【第七話 うちのチーズケーキ】
【第七話 うちのチーズケーキ】
「ようこそ、三途の川のホトリ食堂へ!」
三途の川の畔には今日も元気いっぱいな声が響き渡っていた。
まず目につくのは、待ちきれずに店先で客を出迎えた少女の笑顔と、真っ白なエプロンと三角巾。立て付けの悪い引き戸を開ければ、年季の入ったテーブルや椅子、古めかしいポスターが「ここはどこだ」と客を惑わす。
そもそもここに来る者は皆、少なからず戸惑いを持っているというのに、そんなことに配慮する気配は微塵もないという態度でその店と少女はそこにいるのだ。
どうしてこんな所にこんなものがと問われれば、少女は答えに困ってエヘヘと笑うだけ。
しかし、
「どうして、私はここに来たの?」
と聞かれれば、その問いには真っ直ぐ向き合い、できる限り丁寧に説明を重ねた。
「ここはね、何かの理由があって川を渡れない人が来る場所で」
その理由の多くが現世への未練や心残りだと聞くと、大抵の人間は自分の人生を振り返り、何か心残りはなかったかと考える。
それを見守り、時に、うんうんと頷き聞いてやるのが少女の仕事だ。
そうだというのに。
「不安、不満、困っていることがあったら何でも言ってね。きっと力になるよ!」
いつも通りに少女が笑顔を見せると、
「それは本当に必要なことなのか」
その日訪れた男は、吐き捨てるようにそう尋ねた。
***
三途の川の畔にある食堂にたどり着いた時、男は自分が死んだということをすっかり受け入れていた。
長い長い死出の旅。十人の王による審判の一つ目を終えた直後だから、自分が死んだのだと理解している者も少なくない。
それにしても男は、今まで来た誰よりも落ち着き払い、品定めでもするような目つきで店の中を見回していた。
男は檜倉といった。
享年四十六歳。突然の事故で命を落とし、妻と二人の子どもを残してきた。家庭でも仕事でもやるべきことはまだまだあったと言うのだが。
取り乱す様子もなく、後ろ髪引かれるという素振りも見せず、
「仕事のことにしろ家族のことにしろ、私がここで心配したところで何かできるものではない。残った人間でどうにかしてもらうしかないだろう」
などと言うのだ。
嘆いても意味がない、そう言うのだ。
他人事のように話す姿は、隙のないスーツ姿も相まって、冷静というよりはただ冷たい印象を与えた。
「そうは言っても、ああすれば良かったとか、こうしたかったなあとか、そういうの、きっとあるでしょ?」
そうサエが問いかける。
大抵の人間は少しくらいは考える気配があるものだが、檜倉はどの問いかけにもただちに答えた。サエが言い終わるのを待たずに話し始めることさえあった。
「それを思い返して何になると言うのだ」
責め立てるような間合いのせいで、それほど強い口調でもなかったのに厳しい物言いに聞こえて、サエはびくっと身を縮めた。細い金属フレームの奥にある睨みつけるような眼差しがまた緊張を誘う。
「何に……なるのかって?」
そう問われてしまうと、サエも困る。
「何になるっていうか……心残りとか困りごととか、そういうのを解消しないと川を渡れないからで……解消するためには何が心残りなのかとかを見つけなくちゃいけなくて――」
「だから。そのために君に不安や不満を打ち明けるという行為が、本当に必要なのかと言っているんだ」
「……あれ?」
檜倉が言わんとしていることがじわじわと理解できてくると、サエの胸中は怪しく波立った。
「でもでも! みんな、話をしているうちに、川を渡れなかった理由に気づいたりしていたはずなんだけど……」
反論しようとすればするほど歯切れは悪くなる。
「絶対に必要か?」
「それは、その」
「断言できないんだな?」
「絶対ではないかもしれないけど、でも必要じゃないと言われれば、それも言い切れない……というかそうは言いたくないというか」
「絶対に必要というわけでないのなら、私に対しては省いて結構。ここで食事をしなければ川を渡れないという最低限のことは受け入れた。余計なことは抜きにしてさっそく注文を頼む」
「生き返りたいとか無理を言うお客さんよりはずっといいじゃない」
L字のカウンター席の書き終わりの辺りに陣取った篁が頬杖をつきながら言った。
「でもお……」
なんとかしなければとフル回転で頭を働かせてみるが、中途半端な言葉では返り討ちに合うだろうし、かといって檜倉を言いくるめるほどの奇策など浮かぶわけもない。
「やってみればわかるし、やるしかないんだから」
篁は考えたって無駄だよと続け、書類を取り出し二人の間でひらひらさせた。
檜倉は受け取って、上から下まであっという間に目を通した。
「なんだ。こういうものがあるのか。初めからこれを出してくれればこんな無駄なやりとりをしなくて済んだのに」
言いながら、さらさらとサインする。
粛々と。淡々と。
サエのことなど気にせずに、実に事務的にことが進んでいく。
署名を終えた書類を手にした篁は「いいね?」と、一言だけの最終確認を行った。
檜倉は間を空けずしっかりと頷いた。
それが合図となったようだ。
彼の返答を見届けるなり、篁の手にあった書類がぱちんとはじけて消えた。一枚の紙切れはまったく姿を消して、檜倉の書いた字だけがゆらゆらと宙を漂う。
さざ波に身を委ねるように、ゆらゆらと。
揺れに合わせて緩んだ文字はその結合を解きながら前進を始めた。
最後の悪あがき。
どうすることもできないとわかっているのに、ほどけていく文字に向けてサエは手をのばした。
指先が文字のひとつに触れそうになる。
しかしまるで自我を持っているかのように文字はサエの指の動きをするりとよけ、やがて完全にほどけてしまった。
「ああ……」
サエは声にならない声を発した。
「観念しなさいな。ほら。始まるよ」
篁がそっと肩に手を置く。
一本一本の線となった檜倉の名前は、宙を進み、間もなくして目的の場所に到着した。
壁に貼られた、八枚の短冊。
年季の入った紙の表面に触れると、朱色の枠の中で新たな文字に生まれかわる。線は八つのメニューとなった。
「そういうことか」
初めて檜倉が感心したような声を上げた。
白紙の短冊の存在には気づいていたし気になってはいた。しかし『まあ、何か意味があるのだろう』というくらいにしか考えなかったらしい。思っていたよりも重要なものだったのだな、などと言ってから
「これが私の思い出の料理か。この中から選ぶということか?」
檜倉は右から順に短冊に現れた文字を眺めていた。
「そうだな。これがいいか。調理時間も食事にかかる時間も短くて済みそうだ」
そう言いながら、一枚の短冊を指そうとする。
サエはその手を制してぶんぶんと首を振った。
「そんな理由で決めちゃダメ! これは檜倉さんが最期に食べるものなんだから! それにね、」
サエは短冊を見上げた。
「あなただけの特別なメニューはキラキラと輝いて『今のあなたに必要なのはこれだ!』って自分から教えてくれるの!」
「キラキラと輝いて?」
檜倉が訝しがるのも当然だ。
きっと彼の目にはどの短冊も同じように映っていただろう。
それがサエにはまったく違って見えている。
「私にだけ、キラキラが見えるの! 十王様からもらったとってもステキな力」
それはもう、キラキラ、キラキラと、とても美しく見えるのだとサエは満面の笑みを見せた。キラキラの一枚を見つけ出すときは、いつもうっとりして見とれてしまう。
本当はゆっくり見入っていたいところだけれど、冷たい視線を感じながらではそうもいかない。
檜倉がしたように右から左へと順に短冊に書かれたメニューを確認していった。
「すき焼き、餃子、野菜炒めに酢豚。どれも美味しそうね!」
心躍らせながら読み上げる。
「ビーフシチュー、いなり寿司、ナポリタンに…………」
最後の一枚。キラキラと輝く一枚にようやくたどり着いたというところで、サエは目を丸くした。
「うちのチーズケーキ」
読み上げてから檜倉の顔を見る。
そしてもう一度短冊に視線を戻し、瞬きをふたつみっつ。
「『うちの』チーズケーキ?」
これはまた。
「わざわざ『うちの』なんて書いてあるメニュー、今まであったかなあ」
サエが首を捻ると、
「名だたる名店の名前が書かれたメニューならあったね」
心なしかうらめしそうな顔で篁が言う。
しかしどこかの家の思い出のメニューにわざわざ『うちの』と書かれていた例はサエの記憶の中には見当たらなかった。
その一言にどんな意味があるのか。
檜倉の顔を見た。
サエと視線が合っても何も言わない。少しくらい檜倉が自身のことを話してくれれば『うちの』に込められた意味を解読できるのにと、じいっと視線を送ってみるが、やはり反応はない。
サエは肩を落とした。
しかし落ち込んでいても仕方がない。篁の言葉を思い出し自分自身に言い聞かせた。
「やってみればわかるし、やるしかない。そうだね。作ってみればわかるし、作るしかないんだ!」
言いながら短冊の前に立つと、檜倉が訝しげに声を上げた。
「作るのか? 君が?」
「この格好で、作らない方が詐欺でしょ」
茶化す篁の視線の先には、フリルのついたエプロンに洗ったばかりの三角巾。そしてヤル気満々の腕まくり。
「いや、しかし」
自分の娘がそれくらいの年齢のころ作った料理はそれはもうひどいものだったと心配する檜倉。『本当にできるのかね?』と疑いを捨てない。
それに対しサエは得意げな顔を見せた。
「大丈夫! 私には十王様からもらったステキな力があるって言ったでしょ。キラキラがわかるだけじゃないんだから!」
そう言って、サエはいつもの調子で短冊に手をのばした。『うちのチーズケーキ』という文字の端っこに指先が触れる。
「私ね、こうするとどんなものでも作れちゃうんだ!」
わざとためを作り自信たっぷりな顔を見せつけてから、文字をぺりりと剥ぎ取り口の中に放り込んだ。
テキパキと調理台に材料や道具を並べた。
ケーキの型にボウルはひとつ。お菓子作りといえばいろいろと道具が必要なイメージがあったがとてもシンプルだ。
「クリームチーズ、卵、バニラオイルにヨーグルト。砂糖、生クリームとそれから」
ひとつひとつ、指差し声をかけ確認していく。
ひとつ材料を手に取るたびに、『うちのチーズケーキ』の姿を予想する。
「とっても美味しいのかな。『うちの』ってわざわざつくくらいだから何か他にはない特徴があるのかな」
非協力的な檜倉の態度にヤキモキしていたサエだったが、あれやこれやと出来上がりを想像するうちに頬がゆるゆると緩んでいった。
それとは対照的に、眉間の皺が深くなっていく者がいる。
ふてくされた顔でビスケットを砕く篁。不機嫌な顔を隠そうともしない彼の手もとには、二十枚ほどのビスケットが入った袋があった。これを細かく砕くという仕事を押しつけられたのだ。
「こんなことやらされてるのに、出てきたケーキが美味しくないとかあり得ないからね」
悪態をつきながらビスケットを砕く。しかし仕事は丁寧だ。
「もちろん美味しいんだろうね」
篁が檜倉に尋ねた。
「さあ。どうだろう」
檜倉はそう答えるだけだ。
「意地悪だなあ。それくらいは教えてくれてもいいんじゃない?」
「食べればわかるだろうし、美味いと感じるかどうかは個人差があるだろう。君が満足できるかどうかは私にもわからない」
「それはごもっともだけど」
檜倉の態度に呆れたような笑みを見せる篁。
「それじゃあ聞き方を変えようか。あんたは美味いと思って食べてたのかい?」
「それは」
珍しく言葉に詰まった。
檜倉は顔を上げた。視線の先には空になった短冊があった。反射的にそちらに目を向けてしまったようだが、そこに書かれていた文字は、サエがすっかり飲み込んでしまったあとだ。
その様子を思い出したのか、それとも書かれていたメニューのことを考えてか、檜倉は複雑な表情でサエと篁を見た。
「もしかして、美味しくないの?」
不安になるサエ。
「いや、」
檜倉はやはり言いよどむ。
「そうだな。どちらもうまかった」
「どちらも?」
予想外の答えにサエと篁の声が重なった。
「どちらもって、『うちのチーズケーキ』はふたつあるってこと?」
サエは言いながら調理台に並べた道具や材料をまじまじと見た。ボウルひとつにケーキ型がひとつ。
「どう見てもひとつ分だよ」
どういうことかと混乱するサエ。
「これも『作ればわかる』って、教えてくれないの?」
篁が意地悪な言い方をする。
「うちのサエちゃんは気になることがあると手が進まなくなっちゃうんだから。ほら。完全に手が止まった。このままじゃ、作れないまま時間切れになって、また初めからやり直しってことになるよ」
「え? そうなの? そういう仕組みだったの?」
初耳だと食いつくサエに、篁はしーっと人差し指を立てる。視線で何かを伝えようとしているようだが、何を言いたいのかまったくわからない。
「サエちゃん、料理を続けられそう? 続けられないよね? 気になってしょうがないよね?」
しびれを切らした篁が、畳みかけるようにそう言うものだから
「そ、そうなの! 気になって気になって、何にも手につかないの!」
サエはわざとらしい口調で調理道具から手を離した。
檜倉は何か考えているようだった。
その考えがあまり思わしくない方向に進んだようで、徐々に顔つきが険しくなっていく。しかしあるところに達すると、膨らませた風船が弾けるように表情は一転した。
あきらめたような顔だった。
サエと視線を合わせると、さらにため息をつけ加えた。
「話を聞けば、調理の手を進められるんだな?」
「それはもう、テキパキと進めちゃうよ!」
力一杯の返事にため息がもれる。
仕方ないなと、檜倉はふたつのチーズケーキについて話し始めた。
***
「思い出の料理として『うちのチーズケーキ』というものが選ばれた時、私の頭には二つのチーズケーキが浮かんだ。どちらだろうかと思ったが――そうか。君が言ったように両方という可能性も考えるべきだったんだな」
檜倉は湯呑みに手を添えた。
興味津々の眼差しを向けてくるサエに手を動かすようにうながす。
「大丈夫! ちゃんと手を動かしてるよ!」
ボウルの中、室温に置いてやわらかくしたクリームチーズを泡立て器で混ぜながら声を上げた。
言葉だけではなくサエの手もとをその目で確認してから檜倉は話を再開させた。
「どちらかだと当たり前のように考えたのは、死ぬ前にも同じような選択に頭を悩ませたからだろう」
「『うちのチーズケーキ』が、どっちかっていう選択?」
どういうことだろうとサエが首を傾げる。
「あれじゃない? ほら、チーズケーキにもいろいろ種類があるでしょ。固めたのとか焼いたのとか、あとふわふわのやつとか、表面が焦げてるやつとか」
ぞんざいな分類を披露する篁。
「二択になるなら、まあ大雑把に言って焼くか焼かないかか」
「それはどちらか選ばないといけないの? 私なら全部食べたいから、全部『うちのチーズケーキ』にするよ!」
「それもそうだね」
と言う篁は、自分が言い出したことなのにすでに推理には興味を失っているといった具合で檜倉に答え合わせを求めた。
檜倉は首を振り、種類の話ではないと言った。
「母が作るチーズケーキと妻が作るチーズケーキ。私の家にはそのふたつがあったんだ」
どちらも美味しくてたいそう評判が良かったのだと誇らしげな言葉を並べるが、そう語る彼の表情はどうだろう。疲れたような顔をして目を伏せた。
昔、檜倉の母はよくチーズケーキを作っていた。
母のチーズケーキは卵たっぷりで甘さ控え目で。そのおかげか、小さいころから甘い物がそれほど得意ではなかった檜倉でもチーズケーキだけは抵抗なく食べることができた。それどころか、いつの間にか好物のひとつに加わっていた。
だから妻と出会って間もないころ、彼女の作るチーズケーキは美味しいぞと知人から聞かされた時には、それだけで彼女に興味が湧いたものだ。
しかしそれが後々、厄介な問題の種になるとは思いもしなかった。
露呈したきっかけは母との同居だった。
実家のリフォームにあたり、数ヶ月という期間ではあるが母が檜倉たちの家に身を寄せることになった。
結婚して子どもができて、それからの十数年は、お盆休みや年末年始くらいしか顔を合わせることがなかった嫁と姑。世に聞くようないざこざは皆無で良好な関係を築いているように見えた。
しかし共に暮らすとなるとそうはいかない。
それぞれに長年築いてきた生活スタイルというものが存在する。互いの領域を侵さぬ範囲のこだわりであれば問題ないが、そうでなければ悲惨だ。
初めは小さな違和感から始まり、やがて大きな不満となる。それが顕著に表れたのが、檜倉の家では食べ物に関してだった。
料理上手で、小さいながらも教室を開いていた母は、『美味しければ何でもオーケー』がモットーの妻の料理が受け入れられなかったようだ。
「料理は手を抜いちゃ駄目なのよ。できあいのものなんてもってのほか。緑さんは寒いところの出身でとにかく味付けを濃くしがちだけど、子どもたちの健康に良くないからやめるように言ってくれないかしら。それからこの料理に使うのは豚肉じゃなくて牛肉よ。うちではずっとそうだったでしょ。早いうちに檜倉の味を教えておけばよかったわ」
ことあるごとにそのような不満を檜倉に伝えてきた。
それに対して檜倉は「家のことは彼女に任せているから」と返すだけで、母の言い分を妻に伝えることはしなかった。言葉の通り妻を信頼し任せているということもあったが、何よりこのことについてはどちらの肩を持つつもりもなかったのだ。
正直な話、味付けなどどちらでもいいと、そう思っていた。
だから母が強硬手段に出てとにかく自分のやり方を押しつけようとしても、その結果いつもの料理の味が変わってしまっても何とも思わなかった。唯一気がかりだったのは、今度は妻の方が不満をぶつけてこないかということだったが、彼女は折れてくれたようだった。食卓に上がる料理は次第に何もかもが母の味に変わっていった。
それでひとまず問題は解決したのだと思っていた。
しかし母からの苦情が完全になくなることはなかった。
何日も続いた平穏を台無しにするように、あえて妻のやり方で作られた料理が登場することがあったのだ。
そのひとつがチーズケーキだった。
「今日おやつに緑さんが作ったチーズケーキを食べたんだけど、私のよりだいぶ甘いのよ。どれだけ砂糖を入れているのかしら。土台も市販のビスケットを使っているって言うじゃない。あれじゃあ子どもたちに良くないわ。あなたからもちゃんと言ってやってちょうだい」
母からの苦情を一通り聞いたあと。
いつもは聞き流すだけなのに、その時はどうしてか気になって、自分のレシピで作った理由を妻に尋ねた。すると彼女は、
「うちのチーズケーキを作っただけよ」
けろりとした顔でそう言うだけだった。
それは檜倉にとっては意外な言葉だった。
妻は人と争ってまで我を通そうとする人間ではなかったし、自分のレシピに強いこだわりを持っているようにも見えなかった。
だが彼女は『うちのチーズケーキ』と言っていつも通りのレシピでケーキを作った。
そんな彼女の行動に、母が黙っているわけがなかった。
対抗するように自分のレシピでチーズケーキを作ってみせたのだ。こっちこそが檜倉家のチーズケーキだと言わんばかりに、妻が作ったケーキを食べていた檜倉の前に、自分が作ったケーキを差し出したのだ。
おそらくそれは、『うちのチーズケーキ』がどちらなのか選べという意味が込められていたのだろうが、檜倉はどちらとは言わなかった。
言う必要などないと思ったのだ。
「これはまた、典型的な嫁姑問題で」
茶化すように言う篁の前、カウンターを挟んで調理していたサエの手はすっかり止まっていた。
「そんなにチーズケーキの作り方で争う人がたくさんいるの?」
あちらの世界にはそんな恐ろしいものがあるのかとぶるっと身震いするサエ。チーズケーキはあくまで一例で――というような篁の言葉が耳に届いたが、その言葉を聞きながらもっと大事なことに気がついた。
「それが川を渡れない理由なんじゃない?」
きっとそうだよ、と思わず声が弾んだ。
「どちらが『うちのチーズケーキ』なのか、最期にはっきりさせたいといとか、二人の争いをどうにもできなかったことが心残りになっているとか、そういうことはないかな……ない、かあ」
言うだけ言って、サエは自分の言葉に対して首を傾げた。自信たっぷりに披露した推理だったが檜倉の性格を考えるとしっくりこない。
「奥さんが作り方を変えなかった理由が気になってしょうがない、とか!」
「気になりはしたが、今さら知ったところで意味がない」
「……そうでした。檜倉さんはそういうひとでした」
怒りと諦めが込められた口ぶりでサエが言う。
「いいところまでいったと思うんだけどなあ」
あきらめきれずに、思いついた説を片っ端から口に出してみた。そのついで、冗談のつもりで
「檜倉さんの心残りとかじゃなく、自分のケーキを選んで欲しかったっていう、お母さんと奥さんの恨みが足止めさせたんだよ、きっと」
などと言ってみる。
「案外、そうかもしれないね」
冗談のつもりで言ったのに、意外なことに篁が同調した。
「でも、そうだとしたら奥さんのだと思うけど」
そう言って粉々に砕いたビスケットを指差す。
サエは檜倉の話を思い出し「あっ」と声を上げた。確かに、市販のビスケットで土台を作るのは妻のレシピだ。
八枚のメニューから選ばれた『うちのチーズケーキ』は、どうやら妻のチーズケーキで間違いないようだ。
そうとわかると檜倉は何を思いだしたようで、壁に貼られた短冊に目を遣った。
八枚の短冊。残った七つのメニューをもう一度確認すると「そうか」ともらした。それは吐息のように弱々しい一声だった。
どれもこれも、檜倉の妻が作り方を変えなかった料理だという。
「本当に妻の恨みなのかもしれないな。良い夫だったならばまず見たときに、ここに並んだ料理の共通点に気づいていただろう」
檜倉は短冊を見つめたまま言った。
しかしその口ぶりに悲壮感はなかった。
眼鏡を押し上げ視線を転じる。
ガラス戸の向こう、直接は見えない大河を眺め何を思うのか。サエには檜倉が何を考えているかとらえることが難しかった。
***
気になっていた思い出の料理の正体が明らかになったというのに、サエは口を尖らせクリームチーズを練っていた。
ぐるぐると、ボウルの中に円を描く泡立て器。その動きは段々とリズム感を失って、ガチャガチャと乱暴な音を立てる。
「恨みをぶつけるための料理だとしたら、なんか、嫌だな」
不機嫌の理由はそういうことだった。
泡立て器をボウルの縁に叩きつけ、ワイヤー部分にこびりついたクリームチーズを落としながら嘆く。
「サエちゃん、そんなに乱暴にしたらこっちまで飛んでくるでしょ。汚れるからやめてよ」
引き続き土台作りを手伝っていた篁が、席の方まで飛んできたチーズの欠片を見つけて顔をしかめた。
そんな二人の姿を眺めながら、檜倉はどうしていいかわからなかった。
自分の思い出の料理を作る様子を見ているというのに、感慨のようなものが微塵もなかったのだ。
選ばれた理由が妻の恨みかもしれないと知り少しは動揺したが、あまりに腑に落ちる理由だったことにむしろ感心した。しかしそれだけだった。
一生懸命にクリームチーズをかき混ぜるサエの姿にも、砕いたクラッカーに溶かしバターを馴染ませる篁の様子にも、重ねられるものがない。
こういうとき、一般的には妻や子の姿を思い出すものなのだろう。『家のことは妻に任せているから』とは、体のいい言葉だ。実のところは、家のことに関わろうとしていなかっただけなのだ。
「この『元ビスケット』どうするの? 型に敷き詰めるの? どうやって? ぎちぎちに? それとも軽くでいいの? ねえ、サエちゃん」
すぐに答えが返ってこないことに苛立ちながら篁が声を上げる。
「ちょっと待って! 今大事なところ!」
やわらかくなったクリームチーズに砂糖を加えようとしているのだが、その方法は思い切りがいいというか、雑というか。ボウルをスケールの上に置き、そこへ直接、砂糖を投入しながら計っているのだ。普通は先に計っておくものではないかと眉をひそめたが、なんとなく、妻はサエと同じやり方のような気がした。
「それはそうだよ! だって、私は檜倉さんの奥さんの作り方で作ってるんだもの!」
サエはそう言って笑った。
「お砂糖の量はきっちりね! 少しでも甘くなると誰かさんがうるさいから!」
いっそうの笑顔を見せる。
「妻の作り方というのはレシピだけではないのか?」
それではあの泡立て器の扱い方も、と尋ねるとサエの笑顔は照れ隠しの意味合いを含んだ。
「あれは私がちょっとイライラして……ごめんなさい!」
深々と頭を下げるサエ。しかし檜倉の関心はすでにそこにはなかった。
手の動かし方や心の持ちようなどなるべく妻のやり方を再現しているのだと、にわかには信じ難いことを言う。
そもそも、手もとを見ていれば作業はほぼ
『かき混ぜるだけ』という単純なものに見える。そう思えば、再現も何もないだろうという気になるのだが。
「そんなことないよ。混ぜ方だって人によって違うんだから。それに、その時の気持ちも、明るかったり悲しかったり、色々だよ! 奥さんのはとっても幸せな気持ち!」
ひとつ手順を進めるたびに、妻の気持ちが重なって、サエは嬉しくなるのだという。
ざりざりと砂糖の粒をつぶす手応えを感じるたびにイライラは弾け、さらりとなめらかなクリーム状に変化するころには嫌な気持ちは溶けてしまったらしい。
ひと混ぜするたびに、弾むような妻の気持ちがサエを明るくさせるのだ。
「奥さんのチーズケーキって、ステキね! どんな味なのかなあ」
そうは言われたが、何が素敵なのか、檜倉にはまったくわからなかった。
味に関してだって、こうだと説明できるほど意識をして食べたことがない。『妻のチーズケーキはどんなか?』と問われれば、母のよりは甘いが一般的なチーズケーキに比べたら甘さはずいぶん抑えられていると、それくらいしか答えることができなかった。
「もうひとつだけはっきり言えるのは、私にとっては美味いケーキだったということか」
たったそれだけの情報でも、サエはキラキラと目を輝かせた。
檜倉の言葉はサエを勢いづかせたようだ。
サエは小気味よい動きで次々に材料を加えていった。
卵はひとつずつ加え、そのたびによくかき混ぜて。
三つ目がしっかり馴染んだら、次は薄力粉。スポンジケーキやパウンドケーキに比べるとあまりに少量で、こんなに少なくて大丈夫なのかと心配になる。これまた砂糖のときと同じように、袋から直接入れてよく混ぜる。
卵の黄色が美しく発色した生地はプリンのような色味になった。クリームチーズだけだったころとは感触もまったく違って、今はとろっとしていた。
そこへ生クリームを流し込むとすぐには混ざらず、白い線の模様が生まれてなんとも美しかった。
「こういうのを見てると、こう……」
サエがうずうずしている。
必死にこらえていたがこらえきれなかったようで、突然、えいっと声をかけた。
何をするかと見守っていれば、かけ声のあとに披露したのは生クリームの線で描いた花の絵。
「サエちゃんって、そういうことするよね」
呆れた様子で篁が言う。
「かわいいでしょ!」
同意してもらえるものだと疑いもせず、サエは満面の笑みを返す。しかし篁はふんと鼻で笑った。
「それで崩すのが惜しくなるんでしょ?」
「あ……」
サエは視線をボウルに戻した。自身の重さで徐々に生地に沈んでいく生クリーム。花びらの一枚一枚が完全に消えてしまうまであとどれくらいかかるだろう。
「まさか待つつもりじゃないだろうな」
たまらず檜倉は口を挟んだ。
「そ、そんなことないよ! ちゃんと、テキパキやるよ! テキパキ、テキパキ」
慌てた様子で花の絵を崩し、ぐるぐる混ぜる。うっすら涙ぐんで見えたのは気のせいだっただろうか。
生クリームがしっかり混ざり、生地はさらっとした液状に変わった。
そこに入れるのは、レモン汁とバニラオイル。ここでようやく『香り』というものを意識する。クリームチーズや卵を混ぜているうちは、にぎやかに香るような匂いは感じられなかったのだ。
それを寂しく思っていたのだろう。
サエはレモン汁とバニラオイルを振り入れると、ぐいとボウルに顔を近づけてその香りを楽しんだ。
「美味しそうになってきたよ!」
「生地のうちはそう思えないでしょ」
篁が「ねえ」と檜倉を見る。サエもこちらの様子をうかがったが、檜倉は篁の方を向いて頷いた。
「二人とも、想像力が足りないんだよ。この生地を焼いたらどんな匂いがして、どんな色になってって、考えただけでもお腹が鳴っちゃうでしょ!」
最後の材料であるヨーグルトを容器からすくい入れると、サエはにんまり笑った。
「腹の虫よりもヨダレを気にしたら?」
「え! ヨダレ? 垂れてた?」
慌てて口もとを拭うサエ。しかしからかわれたのだと気がつくと、ぷうっと頬を膨らませた。
そんなやりとりをしながら進めてきたチーズケーキ作りも、残りの作業もわずかとなった。あとはこし器でこして型に入れオーブンで焼くだけだ。
檜倉にはやはり、ほぼ混ぜるだけの作業に思えた。
「このケーキなら、少しくらい作り方を変えたところで支障はないと思うのだが」
妻はどうして作り方を変えようとしなかったのか、改めて疑問に思う。
「食べたらきっとわかるよ! 乞うご期待!」
サエは得意げな顔で言って、オーブンの扉を閉めた。
衝撃でオーブン全体がわずかに揺れると、天板の上、型の中の生地がとろんと動いた。
「焼き時間は一時間。う~ん。どんな風に焼けるか楽しみね!」
一時間という待ち時間を、長くて退屈だと思うか、それともワクワクが膨らんでいく楽しい時間と感じるか。
はたまた、ただただ無駄な時間だととらえるか。
「檜倉さんは……早送り希望でしょ」
どうせそうでしょという目でサエは檜倉を見た。三途の川のホトリ食堂ではそういうことができるからと、オーブンの扉に手をかける。
しかし檜倉はその手を止めさせた。
「早送りは、しなくていい」
「どうして?」
サエが目を丸くする。
「できるだけ無駄なことはしたくないんじゃなかった?」
篁が口を挟む。気だるそうな口調ではあったが、そこに悪意は込められていないようだった。
「この一時間を共有しなければ、妻の恨みをきちんと受け止められないような気がして」
「まだ、恨みと決まったわけじゃないでしょ」
篁の視線は試すような目をしていて好きにはなれない。
「他に思い当たる節がないものでね」
檜倉はわざと強い口調で言ってからずれた眼鏡をぐっと押し上げた。
***
入り口の引き戸の向こうに視線を遣った。
引き戸越しに三途の川が見えるわけではない。だというのに、あの大河の気配を、まるでその際に立っているかのように思い出していた。
そうか。ここは三途の川の河原だったか。
思いがけず声に出してしまった一言に、サエは不思議そうな顔を見せた。「何を今さら」とでも思っているのだろう。
しかし篁の方は檜倉が何を言わんとしているか察知したようで、
「石を積むのは子どもだけだよ」
と、そんな台詞を投げた。
それでようやくサエも何のことかと理解したようだ。
「そういうことね!」
と言いながらも、
「あれ? でも、そういうところだったかななあ」
と眉をひそめた。
三途の川や賽の河原のことならば、宗教や伝承の類いに疎い檜倉でもそれなりに知っている。親に先立って死んだ幼い子どもがその『罪』を償う場所だ。
その場所に食堂が建っているという自分の知識にはないことが起きているのだから、賽の河原の対象が幼子だけではなかったとしても何も不思議ではない。
「悪いことをしたって自覚があるんだ?」
またしても、篁が嫌な視線を投げてきた。
「妻は逆恨みをするような人間ではないから、彼女が恨んでいるというなら、間違いなく私に非があるのだろう」
「ふうん。チーズケーキは罰なの?」
「そこだけが腑に落ちない」
他のピースはつながるというのに、そこだけがどうもちぐはぐで納得できずにいた。
「石を積む方がわかりやすくていいのにな。今からでも変えられないか?」
冗談とも本気ともとれる調子で言った檜倉の言葉を篁は鼻で笑った。
「あんたには、あの子が鬼にでも見えるのかい?」
指差した先には、期待たっぷりの顔でオーブンに張りつくサエの姿がある。賽の河原だの罪だのはそっちのけで、ケーキの焼け具合に釘付けになっていたのだ。
オーブンの扉のガラス越しに二人と目が合うと、取り繕うように笑った。
「だって、美味しそうな匂いがしてきたんだもの」
大きな目をぱっちり開けてチーズケーキを見守り、ときどきくんと鼻を動かし匂いを嗅いだ。
檜倉は自然とサエの動作を真似ていた。鼻から口から、たっぷり匂いを吸い込んだ。
あまい、あまい匂いが、鼻の奥深いところまで届いて檜倉の食欲を刺激する。
サエはますますオーブンに顔を近づけて匂いを嗅いだ。それだけでは歓びが足りないと、檜倉をそばに呼びつける。
檜倉はサエの隣りにそっと腰をかがめオーブンを覗き込んだ。
とろんとしていた生地の表面はこんがりと色づいていた。型から飛び出すほどにかさは高くなって、ふわふわとやわらかな泡のようにも見える。これがいつも食べている、ずっしりと詰まって舌触りは滑らかな妻のチーズケーキになるのかと思うととても興味深かった。
「檜倉さん、楽しみだね!」
「ああ、そうだな」
「待ち時間、どうだった?」
「いい匂いだった」
「えー。他にもっとないの? ワクワクしたとか、ソワソワしたとか」
「しいて言うなら、」
「言うなら?」
「新鮮だった」
「新鮮? 懐かしいとかじゃなくて?」
サエの言葉に檜倉は少し黙った。次の言葉を選んでいると、何故だか自然と口もとが緩んだ。
「ああ。新鮮だった。こんな風にして焼き上がりを待っているんだと、初めて知った」
「そっかあ。新鮮だったかあ」
サエはうんうんと頷いた。
「じゃあ、これもかな?」
店の中、焼き時間の終了を報せる電子音が響いた。と同時に、サエはオーブンの扉を開け放った。
ふわっと香る、あまいにおい。そして香ばしさ。オーブンミトンで掴んだ型の中では、サエの動きに合わせてチーズケーキがぷるぷると揺れる。この匂いを、感触を楽しめるのは作った人間の特権だ。
「いい匂い! 焼きたてはこんな感じなのね」
「私が見るときにはいつも、もうだいぶ落ち着いていて真ん中が落ちくぼんでいたな」
「うーん。早く食べたい!」
「まだまだだ。ここから粗熱をとって、冷蔵庫に数時間置いてと、とにかく時間がかかるらしい」
「作り方は全然知らなかったのに」
意外ねと、サエが驚いた顔を見せる。
「妻に聞いたことがある。結婚する前に家を訪ねたらテーブルの上にチーズケーキがあって、そんな説明を受けた」
檜倉はケーキクーラーの上のチーズケーキに視線を落とした。少しずつ落ち着いて、型の高さにおさまりつつある。
「さすがに何時間もというのは辛いな。そろそろ答え合わせをしようか」
檜倉はまっすぐにサエを見た。
サエは笑顔で受け入れて、チーズケーキを冷蔵庫にしまった。
一分も経っていないのに、冷蔵庫から取り出したチーズケーキはすっかり固まっていて、表面のツヤがしっとりと美しかった。いつも目にしていたチーズケーキの姿にようやくたどり着いたのだ。
八等分に切り分けたチーズケーキが見知った皿に盛り付けられ檜倉の前に出された。
「それじゃあ、食べる前にひとつだけ注意事項を――」
サエが何か言おうとしていた。
だが構わずに檜倉はフォークを手に取った。説明など必要ない。あとはもう、妻の気持ちを受け止めるだけだと思った。
あっ、とサエが声を発したのとほぼ同時。檜倉のフォークが三角形の尖端をザクッと削った。
フォークの動きの豪快さとは裏腹に、口の中に放り込んだチーズケーキの欠片は、舌の上でなめらかにほどけた。
ふうわりと香るクリームチーズのやわらかな風味に、もったりとした食感が心地いい。
ヨーグルトやレモン汁の爽やかさを感じながらもやはり少し甘いかななどと思っていると、それをさらうように、ビスケットの甘さと香ばしさがやってきてうやむやにしてしまう。最後には舌の表面にチーズのうま味がほんのり残ってなんとも幸せな気分にしてくれた。
そうだ。この味だ。
喜ぶのでもなく、寂しがるのでもなく、檜倉は単純にそう感じた。
しかし一方で、いつもよりも強く主張する甘みに戸惑った。
こんなに甘かっただろうかと首を捻った。
それは、妻のチーズケーキの味をろくに憶えていない証明のようで情けなくなった。ケーキの味どころか、妻や子どもたちの顔もすぐには浮かばぬような薄情な男なのかもしれない。
ここでそれを悔いても仕方ない。
考えるだけ無駄だと思いながらも、檜倉は家族の顔を思い浮かべようとしていた。
妻の顔はどんなだったろうか。
子どもたちはどんな風に笑っていたか。
必死に思い浮かべた顔は、どうしてかずっとずっと昔の姿をしていた。若いころの妻の顔と、幼い息子と娘が檜倉の前にいた。
その景色は頭の中に描いたものではなかった。
いつかの日の、家族の団らん。檜倉はその景色の直中に確かにいたのだ。
「もう! 話は最後まで聞いてよね!」
家族の団らんの中にサエが割り入ってきた。
「これは、チーズケーキを――思い出の料理というものを食べたせいなのか?」
「そうだよ! 思い出の料理は、あなたが川を渡るために必要な景色を見せてくれるの。そして私はそれをおすそ分けしてもらったというわけ!」
この三途の川のホトリ食堂には、美味しいものを分かち合うための決まりごとがあるという。
『味だけでなく、思い出も感覚も分かち合うこと』
サエはチーズケーキを食べた。それで檜倉と同じようにこの景色に入り込んだのだという。
「あんたがここに立ち寄った理由が気になるんで、俺もお邪魔させてもらうよ」
いつの間にかサエのうしろに篁が立っていた。
二人は並ぶと、まだ説明の途中だというのに口をそろえて言った。
「奥さんのチーズケーキ、全然甘くないじゃない」
「うんうん! 全然甘すぎない! ちょうどいい! っていうか、もうちょっと甘くてもだいじょうぶ! そして、とってもとっても美味しいよ!」
サエは口を尖らせ「もう一個食べたいくらい」と駄々をこねる。しかし篁に「終わってからね」とたしなめられると、さらに口を突き出した。
「そんなことよりも、奥さんの恨みとやらがどれほどのものか、みんなで確認しようじゃないか」
篁が意地悪な顔をして言った。
檜倉はその言葉に引きずられるように、視線を家族のいる方へと向けた。
***
「甘い甘いって言うけど、これ、もとのレシピから二十グラムも砂糖を減らしてるんだよ?」
呆れたような口調で言ってから、妻がチーズケーキ欠片を口に運ぶ。こちらは私よりもやや大ぶりなひとかけで、頬張るというのが相応しい食べっぷりだった。
甘いかなと訝しげに首を傾げ、しっかりと味わってから「砂糖、減らしてるんだけどなあ」とぼやいた。
「何だかんだ言いながら私の分までしっかり食べるくせに、まだ減らせって言うの? 元の分量の方が美味しいと思うんだけどなあ。こっちは何だか物足りないというか」
文句を言いながらも美味そうにたいらげるのは君も一緒だろうと思いながら、しばらく続く一人芝居を眺めていた。ここで言い返してしまえば、報復として次回は砂糖の量を増やされるかもしれない。
どう答えるのが正解かと探っていると、
「みいちゃんはこれくらいが好き!」
と下の娘が膝に乗る。私はチーズケーキの皿を安全な場所へと避けた。危ないよと言ってみたが彼女には伝わっていないだろう。「おいしいよねー」と妻と子をそろえ楽しそうに笑っていた。
女同士の結束に割り込むように息子がコホンと咳払いをした。坊主頭ということは、小学校高学年のころか。まだ反抗期ではなかったがそれなりに難しい時期だったはずだ。
それも、あとから妻に聞かされた話だが。
「ああ、そうだった。今日はね、お兄ちゃんが手伝ってくれたの。ビスケット砕くのやってくれたんだよ」
「どおりで。いつもは大きな塊があったりと、もっと雑だったからな」
「そうなのよ。私と違って仕事が丁寧だよね。今度からお兄ちゃんに頼もうかなあ」
「ときどきなら、いいよ」
仕方ないなという体でありながら、しかし得意げな様子は隠しきれず。小鼻がぷくっと膨らむ彼の癖を見逃さず、私はひとり笑った。
「うーん。やっぱりお義母さんのレシピを習った方がいいかな。かなり違うんでしょ?」
突然、妻が言い出す。
すると子どもたちが間髪を入れずに声を上げた。
「僕はママのケーキがいい」
「みーちゃんも!」
「嫌ならパパだけ食べなければいいんだよ」
さっきまですました態度だった息子がべえっと舌を出した。
「そうは言っても、チーズケーキはパパの大好物だから作ってるわけだし」
「別に大好物というわけでは――」
「よし! 次はもうちょっと砂糖を減らしてみようか! ……と宣言しておいて、今回より増やしてパパの舌を試してみるとか」
「その計画を私の前で言ってしまっては意味がないじゃないか」
「あ、ほんとだ。何か別の作戦を考えなくちゃ」
妻は真剣に考える。
「これでいいよ。甘いけど、美味いから」
私が折れるのが一番早い解決策だと思い提案すると、妻は眉間に皺を寄せ私の頬を両手で押さえた。
「だーめ。これは家族で食べるものだから、みんなが美味しいって思えるものを作りたいの」
「君の作ったものなら、何でも食べるよ」
私の言葉に妻はありがとうと照れて笑った。しかし首を横に振る。
「ちゃんとみんなで作ろうよ。これはこんな味付けで、あの料理にはアレを入れてって。それを大事な日だとか日常とか関わらず食べ続けていけばさ、『うちの味』になるんだよ。思い出がた~っぷり詰まった、うちの味。そういうものを、私はみんなで作りたいの。た~くさん作りたいの!」
妻は屈託なく笑った。無邪気に言っているはずなのに、その顔はまさしく『母』の顔だった。
「いつか思い出したときにとびっきりの笑顔になってくれたら、ママ嬉しいなあ」
そばにいた息子を抱き寄せれば、それはなおさら。
息子は恥ずかしがって離れようとしたのに妻はやめなかった。そして「お兄ちゃんは何がいちばん好き?」などと『うちの味』を作るための調査をさっそく始めた。
「酢豚は、息子の大好物だ。パイナップルが入っているのが好きなのに友だちにからかわれたとかで、悔しそうにしていたことがあった。いなり寿司は娘の。前日の残りの炊き込みご飯を妻が思いつきでいなり寿司にしたら気に入ってしまって。それ以来、うちのいなり寿司の中身はすっかり炊き込みご飯になってしまった」
チーズケーキを食べる一家の風景を眺めながら、檜倉は唐突にそんなことを話し始めた。それは残った残りの七枚のメニューの思い出だった。
自分の中にはほとんどないと思っていたはずの家族との思い出が、料理をもとに辿れば意外と蘇ってくるものだなと驚いた。
檜倉は手もとのチーズケーキに視線を落とした。
妻が大事にしていたのはレシピだけではなく、そこに詰まった家族の思い出だった。檜倉と息子と娘の好物と、記念日に欠かせないメニュー。ここぞというときに作るメニュー。
他のものの味付けや作り方を変えてしまったとしても、せめてそれらだけは『うちの味』として残したかったのだろう。
そのうちのいくつかが八枚の短冊に現れ、そして檜倉の好物である『うちのチーズケーキ』が最期の料理に選ばれたというわけだ。
そんなこととは知らず、妻と母が『うちの味』で対立していても自分は静観しているだけだった。味付けなどどうでもいいと、この日の出来事を――妻の気持ちをまるで無視したようなことを言っていた。
もしもこの景色を憶えていたなら、もっと違う毎日があったのだろうか。
思い出の料理が、三途の川を渡るために必要な景色を見せているとサエは言っていた。
「しかしこれでは、むしろ未練や後悔が生まれてしまうではないか」
今さらどうにもできないことを、どうして自覚させたのか。
気づかなければ、何も思わずに粛々と審判を受け続けただろうにと檜倉は嘆いた。
たまらなくなって次の一口を放り込んだ。妻のように、少し大きめの一口で、口の中をチーズケーキの味でいっぱいにする。
ああ、美味い。と思えばその瞬間は幸せな心地になるが、『うちのチーズケーキ』の意味を知ってしまっては、ただ美味いでは終わらなくなった。
胸がぐっと締めつけられ、喉が詰まってしまいそうだ。
「私の足を止めたのは、やはり妻の恨みだったのだ」
そう言って、檜倉はため息をつくように笑った。
三途の川のホトリ食堂という場所は、悩みや不満、未練や後悔を解消するところだと、そう最初に説明を受けた。
しかし思い出の料理を食べても、檜倉は清々しい気持ちにはならなかった。
残りのチーズケーキを見つめ、八枚の短冊に目を遣って、ふうっと息を吐く。
「そろそろ出ようか。何にせよ、これで三途の川を渡れるのだろ」
席を立とうとしたところ。
「これ、奥さんの恨みなんかじゃないよ」
笑顔満面でサエがそんなことを言い出した。
***
檜倉が川を渡れなかった理由は妻の恨みなどではないとサエが言った。
「檜倉さんに笑って欲しいんだよ」
言わんとしていることがよくわからなかった。
「だーかーらー。『いつか思い出したときにとびっきりの笑顔になってくれたら、ママ嬉しいなあ』って言ってたでしょ。『うちの味』を思い出して笑顔になって欲しいんだよ!」
サエはぱくっとチーズケーキを一口食べた。
目の前に広がる景色を愛おしそうに見つめ、そして檜倉に笑顔を向ける。
「それに恨んでいる相手に、こんなに幸せな景色を見せたりしないよ! だって、もったいないもの!」
「それは君の論理だろ。それに、笑って何になる」
死後の世界で笑顔など必要かと檜倉は吐き捨てた。
「どっちでもいいよ」
呆れ顔の篁が参戦する。
「恨みでも、愛でも、必要でもそうでなくても。どっちでもいい」
言いながらサエの体を押し退け檜倉のまん前に立った。食べかけのチーズケーキを目の前に突き出しそして言った。
「奥さんの気持ちは見た通りだ。それをどうとるか、何をするかはあんたが決めることだ」
これからまだ長い旅が続く。
その間、何も考えず何も感じず進むのも、贖罪のつもりで審判を受け続けるのも、残してきた家族を想うのも、自由だ。生き返りたいともがき続けたっていい。
「ここでチーズケーキを食べたことを、『意味がある』ことにできるのは、あんただけだよ」
篁はそっと皿を置いた。
代わりに自分のチーズケーキを持ってきて美味しそうに食べる。これで甘すぎるってどういうこと、と文句をつけながらあっという間にたいらげるとサエにもう一つ寄越せと催促した。
「あら珍しい」
「美味しいからね」
すました顔で言う。
「あれ? でも私にはおかわりは終わってからねって言ってたような」
「終わったようなものでしょ」
二人の視線が檜倉に向いた。
檜倉はごくりと唾を飲み込んだ。
そんなに簡単に考え方を変えることはできない。今さら何をしたって、やはり無意味なのだ。懺悔しても、何かを願っても、それは結果につながらない、自己満足でしかない。
しかし『うちのチーズケーキ』を食べて、この景色を見てしまったら、「これは終わったことだ」と遠巻きに見ることは難しくなった。サエの言うとおり、妻のチーズケーキには愛情ばかりが詰まっていたのだ。
檜倉は拳をぎゅっと握った。
握ったその力をどこにぶつけていいかわからなくて、逃げるように辺りに視線を漂わせた。
どうしたって、八枚の短冊が目に入ってしまう。
すき焼き、餃子、野菜炒めに酢豚。ビーフシチュー、いなり寿司、ナポリタン。
そして、空白になった一枚には『うちのチーズケーキ』。
「何が出来るだろうか」
言葉にすると、拳に込めた力がふわりと抜けた。本当は何かしたかったのかもしれないと、自分の感情に呆気にとられた。
「何か出来るだろうか。例えば、妻のように何かを伝えるだとか」
手のひらを返したような発言だったというのに、それを聞いたサエは嬉しそうな顔を見せた。
「朗報があるよ! 日本にはお盆やお彼岸といった絶好のチャンスが年に何度かあるから、挑戦し放題なの!」
「家族が供養し続けてくれればの話だけどね」
「するよ!」
サエははっきりと言い切った。
「檜倉さんの奥さんならきっとする! だって、檜倉さんにチーズケーキを食べて欲しくて、檜倉さんに笑って欲しくて、それだけの理由で三途の川を渡るの阻止しちゃうんだよ? 絶対、すごい供養とかしちゃうよ!」
サエの熱弁は根拠がまるでない上に、やはり愛情ではなく怨念の類いなのではと不安にさせる。
しかし檜倉はサエの言葉を肯定した。
「そうだな」
檜倉は食べかけのチーズケーキに手をのばした。
「…………やってみるか」
自分自身の言葉にしっかり頷くと自然と口もとが緩んだ。妻が望んだ『とびっきりの笑顔』にはほど遠いが、檜倉は確かに笑った。
***
『うちのチーズケーキ』を食べ終えると、檜倉は三途の川へ向かって歩き出した。
サエはその背中に、大きく大きく手を振った。見えなくなるまで振り続け旅立ちをしっかり見届けると、情けない顔で篁を見た。
「大丈夫だよね? 恨みじゃないよね? 間違ってたからやり直しとか言って戻ってきたりしないよね?」
突然襲ってきた不安にオロオロと取り乱す。
「恨みなわけないじゃない。十王ってのはね、審判の判断材料として本人の罪はもちろんだけど、それと同じくらいに家族の気持ちを重視するんだ」
「家族の気持ち?」
「そう。本人に罪があったとしても、家族が心の底から死を悲しみ供養しようとしていれば、十王は慈悲を与え、判断を次の王へと委ねる。それの繰り返しが十王審判さ」
篁の説明は理解できたが、それがどうして、檜倉が店に来た理由が妻の恨みではないということにつながるのかわからなかった。
「こんなところで足止めを食うほど恨まれているんだとしたら、一つ目の審判でさっさと地獄行きが決定するってことさ。それに、」
篁はじっとサエを見た。
「いつものアレ、やってごらん」
「え? 今? お客さんもいないのに?」
「ひとりで鏡に向かってやってるくらいなんだから平気でしょ」
「どうしてそれを――!」
「いいから、ほら」
パンパンと手を打つ篁。
その音に釣られてついポジションについてしまう。
両足を肩幅に開き、頭に巻いた三角巾と真っ白なエプロンの皺を払って、顔にはたっぷりの笑顔をのせる。
「ようこそ! 三途の川のホトリ食堂へ! まだまだ続くなが~い旅路に備えて、お腹いっぱい、心いっぱいに満たされていってね!」
元気いっぱいに張り上げた声が食堂内に虚しく響いた。サエの羞恥心を煽るように、篁はわざとらしく「お上手お上手」などと手を叩く。
「これで、何がわかるって言うの!」
ずいと篁に詰め寄った。
わからない? と篁は答える前にコーヒーを一口。焦らしに焦らしてようやくサエの疑問に答えた。
「お腹いっぱい心いっぱいに満たされるのはご褒美でしかないんじゃない」
「あ! そうか! そうだよね!」
「それにここの店主はサエちゃんなんだし」
鬼なんかじゃないんだものと小さな声でつけ加えたがサエの耳には届いていないようだ。
この店に来る理由が恨みや何かじゃないと確信して喜びの声を上げている。
しかし途中で何かに気がついたようだ。
歓びの舞いはぴたりと止まり、サエの顔から笑顔は消えた。
真剣な顔で篁を、睨みつける。
「それじゃあ、なに? 篁さんは最初から奥さんの恨みなんかじゃないってわかっていたの?」
ひどい! と声と両手を上げたサエ。その姿が滑稽で、篁は笑いをこらえるのに必死だった。
「篁さん! 聞いてるの?」
「ああ、はいはい……ええと、サエちゃん、ほら、お客さん」
「え? ようこそ! 三途の川のホトリ食堂へ――って、いないじゃない! また騙したのね。もう! 篁さんってば!」
驚き、笑い、怒り。くるくるとせわしなく変化するサエの表情に篁はついに声を上げて笑った。