ターン117 わたくし、ピットに帰らせていただきます!
樹神暦2634年8月
日曜日
ノヴァエランド12時間耐久レース決勝日
AM8:45
レーススタートを目前に控えて、70台の参加車両がコース上のグリッドに整列していた。
最初は72台だったのに、公式練習から予選の間に2台消えている。
山側区間で突っ込み、マシンは全損。
決勝までに、修復や代替車両は間に合わなかったそうだ。
周囲を埋めつくすのは、おびただしい数の人々。
交代要員のドライバー。
メカニック。
エンジニア。
監督。
レースクィーンと、スタッフ達が車を取り囲む。
チームスタッフ以外にも、大勢の一般人がグリッド上を練り歩いていた。
彼らは高いお金を払って、グリッドウォーク用のチケットを購入したお客さん達だ。
マシンやドライバーの写真を撮ったりしながら、ワイワイと流れていく。
スタートドライバーを担当する俺は、すでに戦闘態勢で〈レオナ〉の運転席に収まっていた。
今日は絶好のレース日和。
雲ひとつない青空が、サーキット上空に広がっている。
晴れているのはいいんだけど、暑いぜ!
エンジンを停止しているもんだから、せっかく着ているクールスーツの冷却液は循環していない。
おまけにエアコンも、動いていない。
「レーシングカーにエアコンなんて着いてんのか?」と思う人もいるかもしれないけど、最近のは着いている。
ルールで装着が、義務付けられている場合もある。
耐久レースになると、ドライバーが快適に運転できるかどうかもマシンの戦闘力に含まれるんだ。
ただエンジンOFFの今は、その恩恵を受けることができない。
代わりに何をやっているかというと、ドアを全開。
そこから送風機で、車内に風を送ってもらっている
それと運転席が日陰になるよう、レースクィーンのアンジェラさんがサーキットパラソルを差してくれていた。
「あ~。くそ~。あっち~な」
と、こぼしたのは俺じゃない。
クリス・マルムスティーン君だ。
彼は上半身だけレーシングスーツを脱いだ、シャツ姿。
ヘルメットも被っていなければ、グローブも着用していない
マシンの傍らで、ニーサと並んで折り畳み式の椅子に腰かけている。
ニーサは平然としているけど、クリスくんは暑くてダルそうな顔をしているな。
だけどフル装備で運転席に収まっている俺の方が、絶対暑いぜ!
キンバリーさん。
そんな奴に、パラソルを差してやらなくてもいいよ。
カキンと軽い手応えと共に、車体が揺れる。
長~いトルクレンチを使って、ジョージ・ドッケンハイムがタイヤの取り付け回転力を確認したんだ。
4輪ともチェックしたジョージは、運転席に回ってきて無言で拳を突き出す。
自分は完璧な仕事をしたから、あとはドライバーも完璧な仕事で応えろってか?
――いいぜ!
あとは俺達に任せろよ。
俺も無言のまま、拳を出して打ち合わせる。
それを見たヌコ・ベッテンコート監督も、同じように拳を突き出してきた。
ジョージの時と同じように、俺も拳を打ち合わせて応えたんだけど――
あらら。
ヌコさんは小柄なもんだから、俺の拳に押されてフラついちゃったよ。
おーし!
気合入った!
やってやるぜ!
いつの間にかグリッドウォークの時間が終り、大勢いたお客さん達はコース外に退去させられている。
マシンのドアが閉められ、ジョージ達スタッフも退去させられた。
これからコース上は、マシンとドライバーだけの領域になる。
静かになった車内に、場内放送を通して歌声が届いた。
マリーノ国の国歌だ。
スタートセレモニーとして、なんとかっていうオーク族の大物歌手が国歌独唱をやることになってたな。
いい声だ。
顔は凶悪なのに、透き通るようなテノールじゃないか。
歌い終えるタイミングに合わせて、ジェットエンジンの甲高い吸気音と排気の轟音が響き渡る。
マリーノ国防軍の戦闘機編隊が5色のスモークで色鮮やかにラインを描きつつ、サーキット上空を通過した。
その余韻が消え去らない内に、オークのテノール歌手が美声でスタートコマンドを告げる。
『レディース&ジェントルメン! スタートユアエンジンズ!』
一斉に爆音が轟いて、眠っていた70台のレーシングカー達が目覚める。
もちろん、ウチの〈レオナ〉姫もお目覚めだ。
1周のフォーメーションラップの間、競技車両達を先導するセーフティーカー。
そのセーフティーカーの屋根上で、回転灯が点滅し始めた。
今日のセーフティーカーは、ヤマモト〈ベルアドネ〉だ。
ヤマモト〈ベルアドネ〉は、街中で見かけると誰もが振り返って見てしまうようなスーパーカー。
だけど怪物じみたレーシングカーの群れの先頭に立つと、無改造の〈ベルアドネ〉はものすごく普通の車に見えてしまう。
レースに参加しているGT-B仕様の〈ベルアドネ〉は、全然普通じゃないけどね。
セーフティーカーが、走り始めた。
それを追って、予選1番手を獲得したマシンも発進する。
真っ赤なレイヴン〈RRS〉GT-B。
これはブレイズとルディ、そして「あの人」が乗るレイヴン自動車メーカーチームの3号車。
スタートドライバーは、「あの人」が担当しているはず。
さあ――
12時間という、長い戦いのスタートだ。
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■□3人称視点■□
「お父さん、お母さん、遅い! もうフォーメーションラップ、始まっちゃったよ?」
「ああ、スマンスマン。ちょっと準備に、手間取ってな」
ブルーレヴォリューションレーシングのピットに入ってきた両親を、ヴィオレッタ・クロウリィは頬を膨らませて迎えた。
「お父さんが昨夜、興奮して寝つけなかったのよ。それで寝坊」
妻シャーロットにバラされて、オズワルドは気まずそうに頬をポリポリと掻く。
「スタート前に、お兄ちゃんを激励して欲しかったな」
「ほ……本当にすまん」
190cmの巨体が、小さく見える。
ケンカ無敗の剛腕メカニックも、妻と娘には敵わないのだ。
「まあ、お父さんが眠れなかった気持ちも分かるわ。お母さんもね、お父さんほどじゃないけど凄く興奮しているの」
「なんたって自分の息子が、TPC耐久のクラス1マシンに乗っているんだぞ? トミーが届かなかったカテゴリー……それも、1番速いクラスに!」
かなりヒートアップしている両親を見て、ヴィオレッタは遅刻して良かったのかもしれないと思う。
最初からサーキットに到着していたら、今頃興奮し過ぎて倒れていたのではないかと。
「それだけじゃねえ。あのスーパーヒーローと、同じレース……。興奮するなって方が無理だ!」
オズワルドが見上げたモニターには、フォーメーションラップ中のマシンが映し出されていた。
激しく車を左右に揺さぶり、タイヤを温めているカーナンバー3。
去年優勝したレイヴン自動車メーカーチームの「ドリームファンタジア」がカーナンバー1を付ける決まりなので、この真っ赤な〈RRS〉はそこの3号車だ。
元々レイヴンワークスからは2台しか参戦しない予定だったが、後から3台目の参戦が決定した。
世界耐久選手権というレースの日程が変更になり、時間のできたレイヴンのエースドライバーが「ノヴァエランド12時間に参戦してみたい」と言い出したのがきっかけだ。
「夢でも……見てるみてぇだ……」
ライブ映像はテレビ局のものをそのまま流用しているので、テロップもモニターに表示されている。
『アクセル・ルーレイロ』
ユグドラシル24時間、優勝経験者。
ナイトウィザード社からレイヴンに移籍して、現在はそこのエース。
ブレイズ・ルーレイロの父親。
そして地球から転生してきた、3度のF1世界王者経験者。
オズワルドとランディがずっと憧れていた大スターの姿と名前が、モニターにしっかりと映し出されていた。
「はいはい! そんなにボーっと、見惚れない!」
ヴィオレッタはパンパンと手を叩き、夢現だった父を正気へと引き戻す。
「お父さん、お母さん、これは夢なんかじゃない。アクセル・ルーレイロは倒すべき敵で、現実よ」
その時、ピットの外で大気が震えた。
70台のマシンが、一斉にフル加速を始めたのだ。
隊列を組んだ低速走行状態から、そのまま加速してレースをスタートするローリングスタート方式。
先頭は、レイヴン〈RRS〉3号車。
高回転型自然吸気エンジンの乾いた音を立てながら、赤い矢となって走り抜ける。
続いてヤマモトワークスの〈ベルアドネ〉が、野太いターボサウンドで大地を揺らしながら疾走していく。
それ以降はもう、大混雑だ。
マシンの群れはピット前を駆け抜け、我先にと1コーナーへ殺到する。
会話ができないほどの爆音の嵐。
そんな中でクロウリィ一家は、特徴的な排気音が近づいてくるのを聴き分けた。
先程のレイヴン〈RRS〉よりさらに金属質で鋭く、官能的な排気音――
ロータリーサウンドだ。
ランドール・クロウリィの駆る〈レオナ〉が、ピット前のメインストレートを通過する。
集団の真ん中より後ろ。
予選40位からのスタートだった。
モニターに映る公式映像は、先頭集団しか映していない。
なのでクロウリィ夫妻は、チームのパソコンに転送されている車載カメラの映像を見ることにする。
ランディの駆る〈レオナ〉は、すでに1コーナーを抜けていた。
その後に続く、「ストレート・トゥ・ヘル」という物騒な名前のロングストレートに入っている。
この「ストレート・トゥ・ヘル」はメインストレートよりも遥かに長く、その距離は2kmにも及んでいた。
〈レオナ〉の3ローターエンジンは、毎分9000回転という高回転域で490馬力のパワーを絞り出す。
一瞬でギヤチェンジが行えるパドルシフト式の6速セミATを介し、ランディはそのパワーを無駄なく路面に叩きつけていく。
だというのに――
「おいおい、なんだこのスピード差は? 本当に、同じクラスか? 相手のマシン、エアリストリクターが外れてんじゃないのか?」
エアリストリクターは、吸入空気量を制限してレーシングカーの馬力を制限する部品。
これによって様々な排気量・形式のエンジンが、互角に戦えるよう性能調整されている。
それが外れているんじゃないかとオズワルドが疑った理由は、ランディの前を走る紫色の〈ライオット〉がぐんぐんと離れていったからだ。
「お父さん、慌てないで。私達の〈レオナ〉は、旋回性能が高いマシン。山側区間に入ってからが、本領発揮なのよ」
ランディの駆る青い〈レオナ〉は、山側区間へと突入する。
曲がりくねりながら200mの高低差を駆け上る、とても難しいセクションだ。
道幅はレーシングカー2台が、なんとか並べる程度。
その両側は、コンクリート壁。
切り立った山肌が邪魔で、コーナーの先が見通せない。
上りきった地点など、ドライバー視点では道が青空に向かって消滅しているかのように見えてしまう。
だがそんな危険なコースを、ランディは果敢に攻める。
ヘルメットの中で、「怖えー!」と叫んでいる気がしないでもない。
だが少なくとも車載カメラの映像からは、恐怖やためらいを感じられなかった。
上りは大排気量車である〈ライオット〉が有利なはずだが、曲がりくねっているなら〈レオナ〉も得意とする区間だ。
現にその差は、少し縮まったようにも見えた。
「ここからよ。下りの第3区間は、私達の〈レオナ〉が1番速いんだから」
ヴィオレッタの台詞は、嘘ではなかった。
下り区間も狭く、コーナーが連続している。
パワー差が出にくいので、周りより少し非力な〈レオナ〉でもその弱点が気にならない。
あっという間に、前をいく〈エリーゼ・エクシーズライオット〉との差が詰まった。
テール・トゥ・ノーズの密着状態になる。
なったのはいいが――
「くそっ! 抜けねえな」
「この道幅と渋滞じゃ、無理よ」
カメラ映像の前で、苛立つオズワルドとシャーロット。
明らかに〈レオナ〉の方が速いのだが、前をいく〈ライオット〉をかわすのは難しい。
かわせたとしても、〈ライオット〉の前にも車が詰まっていた。
思ったようなペースで走ることは、できないだろう。
前に詰まっている〈レオナ〉。
その背後に迫るヴァイキー〈スティールトーメンター〉のヘッドライトが、ルームミラー替わりである後方モニターに映りこんでいる。
こちらも渋滞に巻き込まれて、不服そうな走りだ。
中団グループは誰も彼もが走行の自由を奪われて、フラストレーションを溜め込んでいた。
「……あ。お兄ちゃんから、無線が入った。『付き合いきれない、もう帰る』とか言ってる」
ヴィオレッタの発言に、両親は目を丸くする。
「ま……まさかあの子、レースを投げちゃったのかしら?」