ターン76 誰もいないピットで
■□3人称視点■□
マリーノ国産自動車メーカーで、最大のシェアを誇るタカサキ社。
ここはそんなタカサキが擁する自動車メーカーチーム、「ラウドレーシング」のピットだ。
様々なモニターや工具、カート用の部品が整然と並べられている。
自動車メーカーチームだけあって、そのスタッフ数は総勢20名。
カートレースのチームとしては、かなりの大所帯である。
「ラウドレーシング」は本日、「ヘルレイザーサーキット」へとやって来ている。
このコースは、スーパーカート選手権第5戦の舞台。
それに備えた、テスト走行だ。
先程までスタッフ達は皆、忙しくピット内で動き回っていたのだが――
「誰もいなくなっちまったな……」
1人の若手メカニックが、ポツリと呟いた。
なんの巡り合わせか、現在ラウドレーシングのピット内にいるスタッフは彼1人だけだ。
上司や先輩の目がないのをいいことに、若手メカ君は椅子に座ってダラけていた。
「あ~。ドライバーや監督は、冷房の効いたモーターホームで打ち合わせしてるんだろうな~」
個人参加チーム等は大きめなバンの後部座席を取り払い、そこに分解したカートを積み込んでサーキットに来る。
だが、お金のあるワークスチームとなると違う。
カートは専用のトラックに乗せて来るし、モーターホームという大型キャンピングカーのような車も持ち込んで来る。
そのモーターホームの中は、冷房が効いていた。
今みたいな真夏の時期は、天国と言っても過言ではない環境だ。
確かにドライバー2人は、そこで身体を休めるのも仕事のうちだろう。
この若手メカニックも、そう考えている。
だが監督やチーフエンジニアまで冷房の効いたモーターホームに居座るのは、何だかズルいような気がしていたのだ。
「くっそ~。俺も冷房の効いた、モーターホームで休憩したいぜ」
この若手メカニック、レースにそこまで熱意がある男ではなかった。
「モータースポーツって、カッケーな。大変そうだから、自分ではやりたくないけど」
――ぐらいの感覚である。
それよりも自動車メーカーの工場で淡々と働き、安定した給料をもらいながら人生を過ごせたらいいなとしか思っていなかったのだ。
しかしタカサキ社の社員教育の一環で、彼はメカニックとしてモータースポーツの現場に送り込まれてしまう。
華やかな職場ということで、同期の社員達からは羨ましがられたりもした。
だが本人にとっては、ありがた迷惑な人事である。
従って仕事も、割といい加減。
今もサボって、小型扇風機に当たっている。
しかもこの若手メカ君は、こともあろうに胸元から煙草を取り出し火を付けた。
世界中どこのサーキットでも、ピット内は禁煙だ。
「あ~っ! 煙草吸っとる~。係員さん、呼ばへんといかんかな?」
若手メカの背後から聞こえたのは、西地域の訛りがある女性の声。
振り返ると可愛らしい天翼族の女の子が、ピット内に進入してきていた。
ピンク色の髪が、白いワンピースと背中の翼によく映える。
天使のごとき容貌の彼女は無遠慮に、そして興味深げに周囲を見渡していた。
「ちょっと! ちょっと! 君、勝手に入ってきちゃダメだよ!」
最初は鼻の下を伸ばしていた若手メカくんだが、事の重大さに気づいて慌てる。
女の子は、レース関係者には見えない。
だからといって、機密情報の塊であるワークスマシンを見られるわけにはいかないのだ。
車体こそメタルゴッド社から購入しているが、それを覆う樹脂製の空力装置はチーム独自開発のものを使用している。
他所のチームに情報が流出し、真似でもされたら大ごとだ。
「え~? ウチ、レーシングカートが大好きなんよ。ちょっとだけ、写真撮ったらあかん?」
カメラを両手で持ちながら、若手メカくんを見上げる潤んだ金色の瞳。
(あざとい!)
心の中でそう叫びつつも、若手メカくんは彼女を無碍に扱えなかった。
なぜなら相手が、可愛い女の子だったからだ。
悲しき男のサガである。
しかしそれでも、チームの機密を守らなければという責任感が僅かに勝った。
――というか、監督の怒りが怖かったのである。
「ダ〜メ。君がその写真を、ラウネスネットにアップロードしないという保証はないだろう?」
「え~? そんなこと、せえへんよ」
なおもしつこく、食い下がろうとする女の子。
何とか手荒な真似はせずに、追い出したいところだ。
自動車メーカーの看板を背負っているワークスチームとなると、悪評が立つことは絶対に避けたい。
対応に困っている若手メカくんの元へ、救いの神が現れた。
「お嬢さん、それぐらいにしといてもらおうか?」
ヌッと姿を現した巨体。
彼はゴリラの獣人――
――ではない。
かなりゴリラ獣人と紛らわしい風体だが、彼の種族はれっきとした人間族。
しかしその逞しい巨体と分厚い唇、ごっつい顔立ちが、そこいらのゴリラよりゴリラっぽさを演出している。
実際に彼は、ゴリラの獣人と間違われることも多かった。
約200kgの重量を誇るツーリングカーのエンジンを1人で持ち上げたという伝説から、その身体能力はゴリラの獣人以上といわれている。
年齢は、40代後半。
刈り上げた髪型をした、いかついオッサン。
その正体はラウドレーシングカート部門の総大将――アレス・ラーメント監督だった。
「監督ぅ~。この女の子がピットに入ってきて、帰ってくれないんですよ~」
「ほう、それは困ったな。君には見せたくないものが、このピット内には山ほどあるのだよ。……なあ。チーム『シルバードリル』のデータエンジニア兼、戦略担当のケイト・イガラシ君」
アレスの発言に、若手メカは顔を引きつらせた。
「ええっ!? この子、敵チームなんですか!? こんなに可愛いのに!?」
「なんや。ウチのこと、知っとったんかいな。天下のラウドレーシング、アレス・ラーメント監督に覚えられとったとは光栄や」
「そりゃ、覚えるさ。君やジョージ君は、若いのに優秀だからね。だからこそ、見られては困るものが多いのだよ。例えば空力装置なんかの写真を至近距離から撮影されたら、君らはそれをそっくりコピーして作りかねないからな」
「買いかぶり過ぎや。猿真似したからって、簡単にダウンフォースが増えたり空気抵抗が減ったりするわけやあらへん」
それはケイトの言う通りであった。
ワークスチームはウイングやフロントバンパー、カウル等の空力装置を自社で作る。
その時は風洞実験施設と呼ばれる大規模な設備を使って、高速走行時に近い風の流れを再現。
模型に当てながら、開発を進めている。
見よう見まねで上手く行くことは――滅多にない。
「たまにそれを実現してしまう、センスに溢れた連中がいるから困るのだ。何となく真似してみて、それなりの効果を発揮してしまうことは少ない。少ないが……事例はあった。綿密に設計して、何度も風洞実験を繰り返しながらエアロを作っているエンジニア連中が泣くぞ」
「そら気の毒やな。……さて、あんまり長居しても迷惑やろうし、ウチはこれくらいで失礼させてもらいます」
先程までのしつこさはどこへやら。
ケイトは輝くスマイルを決めると踵を返し、背中の翼をパタパタしながらピットの外へと去って行った。
ライバルチームの強行偵察を、なんとかピット入口で防ぎきった若手メカくんとアレス監督。
彼らは深く、安堵の溜息をつく。
「いやいや、マジですか? あんなに堂々と偵察にくるなんて、大胆ですね」
「お前はこのレースから配属されたばかりだから、まだ知らないだろう。あそこのチームは個人参加なのに、やることは結構エゲツない。お前がピットに1人だけ取り残されたのも、他のスタッフ達が外で別の女の子達に足止めされていたからだ」
「げげっ! 恐ろしい子達ですね……」
「そんな連中を、よく追っ払ってくれた。……それに免じて、これは見逃してやる」
アレスの剛腕が閃き、次の瞬間には若手メカが咥えていた煙草の先端が握りつぶされた。
手袋をしていなかったら、アレスは火傷を負っていたことだろう。
「ははは……。すんません」
完全に委縮してしまった若手メカは、すごすごと煙草の吸い殻を携帯用灰皿へとしまう。
そこでふと、彼は気づいた。
ピット内の床を、1羽のフクロウが歩き回っていることに。
「んん? お前さん、誰かのペットかい?」
フクロウは、胸の辺りに小さなアクセサリーを着けていた。
シンプルにデザインされた、銀細工らしきペンダントだ。
「ははっ。お前もさっきの子みたいに、カートが好きか?」
フクロウは、取り外してあったマシンのカウルやウイングの周辺をトコトコと歩き回る。
若手メカくんは、それを微笑ましい気持ちで見守っていたのだが――
「いかん! 捕まえろ!」
突然、アレス監督が声を張り上げる。
若手メカくんは反応できなかったが、フクロウの方は素早く反応した。
翼をはためかせ、飛び上がる。
そのまま半開きになっていたピットロード側のシャッターをくぐり、空へと飛び去ったのだ。
後を追ったアレスと若手メカくんがシャッターをくぐった時にはもう、フクロウは夏空の彼方に消えていた。
「か……監督。今のフクロウは、いったい……?」
「あれはさっきのケイト嬢のペット……いや、相棒だな。時々サーキット上空で天候を見ていたり、小型無人機のように自チームや他チームの車を空撮していたりする。今もアクセサリーに見せかけた、小型カメラを身に着けていたぞ」
「お……女の子どころか、鳥にまで気を抜けないなんて……。サーキットは、恐ろしいところですね。スーパーカート協会に、抗議文でも提出しますか?」
「いや、構わん。どうせ空力装置などの外部から見えるものは、模倣されていくものだ。……それに『シルバードリル』が戦闘力を増すことは、私達ラウドレーシングにとって悪いことじゃない」
「……え? あいつら確か、レイヴンエンジンユーザーですよね? 同じタカサキエンジンユーザーなら、仲間といえなくもないですけど……」
「タカサキと熾烈な王座争いをしているなら、『シルバードリル』はレイヴン陣営にとって大切な戦力だろうさ。……だが4戦目まで終わった現時点で、レイヴンのエースであるダレル・パンテーラとのポイント差が開き過ぎた。ウチのタイトル獲得は、難しいと言わざるを得ない」
その状況は、若手メカもチームに合流する前から聞いていた。
「しかし個人参加チームの『シルバードリル』がレイヴンワークスの『ドリームファンタジア』を引っ掻き回してくれるなら、ウチの順位が少し上がる可能性が出てくる。ランドール君がダレル・パンテーラと争い、ポイントを奪い合ってくれることを祈ろうじゃないか」
分厚い唇を吊り上げ、アレス監督はニヤリと笑う。
「やれやれ。ウチの監督が、1番おっかねえや」
若手メカは帽子を深くかぶり直し、本人に聞こえないよう小声でそっと呟くのだった。