ターン17 とあるドライバーの軌跡(1)
■□シャーロット・クロウリィ視点■□
今日は朝から雨が、しとしとと降り続けている。
私は整備工場の2階にあるリビングの窓から、外の様子を眺めていた。
雨は嫌い。
兄さんが死んだ、あの日を思い出すから。
どうせ思い出すのなら、楽しい思い出にしましょう。
それは、レースをやっていた頃の思い出。
私とオズワルド、そして兄さんの3人でチームを組んで――
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兄のトミー・ブラックは紫の髪と瞳、そして褐色の肌が特徴的なハーフエルフだった。
ダークエルフだった、母の血が濃かったみたい。
耳もハーフとしてはかなり長く、尖っていた。
エルフ寄りだったおかげか、とても目の良い人だった。
この世界の人々は、「人生で1回は、レーシングドライバーになりたがる時期がある」と言われる。
やっぱり兄さんも、レーサーに憧れた。
彼は基礎学校8年生――14歳の頃には、年齢を偽ってアルバイトをしていたわ。
そして貯めたお金で、中古のカートをエンジン付きで購入したの。
車体は曲がり、エンジンも腐っていた。
それを兄は、幼馴染で車を弄るのが大好きだったオズワルドに押し付ける。
2人して稼いだバイト代を、今度は修理パーツの代金に回し、車体もなんとかオズワルドが怪力で修正した。
兄さんに付き合って、バイトまでしてくれるお人好しなオズワルドに最初は呆れてたっけ。
初めて出場したのは、ドッケンハイムカートウェイで開催された草レース。
選手権も何も懸かっていない。
お金がなくて練習はほとんどできなかったし、マシンもヨレヨレで戦闘力皆無。
それでも表彰台圏内を走ってみせた兄さんに、私とオズワルドは興奮したわ。
結果は惜しくも、4位だったけど。
当時の私は、兄さんを天才だと思っていた。
いま思い出すと、微妙だったと思う。
上手だったけど、プロになれる程の才能だったのかと聞かれると――
でも私達は兄さんの走りに、夢を見てしまった。
ベーシックスクール10年生にもなると、兄達はさらにモータースポーツに打ち込んだ。
勉強も、手を抜いてはいなかったみたい。
それでも学生時代のほとんどを、マシンの整備や資金調達のアルバイトと、レースで成績を残すために費やした。
自動車の運転免許と競技者ライセンスが取れる学年になると、兄達はカートを卒業した。
そして市販のスポーツカーをベースにした、ツーリングカーレースへと転向する。
マシンは既に競技車両として改造済みだった中古車を、20万モジャで買ってきた。
レイヴン社製のホットハッチ、〈シュライク150S〉だったわ。
高回転まで良く回る1500cc4気筒エンジンを積んでいて、甲高い排気音を響かせてサーキットを疾走するその姿。
コースサイドで見ているだけでも、とても気持ち良かった。
ツーリングカーレースに参戦してみて驚いたのは、その費用。
特にタイヤ代は、カート時代の比じゃなかった。
『改造範囲は限られているから、参戦コストは低い』
という謳い文句のレースだったのに。
実際には限られた改造範囲内で大金を掛けて、重箱の隅をつつくような調整を施したチームだけが上位にいけた。
エンジンの本体の改造は禁止されていたけど、毎レース度にエンジンをバラしてバランス取りと分解整備を行うチームもあったわ。
それは私達のような、資金不足のチームには不可能なやり方。
そもそも学生の身分では、アルバイトで資金を稼ぐにも限界がある。
毎年資金が足りず、年間5レースあるうちの2つか3つしか参戦できなかった。
当然、チャンピオン争いなんて夢のまた夢。
当時の私達にとって、ツーリングカーレースはまだ早過ぎたの。
今思えば学生時代はもっとカートでの実績を積み、卒業して働き始めてから出場するべきだった。
その頃の兄は、明らかに無理をしていた。
学生とアルバイト、アマチュアレーシングドライバーという三重生活でいつも疲れていた。
授業中に寝るような真似はしなかったけど、疲労から意識が飛んでしまうようなことは何度もあったって。
それでも地頭の良かった兄は、卒業後にそこそこ待遇の良い企業へと就職できた。
でもその会社を、3ヵ月でクビになった。
理由は副業の禁止という、社則に違反した為。
兄さんも私もオズワルドも、それが問題になるとは思っていなかった。
副業の内容は、サーキットの係員。
本業の休日に、自分のレースや練習走行がない時だけの仕事。
アルバイトとすらいえないような、趣味の延長線でやっていたものだったから。
まあ兄さんには、レース関係の人脈を広げたり情報収集するって思惑があったみたいだけど。
アルバイトの報酬は現金手渡しだったし、まさか会社に知られるなんて。
しかも注意も何もなく、いきなりクビになるなんて――
兄さんが次に入った会社では、待遇が悪くなっただけじゃなかった。
周りの人達と、上手く人間関係を築けなかったみたい。
妬みや嫉み。
それを会社内で、一身に受けたから。
モータースポーツをやっていた兄さんは、裕福でお金に困らない人間だと。
自らの食い扶持を必死で稼いでいる自分達と違い、遊びで働いている人間だと思われてしまったの。
実際には、毎日ギリギリの生活を送っていたのに。
ポジティブ思考の兄さんは、他人の愚痴を言わない人だった。
それが周りから、「お高く止まっている」と思われてしまったの。
最後には上司のミスを押し付けられ、辞めさせられた。
そんな踏んだり蹴ったりな人生でも、兄さんは腐らなかった。
今のままでは良い成績を残せそうにないと判断した私達は、2年間かけて入念な準備をすることにしたの。
ツーリングカーの地方選手権シリーズ、NPC-1500クラスでチャンピオンを取るために。
筋力や全身持久力の不足を自覚していた兄さんは、ハードなトレーニングを積み身体を作っていった。
さらに条件の悪くなった仕事で、疲れている体に鞭打って。
オズワルドは、夜遅くまで車と格闘していたわ。
車両規則の範囲内でできることが残っていないか探り、お金の代わりに多くの時間をつぎ込んで車を仕上げていった。
練習走行ではプロレーシングチームも真っ青な程に走行データを細かく収集して、帰ったら兄さんと一緒に夜遅くまで分析する。
私達はちょっとでもお金を節約するために、他のチームから安く譲ってもらった中古のタイヤで練習したり、タイヤの減らない雨の日を狙って練習していた。
新品タイヤの食いつきに慣れるのは、2年後のシーズン開始直前でいい。
私は2人に、夜食を出したり――
レース出場に必要な、書類を書いたり――
練習走行に行くための工具や、荷物の準備を手伝ったり――
兄のトレーニングに、付き添ったり――
夜遅くまでマシンをいじっているオズワルドを、「かっこいいなぁ……」と思いながら見つめていたり――
そして2年後。
兄とオズワルドが、23歳の時。
勝負の1年が始まった。
相変わらず私達のマシンは、直線スピードでは劣っていた。
相手は毎レース終わる度にエンジンをバラしているような、ブルジョアチーム。
仕方ない。
でも確実に、2年前よりその差は詰まっている。
兄のドライビングテクニックの上達。
そしてオズワルドが精魂込めて煮詰めた足回りのおかげで、旋回スピードは私達のマシンが1番速かった。
コーナーからの脱出速度も上がったから、直線スピードも稼げるようになっていたの。
兄は得意なブレーキングと旋回スピードを武器に、1年間激戦を繰り広げた。
途中何度もピンチはあったけど、私達はメイデンスピードウェイにおけるツーリングカー中央地区選手権NPC-1500クラスの年間王者を獲得したわ。
私達のレース人生の中で、この1年が1番輝いていた。
毎日が楽しくて、充実していた。
兄の駆る白い〈シュライク150S〉は、私達をどこまでも遠くに連れて行ってくれる。
そんな気がしていたわ。
シーズンの最後は部品を買うためにちょっと借金もしちゃったけど、そこまで返すのが大変な額じゃなかった。
そして、チャンピオン獲得と同じ年。
兄に上のカテゴリーから、オファーがきた。
アマチュアレーシングドライバーの最高峰にして、プロへの登竜門。
チューンド・プロダクション・カー耐久選手権。
マリーノ国内を全国転戦する選手権のうち、私達の地元メイデンスピードウェイで開催される最終戦。
それに臨時で乗ってみないかと、兄にオファーがかかったの。
だけど、条件があった。
100万モジャ程度の資金持ち込みを、要求されたの。
3人の意見は、一致していた。
――借金を増やしてでも、このチャンスを逃してはいけないと。