜひ! ぜひ伺わせていただきます!」
「楽しみに待っているだニよ」
大収穫じゃないか!
クリス君、この峠に連れてきてくれてありがとう!
置いて帰ったことは、水に流してやるよ。
俺は意気揚々とキンバリーさんの〈エリザベス・ジェノサイダー〉に乗り込み、家まで送ってもらおうとしたんだけど――
「……ニャッポリート」
振り返るとヌコさんが地面を見つめたまま、怪しい笑顔で呟いていた。




