ターン120 ここはモナコモンテカルロ……じゃないぜ!
俺が物心ついた時、彼はもう地球上に存在していなかった。
残っていたのは、その足跡。
――というより、伝説の数々だ。
F1ドライバーとしての偉大な記録。
ライバル達と演じた名勝負。
その伝説の中でも特に好きだったのは、市街地レースであるモナコGPでスピードに勝るライバルを延々と抑え込み続けたレースだ。
俺は何度も何度も、その映像を繰り返し見た。
いつか自分も、こんな風に。
F1ドライバーになって、こういう名勝負を演じるんだと胸を熱くしていた。
自分が死んだら、あの世で彼と勝負するんだと本気で思っていたな。
結局地球での俺は、F1に乗るどころか日本最高峰フォーミュラであるスーパーフォーミュラにも乗れなかった。
さらにはその下の全日本F3でも、シートを失ってばかりだったんだけど。
舞台は天国じゃなくて、異世界ラウネス。
乗っているのはF1じゃなくて、市販車ベースのGTカー。
ちょっと理想とは違ってしまった部分はあるけれど、夢見ていた対決がいま実現する。
きっと、最高のひとときになる――
「……なんて思っていた時期が、俺にもありました!」
〈レオナ〉の運転席の中で、俺は誰にともなく吐き捨てる。
脳ミソお花畑だった過去の自分に、蹴りを食らわせてやりたいぜ。
何が最高のひとときだ!
――地獄だ!
地獄のようなアタックだ!
神経と体力が、ゴリゴリと削られる。
普通このノヴァエランドサーキットの山側区間は、追い抜きを仕掛けるような区間じゃないだろう?
なのにアクセル・ルーレイロの駆るレイヴン〈RRS〉3号車は、「そんなこと知るか」とばかりに至るところで鼻先を捻じ込んできた。
幅広なボディのレーシングカーが2台並ぶと、いっぱいいっぱいになってしまうような狭い道幅でだよ?
内側かと思えば外側、アウトかと思えばイン。
縦横無尽に、ラインを変えてくる。
「当たる当たる当たる~!」
ビビりまくって叫ぶ俺をあざ笑うかのように、ルーレイロは接触ギリギリのところでスッと引く。
くう~!
凄い腕だ!
道幅が狭くなければ、あっさり抜かれていただろうな。
上りはなんとかしのぎ切り、俺と〈レオナ〉は下り区間へと突入する。
下りは〈レオナ〉の本領発揮!
――と言いたいところだけど、〈RRS〉も得意な区間なんだよな。
ここで抜かれたら、そりゃもうドライバーの腕の差だ。
上り切った地点から下りに入るコーナーでは、完全に内側の前輪が浮いてしまう。
まるでオートバイのウイリー走行だけど、怖いとか言っている場合じゃない。
後ろから迫ってくる赤いスーパーカーが撒き散らす殺気の方が、何倍も恐ろしい。
なにはともあれ、アクセルオン。
タイヤは4つもあるんだから、1つぐらい浮いたって大丈夫!
そう自分にいいきかせて、加速体勢でコーナーを切り返す。
そんな風に頑張って、コーナーを立ち上がったのに――
次のコーナーまでのほんの短い加速区間で、またルーレイロに鼻先をねじ込まれてしまった。
そのままブレーキング。
右側運転席に座っている俺のすぐ隣で、レイヴン〈RRS〉の左前輪ブレーキローターが激しく赤熱する。
――熱い!
実際には熱が車内に入ってきたりはしないけど、ヴィジュアル的にもの凄く熱いぜ!
これも一種の精神攻撃だろうか?
幸いルーレイロは、またしても引いてくれた。
そのまま意地を張ると、壁に激突してしまう走行ラインだったからな。
ホッとひと息――
なんて、ついている場合じゃない!
後ろに気を取られ過ぎた。
意識を前に戻した瞬間、銀髪の美少女剣士と目が合う。
ガゼールさんところの〈エリーゼ・エクシーズライオット〉だ。
後部にも描かれているアニメキャラの顔面に、〈レオナ〉の鼻先が突っ込んでしまうところだった。
いつの間にか俺のタイヤが温まり始めて、ペースが上がっていたらしい。
こうなると下り区間が苦手な〈ライオット〉には、あっさり追いついてしまう。
追突を回避するため、俺はやや強引に〈ライオット〉の内側へ飛び込んだ。
コーナーを曲がり始めていた〈ライオット〉は、驚いたみたいだ。
慌ててハンドルを戻し、走行ラインをマシン1台分外側に修正する。
〈ライオット〉のフロントガラスに光る、ピンク色のLEDランプ。
あれは第2ドライバーが乗っている証だから、キース先輩だな。
ごめんよ、キース先輩。
乱暴に抜いて。
迷惑ついでに、後ろから来るルーレイロをブロックしてはくれないか?
――ん?
後ろにルーレイロがいない!?
奴は〈ライオット〉の陰から、唐突に姿を現した。
内側に飛び込んだ俺に対して、ルーレイロは外側から大回りして〈ライオット〉をかわしたんだ。
3台並走できるようなコース幅はない。
片輪を、芝生に落としながらの追い越し。
クソっ!
なんでそんな真似して、スピンしないんだよ!?
空でも飛んでるのか!?
ルーレイロはスピンこそしなかったものの、グリップしない芝生の上を走ったせいで加速が鈍ったようだ。
車1台分ぐらい離れてくれて、今度こそ本当にひと息――
――つけない!
つかせてもらえない!
すでに山側区間は終わり、俺達は平地に下りてきて普通のサーキットっぽい区間を走っている。
だけど、道幅の広いその区間こそ危険。
走行ラインの自由度が上がり、俺をぶち抜くチャンスは倍増――ってところだろう。
ルーレイロはコーナーの度に、俺のドアミラーに大きく車体を映し込んでくる。
プレッシャーを、ガンガンかけてきやがるな。
ヘッドライトが眩しい。
光軸の角度やミラーの反射。
俺の眼球の動きまで考慮して、意識的に目くらまししてるんじゃないかと疑いたくなるぜ。
直角ターンの最終コーナーを立ち上がった。
ピット前を通過する、短いメイン直線に入る。
サインボードなんて、見ている暇はない。
今は後ろから迫りくる、悪夢のような敵に集中しなければ――
『サインボードをしっかり見ろ! 馬鹿者!』
無線から響いた、ニーサの声。
俺は半ば反射的に、サインエリアを見る。
目に飛び込んできたのは、でっかい矢印。
見やすいよう蛍光イエローでサインボードに描かれたそれは、天を突き刺すように上を向いている。
ペースアップのサインだ。
それだけじゃない。
金網の隙間から、沢山の手が生えていた。
ヌコさん。
マリーさん。
ケイトさんにジョージ。
クリス君。
ニーサ。
ヴィオレッタ。
みんなで金網が途切れている狭いスペースに殺到し、ギュウギュウになりながら天を指差している。
サインボード以外にも、ハンドサインで俺にペースアップを要求しているんだ。
「ははっ、なんだよ。そんなにいっぱいサイン出さなくても、わかるって」
フェイスマスクの下で、自分の顔がほころんでいくのを感じる。
同時に全身から、無駄な力が抜けた。
みんなの前を走り抜け様、俺は左手をステアリングから離してヒラヒラ振ってみせる。
ドライバーのニーサやクリス君、目のいいヴィオレッタぐらいしか見えなかったかもしれないな。
片手運転しながらでも、ステアリングに着いているパドルを右手で操作してシフトアップ。
1コーナーに向けて、〈レオナ〉を加速させる。
「もうタイヤは温まった。好きにはさせないぜ」
1コーナーで、ルーレイロは仕掛けてこなかった。
奴は脱出速度重視のラインを取り、その後のストレートスピードを稼ぎ出す。
長い2kmのロングストレート――「ストレート・トゥ・ヘル」の終わり、急な2コーナーのブレーキングで仕掛けてくるつもりなんだろう。
『ぶん回すだニよ! おいちゃんの組んだロータリーは、壊れないだニ!』
――言われなくても。
燃料をセーブしたいけど、ここは勝負どころ。
手元のダイヤルを操作し、エンジンマップを変更。
今は燃費よりも、最高出力を重視する。
行くぞ〈レオナ〉!
かつてユグドラシル24時間を制した、ロータリーエンジンの底力を見せてやろうぜ!
俺の呼びかけに対する、〈レオナ〉の反応はクールだ。
振動の少ないスムーズな回転フィールでパワーを絞り出し、車体を加速させてゆく。
一方で、排気音は苛烈で容赦ない。
後ろのレイヴン〈RRS〉も相当に甲高い排気音だけど、それを上回る鋭さだ。
「気安く近づかないで下さる?」と、威嚇しているような咆哮を上げる。
ついでに車体底面が路面を擦った時に出る火花が、〈RRS〉の顔面に浴びせられた。
天下のアクセル・ルーレイロに対して、このつれない態度。
ウチの〈レオナ〉姫は、気位が高いのさ。
観客が総立ちしているグランドスタンドの前を走り抜け、俺とルーレイロは森の中へと突入していく。
『みゃあああああああーーーーっ!!』
無線越しに、ヌコさんの叫びがうるさい。
でも、力を分けてもらってるような気分にもなる。
落ち着いてくれよ。
たかが3.5ℓV型8気筒ターボ無しに、〈レオナ〉の3ローターが負けるわけないだろ?
ストレートエンド。
山側区間の入り口である、2コーナーが迫る。
俺とルーレイロは、280km/hオーバーからのブレーキングを敢行した。
〈RRS〉は、ストレートで〈レオナ〉についてくるのがやっと。
ブレーキングで、飛び込んでくるような真似はできない。
――抑えた。
タイヤが冷えているアウトラップで、タイヤの温まっているルーレイロを丸々1周抑え込むのに成功したぞ!
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その後のルーレイロは、大人しかった。
山側区間で仕掛けてくることは全く無く、ずっと後ろをついてくる。
向こうの方が速いんだけど、俺のタイヤが温まってしまった以上は簡単に抜けないだろうしな。
道幅が広くて抜きやすい平地区間や、ブレーキング勝負に持ち込みやすい2コーナーだけ警戒していればいいだろう。
楽観的に考えながら、ルーレイロを抑え続けて5周目。
山側区間の出口。
下りきって、平地区間へと入るコーナーでの出来事だ。
「……しまった!」
紅白に彩られた、レイヴン自動車メーカーチーム「ドリームファンタジア」の1号車。
ペースが上がらず周回遅れになっていたそのマシンが、俺の進路を塞いだ。
「塞いだ」とはいっても、露骨にブロックしたとかじゃない。
「周回遅れは速い車を先に行かせなさい」という意味であるブルーのLEDボードがコース係員から提示されているから、そんな真似をしたらペナルティを受けてしまう。
1号車はただ、最速ラインをキープしただけ。
なんの非難を受けるいわれもない。
抜く側が走行ラインを変えるのが、モータースポーツの常識だからな。
ただそれは、俺と〈レオナ〉に致命的な結果をもたらす。
ほんのわずかな時間、理想の走行ラインと加減速タイミングを取ることができなかった。
それだけで、コンマ数秒コーナーの立ち上がりが遅くなる。
そのロスを、アクセル・ルーレイロほどのドライバーが見逃してくれるわけがないんだ。
「ダメだ……。抜かれる……」
完全な2台横並び。
それも内側に入られてしまったら、もうどうしようもない。
俺を抜いた後のルーレイロは、速かった。
コーナー1つ抜けるごとに差を広げ、小さくなってゆく。
「これでウチの順位は、暫定2位か……」
『今のは仕方ないだニよ。1号車と3号車は、タイミングを計っていただニね』
――そうか。
わざと俺の邪魔になるよう、1号車はペースを調整していたのか。
レイヴン〈RRS〉3号車は、夕焼けの中に溶けてゆく。
排気口からアフターファイアを上げながら、コーナーの向こうへと消えた。
『ランディ。おみゃーは良くやっただニよ』
そんなのは、ただの慰め。
続く言葉を、聞かなければの話だけどね。
『これでもう、ウチが勝ったようなもんだニ」