【第八話 花咲く乙女とお好み焼き】
その日、河原にはいつもより濃い靄が立ち込めていた。
河原だというのに、川はずいぶんと遠くにあるのか水の気配は感じられず、それなのに、人々はその場所が河原であると何故か信じた。
それは転がる石の形を見たからか。
それとも川を目指し歩いてきたからか。
少女は河原にしゃがみ込み、角がとれた平たい石を拾っては、高く高く積み上げていった。
「一つ積んでは父のため、二つ積んでは――」
少女の声に足音が重なった。
ジャリッと石を踏みしめる音。
積んだ石を崩してしまうという鬼がやってきたのだろう。崩れたあとはまた一つ目から始めて、もう少しというところで崩される。その繰り返し。ここはそういう場所だという。
石を手に少女は「イヤよ」とこぼした。
かと思うと、口の端をキッと上げる。負けん気の強さがありありと顔に表れていた。
音のした方に気をとられていたせいで、少女は持っていた石を落としてしまった。コトリと小さな音を立て、足もとの石に紛れ込む。
そんなことなど気にせずに、少女は勢いよく立ち上がった。
振り返り、胸を張り、近づいて来た足音の主に声をぶつけた。
「ふん! 崩されるくらいなら、自分で崩してやるんだから!」
どうだざまあみろ、と言わんばかりの高笑いをつけ加え、石の塔を足で払った。
悔しがるだろうか。怒り出すだろうか。それとも驚くだろうか。
いろんな反応を想像して楽しみにしていたのに、少女の表情はたちまちのうちにしぼんでいった。
ガラガラという音の向こう。自分のすぐそばで歩みを止めた足音の主は、同じ年頃の少女だった。
フリルのついた真っ白なエプロンを着けた少女が、三途の川の畔に、一軒の食堂とともに現れたのだ。
***
「えーと、」
少女は言葉を探した。崩れた石の塔は足もとで小さな山を作っていた。
その山の端の石ころにコツンとつま先が当たる。
「ええと……」
予想したのとはまったく違う事態が起きていた。
「鬼じゃ、ないよね?」
自分でも馬鹿馬鹿しい質問だと思った。
こんな小柄な女の子が、死者をいじめる鬼であるはずがない。百歩譲って可愛らしい女の子の姿をした鬼がいたとして、角はどうした? 金棒は? 黄色と黒の縞模様のパンツは穿いていないではないか。
女の子の姿をしていたっていい。せめて、鬼としてのアイデンティティーは守ってよ、と思考を巡らせていると、エプロン姿の少女がぶんぶんと首を横に振った。
「鬼じゃないよ! 私はサエ。このお店の店主だよ。ようこそ! 三途の川のホトリ食堂へ!」
元気いっぱいに言う。
きっと誰かが来るたびにやっているのだろう。決めポーズとしては控え目だが、何気ない動作としてはわざとらしい立ち姿で笑顔を向けていた。
「サエさん?」
指差し確認。
「サエでいいよ!」
いっそうはなやかな笑顔が返ってきた。
「三途の川の、ホトリ、食堂?」
指の向きを変える。
「ステキな食堂でしょ? さあ! 入って入って!」
手招きで誘うサエに対し、少女は本能的に後ずさった。
敵意など微塵も感じない笑顔ではあるが、こんな場所で遭遇すれば、その笑顔はむしろ恐怖となるものだ。ありもしない影がサエの背後でイヒヒと笑っている姿を想像してしまった。
一歩下がる。
今度は踵に石の山が当たった。
当たっただけなら良かったのだが、運悪く、次の一歩が嫌な角度で山に乗ってしまった。
足を捻ってしまう。そう思い無理に体勢を変えると事態は悪化して、完全にバランスを崩してしまった。
尻餅をつく覚悟をした。
しかし少女の体は不自然な体勢で止まる。
「サエちゃん、何やってんのさ――って、お客さんか。似たようなフォルムだから間違っちゃったよ」
極々自然に現れて少女の体を支えた男がハハハと笑った。こちらも角はないし縞のパンツを穿いていなかった。
いかにも外向けの笑顔という表情で少女を助けると何ごともなかったように食堂へ向かった。
おかえりなさい、とサエが迎えた。
早かったねとか、書類はもらえたのとか、サエの方が一方的に話かける。それに対して男は手に持っていた書類の束をひらひらさせて
「ああ、疲れたなあ。コーヒーが飲みたいなあ」
などとこれ見よがしに言ってみせた。
「もう。しょうがないんだから。今日は特別だからね!」
サエは頬を膨らませる。
その途中で少女のことを思い出し、表情を変えきらないままでこちらを向いた。
「あなたも早く入って!」
ついてくると疑わず、サエは先に食堂に入った。
「ちょっと――」
届いていないのか、声をかけても反応は返ってこない。
「もう! いったいなんなのよ!」
ひとり残された少女は、足もとの石ころをひとつ蹴飛ばした。
それほど強く蹴ったつもりはなかったのに、石の山がガランと崩れた。その音に混じって、砂利を踏みしめる音が聞こえたような気がした。
食堂の方向からではない。
だとすると――
少女はごくりと唾を飲み込んだ。今度こそ恐ろしい鬼が襲ってくるかもしれない。と思えば、靄の中にうっすら大柄の人影があるように見えてくる。
「ちょ、ちょっと待ってよ! おいてかないで!」
河原の石に足をとられながら、少女は食堂へと駆け出した。
店内に入り案内された席に着いてしばらくは、少女は「へー」とか「ほう」とかそんな声を漏らすばかりだった。
見るものすべてが見慣れないものだった。
そもそも、ファストフード店やファミレスならば入ったことがあるが、こういったタイプの食堂に入るのは初めてだった。テレビや漫画で見たことはある。だが実際に足を踏み入れてみれば、建物に染みついた食べ物の匂いや、古いテーブルや椅子の質感など、馴染みのない感覚のものがあふれていて、何とも言えぬ高揚感が全身を巡っていた。
つまり、とてもワクワクするのだ。
「石を積んでいるときはつまらなくて死にそうだったけど、近くにこんな楽しそうな場所があったのね」
「つまらなくて死にそう、ね」
一足先に店内に入っていた男はL字のカウンター席の一番端に座って少女に一瞥をくれた。少女はは小さく頭を下げた。
「自分が死んでるの、理解できてる?」
男が言うと、サエが
「篁さん、言い方があるでしょ!」とたしなめる。
篁と呼ばれた男は悪びれもせず、こちらを向いて「で、どうなのさ」と付け足した。
少女は初めは呆気にとられ言葉に詰まってしまった。だが、篁の態度が自分を馬鹿にしているように見えてくると、怒りとともに、一矢報いてやりたいという欲が湧いてくる。
「当然。だって私は、死を覚悟して毎日を過ごしていたんだから」
椅子の背もたれに体重を預けふんぞり返り、強い口調で言ってやった。
「死を覚悟していたの?」
驚きの声を上げたのは篁ではなくサエだった。思惑通りではなかったが、サエがとても大きな反応を見せてくれたものだから、少女は嬉しくなってつい自慢話のような言いぶりになってしまう。
「余命宣告されてたからね。だから、『私、死んじゃったの?』とか取り乱したりしないよーだ、べーっ!」
怒らせるつもりで大袈裟にやったのに、篁の顔色は少しも変わらず。哀れむように、ふんと鼻で笑っただけだった。
「え、ええと、」
困ったサエが少女の様子をうかがう。
あの人はああいう人だからとその場を納め、少女の前に水の入ったグラスを置いた。細かい氷がたっぷり浮いていて、表面はすっかり汗をかいていた。
「あなたのことは何て呼べばいいかな」
ずいぶんと人懐っこい顔で話しかけてくる。
「朝日。友だちからはアサとか呼ばれてる」
「じゃあ、朝日さんでいい?」
「なにそれ。自分はサエでいいって言ったのに、私は朝日『さん』なの?」
「エヘヘ。なんだかこっちの方がしっくりくるから」
「他人行儀。カンジわるーい。歓迎されてないみたい」
「え! そんなことないよ! いつもこんな感じだし、でもお店に来る人とはちゃんと仲良くできてるよ! そうだよね、篁さん」
「さあ。どうだろうね」
こういうときだけは反応がいい。
篁は言うだけ言ってあさっての方向を向いた。
援軍を得られずオロオロするサエの姿に、朝日は思わず大きな声で笑ってしまった。
「冗談だよ。サエっておもしろいね。くるくる表情が変わって。私の友だちにもそういう子いるよ」
友人のことを思い出してまた笑う。
サエもつられて笑顔を見せたが、なんとなくこちらの顔色をうかがっているように見えた。
きっと、さっきの発言のせいだろう。
「気を遣わなくていいよ。っていうか、気を遣われるのはあんまり好きじゃないし」
言葉の印象がキツくならないように、朝日はニヒヒと歯を見せて笑った。
それでもまだ遠慮が見てとれたので、自分から話を始めた。
「私、いわゆる癌ってやつでさあ。なんか、腫瘍? っていうのができてね、」
自分のこと病気のこと。そしてこの店に来るまでのこと。
真剣に耳を傾けるサエを前に、少女は滔々と語った。
***
朝日は自分の姿を指し、なんとかならないかと訴えた。髪も体も元気だったときの見た目であるのは嬉しいけれど服装が気に入らないと言う。通うはずだった学校の制服なのだというそれは、赤いスカーフが印象的な半袖のセーラー服だ。
朝日に病気が見つかったのは小学生のときだった。治療を続ければきっと良くなると言われていたのに、中学に上がるころにそう長くはもたないことを告げられた。
病状が悪化したのか、それとも幼い朝日を気遣い大人たちが嘘をついていたのか。
どちらか知らないが、それは突然のことで、しかし辛い治療がなかなか終わらないことから薄々気づいていたという。
「他の子が治療を終えて病院に来なくなったりすればさ、なんとなくわかるでしょ。余命宣告されるずっと前に『ああ、私はダメなのかも』って思ってた」
だから死んだことはちゃんと理解しているのだと篁に念押しをする。
「それで、死んじゃったわけだけど、なんかよくわかんない裁判みたいのされて、次に行け! って。次っていうのがね、三途の川で、そのそばに賽の河原があるからって説明されて。賽の河原っていったらアレでしょ? 石を積むやつ。おばあちゃんがそういう話するの好きでよく聞かされたから言われたとおりにしてたんだ」
三途の川の激しい流れのように、まあ、よく喋る。どこが切れ目かわかりにくい話し方で、サエは割り込むタイミングを計っていた。
「で、サエが登場したんだけど、ここは何なの?」
朝日にそう聞かれ、サエは待ってましたと身を乗り出した。
「ここはね、不安や不満、困っていることがあって三途の川を渡れない人たちが立ち寄る場所なの」
「不安や不満……困っていること?」
「あとは未練や後悔、あっちの世界への強い執着とかだね」
篁が追加する。
そのうちのどれかに反応したようで、朝日は不機嫌な顔をした。
「心当たり、ある?」
サエが問うと、
「ない」
さっきまでのマシンガントークはどこへやら。口数少なく、ふてくされたようにそっぽを向いた。
「でもここに来たってことは、何かあるってことなんだけどなあ……」
「ないってば!」
張り上げた朝日の声が食堂内に響いた。
しかし意図しないことだったようで、ハッとした顔を見せ口もとを押さえた。
そのまま、上目遣いでこちらをうかがう。
小さな声で謝ると、ふうっと息を吐いた。
「っていうか、私、自分でここに来たわけじゃないよね? サエにおいでおいでってされたから来ただけだし」
川を渡れない理由があるということをどうしても否定したいようだ。
こういうときの尋問は篁の方が得意だろう。少々危険も伴うが、サエは篁と交代する。
「俺が? どうして?」
と、こちらも非協力的な態度でサエを困らせる。
しかし頑なな朝日の態度に、血が騒ぐようだ。
「でも、川、渡れなかったでしょ?」
質問はねちっこく。
「渡れなくない」
「だって河原で石を積んで遊んでいたじゃない」
意地の悪い言い方を混ぜ、
「あれは! だって、歩いても歩いても川にたどり着かなくて、それで、河原しかないから、私は年齢的にやっぱり子ども扱いなのかなって。そしたら石積むしかないじゃん。私、親より早く死んだわけだし」
「川にたどり着かないのはこの店に導かれた証拠」
「でも、」
「石積んでても鬼来なかったでしょ?」
「そうだけど、」
「そもそも他に石積んでる子、見なかったでしょ?」
「それはたしかにおかしいなと……」
「他に何か言っておきたいことは?」
「…………ありません」
一気に畳みかける。
「決まりみたいだね。君はちゃんと理由があってここに来た」
篁が朝日の前に書類とペンを置く。
朝日はそれを両手でしっかり持って上から下までじっくり読み込んだ。
数分後。
「ぜんっぜん、わかんない」
両手を掲げお手上げポーズ。そのついでに持っていた書類をふわりと宙に放った。
落とすまいと飛びついたサエは、ゆらゆらと左右に揺れながら落ちる紙切れに翻弄される。
床まであとわずかというところでなんとか掴んだ。ほっと胸をなで下ろし投げちゃダメだよと朝日に手渡す。
「わからないとこ、私が説明するから!」
自信たっぷりに言うと、
「ここと、ここと、あとこれも。それから――」
朝日があちこち指差すものだから、サエは慌ててその手を止めた。
「ひとつずつね!」
念を押して、ひとつずつ説明をする。
篁のように詳しく且つ簡潔にという具合にはできないが、最低限のことを理解してもらうにはサエの説明でも足りたようだ。
「つまり、私の思い出を覗いて作った料理を食べれば、先に進めるようになるってことね」
なるほどと朝日は頷いた。
しかし、
「えー。やだー」
と、幼い子どものように駄々をこね始めた。
「だって、思い出を覗かれるんでしょ? そんなの恥ずかしくて死んじゃうじゃん」
「大丈夫だよ! 覗くのは食べ物のことだけだから」
「本当に?」
まったく信用できないという目でサエを見る。
「約束する」
サエが小指を立てて指切りの用意をした。
「約束ね」
その指に朝日が自分の指を絡める。
「嘘ついたらサエの秘密教えてもらうからね」
「え!」
「ゆーびきったー!」
ニヒヒといたずらっぽく笑って朝日は指を離した。
「えー」
秘密を教えるなんて、と一度は不安に思ったが篁に「嘘つかないから問題ないでしょ」と言われ、それもそうだと安堵する。
それなのに、朝日の勝ち誇った顔を見ていると安心しきれなくて、サエは大きなため息をこぼした。
一文字一文字をしっかり丁寧に書いた。
「テストみたい」
朝日は笑う。勉強は嫌いではなかったと教えてくれた。
「最後の方はみんなに置いてかれちゃったけどね」
そんな話をするときも、朝日は底抜けに明るい。
署名を終えた書類の最後の確認は篁の役目だ。朝日が書いた文字をじっくり見てから、それじゃあいいね、と二人に問いかける。
サエと朝日は視線を合わせ頷いた。
それが合図となって、書類はその場から消えた。
「せっかく書いたのに!」
慌てる朝日に、サエは宙を指差しよく見るようにうながす。
そこには朝日が書いた文字だけがゆらゆらと頼りなく浮いていた。
いたずら心に火がついたのか。
朝日は自分の名前にふうっと息を吹きかけた。吹けば飛んでしまいそうな見た目をしているのに案外強いようで、ほんの少し揺らめいただけでびくともしなかった。
朝日のいたずらなどものともせず、文字は壁に貼られた短冊へとまっすぐ向かう。
ゆっくりと進み、ほどけ、一本一本の線になったかと思うと、黄ばんだ紙の表面に染み込んでいった。
「こうやって、朝日さんの思い出から八つのメニューが書き出されるんだよ!」
「あの篁さんって人、魔法が使えるの?」
朝日は興味津々という表情で尋ねた。
「これはね篁さんが十王様からもらった特別な力。私にもステキな力、あるんだよ!」
サエは得意げな顔で短冊の前に立った。
八つの短冊に、しっかりとした文字で書かれた八つのメニュー。
端から順番に読み上げていくメニューには、母親の得意料理や、元気なときに行ったテーマパークの名物料理といった朝日が嬉しくなるものもあれば、これはそうでもないのにと顔をしかめてしまうものもある。
「サエの力って、なに?」
朝日はサエのとなりに立ち同じように八枚の短冊を見上げた。
「この中の一枚だけが、私にはキラキラ輝いて見えるの」
「どうして一枚だけ?」
「それが、朝日さんが川を渡るために必要な、朝日さんのための特別なメニューだからだよ!」
サエはそう言って右腕を目の高さまで上げた。
しなやかな動きで指先を一枚の短冊に這わせる。そして文字の端にかりっと爪を立てた。
「それが輝いてるの? ……何をするの?」
朝日の緊張が伝わってくる。
サエは身震いをひとつしてから文字の端を摘まんだ。そのまま勢いをつけて一気に捲り上げる。
それだけでも朝日は十分驚いただろう。しかし続けてサエがとった行動はいっそう刺激的だったようで、隣りからひいっと小さな声が聞こえた。
サエは気にせずに、短冊から剥がした文字を一文字ずつ舌にのせていった。
「こうすると私、何でも作れちゃうんだ」
ごくりと、朝日の名前であったものを飲み込む音が、しんと静まりかえった店内に響いた。
***
「特別なメニューが、お好み焼きぃ?」
朝日は渋い顔で空白になった短冊を見上げた。そこにはつい数分前まで『お好み焼き』という文字があった。
朝日の眉間に寄っていたシワはほどけ、いつの間にか泣き出しそうな顔に変わっている。
本人もそれに気がついたのだろう。
きゅっと口を一文字に結んだかと思うと眉をつり上げ不機嫌な顔に変えた。
「食べたくない」
はっきりと拒絶する。
「どうして? 嫌いなの?」
サエが尋ねると朝日は一瞬答えに困った。
「嫌いじゃないけど、」
だけど今は食べたくないと言う。
「食べないと川を渡れないよ?」
「渡らないとどうなるの?」
「オススメはしないとだけ言っておくよ」
会話に割り込んだ篁がニヤニヤと笑う。
「篁さんってホント嫌な人だね」
「使用済みのおしぼりを投げるとおとなしくなるよ」
サエが入れ知恵をすると朝日はすっかり乗り気になっておしぼりをくれと手を出した。
篁が本気で店から逃げようとしているのを見て二人はけらけらと笑った。
笑い声が落ち着くと、サエと朝日は顔を見合わせる。少し気まずくなりながらも「進めていいかな?」とサエは尋ねた。
少女はやはり乗り気ではない。
しかし篁の言いぶりが気になっているようで、
「渡らないとダメなんでしょ?」
と弱々しい眼差しでサエの顔を覗いた。
そういう決まりだからとしかサエには答えられなかった。
「でもね、どちらにしても朝日さんには思い出の料理をちゃんと食べて欲しいんだ! そうじゃないと、あなたの中にある問題を解決できないままになっちゃうから」
サエがそう言うと、朝日は深いため息をこぼした。
「あ~あ。お好み焼き以外だったらなんでも食べるんだけどなあ」
まだ受け入れられないといった様子で頬杖をついた。両手で顔を支え口を尖らせる。
「どうしてそんなにお好み焼きがイヤなの?」
「それは、」
朝日は目をそらした。
サエは彼女の視界の中にとどまろうと移動する。
右に左に視線が動いても、それを追って右へ左へ。高さが変われば、しゃがんだり飛び跳ねたりもした。
どれくらい続いたか。
根負けしたのは朝日の方だった。
「わかった。話すから。その前にお茶を淹れて。私、紅茶が飲みたい」
交換条件とばかりに飲み物の注文をする。
しかしそんなもので話してもらえるならと、サエは大喜びで厨房へ急いだ。
あのね。
お好み焼きは、病気になってからよく食べるようになったの。それまではお祭りのときくらいかな?
癌患者って、もっとあっさりしたものとか、体に優しそうなものを食べてるイメージでしょ。体調が悪かったり薬の副作用がキツいときはそうなんだけど、でも、調子がいいときは結構いろいろ食べられるの。
ただ、味覚がね。
治療のせいで味がわかりにくくなることがあって、そういうときは何食べても物足りないから、あえてガツンと濃い味のものを食べるの。
マヨネーズ、ケチャップ、ソース。
この辺りが定番で、料理で言うとオムライスや焼きそばが人気。
私の場合はお好み焼きが食べやすかったんだ。キャベツたっぷりで野菜食べてる感じもするし、みんなでわいわいできるしさあ。
そう。
お好み焼きは元気なときに食べるもので、友だちが家に来るときに食べるもの。私にとっては『楽しい』の象徴みたいなものだった。
集まるのはいつも同じメンバーで、病気になる前からの友だち。入退院の合間に連絡すると来てくれるんだ。私も入れて六人くらいかな。
最初のころはもっと他の友だちも来てたんだけど、最終的にその子たちだけが残った。
その子たちとはもう長い付き合いだか話も合うし、笑いのツボも同じだし。
お好み焼きを食べるときは、いろんなこと話したり、変なトッピングをしてみたり、毎回、わいわいがやがやで、すっごくたのしかったあ!
話を聞いているうちに、サエの眉間にシワが寄っていた。
「楽しかったのに、どうしてそんな顔をしているの?」
そう言われて朝日は、今自分の顔が目の前にいる少女と同じような表情になっていると知ったようだ。
わずかな沈黙のあと、またしても不機嫌な顔になる。
「別に」
遠くの方を見つめるような視線で朝日は言った。みんなのこともお好み焼きも好きだけど、最期に食べるのなら、もっと別の食べ物がいいと言う。
「たとえば、治療中には食べられなかったものとか。そうだなあ。ショートケーキをお腹いっぱい食べたい! あと、回転寿司もいいかも」
うっとりと思い浮かべていると
「その顔、誰かさんにそっくり」
篁が小バカにしたような笑みを見せた。
「誰かさん?」
朝日は首を傾げた。「なんのこと?」とサエに視線を送る。
サエはなんと答えていいかわからなくて、エヘヘと笑って誤魔化した。
「ねえ。選び直すとかできないの?」
朝日は選ばれなかった七枚の短冊をうらめしそうに見た。
「また署名するところからやり直すなら、いくらでも」
そう言って篁は書類の束を見せる。まだまだやり直しは可能なようだ。
「だけど希望するものが選ばれるかどうかはまた別の話だ」
何万回やったって結局選ばれるのはお好み焼きかもしれないし、やっているうちに違うものが出てくるかもしれないと篁は続ける。
「やりすぎて次の審判に間に合わないってオチもあるだろうから、ご利用は計画的に」
目の前に二枚目の書類とペンを置かれて朝日は黙り込む。じっとにらめっこをして、そして結局あきらめた。
「いい。お好み焼きでガマンする」
言葉とは裏腹に地団駄踏んで悔しがり、その足で厨房に入ってきた。
朝日の紅茶を淹れたあとせっせとお好み焼きを焼く準備をしていたサエは、突然の侵入者に驚く。
「え? え?」
朝日はサエが持っていたキャベツをぶんどってまな板にドンと置くと、包丁を突き立てた。
「お好み焼きは作るところから参加しないと意味がないの」
「意味?」
「キャベツは私が切るから、サエは生地をお願いね」
有無を言わさずザクザクとキャベツを切り始めた。
「ちょっと待って! ストップストップ! そんなんじゃ、手を切っちゃうよ! ちゃんと猫の手にして……ああ、もっと細かく刻まなくちゃ。一センチ角くらいにして。野菜炒めを作るんじゃないんだからそんな大胆に切らないで!」
「大丈夫だから! サエは生地! きー、じー。わかった? ダマが少し残るくらいなんだからね」
おぼつかない手つきだというのに、あれやこれやとサエに指示を出そうとする。
本当に作ったことがあるのか心配になるほどだ。
「ないよ」
「え? 今なんて?」
「ないって。お母さんが心配性で包丁持たせてもらえなかったから。あと火傷もよくないから焼くのもダメって言われてた。私ができるのは、」
じっと見つめた先にはボウルと、お好み焼き粉用のミックス粉。
「もうそれ、飽きたの」
朝日の役目はいつも生地を混ぜることだった。あとはおしゃべりと、食べること。
怪我や火傷を気にせず一緒に作りたいと思っていた。それができないのは蚊帳の外に追いやられたようで、楽しい場であるはずのお好み焼きパーティーを少しだけ憂鬱なものにさせた。
「それが、お好み焼きが嫌な理由だったの?」
「それとは違う。っていうか、その話はいい」
また表情が暗くなる。
機嫌取りのつもりはないが、サエは朝日の手をとり笑顔を向けた。
「よし! できなかったこと、したかったこと、ここでやっちゃおう!」
「いいの?」
朝日の目に光が差す。
「いいよ! その代わり注意はちゃんと聞いてね」
「サエも私の言うこと聞いてね。生地作りは私、プロ級なんだから」
得意げに言う姿がなんとも憎たらしい。
しかし嬉しそうな笑顔を見れば怒りも失せていくのだ。
「とびっきり美味しいお好み焼きを作るよ!」
おー、と声をそろえ腕を突き上げる。
そのままの体勢で、二人はじいっと篁を見た。
「俺は邪魔しないから、安心して」
そう言ってコーヒーカップを傾けた。
「それじゃあ、気を取り直して」
サエは気合いを入れて生地作りにとりかかった。隣の包丁さばきが気になるが、こちらはこちらで任された仕事をまっとうしなければならない。
「ええと、作り方によると――ん? 作り方がある!」
お好み焼き粉の袋の裏にしっかりとレシピが載っているのだ。
「これじゃあ十王様からもらった力は必要ないね」
サエは苦笑を浮かべる。
「ま、いっか。レシピの通りにやってみるね。まずはボウルに水を入れて、そこに粉をどばーっと!」
勢いがつきすぎてお好み焼き粉がふわっと舞い上がる。
「こら! サエ!」
「ごめんなさい」
小さく咳き込みながら謝る。
しかしこれは覗いた記憶の作り方でもあるのだと考えると、
「朝日さんも同じことしたことあるでしょ」
じとっと視線を送ると朝日の肩がびくっと動いた。
「そんなこと、あるわけないでしょ」
「でもこれは朝日さんのやり方なんだよ」
特別な力で再現できるのは料理の味だけではないのだと説明すると朝日は慌てて作業の交換を申し出た。
「だってそれじゃあ、私のことをいろいろ盗み見られるみたいで恥ずかしいじゃん!」
しかしときすでに遅し。
「もう混ぜちゃった」
サエはニヤリと笑った。お好み焼き粉は、出汁をとる必要も山芋を摺る必要もないので生地作りはあっという間に終わるのだ。
さっと混ぜただけの生地はサエが思っていたよりもずっとさらさらとしていて、粉の匂いだけでなくほんのり出汁のいい匂いがする。
「へえ。お好み焼き粉って、いろいろ入ってるのね」
成分表を見ながらサエが感心する。
その間になんとかキャベツを切り終えたようで、朝日が「どう?」と自信たっぷりに成果を見せつけた。
ずいぶん大きさにばらつきがあるようだが、彼女の思い出によるとそれで問題ないようだ。合格、と両腕で大きな丸を作ると朝日は無邪気に喜んだ。
「それじゃあ次は『タネ』作りだね。一人前ずつ作るよ。まずは小さめのボウルを用意して」
「そこに私が切ったキャベツをひとつかみ」
横から手を出す。
天かすと刻んだ青ネギ、卵を入れて、最後に生地を加え空気を含ませるようにふんわりとかき混ぜる。
「これで準備はオーケー?」
サエが言うと朝日が調理台の上に何かを探している。
見つからなかったようで、捜索範囲は冷蔵庫の中にまで広がった。
もはや遠慮はない。
勝手に冷蔵庫を空けるなり顔を突っ込んだ。
「これこれ。ちゃんと出しておかないとダメじゃない」
朝日が見つけ出したのは薄切りにした豚バラ肉だ。
「それにしても寂しい冷蔵庫ね」
豚バラ肉を取り出したことですっからかんになった冷蔵庫を哀れむ。
「これはね、思い出の料理に必要なものだけが出てくるの」
「誰が補充してるの?」
「だから、出てくるの」
噛み合わない会話を続けているうちにホットプレートが温まったようだ。
「いよいよだね!」
「いよいよだよ~」
盛り上がる二人。
薄く油を引いたら、
「入れるよー!」
朝日は一気にタネを落としホットプレートの天板に広げた。
ホットプレートの上に、大きなまるがある。
刻んだキャベツがざくざくしていて、これがあの香ばしくてふわりとしたお好み焼きに変わっていくのかと思うとワクワクが止まらなかった。
待っているだけのときは、こんなに胸が高鳴っただろうか。
生地が焼けていく香ばしい香り。
熱せられ続けるうちに立ち上る油の匂いははあまり得意ではないけれど、そこに混じってくる加熱したキャベツのあまい香りは好きだ。
いい匂い。
じゅうじゅうと焼ける音。カリッと焼けるその前に、端の方がちりちりと音を立てていたのを朝日は知らなかった。
そんな音には気づかずにいつも大きな声で話して笑っていたのだ。
ああ、そういえば、焼くのが得意なあの子は、「ちょっと静かにして!」なんて神経質な一面を見せることがあったけどこういうことだったのかと、思い出し納得する。
朝日は少しだけ、お好み焼きに耳を近づけた。
気をつけてね、とサエが言う。
ダメよ、ではないのが嬉しかった。
「ああ、肉忘れてた!」
音と匂いのトリコになっているうちに豚肉の存在をすっかり忘れてしまっていた。
こういうところでも友らの個性が出るもので、あの子は重ならないように丁寧に、あの子は多少はみ出しても気にしないと、朝日はそれぞれの顔を浮かべ、思い出し笑いをする。
そして、一番の見せ場はだいたいあの子が持っていった。
それを、今日は自分がやるのだ。
いつもはただ出来上がりを待っているだけだったけれど、今日は、蚊帳の外ではないのだ。
「本当に私がやって、いいの?」
できるかどうかの不安より、好奇心が勝っていた。
両手にコテを握りしめ、ホットプレートの前で姿勢を正す。
天板とお好み焼きの間に探るように挿し入れると、香ばしく焼けた生地の感触がコテを通して伝わってきた。サクッと気持ちがいいのだ。
「いくよ」
サエが笑顔で見守っている。
朝日は思い切ってお好み焼きを返した。
ひっくり返る途中、持ち上げた重みから解放されてコテが軽くなる。ふわっと気持ちよくなる半面、ばらばらと崩れ落ちるのではないかという不安が襲う。
着地を見届けると、すっと背筋の緊張が解けた。ジュッと豚バラの脂が弾ける音が聞こえた。
「ほとんど朝日さんが作っちゃったね」
お客さんなのに申し訳ないとサエが下がり眉で笑った。
「そんなことない。サエと私で作ったんだよ」
はい、とホットプレートの蓋を手渡す。
「これで参加したことにしていいの?」
サエは苦笑い。下がっていた眉がいっそう情けない形になる。
そう言いながらも、サエはじゃーんと効果音をつけ、大きな動作で蓋をした。
取っ手を持ったまま、朝日の顔を見た。
「ここで時間を早送りすることも可能だけど、どうする?」
「何言ってんの。待ち時間はおしゃべりタイムでしょ」
当然のように言うとサエも嬉しそうな笑みを見せた。
「それじゃあ、おしゃべりに夢中になって時間を忘れないように、しっかりタイマーをかけておくね!」
四分のタイマーをセットして、二人はたわいもない話に花を咲かせた。
***
おしゃべりに夢中になってしまうのかと思っていたら、二人とも、蓋の隙間からもれる匂いのせいで四分が待ちきれず、タイマーが鳴る前にホットプレートのもとへ戻っていた。
カウントダウンの合間にも美味しそうな匂いがサエたちを刺激する。
「いくよ?」
デジタル表示の数字がゼロに変わったと同時にサエは蓋を開けた。
お好み焼きのたまらない匂いが店中に広がった。
サエも朝日も上機嫌なのに、
「この匂い、服に染みつくんだよね」
お気に入りのスーツが、と嘆く篁。
サエたちは顔を見合わせため息をこぼす。
「篁さんは放っておいて」
二回目の返しはサエに託された。
生地にしっかり火が通っているから簡単だ。ひょいと軽く返すと、こんがり焼けた豚バラ肉の面がお目見えした。
「焼き色のついた肉って、どうしてこんなに食欲をそそるんだろうね」
とろけそうな顔で匂いを吸い込む。
朝日もサエの真似をした。
「もっといい匂いになるよ!」
そう言ってサエは用意してあった調味料を運ぶ。
お好み焼きソースに青のり、マヨネーズ。
「私、かつお節かける派なんだけど、サエは大丈夫?」
「そんな派閥とかあるの?」
「マヨネーズもかける派とかけない派があるよ」
何をかけて何をかけないか。頭の中で何通りもの組み合わせを試しているうちに何が何だかわからなくなってサエは降参した。
「朝日さんに任せるよ」
完全に職務放棄して仕上げを朝日に委ねる。
まずソースがかけられた。
お好み焼きの丸からはみ出すように豪快に。天板に落ちたソースがあっという間に熱せられ香りを立てる。
「ああ、もう駄目。早く食べたい!」
待ちきれないサエに、
「もう少しだから我慢しなさいよ」
ここに来てこだわりを見せる朝日。
マヨネーズは高いところから細く落として格子を描く。その上に青のりとかつお節。ソースに混じって磯の香りがふんわり香る。
せっかくこだわって飾り付けたのに、朝日は次の瞬間にはもうど真ん中にコテを突き立てていた。
「ああ……」
残念がるサエの前に切り分けたお好み焼きが差し出される。
「何言ってんの。お好み焼きは熱いうちに食べなくちゃ」
自分の分も取り分けて、コテを箸に持ち替える。いただきますと手を合わせたところでサエが止めた。
「あのね、食べる前に注意事項があるんだ」
「なによ」
早く食べたいのにと朝日は頬を膨らませた。
しかしサエは大事なことだからと話を続けた。
この三途の川のホトリ食堂において美味しいものを分かち合うためには、たったひとつ条件がある。
『味だけではなく、思い出も感覚も分かち合うこと』
それはどういうことかと朝日が問う。
「あなたがお好み焼きを食べたときの思い出を、私も一緒に体験するってこと」
わかりやすく説明したつもりだったが余計に混乱させたようで、朝日の眉間の皺はより深くなった。
「一緒にってことは、私も体験するの?」
朝日の頭の中にどんな思い出が蘇ったのか知らない。しかしそれはあまりおもしろくない情景だったようで、彼女の表情はすっかり曇ってしまった。
「そっか」
朝日はぽつりとこぼした。
お好み焼きの上でゆらゆら踊るかつお節を見つめたまま動かない。
瞬きを一度してからゆっくりと瞼を閉じた。
「わかった。じゃあ、食べよっか」
淡泊な答えが返ってきた。
目を開けると、強気な眼差しの少女が戻っていた。
***
朝日は急に怖くなった。
怖くて怖くて、たまらなくなった。
「どうしたの?」
とサエが心配して声をかけてくれる。
それでも朝日の不安はなくならなかった。
だけど川を渡るためにはそうするしかないのだと、朝日はお好み焼きを一口、口に入れた。
鼻に抜けるソースの香り。
カリッと焼けた生地と豚バラにさくっと歯が入る。噛むと香ばしさが口の中に広がった。キャベツの水分を含んだ生地はとろっと甘く、ソースの濃い甘さとは違って爽やかにも感じる。噛めば噛むほど甘みは増し、その中にかつお節と青のりの磯の香りが混じってきた。
そうかと思えば、マヨネーズの酸味が舌に触れる。これこれ、と思いながら、口の中でソースの甘みとマヨネーズの酸味を合わせていった。
そこにまた豚肉と生地とキャベツとが、割り込み混ざり、完全に溶け合っていく。
飲み込んでしまっても、いつまでも口の中に余韻が残る。
だけどその余韻は徐々に薄れていった。
香りは強いままなのに、味は薄れて、舌が寂しくなっていく。
もう一口。
箸をのばしたところで、朝日の動きが止まった。
「いやだ!」
箸を放り投げるようにして両手を空にすると、朝日はその手で自分の顔を覆った。
サエが言っていたのはこれのことかと、ようやく理解した。
朝日は今、自分の家のリビングにいた。
元気なときにだけ開かれる、お好み焼きパーティーの景色の中にいたのだ。
「大丈夫?」
一足遅れてお好み焼きを食べたサエが、同じように景色の中に現れ朝日に声をかける。
「どうして顔を覆っているの?」
サエの問いに、朝日は悩んだ末に正直に打ち明けた。
「みんなの顔を見るのが、怖いの」
もちろん、そんな言葉ではサエに伝わらなかった。
みんな楽しそうにしてるのに、何が怖いのとサエが質問を重ねる。
朝日にとって、友だちとのお好み焼きパーティーは、本当に楽しい時間だった。
楽しくて楽しくて、ついはしゃぎすぎてしまって、終わってから不安になるのだ。
笑っていたのは、自分だけなんじゃないかと。
自分は、病人だ。
学校に行けば「かわいそうね」と言われることもあった。「アサは病気だから優しくしてあげなくちゃ」などという声も聞いたことがあった。
いつもどこかで『かわいそう』と思われていた。
そういう者はこのお好み焼きを囲む友人たちの中にはいないと信じていた。ここだけにはないと、信じていた。
しかし、転移が見つかりもう長くないとわかると、お好み焼きをする仲間の中からも「かわいそうね」と言う人が現れた。
「その子はそれから来なくなった。残った子たちはそんなこと言ったりしないけど、不安になるの。毎回帰りにお母さんが『朝日のために本当にありがとうね。どうか、これからもお願いね』って懇願するように言うから。やめてよと言っても毎回するから。本当はみんな、来たくないのに来てるんじゃないかって。付き合いたくないのに付き合ってくれてるんじゃないかって」
かわいそうだから一緒にお好み焼きを食べてくれていたんじゃないかと、不安になるのだ。
だから朝日は顔を覆った。
ちらっと見えてしまった友人の服装が、最後のお好み焼きパーティーのときのものだったからだ。もう長くないとわかったあとのものだ。
その時の彼女らが、どんな顔でお好み焼きを食べていたか、この目で確かめるのが怖かった。
「見なくちゃいけないの? 食べるだけじゃダメなの?」
今にも泣き出しそうな声で朝日は言った。
「この景色は、朝日さんが川を渡るために必要な景色なの」
「どうして? ちゃんと現実を見なさいってこと? 楽しい思い出のままじゃダメなの?」
なんと問いかけてみても、朝日を喜ばせるような答えはサエから返ってこなかった。
その代わり、意地悪な声が朝日に語りかける。
「ちゃんとその目で見ないで逃げてばかりだから不安になるんじゃないの」
そっと、朝日の手に触れるものがあった。大きな手。細く長い指。その手が朝日の手首をしっかりと掴み顔から引き剥がそうとする。
「ほら。自分の目で確かめな」
「篁さん! そんな強引にしなくても――」
サエが止めに入る。
顔を覆っていた腕は完全に解かれた。
それでも朝日はぎゅっと瞼を閉じていた。
絶対に見るもんか!
そう思っていた朝日の耳にひときわ賑やかな笑い声が届いた。
「アサ、マヨネーズ出し過ぎ!」
一人が笑うと、他の声も続いた。
笑い声はどれもひたすら明るく弾けていた。
恐る恐る目を開ける。
目の前には友だちの顔があった。
それは朝日がその記憶に焼き付けていたものよりもキラキラとしていて、みんな無邪気に、遠慮なしに、大きな口を開け、ときには涙を滲ませ笑っていた。
「何、これ。いくらおかしいからって、こんなに笑う?」
朝日は呆れたように笑った。
しかしその目からぽろりと涙が一粒こぼれた。
「ねえ、サエ。みんな笑ってるよね。作り笑いなんかじゃないよね」
「みんなも、朝日さんも、とってもいい顔で笑ってるよ」
「こんないい笑顔を、見たくないなんて勿体ないことを言っていたんだよ、君は」
篁の言い方は相変わらず意地が悪かったけど、そのあとに
「よく頑張ったね」
などと言いながら朝日の頭を優しくぽんぽんとするものだから少し見る目が変わってしまう。
朝日は熱くなった顔を見られてたまるかと、篁に背を向けた。
すると友人たちと今一度しっかり向き合う形となった。こちらにも、朝日の顔を熱くさせる、嬉しい景色があった。
ひとりひとりの顔をしっかりと見た。
「なんだ。みんな、ちゃんと笑ってたんだ」
そうだと知らなかったのは、朝日が見ようとしていなかったからだった。
「私、バカだ。…………みんな、ごめん」
もっと信じていれば良かった。
信じて目を向けていれば、こんなにも素敵な笑顔がいつもそばにあったことに気づけたのだ。怖くても、不安でも、一歩踏み出せばよかったのだ。
彼女らとの間に感じた距離は、朝日が自分で作り出した距離だった。
そう思うと、朝日の中にじわじわと、ふつふつと、体のずっと奥の方からこみ上げてくるものがあった。
ずっとずっと奥の方にしまい込んでいた、出してはいけないと思っていた、朝日の気持ち。これを言えば嫌われてしまうかも、困らせてしまうかもと恐れ押さえつけていた、本当の気持ち。
「もっともっと、いろんなこと話したかったよ! 治療つらいよとか、学校行きたいよとか、楽しい話だけじゃなく嫌な話もちゃんと……ちゃんと…………。それで、みんなの悩みも……夢の話も! たくさん聞いてみたかった! 聞きたいって言い出せばよかった!」
言いながら、朝日はぼろぼろと泣いた。
しゃくり上げ、鼻水を垂らし、みっともない顔になっても気にせずに、泣き続けた。
「サエ、私、もう泣いてもいいよね? 生きてる間、たくさん我慢したから、泣いてもいいよね。ダメって言っても泣くんだからね!」
「もう泣いてるじゃない」
困ったように笑ってから、サエはとんとんと朝日の背中をたたいた。
「よーし、今日はいっぱい泣いて、いっぱい食べて、いっぱい話そう!」
おー、とサエは拳を突き上げた。
おぉ、と朝日も泣きながら続いた。
***
朝日は泣き止むと、サエの言葉に従うように、たくさん食べ、たくさん話し、そしてたくさん笑った。
「それにしても、あんなにみんなのこと細かく見ていたのに、肝心なとこを見逃してるんだね」
サエが言うと朝日は不思議そうに首を傾げた。
「どういうこと?」
尋ねながらも、四枚目のお好み焼きに手をつける。
「だって言ってたでしょ? あの子はこういうのが得意で、この子はこうでって」
「あ」
「すごいちゃんと見てるなあって感心してたのに」
サエがニヤニヤと笑うと、対抗して朝日も笑ってみせた。
「すごいちゃんと見れる人でも、抜けることもあるのよ!」
そう言ってみんなの顔を見た。
お好み焼きを食べて見える景色に、もう目をつぶったりしない。
「最期にみんなの顔が見れて良かった。サエ、ありがとう。それから……篁さんも」
朝日の企み顔をサエは見逃さなかった。何をするかと見守っていると――
「仕返しだー!」
そう言って篁の頬にキスをする。
油断しきっていた篁は目を丸くして驚いた。
「生きてるときにはこういうことできなかったから。いいでしょ、これくらい。かわいそうな女の子の思い出作りを手伝ったと思えば」
「かわいそうって思われたくなかったんじゃないの?」
「大切な人たちにはね」
ニヒヒと笑う。
「っていうか、おじさん的にはむしろラッキーでしょ?」
「誰がおじさんだ」
迷惑そうにハンカチで頬を拭う。「ひどーい!」と朝日が抗議の声を上げると、動物でも相手にするようにしっしっと追い払った。
べえっと舌を出し最後の反撃。
それを終えると満足そうに笑った。
「最期にもう一口だけ」
控え目な一口。
朝日の目がきらっと光った。
「私、みんなといろいろ話さなかったこと後悔してたけど、これはこれで良かったのかもって思う気持ちもあるんだ。だって、最期にみんなの最高の笑顔だけを見ることができたんだもの」
それに未練があったからサエにも会えたんだしと付け加える。
私も会えて良かったと、サエは朝日の友人たちに負けないくらいの笑顔を見せた。
「みんなの中にも、私の笑ってる顔が残ってくれてたらいいなあ!」
そう言ってから、朝日はしがみつくようにサエを抱きしめた。
「…………サエ、本当にありがとう!」
「こちらこそだよ!」
サエも力一杯、朝日を抱きしめ返した。
台風一過と篁が言った。
「まあ、とっても元気だったものね」
サエは言いながらくんくんと店内のにおいを嗅ぐ。しっかりとお好み焼きの匂いが残っていた。
「しばらくはこの匂いね」
「なんで嬉しそうなのさ」
「だって美味しい匂いでしょ? それに朝日さんの笑った顔を思い出して幸せな気持ちになるもの!」
嬉しそうなサエに対して、篁は不満そう。
「明日来るとき、消臭剤を持ってくるよ」
それじゃあ、と篁は暖簾をくぐった。河原の砂利を踏みながらスーツについた匂いを気にしている。
「そんなに気になるかなあ」
エプロンに鼻を近づけ首を傾げた。明日まで残ったとしても、次の客が来ればまた違う匂いでいっぱいになるはずだ。
「明日はどんな料理を食べられるかなあ」
サエは期待を膨らませ暖簾を片付けた。
遠くに目を遣れば、靄の中に大河の姿がうっすらと見える。
明日もいい日になりますようにと手を合わせ、サエは店を閉めた。