表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/11

【第六話 主夫デーの具だくさん炒飯】

【第六話 主夫デーの具だくさん炒飯】


 死ぬ間際のことをよく覚えている。

 激しい胸の痛み。あまりの痛さに死を意識した。だけど突然すぎる死の訪れに、いつの間にか痛みよりも焦りばかりを気にするようになっていた。

 死にたくない。

 強く強くそう思った。

絞り出すようにでも、擦れきった声だったとしても、誰かに伝えたかった。だけど自分の声でそう言えたかは定かでない。

 次に意識がはっきりしたときには、加須美はもう人の世ならざる場所にたどり着いてしまっていた。




     ***


「次はどんなものを食べられるかなあ」

 めちゃくちゃなメロディーをつけて、サエは口ずさんだ。何人目かの客を見送って一息ついたところだった。

 お茶を飲みながらゆっくりと次の客を待ってもいいのだが、なんとなく落ち着かなくて飾りの招き猫などをみがきだす。

 今日はそろそろしまいかと、当たり前のように壁掛け時計に目をやった。しかし店にある時計は秒針がチッチッチと回るだけ。

 三途の川の畔にあるこの店では、時間というものがはっきりと存在していなかった。

 どれだけ時間が進んだか数えることはできるのに、今が一日のうちのどの時間帯であるかということはまったくわからない。

 開店も閉店も、いつからいつまでと決まっているわけではない。

 なんとなく(たかむら)と世間話などをしているうちにふらりと客が現れ、いつの間にか開店しているという具合である。

 まあ、篁がいなければ客の記憶を覗くこともできないので、ある意味、篁が来て帰るまでがこの店の営業時間ということになるのだろう。

 その篁が店にいない。

 手持ちの書類が少なくなったので取りに行ってくると言い残し店を出たのはどれくらい前のことだったか。

 今日のうちに戻るのか。それともまた明日ということになるのか。サエにはよくわからない。

 ふうっとため息をこぼした。

 時間というものがはっきり存在しない、三途の川のホトリ食堂。

 客も篁もいなければ、寂しいような不安なような空気が流れてくる。

「もう片付けちゃおうかなあ」

 そうぽつりとこぼした時だった。

 店の外から、女の声が聞こえた。

 泣き叫んでいるようにも聞こえるし、何かを主張しているようにも聞こえた。

 どちらであるにせよ、その声は川の向こうに届きそうなほどに大きな声であったのに、その合間に入る他の誰かの声がサエの耳にはしっかり聞こえていた。

 少しけだるいような、呆れたような調子で女の言葉を遮る。

 言葉を重ねるごとに苛立ちがつのっていくのが声の調子だけで十分に伝わってきたので、サエは慌てて店先へと駆け出した。

 案の定、声のひとつは篁のものだった。

 もう一つの声の主に目を向けて、サエは「あっ」と小さく発した。

 綺麗なグレイヘアに見とれたのはほんの一瞬のこと。

 いったい何が起きたのかと、篁と女の間で視線を行き来させた。

 篁に腕を掴まれ登場した女はずいぶんと疲弊した様子で、なんとかそこに立っていた。

 優しく支えられているのか、それとも強引に引きずられた結果なのか。

 しかしよく見れば、必死に篁の手から離れようともがいているではないか。

「篁さん……」

 サエの視線を感じて篁はすぐに首を横に振った。

「違うからね」

「何がちがうの?」

「今サエちゃんが思ってること」

「なんのこと?」

「悪者に向ける眼差しになってるよ」

「そりゃそうでしょー。だって――」

 どれだけ激しく抵抗したのか。髪は乱れ、上品なコットンのブラウスには皺が寄り。なにより引きつった表情もこわばった体も、彼女のすべてが篁を拒絶しているように見える。

「サエちゃん、よく考えて。ここがどういう場所かを」

 篁がため息交じりで放った言葉の意味を考えサエは首を傾げた。

 右に傾けただけでは足りなくて、左の方へと向きを変えたところで、ハッと気づいた。

「三途の川を渡るわけにはいかないのよ!」

 答え合わせをするかのように、女がわんわんと泣き出す。

「お客さんをお連れしましたよ」

 篁がわざと丁寧に告げた。

「そういうことなら早く言ってよ!」

 サエはバタバタと身支度を調える。

 エプロンの埃を払い、頭に巻いた三角巾をキュッと結び直して仁王立ちに構えた。

 女に泣き止む気配などなくとも気にせずに、腰に手を当て胸を張り、決め台詞を響かせた。

「ようこそ、三途の川のホトリ食堂へ! まだまだ続くなが~い旅路に備えて、お腹いっぱい、心いっぱいに満たされていってね!」




 サエが淹れたお茶を口にすると、女はようやく落ち着きを取り戻したようだった。

「ありがとう。ええと、」

 まずは照れくさそうに。すぐにそわそわと辺りを見回した。

「ここは三途の川のホトリ食堂よ! 私は店主のサエ。そっちは篁さん」

「サエさんに、篁さんね。さっきは取り乱したりしてごめんなさいね。こっちに来てから初めて『人』と会ったから、なんとかしてもらえるんじゃないかと必死だったのよ」

 そこまで打ち明けてから、そんなことより自己紹介よね、などと言って微笑んだ。

 女は加須美(かすみ)と名乗った。

 サエが彼女の名前を復唱すると、くすぐったそうな顔をした。

「名前で呼ばれるのなんていつ以来かしら。家では『おかあさん』とか『ばあば』としか呼ばれないものね」

 先ほどの騒ぎからは想像できないほどに、穏やかな表情と声色で話す。

 しかし会話の間にちょっとした空白が生まれると、表情はかたく険しく変わってしまった。

「ここは『あの世』なんでしょう? わかってるけど、でも今すぐ川を渡るわけにはいかないの。だって川を渡ってしまったら二度と引き返せないと言うじゃない。私は戻らなければいけない。……少しだけでいいから時間をくれないかしら」

 まっすぐな目でサエに詰め寄る。

 サエはその行動に驚きはしなかった。

 この食堂に来る客のほとんどは、未練や迷いのため先に進むことをためらっている者たちだ。

 もちろん、引き返したいという者も珍しくない。少しだけ時間を、と言うから彼女にも何らかの未練などがあるのだろう。

 何かをしたかったか。どこかへ行きたかったか。最後に誰かに会いたかったのかもしれないし、もしかしたら、優しそうな気配に似合わず誰かに仕返しをしてからでなければ三途の川を渡りたくないということなのかもしれない。

「ここは川を渡る手前にあるお店なんだから、きっと私の願いを叶えて、あっちに戻してくれるような場所なんでしょう」

 そうであって欲しいという願いを込めるように、彼女はサエの手をぎゅっと握った。

 いや。違う。

 そんなに殊勝なものではない。

 願いを叶えてくれると約束するまではけっしてこの手を離さないぞと言わんばかりの、鬼気迫るものだった。

 見かねた篁が助け船を出す。

「勘違いを訂正させてもらうよ」

 ため息交じりで説明を始めた。

 三途の川が生と死の境界ではないということ。死後に進むべき道を決める十人の王による審判がすでに始まってしまったこと――だから戻ることはできないということを、実に事務的につらつらと述べた。

 そうだというのに、

「少しだけでいいから!」

 と加須美は食い下がる。

 話を理解していないのか、それとも理解した上でまだ言うのか。

 河原で篁を見つけてからずっとこんな調子なのだという。それで仕方なく店に連れて来たわけだが、あとはサエに任せたと篁はすっかりさじを投げた。

 それほどまでに強い未練があるのかと尋ねてみると、加須美は今にも泣き出しそうな顔でサエの体にしがみついた。

「私がいなくても大丈夫なように、家のことをいろいろと片付けてきたいの」

「そうだよね。のこしてきた家族のことは心配だよね」

 うんうんと頷くサエ。

 しかし続く言葉を聞いて眉をしかめることになる。

「そうなの。替えのトイレットペーパーがどこにしまってあるのかもわからないし、ご飯だって自分でなんとかできるか心配だわ。ああ、そういえば衣替えもまだだから着る物に困るかもしれないわねえ。いえいえ、衣替えが済んでいたってどこに何が入っているかわからないでしょうから、引き出しにメモでも貼ってこないといけないわね」

「ええと、小さなお子さん……がいるようには見えないし、ご両親の介護とか?」

 孫の可能性もあるかしらと思い浮かべてみたものの、なんだかどれもしっくりこなくてサエはうーんと唸った。

 それほどまでに世話が必要な存在とは、いったいどういう者か。

「いいえ。家にいるのは夫だけよ。子どもたちはとっくの昔に巣立ったし、私の両親も夫の両親ももうみんな見送ったわ」

 加須美が「何かおかしいかしら」というような視線を向けてくるものだから、サエの胸のもやもやは消えるどころか余計に膨らんだ。

「心配なのはわかるけど、心配しすぎのような気も……」

 ねえ、と篁に同意を求めるサエ。

 篁が何かを言うのを待たず、加須美が

「とんでもない!」

 と声を張り上げた。

 急に饒舌になったかと思うと、夫がどれだけ手のかかる存在であるかを語り出す。

 何から何まで世話を焼かなければならないのだと話す姿は、愚痴をこぼすようでありながら、なんだかのろけているようにも見えてきて、サエと篁は自然と顔を見合わせた。

 サエは困ったように笑ったが、篁はすっかり呆れを通り越して苛立っていた。

「あんたにどんな事情があろうが、戻ることはできない。この店でできるのはご飯を食べること、それだけだよ。それが嫌だって言うんなら、さっさと川を渡ることだね」

「まあ! 意地悪ね。なにも生き返らせてほしいと言っているわけじゃないのよ。三日……いえ、一日でいいの。どこに何があるかとか、こういうときはどうすればいいとか、必要なことを書き残してくる時間をくれさえすれば、そのあとはおとなしく三途の川を渡るから!」

 だからお願いと、サエの足もとに跪く。

 しかし前向きな答えが返ってきそうにないと察すると、ずいと立ち上がり厨房に押し入った。

「お願いを聞いてくれるまで、絶対に川を渡らないんだから」

 籠城を決め込んだようだ。

「幸いここは食堂だから食べ物には困らないものね」

 長時間の闘いに備えてさっそく腹ごしらえでもしようかしらと言うものだから、サエは待ってましたと食いついた。

「篁さん! ご飯を食べる気になったよ! チャンスだよ!」

 例の書類を早く出してと催促するが、篁は渋い顔。無言で指差すその方向を見ると、加須美が厨房の中を物色しているではないか。

 何をしているかと問えば、ご飯を作ろうと思ってと返ってきた。

「ここは私のお店だから私に任せておいて、加須美さんは座って待ってて!」

 サエが慌てて厨房に向かう。

 加須美はそれを拒絶しながら、吊り戸棚に冷蔵庫にと、扉という扉を次々に開けた。

「死ぬときに持たされた六文銭は三途の川の渡り賃でしょ。ここで使うわけにはいかないのよ。自分で料理するから、その分まけてちょうだいね」

 加須美の声のあとに パタン、パタン、と音が続く。

 一通り確認し終えたところで、加須美は眉をしかめた。

 どこもかしこも空っぽなのだ。

 これでは営業ができないではないかと、厨房を占拠しておきながら店の心配をする。

 それに対しサエは何食わぬ顔で

「このお店はメニューが決まらないと何もできないの」

 と言った。

「メニューが決まらないとって、お店を開いているのにメニューが決まっていないの?」

 まるでなぞなぞのようだと加須美は首を傾げた。




 三途の川のホトリ食堂という場所は、一見するとなんの変哲もない、町の食堂というようなところだった。

 なんとなく懐かしさを覚える椅子やテーブル。

 色褪せたポスターは、デザインから写っている女性の髪型まで何もかもが古めかしい。

 最近の子には逆に新しく感じるらしいし、この店もそういうコンセプトなのかしらと、加須美は店内を見ながらくすっと笑った。

 一通り見回してからぼんやり灯った違和感に目を向ける。

「あら?」

 最初は違和感の原因がわからなかった。

 もう一度店内を見回して、そしてさっきの古めかしいポスターの辺りで視線を留める。

 サエが言った言葉が嘘ではないという証がそこにあった。

時代遅れの、水着を着た女性が大きく映ったビールの宣伝ポスターのその隣り。八枚の短冊がきっちり高さを揃えて貼られているのだが。

 赤い枠。煤けたような汚れたような風合いの短冊は、幼い頃に近所にあった大衆食堂で見かけたものによく似てはいたが、まったく異なり白紙のままだった。

 しばらく短冊を睨みつけてから、加須美の視線はサエの視線とぶつかった。

「本当にメニューがないのね。こんなので、どうやって注文をとるの?」

「それはね、」

 サエはどう説明しようかと答えを探しているようだ。

「この方が早いんじゃない」

 言いながら、篁は自分の鞄から一枚の書類を取り出した。

 何も言わずに加須美の前に差し出して、この部分をよく読むようにと指の動きでくるっと囲ってみせる。

 加須美は指示されるままに書類に目を通した。一行、一行と進んでいくうちに、くらくらと目眩を感じた。

「ええと……これは、つまり……」

「ようは、あんたの思い出を覗いて、その中から作る料理を選ぶってわけさ」

 だから同意してくれとペンを置く。

 加須美は、一度はそれに指を伸ばしたが、すぐに手を引っ込めた。

 今一度、書類を端から端まで読んでみる。

 二人の説明をつけ加えると、どうやら、この店はなんらかの事情があって三途の川を渡れずにいる者がたどり着く場所であり、ここで『思い出の料理』とやらを食べることで問題が解消され、めでたく先に進めるようになるということらしい。

 最後に署名欄があって、そこにサインを記すことで自分の思い出を覗くことを許可するわけだが。

「断固、拒否します」

 フンと鼻息荒く、そっぽを向いてやった。

 川を渡れずにいる理由ははっきりしている。

 どうすれば先に進む気になるのかも、わかっている。

「お願いを聞いてくれれば、こんなもの必要ないじゃない」

 けろっと言ってみせると、二人から重たいため息がこぼれた。

「どうしたらいいんだろう」

 とサエが頭を抱える。

「どうもしなくていいんじゃない」

 呆れた様子で篁が言い放つ。

「もう。二人とも意地悪ね。ほんの少しよ。ほんの少しでいいから時間をちょうだいって言ってるだけなのよ」

 加須美の言葉のあと、三人のため息が重なった。

 堂々巡りになりつつある会話。

 誰からも解決策が出ないまま、チッチッチと秒針だけの時計が動き続ける。その針も、てっぺんを通り過ぎればまた次の一周を描くだけで、まったく進みはしない。

「……わかったよ」

 音を上げたのは篁だった。

「あんたが直接どうこうするっていうのは無理だけど、俺が手紙を預かるってことならできるよ」

 なんだ、できるんじゃないのと思ったことはさておき。

「まあ! それだけでも大いに助かるわ。ありがとう!」

 加須美は大喜びで篁の手をとった。

 その隣でサエは怪訝な顔を隠そうともしない。

「そんなことして大丈夫なの?」

 と心配そうに篁に耳打ちをする。

 すると篁は、

「この人、本当に籠城しかねないんだもの」

 心底迷惑そうに言った。

 迷惑そうではあったが、約束を守る気はあるようだった。

 それじゃあさっそくと、加須美はサエたちから借りた筆記具で夫へ宛てた手紙を書き上げた。あれもこれもと書き加えていくうちに、紙の枚数はあっという間に十枚を超えた。

 封筒に入れて篁に手渡す。

「あ、切手代」

 加須美ははっと気づいて、手の中の六文銭をじっと見た。

 三途の川を渡るために家族が持たせてくれた六文銭。葬儀で棺の中に入れるのはたしか紙に印刷しただけの六文銭もどきのはずだが、加須美の手の中にはしっかりと六枚の銅銭があった。

 一度顔を上げ二人を見たが、すぐに視線は手の平の六文銭へと戻る。

 サエはその手をとって、しっかりと握らせた。

「いいよ。それは大事にとっておいて」

「でも……」

「大丈夫! 切手代くらいこっちでなんとかするから!」

 サエが得意げに答えると、篁がフンと鼻を鳴らした。

「なんとかするのは俺でしょ」

「いいじゃない、切手代くらい! 篁さんって意外とケチなのね」

「金額の問題じゃなくて――」

「私たちからの餞ってことで。ね、いいでしょ?」

 サエはそう言って篁を黙らせた。

 加須美の手から取りあげられた封筒は、サエの手を経由して篁へと渡される。

 篁が加須美の方に視線を送った。

「こんな餞で、悪いね」

 皮肉っぽい口調ではあったが、封筒を丁寧に鞄にしまった様を見て、加須美は「これ以上ない餞よ」と微笑んだ。




 そうして本日何人目かの客は、何も食べずに三途の川の方へと進んでいった。

「えー。本当にこれでよかったの?」

 サエが渋い顔をする。

「あの調子で居座られたら困るでしょ?」

「それはどうだけど……」

 サエは壁に貼られた短冊に目をやった。

 真っ白のままの短冊が少し寂しそうに見えた。

「どんなものが食べられるか、楽しみだったんだけどなあ」

「どうせすぐに次のお客さんが来るんだから、そんなに落ち込まなくていいんじゃないの。……ほら、噂をすれば――」

 入り口の引き戸がガタッと鳴った。

 立て付けの悪いガラス戸に手間取っているようだった。

「はいはい、今開けますよー」

 客を迎えるためのとびっきりの笑顔で引き戸に手をかけたサエだったが、その隙間からのぞいた顔にぎょっとした。

 照れくさそうに笑う加須美がそこに立っていたのだ。




     ***


 篁に手紙を託し三途の川へと向かったはずの加須美が食堂に戻ってきた。

 事情を尋ねると不思議なことを言う。

「いくら歩いても、三途の川にたどり着かないの」

 困ったような表情ではあったが、声色に含まれていたのは、どちらかといえば困惑というよりは好奇心のようだった。

「だって、狐につままれたみたいなんだもの」

 大河はたしかに見えているのに、いくら歩いてもその距離は縮まらず。不思議に思い首を傾げると、視界の端にうっすら食堂の影が見えたという。

「だいぶ離れたと思ったのに、本当に不思議ねえ」

 もう一度首を傾げて、加須美はまるで他人事のように言った。

 サエと篁は顔を見合わせ、そして揃って壁に貼ってある短冊を見た。

「アレだよね?」

「あれだろうね」

 もう一度視線を合わせて、うんうんと頷いた。

 一足遅れて加須美がその動きを追う。

「さっきのお話よね。『ご飯を食べて、問題を解決!』っていう」

 サエの仕草を真似て言う。

 そうしてから腑に落ちないといった様子で眉根を寄せた。

「問題は解決できなかったということかしら」

 夫への伝言を残すことができたのだから、川を渡れない理由はなくなったはずだ。

 しかし加須美はここにいる。

 実際に夫に渡してからでなければ問題解決とならないのだろうかとか、そもそも篁が加須美を騙そうとしているのではないかとか、様々な憶測が飛び交ったが、ではどうするかという話になると三人の意見は一致した。

「やっぱり、ここは『三途の川のホトリ食堂』だから料理で解決しなくちゃダメってことじゃないかなあ?」

「そういうことなのかしらねえ」

「考えても仕方ないから、とりあえやってみればいいんじゃない?」

 篁が手にした書類をひらひらとさせる。

 そうね、と加須美がため息をこぼした。

 そうだよ、と続いたサエは手にしていたお盆で口もとを隠した。喜ぶべきではないとわかっていても、加須美の思い出の料理を食べられるのだと思うと顔が緩むのをおさえることはできなかった。

「それじゃあ、さっそく加須美さんの思い出を覗かせてね」

 サエは篁が用意した書類を加須美の前に差し出した。

 言われるまま、加須美は一番下の空白にさらさらと自分の名前を記す。やわらかな筆致。

こんなステキな文字がどんな料理へと変わるのかと期待が膨らむ。

 篁がさっと書類を取りあげた。

 その手から逃れるように、加須美の書いた文字だけがふうわりと宙に残った。

 揺れながら、しかし迷うことなく短冊を目指し進む。ふっと息を吹きかければどこかに飛んでいきそうな細く繊細な字で書かれた加須美の名は、途中でほぐれて一本一本に分かれるとなおさら頼りなく、サエや加須美を不安にさせた。

 二人はじっと、線の行方を目で追った。

 一本目の線が短冊に触れると、サエはほっと胸をなで下ろした。

 一拍おいて、加須美がわあっと声を上げた。

 自分の書いた文字が短冊の表面で八つのメニューへと変わっていく様を、加須美は興奮気味に見守っていた。

「これが『思い出を覗く』ということなの?」

 加須美は八枚の短冊を順に眺めた。

 懐かしそうに、愛おしそうに。苦笑いを交えたり、ときには首を傾げたり。くるくる表情を変えながら視線を移し、最後の一枚を確認すると目をぱちくりとさせた。

「この中から、私が選んでいいのかしら」

 サエはえへへと取り繕うように笑ってから、そっと右手を伸ばした。

「ごめんなさい。何を作るかはもう決まっているの」

 指先が一枚の短冊に触れる。

「これが、私にはキラキラ輝いて見えるんだ」

「キラキラと? 私には、みんな同じに見えるわ」

「ちゃんと輝いて、加須美さんのための特別メニューを教えてくれてるんだよ!」

 そう言ってサエが選んだのは『炒飯』という短冊。

 これこそが、加須美が三途の川を渡るために必要なメニューなのだと告げた。




 こうするとなんでも作れるの。

 そう言ってサエが『炒飯』という文字を飲み込んだ。

 短冊から文字を剥ぎ取りそれを口にするという行為はそれなりに衝撃的なものであったはずなのに、加須美の反応はごくわずか。

「あらまあ」

 と一言こぼしただけだった。

 というのも、彼女の興味は炒飯が選ばれた理由に向いていたのだ。

「どうしてかしらねえ。残ったものの方が魅力的に見えるんだけど……」

 右に左に首を傾げては、腕組みをしてうーんと唸る。

 大好物や得意料理が並ぶ中、炒飯が選ばれたことに納得がいかないようだった

「もしかして、嫌いな食べ物だった?」

 心配のあまりサエが問う。

「嫌いというわけではないのだけれど……。ほら、パラパラしてるでしょ」

 それが苦手なのだと言うと篁が呆れて声を上げた。

「パラパラしてるから美味しいんでしょ」

「でもどうしてもパラパラが苦手なんだもの。食べさせてくれるって言うのなら、隣りのそれ、マカロニグラタンの方が嬉しいのに。ほんと、どうしてかしらねえ」

 頬に手を当て考え込むが、サエが厨房に並べた材料を目にして表情を変えた。

「あら、やだ。そういうことね」

 フフと照れくさそうに笑う。

 サエが選んだ『炒飯』は、加須美があまり得意ではないと言った一般的な炒飯とは少々異なるものだった。

「材料でわかったの?」

 サエは不思議そうに調理台を眺めた。

 一般的な炒飯の材料というものを篁に教わりながら、ひとつひとつ答え合わせをしていく。

 卵とご飯はもちろんある。

 長ネギではなく玉葱というのも、まあ許容範囲らしい。

 しかし、そのまわりにずらりと並ぶ品々は篁の解説には現れなかったものばかりだ。

「鶏肉、にんじん、しめじとニンニクの芽。ショウガ、ニンニクはあったかも? あとは……調味料?」

 塩、コショウ、醤油という基本的なものに加え、いくつかの瓶が置かれていた。

「そのときどきで違うらしいのよ。多いのはオイスターソースと焼き肉のタレ、それと豆板醤かしらね。他にも私の料理ではまず使わない珍しいスパイスとか調味料とかを入れたりするのよ」

 加須美が瓶をひとつひとつ確認する。

「シンプルだから、これは一回目の炒飯かしら」

「シンプル? これで?」

 思わず篁が声を上げた。しかしもう一つ気にするべき事柄に気がついたようで、彼女の言葉をなぞる。

「一回目の炒飯というのは、どういうこと?」

「ああ、それは、」

 言いながら加須美が手に取ったのは、カウンターに置いてあったペンとメモ帳。そこに何かを書き付け、サエたちに見せた。

「主夫デー?」

 サエが読み上げると、加須美は一段と優しい笑顔を見せた。

「そう。これは一回目の主夫デーのときに夫が作ってくれた炒飯なの」




 加須美の夫は、今の時代では敬遠されがちな男だった。

 朝早くから夜遅くまで仕事をして、家のことは妻に任せっきり。家庭をないがしろにするわけではないのだけれど、家事はおろか、自分の身の回りのことさえも加須美がいなければままならないという男だった。

 うちには娘の他に大きな子どもがいるのよ、などとよく冗談を言ったものだ。

 そんな夫が、定年退職を機に変わった。

「よし。今度から、週に一度は『主夫デー』を設けるぞ。家のことは俺が全部やるから、お前はゆっくり休めばいいさ」

 アルバイト生活になって時間に余裕ができたことがきっかけだった。

 週に三日ある休日のうち、まるまる一日が主夫デーとなる。

 その日一日、夫が家事を担うという計画ではあったが、では夫一人で何ができるかというと思い浮かぶものはなかった。

「二人でゆっくり過ごせるんだもの、それだけで満足よ」

 などと加須美が言っても、

「いやいや、それじゃあ『主夫デー』とはならないじゃないか」

 と譲らない。

 せめて食事の支度は俺がやるよと言うが、それも夫が思い描いたようにはいかなかった。

 朝は、

「あら、うっかり」

 と、早起きした加須美がさっと用意してしまうし、昼食は買い物ついでに外で食べたり弁当を買ったりということが多かった。

 夕餉の支度が唯一『主夫デー』らしい仕事ということになる。つまり『主夫デー』というのは、週に一度の食事当番ということになった。

 記念すべき第一回目の主夫デーで自信たっぷりに作ったのが、この炒飯だった。




「一人暮らしをしていた頃に唯一作れたのが炒飯だったらしいの。卵とネギとチャーシューだけの、パラパラな炒飯を作っていたみたいなんだけど」

 栄養バランスを考えたのち、品数を増やすのではなく具材を増やす方向へと進んだそうだ。

 味も良くボリュームもあるということで仲間内では夫の炒飯は好評だったという。

「そういうわけだから、主夫デーって言ったら最初の頃はいつも炒飯だったわ。回が進むにつれレシピ本を見ながらだけどいろんなものを作れるようになったから、そういえばしばらく炒飯は作っていなかったわね。最後に食べたのはいつだったかしら」

「苦手なのに、大変だったね」

 篁が同情の色を見せる。

 そうね、と一度は言葉を合わせた加須美だったが、すぐに首を横に振った。

「でもこれが意外と、パラパラなんだけどしっとりしていて、濃厚なのにしつこくなくて、不思議なことにたまに無性に食べたくなるのよね」

 ぱあっと明るく、嬉しそうな顔つきで――そしてどこか不服そうな顔をして言った。なんだか悔しいのよねなどと茶目っ気たっぷりに続けるものだから、なんだかサエまで笑顔になってくる。

 そして、口もとが緩んだついでによだれがこぼれそうになる。

「聞いてるだけでお腹が空いてきたよ! もう! 話の続きは料理をしながら聞くね!」

 まずは下ごしらえからと食材を手に取った。

「にんじんは小さなサイコロ、ニンニクの芽は一センチくらいかな? しめじは小房に分けて、ショウガとニンニク、それから玉葱は粗みじん!」

 ざくっざくっと、次から次へ包丁を入れていく。それは手際が良いというよりは、大胆で思い切りがいいという具合。

 続けて鶏肉を手にするが、

「三センチ角くらいって、炒飯の具にするには大きくない?」

 切った本人が驚くほどの存在感。

 あっという間に材料を切り終えると、篁が驚いたように言った。

「あんたが言うほど、できない人じゃないみたいだけど」

 加須美は最初は篁の言葉の意味を掴みきれず、きょとんと目を丸くしただけだった。しかしサエの動きが加須美の思い出の中にある夫の姿を元にしたものだと知ると、篁の言葉に合点がいったようだ。なるほどと言い愛おしそうに眺めていたが、やがて苦笑をもらした。

「調理自体ははじめからそこそこできたのよ。問題はね――」

 言いながらすくっと席を立った加須美は、 厨房に立ち入りサエの隣りに立った。

「こうなのよ」

 呆れたように視線を落とした先には、荒れたシンク。

 使い終えた包丁やまな板、野菜のくずに、鶏肉が入っていたプラスチックのトレイなどが雑然と放り込まれていた。

「あららら。これは、ひどい」

 調理していたサエ自身も、シンクの荒れっぷりに目を向けて肩を落とす。

「あなたの力というのはすごいのね。本当にあの人が料理してるみたい」

 言いながら、加須美は腕まくりをした。

 サエの隣りに立ち手際良くシンクの中を片付け始める。

「あの人の料理というのは、それはもう本当にひどかったのよ。どこに何があるかまったくわからないから、ことあるごとに大きな声で私を呼ぶの。その上この有様でしょ? あちこち散らかすにいいだけ散らかして。それなのに手伝おうとすると『いいから任せとけ』の一点張りで。それで、おとなしく従って台所から離れたら、『うわっ!』とか『あちゃー』とか聞こえてくるのよ。もう、ハラハラしちゃって心臓に悪かったわ」

 そのせいで病気になったのかしらなどと笑えない冗談を言う。

「だけど、どんなものができるのかしらってワクワクもしたの。だって私のする料理とはまったく違うんですもの」

 加須美は思い出してフフと笑った。

 そっと胸に手を当てる。

「良くも悪くも、あの人が料理をするというのはこんなにも私の心臓に負担をかけていたのね。サエちゃん、このあとはなるべくハラハラドキドキさせないようにお願いね」

 茶目っ気たっぷりに笑う加須美に対し、サエは任せておいてと自分の胸を叩いた。

 叩きはしたが――

「大丈夫、だよね」

 シンク内の惨状に視線を落とし力なく笑った。




     ***


 片付けができないわけじゃあない。

 炒飯という料理は、スピードが命だ。

 だから片付けは、あえて後回しにしているんだ。

 あえて後回しにしていると言っても、最初のうちは自分で片付けることはほとんどなかった。

 作り終えればあたたかいうちに食べろと急かし、食べてしまえば腹一杯でちょっとひと休みしてからなどと横になってしまう。

 シンクには、積み重ねられた洗い物。

 加須美はそういうものを長い時間置いておきたくない質だから、夫が横になっているうちにさっさと片付けてしまうのだ。

 そうすると必ず、

「任せとけって言ったのに」

という、不機嫌そうな一言が返ってくる。

「そもそもね、まな板とか包丁とかを綺麗に片付けてから炒める工程に入ればいいだけの話だと思うのよねえ」

 どうしてそういう流れにならないのか心底不思議でならないといった様子だった。

 そう話している間にもテキパキと手は動き。

 シンクと調理台はすっきり綺麗に片付いた。

「ほら、この方がやりやすいでしょ?」

 散らかったせいで片隅に追いやられていた食材を、すっかり片付いた作業台に広げる。

 下ごしらえの済んだ野菜と鶏肉。オイスターソースやら焼き肉のタレやらに豆板醤を加えた特製ダレ。

 その横に溶き卵や白飯を並べようとしたところでサエに止められた。

「あのね、加須美さん。大丈夫だからあとは私に任せて!」

 自信たっぷりに言う姿が夫と重なった。

「……そう?」

 なかば強制的に厨房から追い出されて席に着く。あえて不満そうな視線を送ってみるが、サエは気づかぬふりで料理を続けた。

「それじゃあこれから炒めるよ! まずは鶏肉と野菜から!」

 サエが仕切り直しとばかりに元気な声を上げた。

 油をなじませたフライパンが熱くなりすぎないうちに、刻んだニンニクとショウガを放り込む。じゃっと水気がはじけた音はすぐにおとなしくなって、ぱちぱちと控え目な音に変わった。

 ふんわりと立ちのぼる、ニンニクとショウガの匂い。

 くんと鼻を鳴らしその匂いを嗅ぎ取ると、鶏肉、ニンニクの芽、玉葱、にんじんと、次々に入れて炒め合わせていく。野菜の青臭さや辛みに混じってあまい香りが上がってきたらサラッと塩、コショウ。

 じゃっ、じゃっ、じゃっ、とリズム良くフライパンを振る。

 あちこちに油がはねているのではないか。食材がちらばっているのではないか。そうだとしたら後片付けが大変になるわね、などと心配で心配で。カウンター越しに見えるサエの動きに、加須美はそわそわと落ち着かない。

 しかしその浮き足だったような感覚は、豪快な調理風景だけが原因ではなかった。

 コンロの前に立つ姿が、頼もしく見えれば見えるほど、加須美の胸はチクリと痛む。

「そんなに心配しなくても、大丈夫だよ」

 篁はそう声をかけてからお茶を啜った。加須美と目を合わせることはなく、湯呑みを置いたあとも何食わぬ顔で厨房のサエの様子を眺めるだけだった。

「何か言ったー?」

 炒める音に邪魔されて満足に聞き取れなかったようで、サエが大きな声で問いかける。

「なんでもないよ。楽しみだねって話をしてただけ」

 そうでしょと視線を送る篁に、加須美は戸惑いながらも「ええ」と笑顔を作ってみせた。

 声を聞いていただけのサエは不審に思うようなこともなく、

「私も楽しみだよ! どんな味になるんだろうね!」

 などと言いながら調理を続けた。

 鶏肉に火が通りふっくらとして見えたら、しめじと特製ダレを加えてもう一混ぜ。

 熱々のフライパンに熱せられタレの匂いが膨らむと、その匂いだけでぐうっと腹が鳴った。

 炒めた肉と野菜をいったんバットに上げて、フライパンの汚れをさっと拭き取る。

 いよいよ仕上げだ。

「あっという間にできあがるからね! 食べる準備をして待っててね!」

 そう告げたあと、サエは深く息を吸った。まるでこれから水に潜るのだというような深呼吸。

 大きなかけ声で気合いを入れて、熱した油の中に溶き卵を注ぎ込んだ。




 何かを考えるような隙はなかった。

 フライパンに注いだ溶き卵の縁がぶわっと固まった。黄色の花が咲いたようだった。

 と、その花を潰してしまうように中心に白飯を落とす。

 サエの言葉の通り、そこからはあっという間だった。

 はたから見ていると何をそんなに急ぐ必要があるのかと思えるほどに、せわしなく木べらを動かしフライパンを揺する。

「普通に、炒飯を作っているみたいだね」

 篁が感心した様子で言った。

「ん? 炒飯を作るって最初から言っていたでしょ」

 白飯と卵を混ぜながら、ほぐしながら、サエは声を張り上げた。

 細かく揺すっていたフライパンを、一度だけ大きく振った。

 高く舞ったご飯の粒が、パラパラと下りていく。

 あ、これは私の苦手な炒飯だ。

 加須美は反射的に表情をゆがめた。油をまとった米の匂いと、卵焼きに似たあまさが、鼻の先をかすめていく。

 鍋肌にまわした醤油が香ばしい匂いを漂わせても、チクチクと嫌な気配が胸を刺す。

 だけど知っている。

 バットによけてある食材をフライパンに戻せば、いつもの夫の味になる。

 パラパラだけどしっとりの、あの主夫デーの炒飯になる。

 加須美は咄嗟に天井を見上げた。

 瞳の表面にうっすら涙が張ったのを自覚して、どうしていいかわからなくなった。

 特製ダレの匂いがふわっと香って、間もなくできあがりだと知らせる。

 だけどまだ加須美は視線をもとに戻すことはできなかった。もとに戻したなら、フライパンを振るサエの姿を目にしたなら、きっとそこに夫の姿を重ねてしまうのだと思った。

 そうしたら、すべてがはっきりしてしまうような気がして、怖くなった。




     ***


「さあ、召し上がれ!」

 元気いっぱいにサエが炒飯を手渡した。

 受け取り、テーブルに置く。

 香りだけでもたまらなかったというのに、盛り付けた皿が我が家の皿とまったく同じものであったせいで、加須美はもう堪えられなくなった。

 ぽろりと、涙がひとしずく落ちた。

「どうしたの? 何か違った? 旦那さんの炒飯じゃなかった?」

 突然のことにサエがオロオロとうろたえる。

 加須美は首を横に振って涙を拭った。

「ちょっとだけね、寂しくなっちゃったのよ。でも大丈夫。これを食べたら、三途の川を渡れるんだものね」

 さっきサエがしたように、加須美も大きく息を吸った。

 威勢のよいかけ声の代わりに、

「いただきます」

 としっかり言って、一口目を口に入れた。

「どうかな?」

 口に入れたのとほぼ同時。せっかちに問いかけたのはサエではなかった。

 こちらを覗き込むようにして、感想を待つ夫の姿がそこにあった。

「これは……、私ったら」

 寂しさのあまり幻でも見ているのだろうかと、加須美は自分の頬をつねった。驚きと頬の痛みで、一口目はよく味がわからなかった。

 それでも夫はたっぷり期待して加須美の言葉を待っている。

「ああ、ええと」

 早く答えなければと、戸惑いながらも二口目に手をつけた。

 懐かしい味だった。

 しかし懐かしいと思うのと同時に、こんな味だったかしらと首を傾げた。

「なに? 美味しくなかったか?」

 夫が心配そうな顔を見せる。

「そうじゃないんだけど……」

 言いながら、加須美は「そうだ、こんな味だった」と思い出した。

 久しぶりの料理だったせいで、一回目の主夫デーの炒飯はたしかそれなりの味だった。二回目も三回目も、しょっぱかったり味が薄かったり安定しなくて、ご飯がべたっと固まっていたこともあった。

 感想を言うまでになんだかんだと説明のような言い訳のようなことを述べていた夫の様子を思い出し、自然と笑みがこぼれた。

「にぎやかな旦那さんだね」

「え?」

 サエの声が聞こえたことで加須美は慌てて立ち上がった。現実に引き戻されてしまったのだと思った。

 しかし夫の姿も、そのまわりにある我が家の風景もそのまま加須美の目の前にある。どうやらサエが景色に侵入してきたということらしかった。

「私は、夢を見ているのかしら」

 夫の幻を見ながら、現実のサエと話をしているという不思議な感覚にまだ馴染めずにいた。

「これはね、旦那さんの炒飯が加須美さんに見せている景色なの」

 三途の川のホトリ食堂で食べられるその客だけの特別メニューは、料理に関係する思い出の景色を見せてくれるのだとサエは続けた。

 そしてそれは、三途の川を渡るために必要な景色なのだと言った。

「この景色が……?」

 加須美は目を大きく見開いて、思い出を凝視した。

 夫はスプーンを持つ手を止めることなく、次から次へと炒飯を口に運んでいる。

 不意に顔を上げるとそのたびに、

「悪くないだろ?」

 と『美味しい』の一言をねだった。

 過去の自分と話しているとわかってはいても、何か言わなければいけない気がして、加須美はもう一口二口と続けた。

 口の中に押し込んだ米粒は、特製ダレのおかげでしっとりと舌になじんだ。その脇で炒飯の具にしては大きめの鶏肉がぷりっとした気持ちいい食べ心地を連れてくる。

 続いてしめじが歯に触れる。しんなりしすぎず、ほどよい火の入り方。軽快な歯触りに爽やかさえ感じる。そこへニンニクの芽の強い芳香が混じった。たったひと噛みだったというのに、口の中はニンニクの芽の風味でいっぱいになった。

 そこでふと気づく。

 炒めているときは、細かく刻んだニンニクとショウガの匂いが強烈でどんな味になるかと心配だったのに、ここに至るまで悪目立ちしている様子はない。程よいアクセントに思える程度の存在感で、それぞれの素材の影にうまく潜んでいた。

 お米と、鶏肉と、しめじとニンニクの芽。玉葱とにんじんは甘みもさることながら、コリッとシャキッと野菜らしい食感が好印象だ。

 自己主張の激しい面々が、口の中でうまく混ざるのはやはり特製ダレのおかげだろう。馴染みのある焼き肉のタレの風味が鼻に抜けると、なんとなくホッとした。

 しかしオイスターソースを強く感じる、あとに残る濃厚なうま味は年をとった味覚には少しもったりと重く、スプーンの動きを鈍くさせた。

「駄目だった?」

「そうねえ……」

 焦らして、感想はもう一口食べてから。

 濃いめの味付けの中、豆板醤の辛みがピリッと舌に届いた。その刺激が、鶏肉はどんな味だったかしらなんて物忘れをさせるから、ついもう一口食べてみたくなる。それがなかったら完食できなかったかもと、心の中で苦笑いした。

 だけど加須美は、嬉しそうに笑って

「おいしいわ」

 と伝えた。

 一回目の主夫デーのその時も、まったく同じように言っただろう。

 その証拠に、目の前で最後の一粒をぺろりと舐めた夫は、安心した顔を隠して、

「ほらな。意外とできるもんだろ?」

 などと得意げに言ってみせた。

 散らかった台所はそっちのけでふてぶてしく笑った。

 そうなのだ。

 任せてみれば意外とできたのだ。

 その証拠に、二回目の主夫デーはもっと手際が良くなったし炒飯も美味しくなった。

 三回目には「あれはどこ?」と呼ばれる回数が減った。四回、五回と回を重ねるごとに、シンクの荒れ方はましになったし、後片付けは楽になった。レパートリーも増えて炒飯の出番はめっきり少なくなった。料理にかかる時間が少なくなれば、他の家事にも手を出し始め――

「少しずつだけど、ちゃんとできるようになっていたわね」

 それは加須美がいなくなってからも続いていくのだろうと思った。

 ひとつずつでも、ちゃんとできるようになっていくのだろう。

「信じて、任せてみたら? 旦那さんだって、いろいろできるようになったんだもの。きっと加須美さんがいなくても大丈夫だよ!」

 だから安心して川を渡っていいんだとでも言いたかったのだろう。サエははじけるような笑顔で加須美の手をとった。

 しかし加須美は、サエの言葉に「そうね」と言いながらも、首を縦に振ることはできなかった。

 夫は一人でもきっと大丈夫なんだ。

 そのことはもちろん加須美を安心させた。

 だけど同じくらい、いやそれ以上に寂しくさせたのだ。

 その気持ちに気づいたら、足を止めた理由がはっきりした。

「私がこのお店に導かれたのはあなたのことが心配だったからじゃなかったのね。一人じゃ駄目なのは、私の方だったみたい」

 加須美はそう言って笑った。

 笑ったはずなのに鼻がツンと痛くなって、目には熱いものがこみ上げてきた。

 夫が何かひとつできるようになって自分の手間がひとつ少なくなれば、その分だけ加須美は寂しくなった。料理中の姿が頼もしく見えれば見えるほど、胸がきゅうっと苦しくなった。

『私がいなくちゃ駄目なんだから』

 そう言えることが、加須美にとっては歓びだった。そう言うことで自分の居場所はここにあるのだと胸を張ることができた。

 だというのに、

「俺だってやればできるんだよ。だからさ、お前もたまには友達やなんかと遊びに行ったりすりゃあいいんだよ。家のことは俺に任せてさ。なに、お前がいなくたってなんとかなるよ」

 思い出の中の夫は加須美の気持ちなど知る由もなく、あっけらかんとそんなことを言う。

「馬鹿ね。私がいなくてもなんとかなるなんて、……そんな寂しいこと言わないでよ」

 言い終える前に涙が一筋こぼれた。

 こらえようとしてみたが、最初の一滴が落ちてしまったらあとは抑えようがなかった。次から次へとあふれ出して、胸の奥に沈んでいた、加須美自身が気づきもしなかった感情まで道連れにする。

「私は、まだまだあなたの世話を焼いていたかったのよ。もっともっと頼りにしてほしかった。『ああ、やっぱりお前がいなくちゃ駄目だな』って、なんならお墓の前でだって――」

 そこまで言って、加須美はやめた。

 ぶんぶんと首を横に振って、その先の言葉を飲み込んだ。

「違うわね。そんなんじゃない。私のお墓の前であなたが言うのはそんなことじゃないわね」

 涙でぐちゃぐちゃになりながら加須美は何度も否定した。

 墓前で手を合わせる夫の姿を思い浮かべてみれば、自分が望んだ言葉ではしっくりこなかった。

 もっと夫が言いそうな言葉が浮かんで、その姿がありありと浮かんで、加須美は泣きながら笑った。

『意外とできるもんだろ?』

 得意げな顔をして言う姿が愛おしくて愛おしくて思わず顔が緩んでしまうのに、どうしても胸はぎゅっと苦しくて、加須美の涙が止まることはなかった。

 それでも加須美は首を振って自分に言い聞かせる。

「これでいいのよ。これで、いいのよ」

 そう言って、その場に泣き崩れた。




 どれくらい泣いたか。

 あまりに泣きすぎて、途中でなんだか滑稽に思えてしまえて、今度は笑いが止まらなくなってしまった。

「やあね。子離れするときにも同じようなことがあったはずなのにね」

 子どもが夫に変わっただけでしょうにと自分をたしなめてまた笑った。

 その涙と笑いの落差に、サエはただ戸惑うばかり。

 その横で、今さら現れた篁が呆れたように息を吐いた。

「ところでこれはどうする?」

 分厚い封筒を取り出して加須美に見せつけた。

 加須美は少し悩んでからぽんと手を打つ。

「あらためてお願いするわ」

 姿勢を正し、深々と頭を下げた。

「炒飯を食べて解決したんじゃないの?」

「ええ、まあそうなんだけれど、ほら、あれよ。ここで恩を売っておけば、しばらくは私の存在を有り難がってくれるでしょう?」

「まあ、たくましいことで。心配して損したよ」

「あら。心配してくれていたの? ありがとう」

 加須美は強引に篁の手をとって握手を交わす。抱擁を断られたところで、今度はと、サエの手をしっかり握った。

「サエちゃんも、ありがとう」

 感謝を込めて笑顔を見せた。

 しかしサエからは困惑した表情が返ってくる。

「私、何かするどころか加須美さんを悲しくさせることを言っちゃったのに」

 しょんぼりするサエに対し、加須美はいっそう口角を上げた。

「寂しくはなったけど、だけどおかげで自分の気持ちに気づくことができたわ。サエちゃんのおかげよ。ありがとう」

「そ、そう?」

 サエはまんざらでもないといった様子で加須美の手を握り返した。こちらはしっかりと抱擁を交わし、離れ際にはお互い、無邪気な笑顔で顔を合わせた。

「さて、もうひとりね」

 加須美は二人に背を向けて、思い出の中の夫と向き合った。

「あなた。最後にあなたの特製炒飯を食べられて、私、本当に幸せでした。ありがとう」

 炒飯が苦手なことは最後まで言えなかったけれどと笑う。

 そのとき、不意に夫と目が合ったような気がした。

 実際にはそんなことは起きるはずがないのだが、加須美は確かに目が合ったように感じた。そう感じるほどに、夫はまっすぐに加須美の方を見つめていた。

 そして言うのだ。

「家のことをもっとできるようになるからさ。だからお前も、たまにはゆっくり休みなさいよ」

 ウンと、自身の言葉に頷いてから缶ビールに手をのばす。しかし中身はすでに空だったようで、気まずそうに頭をかいた。

「あなたったら。せっかく泣き止んだ人に、そんなこと言う?」

 加須美は笑った。

 嬉しさと寂しさと悲しみとが一緒にあふれてきてどうしていいかわからなくなった。だけど、夫の照れ笑いした顔がすべての感情をひとつにまとめてくれる。

 愛おしいと思った。

 その一言につながっていると思えば、どんな感情も怖くはなかった。寂しくてもかなしくても、もう平気だった。

「あなた、ありがとう。お言葉に甘えて、休ませてもらいますね」

 加須美は夫に向けて両手を伸ばした。

「家のこと、任せましたからね。しっかりできるようになるまでこっちに来ちゃ駄目よ。大丈夫。私もあなたもきっと大丈夫よ」

 けっして触れることのできない夫の手に自分の手を重ね、加須美はもう一度「大丈夫」と微笑んだ。




     ***


「なんだか、モヤモヤする……」

 加須美が笑顔で去ったあと。炒飯の皿を片付けながら、サエは口を尖らせた。

 三途の川のホトリ食堂で料理を食べれば、みんな元気いっぱいに川を渡れるようになるものだと思っていたのに。

「加須美さん、笑ってはいたけど、やっぱり寂しそうだった」

「死ぬっていうことはそういうものだよ」

 篁がさらっと言った。

「でも……」

 サエは河原の向こうを見つめた。

 人々がやってきて、人々が去って行く河原をまっすぐに見つめて、きゅっと唇を噛んだ。

「あとは本人が頑張るしかないでしょ。サエちゃんはやることをやったんだから、もっと胸を張ってていいと思うよ」

 書類の束を整理しながら篁が言った。

 その言葉を聞いてサエは苦虫を噛みつぶしたような顔を見せた。

「どうしたのさ」

「なんか、篁さんがいい人っぽくて気持ち悪いよー」

「へえ。そういうことを言うんだ。もう手伝うのやめちゃおうかな。ほら、信じて任せることも大事みたいだし」

「えー! それとこれとは話が別でしょ! だって篁さんがいないと思い出を覗くこともできないんだよ!」

「そうなると、どうなるんだろうね」

「……どうなるの?」

「試してみる?」

 篁は意地悪な顔でサエをからかう。

 サエは持っていた皿を投げつける勢いで、両腕をぐいと突き上げた。

「篁さんはまだまだいなくなっちゃダメだからね! さあ! 次のお客さんが来る前に片付け終わらせちゃうよ。篁さんはテーブルを拭いてね」

 そう言ってテーブル布巾を投げて渡した。

「しょうがないなあ。サエちゃん落ち込んでるみたいだし、今日だけだよ」

 篁はにたっと笑んで布巾を受け取った。

「貸しだからね。高くつくよ」

「もう! やっぱり篁さんは悪い人だ!」

 サエは使用済みのおしぼりを両手に抱え、篁めがけて投げつけた。いくつもいくつも投げつけて、残りわずかとなったとき。

「あ。お客さん?! ごめんなさい! えっと……ようこそ、三途の川のホトリ食堂へ!」

 サエは笑顔で取り繕い次の客を迎え入れた。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ