ターン18 とあるドライバーの軌跡(2)
スタンドを埋め尽くす、いつもとは比べ物にならない数の観客。
ピットを忙しく動き回る、何人ものチームスタッフ。
華やかな衣装を身に纏った、レースクイーン達。
何度も訪れたことのあるメイデンスピードウェイだったけど、その日はまるで別世界だった。
極彩色とエネルギッシュな喧噪に包まれた、人と機械が織りなす狂乱の宴。
――これがアマチュア最高峰のカテゴリーにして、プロドライバーも参加しているチューンド・プロダクション・カー耐久選手権!
チーム関係者用の通行証を支給されピットに来ていた私は、舞い上がっていた。
一方で兄さんは、少し緊張していたみたい。
オズワルドは、目を皿のようにして周囲を観察していた。
プロのメカニックやエンジニア達の仕事を、少しでも盗み取ろうと必死だ。
「兄さん、大丈夫?」
「シャーロット。さすがにちょっと、緊張するよ。昨日の予選と合わせて、観客動員数は2万人だってさ」
兄さんは緊張した表情のまま、肩をすくめてみせた。
「お前の腕を大勢にアピールする、絶好のチャンスじゃねえか。心配するな。予選では相方のスティーヴさんと、ほとんど変わらないタイムが出ていた。バックミラーにだけ、気を付けて走ればいい」
オズワルドの励ましを受けて、兄さんの顔色は少し良くなった。
この「TPC耐久選手権」はその名前の通り、長い距離や時間を走る耐久レース。
各チーム2~3人のドライバーで、1台の車を交代で運転しながら走るの。
まるで、陸上競技のリレーみたいに。
兄のパートナーであるスティーヴ・ディッキンソン選手は、この選手権に参戦経験豊富なベテラン。
そのベテランと大差ない予選タイムを兄が出したのは、明るい材料だった。
私達のチームが出ているクラスは、クラス4と呼ばれる1番遅いクラス。
もっと車の改造範囲が広くて、エンジン排気量も大きい――周回タイムが圧倒的に速いクルマで争われるクラス1~3のマシンが、どんどん後方から追い抜いていく。
オズワルドが兄さんに「バックミラーに注意しろ」と言ったのは、それら速いクラスのマシンを邪魔したらペナルティを受けてしまうから。
そして抜かれる時はぶつけられないように、気を付けろという意味。
短距離レースしかやってこなかった兄さんにとっては、後ろから来る速い車を上手に抜かせながらレースをするだなんて初体験だ。
でも――
「大丈夫。兄さんなら、やれるわよ!」
今の兄さんは、よく乗れている。
慣れていない耐久レースやマシンだって、きっと上手く対応してくれるはず。
今がレースキャリアの中で、ドライバーとしてのピークなのかもしれない。
だからこのチャンスを、絶対ものにして欲しい。
「トミー! そろそろスティーヴが、戻ってくるぞ。ドライバー交代の準備だ!」
監督からの指示を受けて、兄さんは準備を始める。
下半身だけ穿き、袖は腰に巻き付けていたレーシングスーツ。
それを上半身にも、着込んでいく。
いつもの白いスーツではなく、スポンサーロゴがたくさんついた青いスーツだ。
同じハーフエルフでも私より耳の尖った兄さんは、耳袋の付いたエルフ用フェイスマスクを愛用している。
クラッシュの衝撃から頸椎を守るHANSデバイスを首の後ろに装着し、被ったヘルメットと連結した。
「うん、カッコいいわ。とっても速そうよ」
「シャーロット、『速そう』じゃねえ。トミーは『速い』んだよ」
「そうね、オズワルドの言う通り。兄さんは、とっても速い。ここから、トミー・ブラックの伝説が始まるのよ」
「2人とも、あんまり持ち上げるなよ。……僕がきっちり仕事を果たせるよう、祈っていてくれ」
謙虚な台詞だったけど、自信がありそうなしっかりした口調で兄さんは言ったわ。
それを聞いて、私とオズワルドだけじゃなくチーム全員が安心したみたい。
無線とサインボード、両方でスティーヴ・ディッキンソン選手にピットインの指示が告げられた。
すぐに、了解との返事が返ってくる。
ああ、いよいよだ。
今頃になって、私は緊張してきた。
逆に兄さんは、どんどん落ち着いていく。
コース上を映すモニターを、静かに見守る兄さん。
その瞳には、青い炎が揺らめいているように見えた。
「……え?」
兄さんがそう呟くと同時に、青い炎は消えてしまった。
大きく目を見開く兄さん。
同時にピット内のあちこちから、悲鳴が上がる。
皆の視線は、モニターの方を向いていた。
見たくない。
きっと何か、受け入れられないものが映っている。
「嘘だろう? スティーヴさん……」
かすれたオズワルドの声が、隣から聞こえる。
私は覚悟を決めて、震える体をゆっくりモニターへと向けた。
私達のマシンは、普段のツーリングカーレースで使っているのと同じ車種。
レイヴン社製のホットハッチ、〈シュライク150S〉。
もちろん改造可能範囲が広がっていて、段違いに速い。
磨いてもどこか色あせていた、私達の白い〈シュライク〉とは違う。
今回のマシンは、宝石のように磨き上げられたブルーメタリックのボディ。
そう――美しいマシンだった。
モニターに映っているグチャグチャな金属の塊とは、似ても似つかない。
私達のチームのマシンは、どこかしら?
スティーヴさんは、まだピットに戻ってこないの?
ピット内の時間は、しばらく止まったまま。
マシンの残骸がトラックに乗せられて、戻ってきてからも――
スティーヴ・ディッキンソン選手が救急車で帰ってきて、兄に「車を持ち帰れなくて済まない」と告げてからも――
そしてチームが失意の中、撤収準備を始めてからも――
兄さんは、ヘルメットを脱ぐことができなかった。
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「まあ、こういうこともあるさ。スティーヴさんに大きな怪我がなくて、何よりだよ」
次の日には、笑ってみせた兄さん。
悔しさなんて微塵も見せない表情に、私とオズワルドの胸は押し潰されそうになった。
悔しくないはずがない。
借金まで背負っての挑戦で、1mも走ることなくレースが終わってしまった。
自身は何ひとつ、ミスなどしていないというのに――
「ちょっと、借金が増え過ぎたね。来年はメイデンスピードウェイのツーリングカーレースに、参戦するのは難しそうだよ」
兄さんは上のカテゴリーへの切符を逃したどころか、今のカテゴリーのシートも失ってしまった。
夢のような時間は終わり、残ったのは借金という現実だけ。
「なーに。予選と練習走行だけとはいえ、より速いマシンを体験できたんだ。スティーヴさんにも色々とアドバイスを貰ったし、いい経験になったよ」
本気で――本気で兄さんは、そんな風に思っているんだろうか?
私には、考えられない。
来年は自分の生きがいであるレースをすることが許されず、借金返済の為だけに仕事に耐え続ける日々。
決して上手くはいっていない、仕事にだ。
地方戦のチャンピオン以外、兄さんには目立ったタイトルがない。
もっと実績を、積まなければ。
無駄に年齢だけが積み重なり、プロへの道は遠のいていく。
口には出さなかったけど、私とオズワルドは悟ってしまった。
トミー・ブラックのプロへの挑戦は、終わったのだと。
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それから、月日が流れた。
ツーリングカー選手権でチャンピオンになったあの年から、色々あった。
オズワルドが自動車メーカー「ヤマモト」の販売ディーラー整備士を辞めて独立したり――
私と彼が、結婚したり――
兄さんは――
仕事を何度か、変えていた。
いつも職場で上手くいっていないのか、それとも生き甲斐であるレースができないせいか。
兄は、日に日にやつれていった。
あまりに体調が悪そうなものだから、心配していた。
私達ハーフエルフに時々発症する不治の病、「魔晶病」にでもなったんじゃないかと。
「大丈夫だよ、シャーロット。僕は健康そのものさ」
兄さんは顔色に反した明るい声色で、そう返事をするだけだった。
そして、雨が降るあの日――
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「お母さん、泣いているの?」
テーブルに顔を伏せて、気づけば私は目に涙を浮かべていた。
楽しい思い出を振り返っていたはずなのに、辛い記憶まで蘇ってしまう。
5歳になった娘ヴィオレッタが、そんな私を心配そうに見上げていた。
紫色の髪と瞳、そして褐色の肌。
そして私より、尖った耳。
この子は兄さんに、よく似ている。
「ううん。大丈夫よ、ヴィオレッタ。心配かけて、ごめんね」
「もうすぐ、お兄ちゃんが学校から帰ってくるね!」
長男ランドール・クロウリィは、今年で7歳。
4月から義務教育である基礎学校の1年生として通い始め、もうすぐ1か月になる。
飛び級をしたいとは、言い出さなかった。
2年前私と口論した日以来、ランディは一切レースの話をしない。
「ごめん、母さん」
家に帰るなり、あの子は謝ってきた。
――違うの!
謝らないといけないのは、私の方なのに!
息子の将来を考えてだとか、そういうことを思って反対したわけじゃない。
ただひたすらに、私が怖かっただけ。
兄さんみたいに、息子が自分の前から消えてしまうんじゃないかと思うと――
娘のヴィオレッタに、私のような思いをさせるんじゃないかと――
ランディは転生者だけあって、兄さんとはモノが違う。
初めて乗ったマシン、初めて走ったサーキットで、コース最速記録を叩き出すなんて異常だ。
そんなランディを周りの大人達は無責任にもてはやして、より上の種類のマシンに乗せようとするでしょう。
あの頃の、私みたいに――
絶大な人気と観客動員数を誇る国内トップカテゴリー、「GTフリークス」まで行ければ――
あの子の才能なら、スポンサーを獲得するのは難しくないと思うの。
でもそこまでの過程で、莫大な借金を抱えることになる。
いくらモータースポーツの人気が高く広告効果が高いとはいっても、アマチュアカテゴリーでは小口のスポンサーしか期待できない。
私達がツーリングカー選手権に出ていた時も、スポンサーは小さな商店がお小遣い程度の援助をしてくれたり、タイヤ屋さんが稀に中古品で現物支給してくれるだけだった。
大きめのスポンサーがついているチームも、あるにはあった。
だけどほとんどがドライバー自身がオーナーを務める企業だったり、親が経営する会社からの資金援助だったり――
今でも私は、レースが好き。
楽しかったあの頃を、思い出せるから。
でもそれは、「他人事」として観戦しているからだ。
他人事では、なくなってしまったら――
きっと負の側面が目について、レースが嫌いになる。
私は自分勝手な親。
息子にレースをして欲しくない本当の理由は、自分がレースを嫌いになりたくないからなのかもしれない。