ターン89 白いカーテン
■□ランドール・クロウリィ視点■□
予選を走り終えた俺はピットであるテントへと戻り、マシンを降りた。
ヘルメットを脱ぎ、フェイスマスクもはぎ取る。
新鮮な空気が肺いっぱいに流れ込んできて、全身が軽くなった。
「お兄ちゃん、お疲れ様。ナイスランよ」
ヴィオレッタはそう労いながら、ドリンクボトルを手渡してくれた。
「大事な妹のトークアプリIDを、あんな変態エルフに提供するわけにはいかないからね」
「ふ~ん。ブレイズさんって、変態なんだ。美形なのに、残念ね」
他にもファザコンだったり、かまってちゃんだったり、生意気だったり、残念ポイントは山ほどある。
あいつみたいな男、お兄様は許しませんよ?
まあ誰だろうと、許すつもりは無いんだけれどね。
「ランディ君、お疲れ。駆動力重視に振ったセッティングが、見事にハマったみたいやな。……それにしても今年のパラダイスシティGPは、予選上位が軒並み中等部学生やね」
印刷された予選結果のシートを、ケイトさんが俺に手渡してきた。
目を通すと確かに、若手の台頭が目立つ。
俺、ブレイズ、ヤニが同学年で、今年15歳。
ルディがその1個下で、14歳。
1位から4位まで、俺の世代が独占していた。
予選の順位表に、ドライバーの年齢までは載っていない。
だけど有名ドライバー達の年齢は、大体把握しているからな。
ダレルさんとか、20歳前後のドライバー達は中団以降に沈んでしまっているようだ。
「そういえばさ……。もう1人、俺達と同い年のドライバーが参戦してなかったっけ?」
「ああ、名前は……なんやったかな? ブレイズ・ルーレイロと同じ、ハトブレイク国からのコやろ? 予選最下位や。どうも車のセッティングに、苦労しとるみたいやで」
もう1人の同級生は、気にしなくてよさそうだな。
警戒するべきは――
「ベテラン勢は、甘く見ない方が良いでしょう。おそらく明日の決勝に合わせて、雨用セッティングの準備を進めているはずです」
予選1番手を獲得してきたのに、ジョージはあまり浮かれてはいない。
俺も同じ見解だよ。
「はぁ~っ。やっぱり明日の決勝は、雨かぁ~。嫌だな。もういっそ、中止にならないかな?」
俺は雨のレースが嫌いだ。
「雨で速いドライバーこそ、本物」なんていわれるけど、それなら俺は本物じゃなくても構わない。
嫌いなものは嫌いだ。
雨で濡れた路面が、ツルツルに滑るのは全然構わない。
むしろタイヤが減らないから、個人的には歓迎だったりする。
嫌いなのは、前走車が派手に巻き上げる水煙。
複数台で走っていると、視界は真っ白になる。
特にカートはテールランプなんて無いから、他車のシルエットが見えた時にはもう遅い。
事故一直線だ。
目隠しされた状態で度胸任せに突っ走るなんて、そんなのはもうスポーツじゃないと俺は考えている。
――だから、中止になれ!
「中止になっては、困ります。資金援助してくれた企業に、申し訳が立ちませんわ」
――そうだよね。
マリーさんの言う通りだ。
彼女の実家であるルイスグループを始め、俺達は様々な企業の広告を背負い、この地まで来た。
中止になったら広告効果は激減するし、なによりガッカリされるだろう。
自社の広告を載せたマシンが活躍する姿を、スポンサー企業の関係者達は見たいはずだ。
「せめて、土砂降りにならないことを祈るか……。ホテルに戻ったら、てるてる坊主を作ろう」
「お兄ちゃん、『てるてる坊主』って何?」
おっと。
この文化は、地球から輸入されていないのか。
そりゃ、そうだよな。
地球でも雨乞いに比べると、晴れを祈願する風習というのは少ない。
こっちの世界でも、晴れ乞いはあまり聞かないな。
「てるてる坊主っていうのは、晴れを祈願する人形だよ。丸めた紙とかを、包んで作る。その人形を、軒下とかに吊るすんだ」
今の説明で、伝わっただろうか?
ちょっと自信がなかったけど、ヴィオレッタは分かったような顔をしていたのでよしとしよう。
「わかったわ。今夜私が、作っておく。晴れるといいね」
「そうだな……。晴れるといいな……」
俺は南の空を見つめる。
天気予報によると、そちらの方角から雨雲が迫っているらしい。
今は夏の日差しが、ギンギンに降り注いでいるっていうのに――
この日差しに明日も出会えるよう祈りながら、俺はホテルへと戻った。
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一夜明けて、レース決勝日の朝――
俺はホテルのバルコニーに出て、地上7階からパラダイスシティの街並みを一望しながら叫んだ。
「おおっ! 凄いぞ! 降っていない!」
確かに曇ってはいるけど、雨はまだ降り出してはいなかった。
午前中から、雨の予報だったのに。
「てるてる坊主が、効いたかな?」
ヴィオレッタは昨晩、完璧なてるてる坊主を作ってくれた。
俺は大雑把な説明しか、していないっていうのにね。
おかげでご利益たっぷりだ。
「やっぱり、俺の妹は天才だな」
「僕も一緒に作って、吊るしたんですよ?」
そう言いながらジョージもバルコニーに出てきて、隅っこを指差す。
「なっ! ジョージのバカ! 吊るし方が逆だよ! それだと、雨乞いになっちゃうんだ!」
俺はてるてる坊主くんを、慌てて正しい方向へと吊るし直した。
「バカとはなんですか。まったく……。そんな絞首刑みたいな吊るし方が、正しい吊るし方なんですか? そんなの、ヴィオレッタも理解していませんよ?」
「なんだって? まさか……」
不穏な空気を感じるぞ。
俺はヴィオレッタとケイトさんが泊っている部屋に行き、おそるおそるドアをノック。
部屋に入れてもらい、バルコニーを目指す。
そこで、目にしてしまった。
吊るされた、おびただしいてるてる坊主の群れ。
数は百を超えている。
その全てが――
「今日は、ダメかもしれない」
逆さに吊るされていた。
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「確かに、晴れてくれとは祈ったけどさ……」
「この状況は……最悪ですね」
俺はマシンの運転席から。
ジョージはその脇から、空を見上げた。
高層ビルの隙間から見えるのは、鉛色を通り越して真っ黒な空。
湿気を含んだ風が、ひやりと俺達を撫でつける。
――にもかかわらず、雨はまだ降らない。
すでにレースは、スタート進行中。
32台のモンスターカートが、整然とグリッドに並んでいる。
俺はもう、晴れてくれなんて祈ってはいなかった。
この雲行きなら、降らないでいてくれってのは無理だ。
あとは、どのタイミングで降り出すか。
早く――
早く降ってくれ。
でないと――
「時間です。僕達スタッフは、退去します。とうとう雨用タイヤは、使えませんでしたね」
俺とマシンの隣には、台車に積み上げられた4本のタイヤ。
通常履く、溝の無い晴れ用タイヤとは別物だ。
排水用の溝が切られたそれは、雨のレースでの生命線――雨用タイヤ。
晴れの日は絶大なグリップを発揮する晴れ用タイヤも、雨が降ってしまえば役立たず。
接地面積と剛性を稼ぐために排水用の溝がないから、水に浮いてしまうんだ。
そうなるともう、氷の上を走るかのようなフィーリングになる。
降るのが分かっているなら、雨用タイヤでスタートすればいいんじゃないかと思う人もいるだろう。
ところが雨用タイヤってヤツは、材質が晴れ用タイヤと全然違うんだ。
乾いた路面を走ると、あっという間にオーバーヒートしてズタボロになってしまう。
完全に路面が渇いている現状で、使用するのは不可能だ。
コース外に運び出される雨用タイヤちゃん達を見送る俺は、きっと物欲しそうな目をしているんだろうな。
そんな目つきをしているドライバーは、俺だけじゃない。
みんな雨用タイヤでスタートできる状況なら、レインでスタートしたかった。
32名のドライバー達と、それを支える全てのチームスタッフ達が天を恨む。
全車、晴れ用タイヤでのスタート。
降り始めた時のことを考えると、恐ろしくて胃がキリキリする。
嫌だ嫌だと思いつつも俺はクラッチを繋ぎ、車を発進させた。
レーススタート前に、1周のフォーメーションラップ。
せめて、この間に降ってくれたらなぁ――
レーシングスピードに入ってから、いきなり降り始めるよりマシだ。
コース脇に設営されたスタンドには、お客さんがひしめき合っていた。
レースのスタートを目前にして、歓声を上げている。
スーパーカートは、そこまで人気のあるカテゴリーじゃない。
だけど、この「パラダイスシティGP」だけは別格だ。
ここで勝ったドライバーは、世界中のレーシングチームからオファーがくる。
未来のスタードライバーを見ようと、ディシエイシ国内外から多くの人々が詰めかけていた。
とうとう雨が降り始めることはなく、フォーメーションラップが終了してしまう。
走行時に切り裂く大気が、さらにねっとりとしてきた。
湿度が上昇しているな。
このままじゃ、レース開始直後――下手をしたら、1周目で降り始める。
――やるしかない!
落ち着け。
最初っから最後までずっとトップを走り続ければ、水煙による視界不良に悩まされることもないんだ。
濡れた路面でのマシンコントロール力には、自信がある。
俺は雨が嫌いだけど、雨で遅いドライバーってわけじゃない。
全車がスターティンググリッドに整列した。
もう、レースが始まってしまう。
嫌がる俺の心をあざ笑うかのように、赤信号が点灯。
そして――
今日の青信号は、やたらと残酷な色に見えた。
それでも体は本能的に反応し、クラッチをつないでアクセルを踏み込む。
ほんの少し――
本当に僅かにだけど、俺は後輪を空転させてしまった。
公道レースゆえの、荒れている路面。
その上にホコリが積り、とても滑りやすくなっていたのが原因だろう。
ミスといえるほど、大きなパワー損失じゃなかった。
ところがあの男にとっては、つけ入る大きな隙に見えたらしい。
「ええい! 来るなよ、ブレイズ!」
俺の右方。
1コーナーでは内になる側に、ピンク色の車体が差し込まれる。
10年前も思ったけど、ブレイズの駆動力のかけ方は神技だな。
本人に言ったら嫌がるだろうけど、車を前に前に押し進めるアクセル操作は父親譲りの才能だろう。
でも、抜き切るまでには至らない。
鼻先が前に出ている以上、コーナーでの優先権は俺にある。
俺達は1コーナーの直角右ターン――ポルティエベンドを見据えながらブレーキングを開始しようとした。
その時、それは見えた。
コーナーの方角から迫る、白いカーテン。
雨――しかも、とんでもない豪雨だ!
ポツポツと降り始めるんじゃなくて、滝のような雨が一気に押し寄せてきていた。
「くそっ!」
カーテンの向こう側は、ずぶ濡れの路面。
通常位置からブレーキングでは、とても止まり切れない。
俺もブレイズも、かなり手前からブレーキングを開始した。
慌てるな!
繊細に、ブレーキペダルをコントロールしろ!
ちょっとでも左足に力を入れ過ぎたら、水で浮いたタイヤが簡単に滑ってロックするぞ。
俺とブレイズは、白いカーテンの向こうへ――1コーナーのポルティエベンドへと、突入して行った。