ターン39 仮面のレーサー、その正体は……
ランディ様は軽々と、ワタクシを抱き上げてしまいました。
ベッテルみたいな、大人なら分かります。
けれども同い年の子供が、そんなに軽々と担げるほどワタクシは軽くないはず。
確かに彼は、3年生人間族男子の中では背が高い。
ですがそれでも、初等部の生徒。
体格を考えると、ずば抜けた筋力です。
ランディ様に抱きかかえられていると、ワタクシは守られているんだと安心感が湧いてきます。
数年前までは、お父様もこうして抱っこしてくれました。
でも、今は誰も――
まだワタクシは、他人に甘えていてもいいのでしょうか?
強がらなくて、いいのでしょうか?
本当はまだ、お父様に甘えたい。
病気で死んでしまったお母様にも、もっと甘えたかった。
許嫁に対して横暴な振舞いをしたり、我儘な言動を取ってしまったのもきっとワタクシの甘えです。
ずっと、誰かに甘えたかった。
ルイスグループの令嬢として振る舞うのが――
周りに弱みを見せられないのが、辛かった。
だから、惹かれたのでしょう。
包容力に溢れ、ワタクシが多少のわがままを言ったりお転婆をしても笑って許してくれそうなランディ様に。
「もう大丈夫」
ワタクシの寂しさを見透かしたかのように、ランディ様が優しく微笑みかけてくださいました
「何でっ……貴方は……」
――何で貴方は、ワタクシの心が分かるのですか?
そう言いたかったのに、声が上ずってしまい上手く喋れませんでした。
それでもこの方なら、きっとワタクシの心の声を聴き取ってくれる。
そんな幻想すら、抱いてしまいます。
――そう、幻想でした。
いくらランディ様でも、心の中まで読めるわけではありませんものね。
彼は「何でワタクシを助けたの?」と、受け取ったみたいでした。
「レース仲間を助けるのは、当たり前だよ」
レース仲間――
今日カートを始めたばかりのワタクシを、仲間と認めて下さったことをとても嬉しく思います。
ですが同時に、彼との距離を遠くに感じました。
ああ――
この人は、レースに恋をしている。
どんなにワタクシが異性として彼を好きになっても、きっとこの想いは届かない。
ホーム直線の彼方に浮かぶ、陽炎の向こう側しか見ていない。
同い年の女の子を見ている暇なんて、ランディ様の人生には存在しないのですわ。
そう思うと、レースに対する嫉妬の炎が燃え上がりました。
彼の視界にすら入れない寂しさが、吹雪となってワタクシの中で吹き荒れます。
悔しい。
こんなにもワタクシの中で、ランディ様の存在は大きくなっているというのに――
彼の中では、ワタクシの存在などちっぽけなもの。
そんなの不公平で、理不尽ですわ。
相手にされないのなら、せめて彼の人生にワタクシという存在を刻みつけたい。
憎っくき恋敵である、モータースポーツに仕返しをしたい。
ワタクシはランディ様の腕の中から、執事のベッテルの腕へと手渡されました。
ですがすぐに降ろしてもらい、自分の足で歩き始めます。
振り返ってみると、再びマシンに乗り込むランディ様の姿。
パラパラと排気音を響かせて、走り去るところでした。
「見ていなさい、ランドール・クロウリィ……」
自分の顔に暗い笑みが浮かんでいることを、ワタクシは自覚しておりましたの。
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■□ランドール・クロウリィ視点■□
マリー・ルイス嬢が、事故した翌日。
今日は日曜日だ。
俺達は2日連続で、ドッケンハイムカートウェイへとやってきていた。
「予定通り、レースシミュレーションやるわよー!」
宣言したのは、サングラスに栗色の長い髪が特徴のオバ――妙齢の美女。
来季はNSD-125ジュニアの指揮を執る、シャーロット母さんだった。
数年前は俺がレースをやることに反対して、喧嘩になったりしていたのが嘘みたいだ。
今はものすごくレースに意欲的で、RTヘリオンを乗っ取るつもりなんじゃないかって思うぐらい。
実際ここ最近は、ドーン・ドッケンハイム総監督の影が薄い気がする。
いつも俺が走るクラス以外を監督しているから、そう感じているだけかもしれないけど。
ジョージもケイトさんも、今日はテンションが高かった。
テスト走行や、レース本番のシミュレーションは今日だけじゃない。
だけど、走行できる時間はそんなに多くはない。
時間的な面からも資金的な面からも、限られてくる。
そこから得られるデータを元に、来シーズン全7戦の選手権を戦っていくことになる。
だからモータースポーツってヤツは、シーズンが始まる前の準備段階が大事なんだ。
ジョージやケイトさんがテンション高いのも、当然か。
そう考えると、ドライバーの俺も緊張するな。
運転ミスったりしたら、母さんがガチで怒りそうだからね。
やれやれ。
やる気があり過ぎるのも、考えものだよ。
ピット内ではケイトさんが、アウトドア用折り畳み椅子に腰かけている。
同じく折り畳み式のデスク上に置かれたノートパソコンのキーボードを、彼女は一心不乱に叩いていた。
いつも肩に止まっている相棒、眠り梟のショウヤは姿が見えない。
彼は今、サーキット上空を飛行し天候を見てくれている。
昨日に引き続き雲ひとつない青空だから、あんまり意味ないけど。
俺の専属メカであるジョージ・ドッケンハイムは、トルクレンチで各部品の締め付け回転力を確認していた。
そしてクリップボードに留めたセットアップシートに、数値を書き込んでいく。
今日は新品のタイヤが、俺のマシンには装着されていた。
マシンはチームに勝利を運んでくる、幸せの黒猫ちゃんだ。
ジョージ君、丁重に扱ってくれたまえよ。
ピット内をちょろちょろと走り回っているのは、褐色肌の天使ヴィオレッタ。
まだ基礎学校1年生なのに、様々な雑用をキビキビとこなす。
なんて賢いコなんだ!
まあウチの妹は、天才だからな。
いかに素晴らしいコなのか語り出すと、1時間は止まらない。
だけどジョージとケイトさんが、「シスコンだ」と引くから今はやめておこう。
来季、ウチのチームは6年生がいない。
だけどK2-100クラスの時に一緒だった、グレン・ダウニング先輩とキース・ティプトン先輩は5年生だから残る。
2人は去年からNSD-125ジュニアにステップアップして、中央地域選手権だけじゃなくジュニアインターシリーズにも参戦していた。
ジュニアインターシリーズはマリーノ国中を転戦し、国1番の子供を決める選手権だ。
グレン先輩とキース先輩は、それぞれ国内ランキング5位と6位につけていた。
そんな参戦体制を維持できるのは、スポンサー企業であるYAS研さんのおかげ。
ジュニアのチームなのに、破格の資金援助をしてくれる。
モチベーションが高く、優秀なスタッフが揃っているRTヘリオンは強い。
いつも現場にくる大人がウチの母さんしかいなくても、そこいらのチームになんか負けやしない。
参戦クラスがひとつ上がっても、初年度からチャンピオン争いに加われるだろう。
この体制でチームからチャンピオンを輩出できなかったら、それはもうレースの規則の方がおかしいと思う。
NSD-125でもライバルとなる「レーシングトルーパーズ」を蹴散らして、王座をいただくとするか。
――なんてことを考えていたら、背後から高笑いが響いてきた。
「おーっほっほっほっほっ!」
ああ。
これは、関わっちゃいけない感じの笑い声だ。
俺は何も聞こえなかったことにして、グレン先輩のセットアップシートに目を落としていた。
セットアップシートっていうのは、車のセッティングに関する色々な数値が書かれている表だ。
昨年の同じ季節、似たような路面コンディションでグレン先輩が走行した時のデータを、参考にしようと思ってね。
「聞こえないフリを、するんじゃありません!」
「ああ、マリーさん。体は大丈夫かい? どこか、痛いところはない?」
やっぱり俺には、取れないんだよな~。
女の子を無視するなんて、冷たい態度はさ。
マリー・ルイス嬢は、昨日みたいなカート用レーシングスーツ姿じゃない。
装いを変えて、ピンク色のフリフリドレスに身を包んでいた。
はっきり言って、サーキットでは浮いてしまう恰好だ。
だけど、マリーお嬢様らしくはある。
「あれぐらいで怪我をするほど、ワタクシやわではありませんの」
「そっか……。良かった」
そう言って微笑むと、なぜか彼女は顔を背けてしまった。
ブツブツと「この方……分かって……」とか何とか呟いているみたいだ。
だけどコースを走行中のマシンが奏でる、甲高い排気音が邪魔をした。
地獄耳の俺でも、マリーさんの呟き内容はよく聞き取れなかったよ。
ただジトっとした眼差しを、ウチの妹とケイトさんが向けてくる。
あ――あれ?
俺、何かやっちゃいました?
「今日会いにきたのは、来シーズンの宣戦布告ですわ!」
「えっ? 来シーズン、乗るの?」
昨日あんなに、怖い思いをしたのに?
「もうワタクシは、自分で走ろうとは思いません」
「また事故って、お漏らししたら困るもんね」
「ワタクシは、漏らしてなどいませんわ!」
今のは俺じゃないよ。
妹のヴィオレッタ。
こら!
ヴィオレッタ!
そういう失礼なことを、乙女に向かって言うんじゃありません!
顔を紅潮させてヴィオレッタに叫び、お漏らし疑惑を否定するマリーさん。
彼女はひとつ咳払いをしてから、態度を落ち着かせた。
そして再び俺の方を見て、冷たい笑みを浮かべながら告げた。
「コホン。……ワタクシがランディ様と勝負できる運転技術や体力を身に着けるのには、何年もかかることでしょう。そんなに待てませんの。ですからドライバーは、他の者達に任せます。ワタクシはチームオーナー兼監督として、ランディ様の前に立ち塞がることにしましたの」
「9歳の君が、監督に就任ってできるのかい?」
「実際に指揮を執るのはワタクシですが、書類上の代表はベッテルになっています。……ベッテル!」
芝居がかった仕草で、マリーさんは指を鳴らす。
合図に合わせて登場したのは――
まずは、執事のベッテルさん。
昨日と同じく、ルイスグループのウィンドブレーカーを着込んでいる。
頭には、無線でのやり取りをするためのヘッドセット。
ベッテルさん。
練習の時は制限無いけど、カートではレース本番での無線使用は禁止だからね。
ちゃんと、規則書読んどいてよ。
その次に出てきたのは、メイド服をモチーフにしたコスチュームを纏うレースクィーン。
レース本番ならともかく、練習走行にレースクィーンを連れて来るチームなんて聞いたことがない。
現にウチ以外のチームからも、視線の嵐を受けている。
だけどそれは、物珍しさだけが理由じゃなかった。
仮面だ。
SMの女王様が付けているような、いかがわしさ大爆発の蝶々の仮面。
堂々とそれを身に着けている黒髪の人間族メイドさんは、おととい学校のゴミ捨て場に捨ててきたあのメイドさんと同一人物だろう。
たぶんジョージと同い年ぐらいだと思うけど、怪しい仮面が邪魔をして正確な年齢は分からない。
そして仮面の変態メイドさんに続いて出てきたのは、少年が2人。
服装は昨日マリーさんが着ていたのと同じ、グレーのカートスーツ。
そのスーツとあまりにミスマッチな蝶々の仮面を着けさせられ、少年2人は羞恥に震えていた。
正体に気づかないふりをしてあげるのが、優しさってもんだろう。
だけど、そういうわけにもいかないか――
「グレン先輩、キース先輩……。何やってるの?」