ターン191 さあ! 最終決戦だ!
「ニーサ……。まだ、やれるか?」
俺は慎重に問いかける。
ニーサ・シルヴィアのプライドを、傷つけないようにしないと。
本当に体力限界でダメだったとしても、コイツは意地を押し通しかねない。
俺の質問に対し、少し間を置いて無線が返ってきた。
『ランディ、逆に聞きたい。外から見て、私はまだやれそうか? その方が勝利に近づくというのなら、あと1時間でも2時間でも走り続けてみせる。だが……』
意外だった。
ニーサが俺に、意見を求めてくるなんて。
「ちょっと、キツそうに見えるな。休まないと、ペースは落ちる一方だろう」
『そうか……。なら、あとは任せてもいいか?』
これもまた、意外。
「私を舐めるなよ!」とか、意固地になりそうなものなのに。
「やけに素直だな。どういう風の吹き回しだ?」
『どうしても、このレースで勝ちたいだけだ。そのためなら、私個人のプライドなど取るに足らん。……それにあなたのことを、信じているからね。ランディ』
その返答を聞いて、俺はヴァイ監督と目を合わせた。
すぐにニーサへと、ピットインの指示が下される。
同時に俺は、走行準備を始めた。
クールスーツ、HANS、無線イヤホン、フェイスマスク、ヘルメットにレーシンググローブ。
身に着けるそれらは、もはや体の一部。
これから乗り込む〈レオナ〉GT-YDも、俺の手足。
モニターに映るライブ映像は、ちょうど〈レオナ〉を捉えている。
画面の中で光の精霊は、ひときわ甲高い4ローターエンジンの咆哮を上げた。
ニーサがスパートをかけたんだ。
ピットに入ってくるインラップは、その1周でタイヤの余力を使い果たしてもかまわない。
ニーサはこれが最後の走行だから、体力も。
不調だった予選を上回る、渾身のアタック。
まだ真っ暗なサーキットに、竜の軌跡が刻まれる。
ピットに入らなければ、レース中の最速周回を記録していたかもしれないな。
ピットロードに車両が入ってきたことを告げる、アラートが鳴り響いた。
ニーサの駆る〈レオナ〉は、テープを貼って指定してあるポイントに1mmの誤差もなく停車する。
いつ見ても、鮮やかな停車だ。
素早くマシンから降りたニーサは、俺の交代作業を手伝いつつなぜか怒っていた。
「ランディ! あなた私が『どうしてもこのレースで勝ちたい』って言った意味、分かってるの!? リアクションが薄い!」
「えっ? 意味ってそりゃ……あっ!」
思い出した!
このレースで優勝したら、俺とニーサは――
「勝てなかったら、次のチャンスは来年だからね! あんまり私を待たせないで!」
そう言ってニーサは、俺の胸を平手で軽く叩く。
体の中に、なにか熱いものが流れ込んできたような気がした。
給油、タイヤ交換作業が終わり、ジャッキダウンされた〈レオナ〉は地上に降りる。
同時に俺は、エンジンを再始動。
4WDの〈レオナ〉は4つのタイヤ全てで路面を蹴り、ピットロードの出口へと向かう。
相変わらず低回転時のエンジン音は、ブリブリとしたやかましい音だ。
「早く私を全力で走らせなさい」と、〈レオナ〉が不満を漏らしているようにも聞こえる。
速度制限区間が終わった。
スピードリミッター解除!
「待ってました」とばかりに、光の精霊は甲高い4ローターエンジンの咆哮を上げる。
さあ行こう、〈レオナ〉!
1位のナイトウィザード〈シヴァ〉4号車を、捕まえてみせる!
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不思議な感覚だった。
ピットアウトした直後は胸が熱く燃えていたのに、今は違う。
心が静かだ。
ついでに、運転席の中も。
音がやたらと、遠くに聞こえるんだ。
ロータリー独特のエンジン音も――
変速機のうなり音も――
400km/hオーバーの風切音も――
みんなみんな、遠い世界の出来事みたいに聞こえる。
それに景色の流れも、妙にゆっくり見えた。
俺、乗れてないのかなぁ?
そう思い、前窓に投影されているラップタイムを確認する。
――ビックリするくらい、速い。
この状態は、いわゆるゾーンに入ったってやつだろうか?
詳しくは、分からない。
ただ確実なのは、〈シヴァ〉4号車がみるみる近づいてきているってことだ。
初めは「サンサーラストレート」の長い長い直線の向こうに、微かな赤い光点が見えただけだった。
それが徐々に大きくなり、横に細長く伸びたデザインである〈シヴァ〉のテールランプだと認識できるようになっていく。
すでに俺は1回目の給油を終え、続けて2スティント目に入っていた。
その2スティント目も、後半に差し掛かってきたころ――
「……捕まえた!」
世界樹ユグドラシルの真下。
トンネルの中で俺と〈レオナ〉は、〈シヴァ〉4号車を抜き去った。
ピッタリと相手の背後に張り付いて、スリップストリームを使う必要すらない。
4号車は、無抵抗だった。
オーバーテイクシステムとドラッグ・リダクション・システムを同時使用している俺に対して、4号車は空気抵抗を減らすDRSしか作動させていない。
きっともう、エンジンか変速機が限界なんだ。
最終コーナー「リヴァイアサンベンド」を立ち上がり、俺と〈レオナ〉はコントロールラインを通過。
前窓に投影されている順位が、2位から1位へ。
ついに俺達は、トップに立ったんだ。
ホームストレートを通過する時、グランドスタンドのお客さん達が総立ちになって興奮しているのが見えた。
ところがサインエリアを見ると、マリーさんが厳しい顔でサインボードを提示している。
『ペースアップ』
スタート直後と、全く同じサインだ。
指示に従い、俺と〈レオナ〉は全力でユグドラシル島を駆け抜ける。
第1区間、ビル街――
第2区間、高速道路――
第3区間、峠道――
先程抜いた〈シヴァ〉4号車は、とっくに見えなくなっていた。
それでも、俺と〈レオナ〉はペースを緩めない。
最終コーナーに向けてブレーキング中、後方モニターの中で何かが光った。
〈シヴァ〉4号車のヘッドライトじゃない。
あれは――
『来とるで。20秒後方や。今ドライブしとるのは、ヤニ君やな』
レイヴン〈イフリータ〉85号車。
変速機交換で15分を失った紅蓮の魔神が、驚異的なペースで後ろから追いかけてきている。
空は徐々に、紫色へと変化しつつあった。
現在の時刻は、AM6:15。
チェッカーフラッグまで、残り45分。
「ヤニ、悪いな。今回お前とは、勝負しない」
なんでかっていうと、俺もヤニもあと1回ピットに入らないといけない。
燃料が、もたないんだ。
俺はダブルスティントで、もう2本目だから疲れた。
どうせお前も、ラストは誰か別のドライバーに交代するんだろ?
『もう燃料は、カツカツや! この周回で、入ってきぃ』
「了解」
ケイトさんの指示に従って、俺はコースを逸れてピットロード入口へと車を進めた。
俺達のピットは、かなり奥。
ピットロードの出口付近だ。
逆に〈イフリータ〉85号車のピットは、入口付近。
入ってきてすぐの位置にある。
85号車のピット前を通過する時、最後のスティントを担当するドライバーが腕を組んでこちらを見ていた。
黄色いラインが入った、緑のヘルメット。
ちょうど父親のヘルメット配色を、逆に入れ替えたデザインだ。
85号車をラストにドライブするのは、ブレイズ・ルーレイロか。
そして、俺達〈レオナ〉55号車は――
ピット前の作業エリアにはタイヤが4本と、交換に使うインパクトレンチが置かれている。
そしてヘルメットを被り走行準備を万端に整えた小鬼族が、トントンと飛び跳ねながら待ち構えていた。
俺はニーサと同じく、1mmのズレもなく停車位置に車を停める。
すぐに給油とタイヤ交換、ドライバー交代の作業が――
――始まらない。
開始されたのは、給油だけだ。
ジャッキアップすらされない。
代わりにブリザードタイヤ社のタイヤエンジニアが、身を低くしてタイヤを覗き込んでいる。
そして彼は俺と周囲に向かって、指でOKサインを出した。
『55号車、タイヤ交換をしません! さらには、ドライバーのランドール・クロウリィ選手も降りてこない! これは、まさか……』
給油中は、エンジン停止がルールだ。
おかげで実況放送が、車内の俺にもよく聞こえる。
ああ、そうさ。
〈イフリータ〉85号車のペースは、めちゃくちゃに速い。
だから俺達も、ちょっとリスクを負う必要が出てきたんだ。
あと俺が、体力的な負担を背負う必要もね。
『まさかタイヤ無交換&3連続スティントだとぉ~!?』
実況さん、気が合うね。
俺もヴァイ監督とケイトさんからこの作戦を聞かされた時、
「無交換&トリプルスティントだとぉ~!?」
って、叫んじゃったよ。
これだとピットストップの時、作業は給油だけで済む。
停止時間は、かなり短縮できるんだ。
おまけにタイヤは温まっているから、ピットアウト直後から速い。
でもなぁ――
俺が体力的に、めっちゃキツいんだよなぁ――
しかも終盤、タイヤが摩耗してズルズルになると思うよ?
それを提言したらケイトさんから、
「大丈夫や。それを計算に入れても、1番速い作戦やで」
と、事もなげに言い切られてしまった。
神経と体力をゴリゴリ消費して、滑るマシンをコントロールする俺の身にもなってくれよ。
ドアの横窓から外を覗くと、ポールが両手でサムズアップしていた。
ヘルメットの隙間からは、妙に爽やかな笑みが漏れている。
この野郎!
最後にキツい思いしながら走らずに済んで、喜んでやがるな?
ポールが走行準備を整えて待機していたのも、交換用のタイヤが置かれていたのも、85号車を油断させるためのフェイクだ。
びっくりしたろ?
85号車のディータ・シャムシエル監督。
これから始まる地獄を想像すると気が重いけど、あのウサ耳中年がピットで慌てているかと思うと留飲が下がる。
給油を終えた俺と〈レオナ〉は、再び――じゃなかった。
三度――でもないな。
スタートから数えると、これで何スティント目だったっけ?
とにかく、またしてもユグドラシル島公道コースへと解き放たれる。
発進しながらバックモニターで後方を見ると、ブレイズの乗る〈イフリータ〉85号車はまだ給油作業中で動いていない。
――さあ! 最終決戦だ!