ターン146 ディータ監督、100回ぐらい死んだんじゃないですか?
『GTフリークスドライバー、公衆の面前で尻尾ビンタを受ける事件』があった日の夜――
ニーサ・シルヴィアに連れられてやってきたのは、自宅マンション近くにあるビル。
2階に上がってみると、そこに入っていたテナントは――
「ここは……ボクシングジム?」
「そうだ。半年ほど前から、トレーニングの一環としてちょくちょく通わせてもらっている」
なるほどね。
筋トレやランニングだけじゃなく、他のスポーツをトレーニングメニューに組み込むレーシングドライバーは珍しくない。
中に入ってみると、部屋の中央にはロープに囲まれたリングがあった。
その周りでは本格的なシャドーボクシングをしている練習生がいたり、ダイエット目的で来てるっぽい奥様が縄跳びをしていたり。
「おや? あの後ろ姿は、ひょっとして……?」
エルフならではの長い耳と、翡翠色のボブカット。
サンドバッグをぺちぺちと叩いているその女性は、よく知る人物と共通点が多い。
彼女は俺とニーサの気配に気づき、クルリと振り向いた。
「こんばんわー。ランディ先輩、ニーサさん」
「びっくりしたな。ルディもトレーニングで、ここに通ってるのかい?」
「えへへ、そうです。ニーサさんと、同じ時期から。……どうです? ボクのパンチ」
そう言って、再びサンドバッグをぺちりだすルディ。
身のこなし、ステップは軽やか。
でも、破壊力は猫なでパンチだ。
「ランドール。このジムは、初回体験無料だ。軽くサンドバッグでも、叩いてみたらどうだ?」
「気分転換に……ってわけか?」
「そうだ、スッキリするぞ? 今シーズン〈イフリータ〉に煮え湯を飲まされたのは、私も一緒だ。100号車の監督。あの調子に乗ったウサ耳中年を、想像しながら殴っている」
いつの間にかニーサは、ボクシンググローブを手に着けていた。
軽く左のジャブでサンドバッグとの距離を測ったかと思うと、強烈な右ボディブローを叩き込む。
ズドン! という音を響かせながら、「く」の字に折れ飛ぶサンドバッグ。
その轟音と非常識な光景に、練習生達が目を丸くしていた。
ディータ・シャムシエル監督を想像しながら殴っていると言ってたけど、本当にニーサが殴ったら即死だな。
「ディータ監督を想像しながら……か……。そういや俺、スーパーカート時代にオファーを取り消された恨みがあったな」
「その恨みも、しっかり込めて殴るといいぞ。パンチの打ち方、教えようか?」
「いや、いいよ。学生時代、ボクシングクラブの助っ人に行って教わった」
ボクシンググローブを着けるのは、久しぶりだな。
レーシンググローブに比べると、大きくて違和感あるぜ。
「さてと……」
俺は右手右足が前のサウスポーに構え、サンドバッグに視線を向ける。
するとディータ監督のウサ耳おっさん面が、浮かんで見えた。
そんなに悪い人じゃないっていうのは、分かっている。
分かっているんだけど――
「調子に乗り過ぎなんだよーっ!」
開幕戦で100号車が優勝し、1位~6位までもレイヴン〈イフリータ〉が独占した時のあのドヤ顔。
それをかなり詳細にイメージしてサンドバッグに投影――ブッ叩く。
まずはジャブで様子見。
パンパンと、銃の発砲音みたいな音が心地いい。
感じが掴めてきたので、撃ち抜くように左ストレート。
それ以降は、もうボッコボコだ。
苦し気に跳ね回るサンドバッグと、ギシギシ軋むスタンド。
うん――
これは――
ニーサの言う通り――
気持ちいい!
「うわぁ~。ランディ先輩のパンチ、ものすごいですね~」
「お……おいランドール! 少しは手加減しろ! サンドバッグが壊れる!」
ニーサに注意されたので、威力は抑えて手数を増やす。
連打連打連打連打っ!
リズムを変え――
体勢を変え――
打ち込む角度を変え――
ステップして立ち位置を変え――
ボクシングが本業じゃない俺が、知り得る限りのパンチを叩き込む。
10分間ぐらい、ぶっ続けで殴っていただろうか――
「ふう~っ、スッキリした」
さすがに汗も出てきたし、息も上がってきたから休憩する。
だけどこれは、今朝ガムシャラにランニングしていた時とは違う。
心地よい体調変化だ。
「ランディ先輩がスポーツ万能っていうのは聞いてましたけど、格闘技もセンス抜群なんですね。ディータ監督、100回ぐらい死んだんじゃないですか?」
「ランドールはレーサーをクビになっても、格闘家で食っていけるな」
3人で顔を見合わせ、笑い合う。
うん。
なんだか少し、心も体も軽くなった気がする。
自分でも単純な奴だと思うけど、こんなもんでいいのかもしれない。
気分転換できる場所に連れてきてくれたニーサには、感謝しないとな。
ちょうどその時だ。
「おうおう! 素人が、イキがってんじゃねえぞ!?」
俺達に怒号を飛ばしてきたのは、リングの中央にいた筋骨隆々の男。
少々ずんぐりむっくりな体型で、ボクサーらしくない。
逆立てた頭髪の生え際から、小さな角が左右1本づつ生えている
――ドワーフ族だな。
「なんだ? ブライアン・メイザース。なにか文句でもあるのか?」
刺すような視線で、ニーサはドワーフを睨み返した。
「あるぜ! 体験入門の冷やかし野郎が、いきなりサンドバッグ叩いてカッコつけやがってよ! おまけに、格闘家で食っていけるだぁ? ボクシング舐めんなよ!」
あ~。
それに関しては、俺達が悪いかもしれない。
真剣にプロ目指して頑張っている人の前で、本業が別にある素人が「プロでも通用する」なんて言われたらムッとしちゃうだろう。
だけどそんなのは初心者に向けたリップサービスなんだって、普通は分かるもんだろう?
「ブライアン……。確かにお前はプロボクサー志望だが、まだ入門して3ケ月ぐらいだろう。他の者を素人だなんだと、見下せる立場か?」
「ケッ! おらぁボクシング始める前から、ストリートファイトで散々ならしてたんだ! あんたや隣の非力エルフなんかより、よっぽど経験豊富だぜ!」
なんだよブライアン君。
君も初心者じゃないか。
ボクシング舐めてるのは、どっちだよ?
「だいたい俺ぁ、レーサーっていうアスリート気取りな奴らが気に入らねえ! なんだよ? 車を運転してるだけじゃねーか! 運転免許持ってる奴なら、誰だってできる。そんなもん、スポーツだとは認めねえ! ただのお遊びよ!」
ほぉ~?
モータースポーツが大人気でレーシングドライバーの地位も高いこの世界で、そういう考え方の奴は珍しいな。
この日1番の大音量で、サンドバッグが揺れた。
ニーサ・シルヴィア、怒りのドラゴンパンチだ。
「ふん……。アスリート気取りかどうか、確かめてみるか? スパーリングの相手をしてやろう」
狂暴な笑みを浮かべて、ニーサは両手のグローブを打ち合わせる。
しかし、だ――
「い……いや、ニーサさん。あ……あんたの相手はちょっと……」
おいおいブライアン君。
さっきまでの威勢はどうした?
そんなにビビるぐらいなら、最初から喧嘩を売るんじゃない。
「なら、ド素人ランドールとやってみるか? こいつは去年のGTフリークス王者。この国の……いや。モア国家連合のトップドライバーだ。叩きのめせれば、レーサーなど大したことないという証明になるかもな」
「あの……その……入門体験に来た初心者相手に、そんな大人げないことできっかよ!」
なんだコイツ?
俺にもビビってたのか?
だからなんで、喧嘩を吹っかけた?
ひょっとしたら理性で抑制できないほど、レーシングドライバーに対する強い恨みでもあったのかもしれない。
だとすると、憐れだ。
好きな子を、レーサーに取られたとかだろうか?
「じゃあ、ボクと戦ろうよ。ブライアン君」
ルディの言葉に俺もニーサも、そしてリング上にいたブライアン君も面食らってしまった。
「ちょ……ちょっと待ちなよ、ルディ!」
「ヤです、待ちません。レーシングドライバー全員を馬鹿にするような発言に、ボクもけっこう怒ってるんです」
ルディの宣戦布告を聞いて、最初は驚いていたブライアン君。
だけど自分に有利そうな相手だと分かると、ニヤリと嫌らしい笑みを浮かべてきた。
「いいぜ~、ルドルフィーネちゃんよ。手加減してやる」
「それはこっちの台詞だよ。ボクの方が、このジムでは先輩なんだからね」
「ちっ! いいからリングに上がってこいよ!」
手招きされるや否や、ルディはヒラリと身を翻してリングへと上る。
「へえ。ルディちゃんって、身軽だな」
予想外の動きに、ニーサは感心していた。
「ああ。モータースポーツ始める前は、運動苦手だったらしいけどね。運動神経や反応速度は、ものすごくいいモノ持ってるよ」
だから簡単には、パンチを食らったりしないだろう。
けれども体重差がありすぎる。
何階級違うんだ?
おまけに性別差も、種族的筋力差もある。
幸いブライアン君はずんぐり体型なドワーフ族だから、リーチはそこまで長くはない。
それでも、ルディよりは長いけど。
「不味いな。こんな時に限って、コーチがいない。私達が止めなければ……。ランドール!」
「残念ながら、ルディはけっこう頑固なんだ。こうなってしまったら、俺が止めても聞かないよ。……危険な状況になった瞬間、止めに入ろう」
「あの体格差だ。パンチをもらってからでは、遅いのだぞ?」
ニーサの言う通りだ。
だけど俺には、ルディを止める言葉が見つからない。
ゴングが鳴り、ルディはスパーリング開始の挨拶として左手を差し出した。
ところがブライアンのゲス野郎、その手を無視していきなりジャブを見舞ってきたんだ。
ルディも予想済だったらしく、難なくかわして距離を取る。
パンチが当たることを疑っていなかったブライアン君は、肩透かしを食らって露骨に不機嫌そうな表情になった。
そのままブライアン君を中心に、左へ左へと円移動するルディ。
基本に忠実な動きだ。
彼女は移動しながら、2発、3発と素早いジャブを放った。
だけど、まったく効いていない。
ブライアン君の固いガードとヘッドギア、体重差のせいだ。
「なんだぁ? そのへなちょこパンチは?」
「うーん。ガードの上からじゃ、効かないか」
「パンチってのはな、こういうモンをいうんだよ」
お手本を見せると言いたげなブライアン君だったけど、俺の目には全然お手本に見えない。
手を耳の辺りまで引いてから打ってしまう、大振りなテレフォンパンチだ。
もちろんそんなパンチ、目がいいルディには丸見えだ。
かすりもしない。
ブライアン君はパンチの終わり際、逆にジャブをもらってしまう。
「くそっ! ちょこまかしやがって!」
いや、ブライアン君。
ルディのフットワークがいいのもあるけど、君のフットワークがなってないのもあるよ?
もっと、走り込ませないとダメだな。
「これは……。あまり心配しなくて、良かったかな? アマチュアの試合だったら、ルディが圧倒的にポイントリードしている」
アマチュアは有効打より、手数が判定に影響するからな。
ヘロヘロパンチでも、当て続ければ勝てる。
すでに10発以上、ルディはクリーンヒットを奪っていた。
逆にブライアン君のパンチは当たれば1発KOモノでも、まったく当たる気配がない。
「どうしたブライアン! 練習を思い出せ! 基本に忠実に行け!」
いつの間に来たのか、コーチっぽい恰好の人がアドバイスを送っていた。
おいおい。
この無茶な階級差のスパーを、止めないのかよ?
コーチの言葉に気を引き締めたブライアン君は、しっかりとガードを固めつつコンパクトなワンツーを打ち込む。
最初のドタバタした動きに比べると、かなりマシになった。
だけど、ルディには――
最初のジャブは、頭をずらして回避。
そして右ストレートには、なんとカウンターを合わせる。
筋骨隆々としたドワーフの巨体が、大きく仰け反った。
ルディのパンチに加え、自分のパンチの威力も上乗せされているから当然か。
「痛ぁ~!」
一方のルディも、打った手応えが大きすぎて手が痛いらしい。
手首にダメージが無いといいんだけど。
「やっぱり体重差があるから、まともに君を倒すのは無理だね。……心を折らせてもらうよ」
ルディの宣言に、背筋が凍った。
俺だけじゃない。
隣にいたニーサも――
リングに貼り付いていたコーチも――
そしてリング上にいた、ブライアン君もみたいだ。
ああ。
この感覚は、覚えがあるぞ。
カート時代、コース上で何度か味わった。
ルドルフィーネ・シェンカーの殺気は鋭く澄んでいて、氷のように冷たいんだ。
それまで自分からは打ち込んでいなかったルディが、先に動いた。
全くガードできず、まともにジャブをもらうブライアン。
――いや! 違う!
これは――
「先の先……ってやつか」
「ああ。ルディちゃんはブライアンが打ってくる気配を感じ取り、事前にパンチを置いた」
単に反射神経や動体視力がいいだけじゃ、そんな真似はできない。
相手が攻撃してくる気配を感じ取る、観察力。
そして距離を正確に測る、空間認識力もズバ抜けていないと。
「ぐっ……」
ブライアン君が何かアクションを起こそうとする度に、ルディのパンチが突き刺さる。
相変わらず、大した威力はない。
だけど全く防御ができないタイミングでくるから、確実に脳を揺さぶられて攻撃をキャンセルしてしまう。
なにもできない。
させてもらえない。
横にステップしては、進路上にパンチを置かれる。
バックステップで距離を取ろうとしても、ぴたりと追従されてまた打たれる。
今のブライアン君は、意思のあるサンドバッグ。
一方的に、パンチを受け続けるだけの存在だ。
「ひっ!」
「もう……」
「やめて……」
「ください……」
1ラウンド目終了のゴングを待たず、コーチが止めに入った。
もちろんルディの身じゃなく、ブライアン君の精神を案じての行動だ。
「どうです? ランディ先輩。ボクも、少しはやるでしょう?」
ルディがリング上から、妙にスッキリとした笑顔で見下ろしてくる。
「少し……ね……」
ブライアン君の心は、少しどころじゃない壊れ方みたいだけど。
「怖い……。なにもかも、見透かされる……。時間の流れが、違い過ぎる……。レーサー怖い……」
若いドワーフ君は、リングを降りてからもガタガタと震え続けていた。