ターン37 意味不明なサインボード
俺は彼女に、甘く囁きかけた。
「大丈夫? 痛くはない?」
『うん、大丈夫。でもまだ慣れていないから、優しくしてね。速く動かすと、私壊れちゃう』
「ああ、わかっているさ。ゆっくり動かすから、痛かったら言ってくれ」
俺は彼女をびっくりさせないよう、慎重に動く。
すでに彼女の内側は潤っていたけど、無理は禁物だ。
まだ充分に、馴染んではいない。
ゆっくりゆっくり、気遣いながら。
彼女が気持ちよくなる部分を探りつつ、俺は右足に力を込める。
「何だよ? みんな? なんでそんな可愛そうな子を見る目で、俺を見るのさ?」
俺とエンジンの大事な初めての時間。
甘美な睦事タイムに水を差す冷たい視線が、コンクリートウォールの向こうから飛んできた。
シャーロット母さん。
妹のヴィオレッタ。
メカニックのジョージ。
――あ、あれ?
ひょっとして君達、走行中ヘルメットの中で呟いてる俺の独り言が聞こえてたりする?
まさかね。
ケイトさんだけは、真剣な目をして耳に手を添えている。
メインストレートを駆け抜ける俺のエンジン音を、注意深く聴いていた。
やだな~、ケイトさん。
慣らし中のエンジンちゃんを、オーバー回転数させるようなヘマはしないってば。
いかんいかん。
エンジンちゃんが刺激的過ぎて、ついつい煩悩が駄々洩れになっていたかな?
やっぱ、水冷リードバルブの125ccエンジンって凄い!
この世界のエンジンは、地球のFS-125クラスのものより遥かに反応がいい。
まだ美味しい回転域まで回していないのに、この回転力の豊かさは何だ?
めいっぱい回したら、どうなっちゃうの?
ヤバい!
子供みたいに、ワクワクしてきた。
いいじゃない。
今は子供の体だもの。
ニヤニヤしてしまっているのが、自分でも分かる。
他のドライバー達が気持ち悪そうな表情で振り返り、わざわざ俺の顔を覗き込みながら抜き去っていった。
よそ見すると、危ないよ!
舞い上がっていた俺の心に、ピリリと緊張の電流が走った。
険しい顔のヴィオレッタから、提示されるサインボード。
『ドリル・イン』
ヴィオレッタの隣に陣取っていた他チームの人達が、ウチのサインボードを見て首を傾げた。
「何じゃそりゃ?」と、言いたげに。
「あちゃー。もう、講習が終ったのか。頼むから、絡んできたりしないでくれよ」
俺はコース全体を見まわし、問題のドリル――マリー・ルイス嬢のマシンを探す。
――いた!
銀色カウルのマシンとグレーのスーツ。
桜色のヘルメット。
約半周、離れている。
思ったより、慎重だな。
マリーさんはアクセルやブレーキの感触を確かめながら、ゆっくりと流していた。
初心者にありがちな、「周りが全然見えていない」なんてこともなさそうだ。
ヘルメットの向きが、キョロキョロと動いている。
後ろから速いマシンが迫ってきても、慌てることなく自分の走行ラインをキープしていた。
そう。
それでいい。
下手に道を譲ろうとすると、同じ方向に動いてしまって事故につながったりする。
上手い奴は、自分で走行ラインを変えて抜いていくからね。
マリーさんはロブさんの講習を、真面目に聞いていたみたいだな。
それでも彼女の年頃だと、焦ってしまって実践できない子が多いんだけど。
ベッテルさんが言っていた、「文武共に優秀」っていうのは本当みたいだね。
変に絡まれたりは、なさそう。
それでも、念には念を入れるとするか。
俺は彼女に接近しないよう、さっさとピットインしてしまった。
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「え~! ランディ君。ちょっと、ピットイン早うない?」
「もう、低速域でのアタリはついたよ」
怪訝そうなケイトさんに、俺はにっこりと微笑んで見せる。
エンジンのアタリがついたというのは、マジだ。
ただ漫然とメーカーの指定している回転数、走行時間で走っているだけじゃ不充分。
速いエンジンには、仕上がらない。
ピストンリングとシリンダー内壁。
ピストンピンや、クランクピンとコンロッド。
クランクベアリング。
ありとあらゆるエンジン内の摺動部品を、キッチリ馴染ませるイメージを描きながら走った。
アタリが付いた、手応えはある。
これ以上、この回転域での走行は無意味だ。
無駄な走行距離は、増やさないようにしないと。
K2ー100クラスの頃と違って、レース本番でのエンジンはレンタルじゃない。
持ち込みだ。
無駄に走行距離を、伸ばしちゃいけない。
「ランディは、慣らしが得意ですからね。僕も今の走行で、充分だと思います。次はエンジンを一旦冷ましてから、中速域の慣らしに入ります。回転数を、9000~11000に上げますよ」
ジョージはテキパキと、タイヤの空気圧を空気圧計で測定。
車体各部のボルトなどに、緩みが無いかもチェックする。
決して急いでいるように見えないのに、作業は流れるようにスムーズだ。
その結果、とても早い。
ケイトさんはノートパソコンに、空気圧等のデータを入力していく。
彼女は数字や、データ管理に強いんだ。
淡々と予定を打ち合わせる、俺達3人。
そこへマリーさんが、銀色の縦ロールヘアを揺らしながら近寄ってきた。
揺れる度に、ドリルが回転しているように見える。
午前の日差しが反射して、眩しいぜ。
母さんがヴィオレッタを連れて、飲み物を買いに行ってる隙の襲来。
どうやら、保護者不在のタイミングを狙ったみたいだな。
「あら? ワタクシに恐れをなして、ピットへと逃げ込んでいたのですわね」
「うん。怖い怖い」
ピットで絡んできたマリー・ルイス嬢を、テキトーにあしらう俺。
いや。
怖いって部分は、事実だったりするんだよね。
もらい事故がさ。
「今日走り始めたばかりのワタクシが、怖いのですか? 尻尾を巻いて逃げ出しても、よろしいのですわよ?」
「そう? じゃ、遠慮なく逃げるよ。勝負とかは、なしってことで」
「ちょっ……! 貴方! レーサーとしての矜持は、ありませんの?」
「いや。そもそも、マシンのクラスが違うし……。下のクラスに勝ったって、『当たり前』の話だからね。そんな勝負、受ける奴の方がよっぽどプライドないと思うよ」
階級別に分けられた格闘技なんかでは、話は違ってくるだろう。
ひとつ下の階級のものすごく強い人と、ひとつ上の階級の大したことない人だったら、それなりに勝負になりそうだ。
だけどそうはいかないのが、モータースポーツ。
ド素人ならともかく、レース経験者同士ならマシンのクラス差は絶対だ。
そうなるように、車両規則は作られている。
「ぐぬぬぬ……」
マリーさんは怒りのあまり、腕をピーンと伸ばして肩をプルプルと震わせていた。
顔はもちろん、耳まで真っ赤だ。
そこへケイトさんが、ヒソヒソと俺に耳打ちしてきた。
(なあなあ、ランディ君。勝負、受けちゃったらアカンの? クラス差があるんやから、間違いなく勝てるやろ? 『俺が勝ったら、二度と近づくな』とか条件を付ければ……)
(レースに絶対は無いよ。俺がマシントラブルでも起こしたら、負けが確定しちゃう。それで、あのお嬢様との婚約エンド決定ってのはゴメンだね)
マリー嬢とご婚約=プロドライバーへの道は断たれるって意味だよ?
軽はずみな決断で、永久にチャンスを失うのは勘弁してもらいたい。
なのにジョージときたら、とんでもないことを囁いてきたんだ。
(ランディ。いっそあのお嬢様と今だけ婚約して、資金援助してもらうというのはどうです? 適当なタイミングで婚約破棄して、オサラバすれば……)
((うわ~))
俺とケイトさんが、同時にドン引く。
うちのメカが、ゲスくてすみません。
いや。
俺もその案は、一瞬考えたんだけどね。
「プロになる為には、何でもしてやろう」と思っている俺だけど、そこまでゲスいことはできない。
一時的には自分に有利になっても、行った非道は巡り巡って自分に返ってくると思うんだ。
誰だって利己的な人間とは、一緒に仕事したくないだろう?
正義感とか、そういうんじゃない。
長期的にレースキャリアを考えた場合、酷いことはやらない方が「得」だって思うだけさ。
マリーお嬢様に恨まれるようなことは、あんまりしたくない。
お金の力って、怖いからね。
「何をコソコソと企んでいますの? いいですか? 次にコースインした時、絶対抜いてみせますわ」
「マリーさん、コレコレ」
俺が指さすのは、マシンの後部ゼッケンプレート。
今はレース中じゃないから、ゼッケンは貼られていない。
代わりにデカデカと貼られているのは、「慣らし中」の文字。
「俺、今日はエンジンの慣らし運転中なんだ。だから君とは、勝負できないよ」
「……そうですのね。慣らしというものは、どれぐらいの時間で終わるのですか?」
「俺は慣らしが得意だからね。早ければ、1ヶ月ぐらいで終わらせられるよ」
もちろん嘘さ。
今日中には終わる。
1ヶ月も経てば、俺への興味も失せるだろうって算段だ。
俺のあからさまな嘘に、ジョージとケイトさんが眉をひそめた。
――あ、ハイ。
嘘ついたことが問題なんじゃなくって、すぐバレるような嘘をつくなって言いたいんですね?
「お嬢様……」
ベッテルさんが、何やらマリー嬢に耳打ちしている。
これはヤバいな。
ベッテルさんは、エンジンの慣らし期間について知ってるっぽい。
俺は素早くヘルメットを被り、1人でマシンの押し掛けを始める。
「騙しましたわね! ランドール・クロウリィー!」
マリーさんの怒声を、始動したエンジンの爆音が遮った。
逃げるが勝ちだ。
さらば、お嬢様。
俺とマシンはマリーさんを置き去りにして、コース内へと飛び込んだ。
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「あーもう。どうしても、絡んでくるつもりだな? 丸々1周スロー走行して俺を待ち伏せするなんて、ブレイズ・ルーレイロみたいなことしないでくれよ」
慣らし運転を続けていた俺の前方に、マリーお嬢様のマシンが現れたんだ。
彼女はチラチラと後方を振り返って、俺のマシンを確認している。
うんざりした気持ちになった。
いったいどうして、そこまで絡んでくるのか。
しょうがないなあ。
さっさと抜いて、引き離すか?
でも俺のマシンはまだ慣らし中だから、エンジンを存分に回せないんだよね。
ならばタイヤのグリップ力の差を生かして、ブレーキングかコーナーで抜く――といいたいところだけど、車体にも余計な負荷を掛けたくないんだ。
今日はまだ、タイヤを取り付ける「ハブ」って部分のベアリングとかが馴染んでいないし。
あと、ブレーキパッドも余計に減らしたくない。
明日の日曜日に、新品タイヤを履いてレース本番のシミュレーションをやる予定なんだ。
そこで、ベストなタイムが出るようにしたい。
ケイトさんの指定したタイムを上回らないと、ジュースを奢らされちゃうからね。
今日のタイヤはグレン先輩に無料で貰った中古だから、タイヤだけは多少減ってもいいんだけどねえ――
そんな俺の思惑をドン無視して、マリーさんは勝手にレースモードへ突入してしまった。
最終コーナーで、彼女はアクセルを大きく踏み込む。
唸りを上げ、エンジンに流れ込む大気。
酸素が大量に吸い込まれたのを認識したエンジン・コントロール・ユニットは燃料噴射装置の開弁時間を引き延ばし、大量の混合油を噴射する。
レーシング2ストロークエンジンが目覚めた。
乾いた甲高い音を響かせて、マリー嬢のマシンは力強く大地を蹴る。
クラス下とはいっても、いい音だな。
さすが、去年まで俺が乗っていたマシン。
彼女はぐんぐんと加速し、のんびり走っている俺を置いていく。
「俺が慣らし中だって話、聞いていたの? 頑張れ、頑張れ。俺は勝負なんて、しないけどね」
――いや。
ちょっと待て!
「やめるんだマリーさん! それ以上、頑張るな!」