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【第五話 夕焼けの切り干しディナー】

【第五話 夕焼けの切り干しディナー】


 じゃりっと、河原の石を強く深く踏みしめる音が聞こえる。

 一歩一歩、しっかりとした足取りで、店に近づいてくる。

「お客さんかな」

 サエは笑顔を咲かせ厨房で背伸びをした。

「そんなことしたって遠くが見えるようになるわけでもなし。おとなしく待ってなさいな」

 カウンターの端の席をいつも通りに陣取って(たかむら)が茶化す。スーツを新調したという自慢話を流されて少し不機嫌そうだ。

 サエはその言葉を聞き流し、くりんとした大きな目で店の戸口を見つめた。

 じゃりっ、じゃりっ、と次第に音は大きくなるがまだ姿は見えず。

 サエは待ちきれなくなって厨房から飛び出した。

 三角巾やエプロンの紐の結び目は緩んでいないか。寝癖はついていないかと鏡を覗き込む。しかし元々がくるんとカールした髪質なので、どこかに寝癖があったとしても簡単には見つけることができなかった。

 難しい顔で自分自身と睨めっこをしていると、鏡越しに篁と目が合った。

 呆れた様子でこちらを見ている。

「そんなに身なりなんて気にするタイプだった?」

「だって、今日一人目のお客さんよ。何ごとも最初が肝心。気合いを入れてしっかりおもてなしするんだから!」

「何をおっしゃる。客ならすでにここにいるじゃない」

「え? どこに?」

 ふてぶてしく言い放った篁に対し、サエはわざとらしく辺りを見渡した。

「ほら、ここに」

 それでも懲りずに自身を指差すので、サエは不満をたっぷり詰め込んだような大きくて重苦しいため息を吐いた。

「篁さんはお客さんとしてカウントしてないから」

「えー。じゃあ何ものとしてカウントしているの?」

「それは……うーんと……」

「店の一員?」

「それは……なんか違う?」

 篁の言葉にサエは自信なさげに首を傾げた。

 客とも違うし、一緒に働く従業員というわけでもない。しかし篁がいなければこの食堂は成り立たないのだとすると、いったい彼をなんと表現するのが相応しいのか。

 サエは胸の辺りで腕を組み、むむむと唸り始めた。

 その様子を眺めていた篁が、つい先ほどのサエの仕草を真似るようにため息をこぼした。こちらはずいぶん嫌味ったらしいため息だ。

「ほんと、サエちゃんは横道に逸れちゃうと、自力で帰ってこれない子だよね」

 何のことかと問いかけると、篁は何も言わずに店の入り口を指差した。

「あ」

 サエは思わず声を上げる。

 口も目もまん丸にして入り口を注視した。

 足音はすぐ近くまでたどり着いていて、引き戸にはめ込まれたすりガラス越しにうっすらシルエットが見えていた。

 しかし店先で客の足は止まったようだ。

 いつ入ってきても良いようにと身構えているというのに、そこで何をすることがあるというのか、なかなか戸を引こうとしなかった。

 背中を丸め身を縮め、そろりそろりと身動きする人影。こちらに気づかれぬようにと行動しているつもりのようだが。

「うーん……」

 しばらく様子をうかがっていたが堪えきれなくなって、サエの方から戸を開けた。

「ようこそ! 三途の川のホトリ食堂へ!」

 大きな音と、大きな声。

 人影は後方に跳ねるように逃げた。

「わあっ! ……あれ? なんだ。女の子じゃないか。鬼でも出てくるものかと……女の子? こんなところに?」

 すりガラス越しに見えていた影の正体は、身長の割に『大きい』と感じさせる体格の男だった。

 鮮やかな色のマウンテンパーカーにハイカットの登山靴という格好は、険しい死出の旅路にはさぞ心強いものだろうに、熊に似た風格の中年の男は、今にも泣き出しそうな顔をしてそこに立っている。

 何が起きているか理解しないまま、男は笑顔を作って会釈した。

「ようこそ、三途のホトリ食堂へ!」

 サエが今一度声をかけると、男はサエの顔とその頭上にある暖簾の間で視線を往復させた。

「ここはあの世……だよね」

「残念ながらそうなの」

 サエが申し訳なさそうに返すと、男は慌てて両手を振った。

「ああ、違うんだ。自分が死んだというのはちゃんと理解してる。今の言葉は……」

「あの世なのにどうして食堂なんかがあるのかってことでしょ」

 店の奥から声がかかる。

 篁の言葉に男は「そうそう」と頷いた。頷いてから、他にも客がいるのかと驚きを見せた。

「あの世ってのは、何ともヘンテコなところだね。でも、ああ、そうか。やっぱり僕は死んだんだな」

 取り乱すこともなく、男は淡々としみじみと言った。




 どうして、自分が死んだことを自覚しているのかと問うと、

「僕は山にいたんだ」

 と、なんともチグハグな答えが返ってきた。

 男は山に登っていたらしい。

 何年ぶりかに行った趣味の登山で滑落事故に遭ったという。

 切り立った道。高度感はあるが足もとはしっかりしていた。

 そんなところで、何につまづいたのか。

 危ないと思ったところまでは思い出せる。

「いや、その先も頑張れば、なんとか……」

 顎に手を当て、一生懸命思い出そうとする。

「ムリに思い出さなくていいから! たぶん、その先を思い出すと、とっても痛い気がする」

 サエが青ざめた顔を見せる。

男は「そう?」と間の抜けた声を発した。

 しかしサエがあまりに大袈裟に怖がるのでいたずら心でも生まれたか。

「ええと、怪我の具合はこうで……意識はあったんだけど、ああで……」

 などとからかい始めた。

「それ以上言っちゃダメ!」

「いやいや、ここからがいいところなんだよ。それで僕の右足はあり得ない方向に――」

 話が過激になってきた頃合いで、篁がため息交じりに話の腰を折った。

「死んだら針の山やら険しい道を進むことになるのに。生きているうちから好き好んで苦しい思いをしに行くなんて。登山をする人の気が知れないよ」

 馬鹿にすると言うよりは、心底不思議でならないといった様子。

 自分の死に際について解説していた男は篁の発言でぴたりと止まった。

 空を仰ぎ少し考えてから、朗らかな顔で答える。

「死んでも登れる山があるのか」

 それで登山の格好をしているのかと、あらためて自分の全身を眺めた。

「ついていけないよ」

 篁が吐き捨てたセリフは彼の耳には届いていないようだった。

「そういえば、死んだら白装束にこういう三角のをつけると思ってたんだけど」

 男は白髪交じりの前髪の辺りで、三角形を作ってみせた。

天冠(てんかん)経帷子(きょうかたびら)ね」

「物知りだね」

「この前来たお坊さんに教えてもらったの」

 サエは嬉しそうに言う。

「ここにいるといろんなものを食べられるし、いろんな人のお話を聞けるから、とっても楽しいの」

「いろんなものを食べられるって、君はお店の人だろ?」

「そうよ!」

「じゃあ、食べさせる側じゃないか」

 サエは目を瞬かせちょっとの間考える。

 やがて、腕組みをして天上を見上げた。

「同じようなことを前にも言われたような……」

 サエの様子に笑みをこぼした男。

 興味深そうにちらちらと店の中をの盗み見る。

 そうしてからなんとなしに腹をさすってみたが、しっくりこなくて首を傾げた。

「お腹、空いてはいないんだけど、寄っていってもいいかな? あの世の食堂でどんなものが食べられるのかも気になるし」

「ええ、もちろん!」

 サエは大喜びで彼の手をとった。

「お金とかないけど大丈夫?」

「あなたのお話を聞かせてくれればそれでいいよ。ここはそういうところだから。あ、でも怖い話はダメよ!」

「善処します」

「善処じゃダメ! 約束ね!」

 そう言って強引に指切りをするサエ。

 ゆびきった!

 高らかに歌い上げると、男を食堂内へと招き入れた。




     ***


 広い席を勧めたのに、男は

「こっちの方が落ち着くから」

とカウンター席に腰掛けた。

 不安そうにキョロキョロと店内を見回す。

 三途の川の畔という場所にあるこの店は、彼の目にはどう映っただろう。

 構えはいたって普通の、どこにでもあるような大衆食堂といった風情だ。

 椅子が五つ並んだL字のカウンターと、狭い感覚で詰め込まれた三卓のテーブル席。こぢんまりとした店のあちこちに、色褪せたポスターや注意書きの貼り紙が貼られている。

 厨房の奥からは、調理をしている気配はないのになんとも美味しそうなにおいが漂ってくる。

 肉が焼ける匂いのような気もするし、味わい深い出汁の香りにも感じる。ちょっと鼻につくような揚げ油の臭さ、ふっくらと炊き上がったごはんのふくよかな芳香。

 男が『食堂のにおい』を嗅ぎ取ろうとしているのに気づいてサエは一瞬躊躇した。

「こっちのにおいで邪魔しちゃいそうね」

 申し訳なさそうに言いながらそっとお茶を差し出す。若葉色の湯呑みからのぼる湯気と香りが、衣類に染み込みそうなほどに立ち込めていた食べ物の気配を掻き消してしまう。

 男は「構わないよ」と湯呑みを受け取ると、新しく仲間入りした香りを味わうようにそっと鼻を近づけた。自然と表情が和らぐ。

「三途の川の畔にある食堂、か。僕の知っている『あの世』とはだいぶ違うな」

「ほとんどの人はここに気づかずに川を渡るから。だからあっちの人にはあまり知られてないの」

「へえ、それじゃあ、見つけた僕はラッキーだということかな」

「ラッキーでありラッキーでないような……」

 むむむと唸りながら考え込んでしまったサエ。

見かねた篁が億劫そうに口を開いた。

「ここにきたということは、すんなり進めなかったということだからね」

「それはどういうことだい?」

「それはね!」

 役目を奪われまいとサエはとりあえず声を上げる。

 次に続く言葉をなんとか見つけて、元気いっぱいに話し始めた。




 死後の行き先を決めるため、十人の王の審判を受けながら進む死出の旅のその途中。一人目の王である泰広王(しんこうおう)からのお沙汰を受けて三途の川を渡るわけだが、その直前になって足を止めてしまう者がまれにある。

 己の『死』を受け入れられず、取り乱し、今ならまだ引き返すことができると信じて、川を渡ることを拒む人間はもちろん数えきれぬほどにいるのだが。

 だがそのほとんどは、諦めたのち「えいや!」と川に足を踏み入れるか、泣き叫び許しを請いながら獄卒に引きずられることとなる。

 どちらの道も辿らなかった、ほんのひと握りが、三途の川の畔、賽の河原にたどり着き、後ろ髪を引かれるようにぴたりと足を止めてしまうのだ。

「それで食べ物の匂いにつられてこの店にたどり着くってわけさ」




 説明役はいつの間にかサエから篁へと替わっていた。

 サエ自身は完璧に説明しているつもりだったが、篁からの補足や訂正があれやこれやと飛んできた。

 言葉を重ねるごとに、サエよりも篁の言葉数の方が多くなって、しまいには、サエの役目は相づちばかりになっていた。

 その役目も男に取って代わられると、いよいよサエにできることはなくなって、二人の視線も向かぬところでぷうっと頬を膨らますしかなかった。

「サエちゃん、可愛い顔が台無しだよ」

 にやりと口の端を上げながら指摘する篁。

 紙風船がしぼむようにサエの頬はぺたんと小さくなったが、代わりに小さな口を尖らせた。

「ちょっといいかな?」

 ふてくされたサエの態度に、男は遠慮気味に声を上げる。顔のわきに控え目に手を挙げ発言の許可を求めた。

「僕はどうしてすんなり進めなかったんだろうか?」

「それは、」

 言いかけた篁がサエの視線に気づいて口を閉じた。

 サエはコホンとひとつ咳払いをして、得意げな顔を見せる。ようやく自分に出番が回ってきたと、目をキラキラ輝かせた。

「それはね、不安や不満、困っていることがあるからよ」

 満を持してで、この答え。

 サエの言葉に男はもちろん納得がいかない様子だ。

「他の人はどんどん進んでいくのに? 僕には、他の人にはないどうしようもないくらいの不安や不満、困っていることがあると言うのかい?」

「その辺の基準は私にもよくわからないんだけど……でも! きっと何かあるはずよ!」

 サエはそう言って、今までに来た客の話をし始めた。その中に『心残り』というフレーズが現れると、男は「ああ」とため息にも似た声を漏らした。

「『心残り』ならある。行きたい場所が――見たい景色があったんだ。死んでいなければ見られた山の景色さ」

 男の声が弾んだ。

「上級者向けの難所を越えたところにある山小屋なんだけどね。山々を見渡すテラスが有名なんだ。そこからの眺めがとにかく絶景らしくて、『人生が変わるくらいの素晴らしい景色』と言われていてね。どうしてもこの目で見てみたかったんだけど……」

 難所にたどり着く前の、なんでもない道で足を滑らせ死んでしまったという。

「そんなにステキな景色なの?」

 目を輝かせるサエに、

「そうみたいだよ」

 男も思わず笑みをこぼす。

 山仲間に強く勧められたんだけどね、などとひどく残念がると、途中で何かに気づいたようで手をぽんと打った。

「もしかして、そこに連れて行ってくれるのかい?」

 期待たっぷりの視線に、サエは難しい顔を見せた。

「こういう場合は、どうなるんだろ?」

 腕組みをして、右へ左へと頭を傾ける。

「どうもならないでしょ。ここでどうにかできるのは『思い出』だけなんだから」

 篁は呆れた様子で首を横に振った。

「実際に見ていない景色は『思い出』にはならないでしょ」

「そうだけど……」

 言いながら、サエは不服そうな顔で腕を組んだまま。

 一人取り残された男の顔に不満の色が滲む。

「いったい、何のことだい」

 眉をひそめて男が言った。

「あなたの思い出の料理を作ったら、あなたが見たかった景色を見せてあげられるかもと思ったんだけど、やっぱりダメみたいで」

 サエがごめんなさいと頭を下げる。

「掻い摘まんで言うと、この店じゃ生前できなかったことをどうにかして体験するとか、そういうことはできないってことさ」

「それじゃあ、僕の心残りは解消されないってこと?」

「そうじゃない。あんたの言う山の景色とやらが心残りの正体である可能性は限りなく低いってことさ」

 あまりにもさらっと何でもないことのように言うので、男も反応するのが少し遅れた。

 呼吸にしてはやや長すぎる間をとってから、がっくりと肩を落とす。

「そんなあ。じゃあいったい何が心残りだって言うんだ。他にはまったく思いつかないよ。…………いや、他となるとむしろ範囲が広すぎて、あれもこれもと思えてくるじゃないか」

 頭を抱え、あれじゃないこれじゃないと呟く男。

「大丈夫! 私が解決してみせるから!」

 元気いっぱいに言ってみても、男の反応は冷ややかなものだった。

「君が? どうやって?」

 じとっと全身を睨め回す目は、信頼という言葉にはほど遠い。

 それでもサエは臆せず続けた。

「ご飯を食べるの! あなただけの特別メニューを作れば、それで全部解決しちゃうのよ」

 サエはうっとりとした表情で宙を見上げた。男の視線などまったく気にせず「今日はどんな料理かなあ」などとつい口ずさんでしまう。

「僕の理解力の問題なんだろうか」

 困り果てた男はまたしても篁にすがる。

 しかしそれを遮ってサエが男の手をがしとつかんだ。

「作ってみればわかるよ! あなただけの特別メニューが、先に進む力をくれるんだから」

 サエはまっすぐな視線をぶつけた。

「いや、でも……僕の心残りは? ご飯とどう関係するのかもう少し詳しく――」

 男は少し怯んだようで、手を握られたまま上体を仰け反らせる。逃げようとした体を押し戻すように、篁が男の背中をポンポンと叩いた。

「難しく考えずに試してみればいいじゃない。次の審判までは時間もあるし」

「いや、でも、」

 反論を遮って、篁は男の顔の前に一枚の書類を垂らした。男はそれを受け取り適切な距離へと遠ざける。間もなくして書かれている文字にピントがしっかり合ったようで、左から右、上から下へとせわしなく視線が動いた。

 書類の一番下まで来たところで、篁が男の肩に手を置いた。

「おとなしく言うことを聞いていればいいんだよ。そうしたらあとはサエちゃんがなんとかしてくれるから」

 そう言って口もとに笑みをのせる。

 男の目には篁が、強引に何かを売りつける悪徳業者にでも見えただろう。

 だとすると、それに続いて声を張り上げたサエの姿はどう映っただろうか。

「任せて! 私が絶対なんとかしてみせるから!」

 ふんと鼻息を荒くさせる。

 良い者か悪者か。判断はつかないが気概だけは伝わったようだ。

 サエの迫力と篁の態度に気圧されて、男はただ「わかった」と言うしかなかった。




 書類を熱心に読み込んでから、男は頭を抱えた。

「理解はしたけど……もちろん同意もするけど、なんともにわかには信じられないシステムだね。人生の未練が、食堂で食事するだけで解決できちゃうって言うんだから。いろいろと頭が追いつかないよ」

「そう? 美味しいものを食べて元気になるんだから、わかりやすいと思うけどなあ」

 サエが首を傾げる。

「言ったでしょ。ここでは難しく考えない方がいいって。あれくらいが丁度いいんだよ」

 そう言った篁の目はちらりとサエを見る。

 それに気がついてサエはただちに頬を膨らませた。

「とにかく、この店の仕組みについては俺たちに言っても仕方ないからね。文句があるなら十王へどうぞ。審判に影響するかもしれないけどね」

 いたずらっぽく言った篁の言葉に、男は慌てて(かぶり)を振った。

「文句だなんてとんでもない。君の言う通り深くは考えないことにするよ」

 言い終えぬうちにさらさらと署名する。

 大きく角張った文字で書かれた『鳴川(なるかわ)』という名前。丁寧に書かれた名前からは実直さがにじみ出ていた。

「それじゃあ、いいね?」

 篁がさっと書類を取り上げる。

 鳴川は「はい」と一言、かしこまって返事した。

 つられてサエも背筋をぴんと伸ばす。

 二人の準備が整ったのを見届けて、紙切れはぱちんと消えた。

 紙切れは消えてしまったが、書類のあった場所に、注視してようやく気がつくくらいの、細い細い糸のようなものが残っていた。

 それは鳴川自身が書いた署名の文字だった。お世辞にも美しいとは言えない角張った文字がゆらゆらと揺れている。

 波間に漂う船のように揺られていたかと思うと、大きくうねり、いつのまにか『名前』でも『文字』でもなくなっていた。

 ほつれて、ほどけて、複数の、一本一本の黒い線となりある場所を目指す。

 鳴川は驚きながらも、好奇心に後押しされて、自分が書いた文字の行き先を指差し追った。

 ある程度進んだところで、どこにたどり着くのかを察したようだ。短く「あっ」と声を上げた。視線の先には赤い色で縁取りされた白紙の短冊があった。

 鳴川の署名であった黒い線は、壁に貼られている短冊にぶつかり『文字』に戻った。

 いや。戻るというのは正しくない。

 黒い線は、八枚の短冊の上で八つの料理名へと生まれかわった。

 サエは短冊の前に立って、一枚一枚をじっくりと眺める。

 その横に並んだ鳴川が、サエを真似るように短冊を順に見た。

「どう? あなたの文字が教えてくれた、あなただけの思い出の料理だよ!」

 尋ねてみても反応はない。

 鳴川はぽかんと口を開けたまま、メニューを見上げていた。

「そうだよね。驚くよね。不思議でしょ? すごいでしょ! でもね、私がもらった力もすごいんだよ。とってもステキな力で、あなただけの一品を作るからね!」

 サエは得意げに言ってから一枚の短冊に向けて手をのばした。

 迷うことなく、たった一枚に指先がたどり着く。その一枚だけがサエの目にはキラキラと輝いて見えていたのだ。

 メニューの文字の表面にそっと指を置く。そのしなやかさとは裏腹に、文字の端をカリッと爪でつまみ上げると乱暴にめくり上げた。

 文字だけが剥がされたのを見て、鳴川の驚きはいっそう強くなった。

 そうでしょそうでしょと、サエは得意満面。 続く動作も、鳴川に見せつけるかのように大袈裟に動いてみせる。

 剥がした文字を指でつまみ、ゆっくりと舌にのせる。ゴクンと音を鳴らして飲み込む。しっかりと鳴川の視線が釘付けになっていることを確認してから、これ以上ない笑顔を披露した。

「私ね、こうするとなんでも作れちゃうんだ」

 決まった、と腰に手を当てエヘンと胸を張るサエ。篁のため息が聞こえた気がするが気にしない。

 しかしもうひとつのため息が聞こえたところで、サエは眉をひそめた。

 鳴川が肩を落としているではないか。

「え? なになに? まさかの、嫌いな食べ物だったとか? まったく身に覚えのない料理だったとか?」

 予想外の反応に取り乱す。

 鳴川は「いやいや」と笑顔を作って取り繕うが、実に申し訳なさそうにもう一度ため息をこぼした。

「今までのやりとりは何だったんだろうってさ」

「どういうこと?」

 混乱しているサエの代わりに篁が尋ねる。

 鳴川はどう答えようかと思案したあと、やはり作り笑いでこう答えた。

「僕の心残りは、やっぱり山の景色だったみたいだからさ」

 サエと篁はその言葉の意味がすぐには理解できず顔を見合わせる。

 その様子を見届けて、鳴川はさらに続けた。

「だって君が選んだそれは、『人生が変わるくらいの素晴らしい景色』を見ながら食べるはずだったメニューなんだもの」




     ***


 なんとなく、飲み込んだ文字が喉に引っかかっているような気がして、サエはゴホンと咳払いをした。

 ついでに空になった一枚の短冊に目をやる。

 つい先ほどまでそこに書かれていたのは、

『切り干し大根サラダと豚汁』

 鳴川が山で食べるはずだったメニューだ。

 思い出を覗いたのに、どうしてこんなことが起きたのか。

 よくよく話を聞いてみると、山に登るときの定番メニューなのだという。

「これに魚肉ソーセージとアルファ米のワカメご飯があれば、もうご馳走だね。たくさん歩いてくたくたになっていても、これを食べたら『明日も頑張ろう』って気持ちになるんだ。いや、ちがうな。山の上でこれを食べるんだって思うと力がわいてくる。鼻先にぶら下げたご褒美みたいなものかもしれないな」

 嬉しそうに話す鳴川。

 安上がりなご褒美だねなどと茶化しながら篁は頬杖をつく。

「そういうことなら、以前の登山が心残りに関係しているんじゃないの。というか、そう考える方が普通だよね」

 たしかに、とサエは篁のあとに続いた。

 しかし当の本人は首を傾げる。

「未練になるほど思い入れのある山行なんて、言われても思い浮かばないなあ」

 そう言われると、今度はそちらの意見にふらふらと引き寄せられるサエ。

「やっぱり心残りは『人生が変わるくらいの素晴らしい景色』なんだよ! 鳴川さんの願いに応えて私の力がパワーアップしたんだよ、きっと! ほら、その証拠に、」

 じゃーんと効果音をつけ加え、サエは調理台に材料を広げた。

 チャック付きのビニール袋に入った切り干し大根と、缶ではなくパウチタイプのツナフレーク。小さなパックに入った使い切りタイプのマヨネーズ。ピルケースに入った黒いつぶつぶは粗挽きのブラックペッパーだという。

 その横に、フリーズドライの豚汁がぽつんと置かれていた。

 切り干し大根サラダと、豚汁。

「『と』っていうのも初めてじゃない?」

「初めてだった?」

 篁は訝しがりながら残りの短冊を見た。

 いずれも、一枚につきひとつの料理。今までに来た客も同じだったとサエは断言する。

「というわけで。パワーアップしたサエさんが、鳴川さんの願いを叶えるべく張り切って料理しようと思います! よし、やるぞー!」

 サエはえいえいおーと両手を上げ気合いを入れた。

「それではこれから切り干し大根サラダを作ります! 最初の手順は…………袋に水を……入れるだけ、かな?」

 気合いを入れた割に、待ち受けていた作業の単純さに肩透かしを食らう。

 取り繕うように笑いながら、切り干し大根が入っている袋を開けた。

 ふわっと広がった独特なにおい。

「うわっ。この匂い苦手なんだよね」

 篁がハンカチで鼻と口を覆った。

「袋のチャックがしっかり閉まってなくて、ザックの中のものに切り干し大根のにおいが染みついちゃったことがあったなあ。着る物まで臭くなって、すれ違う人たちに白い目で見られたっけ」

 思い出して笑った鳴川も、自然と鼻をおさえていた。

 サエはあえて鼻を近づけてむむっと唸る。

「つんと辛いような、でもあまい感じもあるような? 私、そんなに嫌いじゃないよ」

 しかめっ面でしぼり出した感想は二人の賛同を得られなかった。

「ここに水を入れて戻すんだけど……こんなに少なくていいのって不安になる量しか入れません!」

 言いながら、ひたひたになる程度の水を袋に入れる。

「山では水が貴重だからね。それにそこで水を入れすぎると、あとで泣きを見るんだ」

 ハハハと情けなく笑う鳴川。

 その言葉の意味を尋ねたかったのに、匂いに耐えられなくなった篁がサエを急かす。

 サエは篁に向けてべえっと舌を出してから、保存袋のジッパーをキュッと閉じた。

 キッチンタイマーをセットする。

 待ち時間は二十分。

 その間、他にやるべきことは特にない。

「だったら早送りすればいいじゃない」

 篁が言った。

 鳴川は「そんなことができるの?」と興味深そうに食いつきながらも、渋い顔を見せた。

「でも僕は、ふつうに時間をかけて待ちたいかなあ。待っている間って、何か楽しくない?」

 言いながら、渋い顔はあっという間に笑顔へと変わっていた。

 鳴川にとって、切り干し大根を水で戻している間の時間は、何もない時間でありながら何かを得られる時間だと言うのだ。

 翌日の行程を考えたり、ただ景色を眺めたり。その中でふと何かに気づいたりすると、嬉しくてにやにや笑ってしまう。そう説明する鳴川の口もとがすっかり緩みきっているのを見れば、山の中での彼の様子が容易に想像できた。

 それならばそうしましょうと、サエはお茶を淹れ直す。自分もカウンター席に腰掛けて、二人の顔を順に見た。

 つまらなさそうにする篁と、期待を膨らませる鳴川。対照的な二人が同じタイミングで湯呑みに口をつけたのを見て、サエはなんだか嬉しくなった。

 一足遅れてお茶を口にする。

 ふうっと息を吐いたら、そこからは『何もない時間』の始まりだ。

 静まりかえった店内で、壁にかけた時計の秒針がチッ、チッ、と時を刻む。それとは少しずれたテンポでキッチンタイマーのデジタル表示の数字が形を変えていく。追っかけっこのようで楽しくなるのだけど、そう思えたのは最初の数分だけだった。

 沈黙に耐えられなくなったサエは、そわそわと二人の様子をうかがう。

 声をかけてよいものかと悩みながら、ちらりと鳴川の顔を覗いた。

「あれ?」

 思わず声を出してしまってから慌てて両手で口を覆った。

 しっかりと篁と目が合った。

 しかし、すぐ隣りに座る鳴川はぴくりとも動かない。

 サエの声など耳に入っていないようで、湯呑みに視線を落としたままだった。

 まさにその表情がサエに声を出させたのだ。

 楽しい時間だと言って笑顔を見せていたはずなのに、今、鳴川の顔つきは険しかった。

 下を向いているからそういうように見えたのかとも思ったが違う。眉も目尻も口もとも、悲しいのか寂しいのか、今にも泣き出しそうな角度になっていた。

 篁もその様子に気づいていたようだ。

「楽しいとそんな顔になるのかい?」

 意地悪な言い方で鳴川に声をかける。

 鳴川はすぐには反応できなかった。

 少しの間のあとに顔を上げ、不格好な笑顔を作る。

「今は楽しくなかったかな。ちょっとね、同僚に言われたことを思い出していたんだ」

 その言葉自身が鳴川の表情をいっそう暗くさせた。

 どんなことかとサエが遠慮気味に尋ねる。

 鳴川は、あまり深くとらえないでねと前置きしてからこう答えた。

「僕はね、かわいそうな人なんだそうだよ」

 まるで他人事のようにそう言って、鳴川は精一杯笑ってみせた。




 僕はいわゆる仕事人間だった。

 毎日毎日忙しく働いて。

 くたくたになって帰ってきて、まっすぐ返って家のことをして。

 ようやく一息ついて缶ビールをあける。なんとなくかけていたテレビにつっこんでみたり、目的もなくケータイをいじってみたり。

 そうしているうちにとろんと眠たくなってくるから、あとは布団にもぐり込む。

 朝抜け出たままの布団に入って、数時間後にはまた同じ一日を始める。

 そんなことを繰り返していた人生だった。

 そんな人生だったけど不満を感じることはなかったんだ。地味な仕事ではあるけれどやりがいを感じていたから、充実した毎日を送っていると思っていた。

 だけど、五十を過ぎて独り身で、汗だくで働いている割にたいして出世もしないような男に対する世間の目は冷たかった。

「鳴川さんは、かわいそうだね」

 と同僚の誰かが言った。僕よりずっと若い、同じ部署のやつだった。

 直接言ってきたわけではなくて、他の誰かと話しているのを耳にした。

 その場にいた誰もがその言葉に頷いていたようだった。

「ああいうの、今時流行んないよね。仕事なんて生活のためだって割り切らないと」

「家族が大事ですとか、休日はちゃんと遊んでますっていう方がカッコイイよね」

「あれ? あの人、山登りが趣味って言ってなかった?」

「いやいや。あれは趣味じゃなくてもはや修行だよ。重い荷物背負って何日も歩くらしいぜ」

 うえぇ、と悲鳴のような声が響いたあと、自然と失笑が漏れた。

「あれでめちゃくちゃ仕事ができるとかならまだ救われるんだろうけど……あの人、何が楽しくて生きてるんだろ。幸せとは縁のない、つまんねえ人生なんだろうな、きっと」

 同僚の誰かがそう言った。

誰もその言葉を否定しなかった。

 僕も否定しなかった。

 同意したわけではないけれど、否定はできなかった。

 そんな言葉を聞くのは初めてのことではなかったし、なんなら面と向かって言われたこともある。

 そういう時、僕はきまってえへへと笑った。「恥ずかしながら」なんておどけてみせた。だって、彼らの言うところの『楽しいこと』というものは僕の毎日には見当たらなかったから。

 どうして僕は何も持っていないのだろう。

 どうすれば持てるのだろう。

 彼らが持っているものをひとつでも手に入れれば、『かわいそう』ではなくなるんだろうか。そしてそれは僕にできるのだろうか。

 ふとした瞬間に、頭の中はそんなことでいっぱいになるけれど、どんなに考えたって答えらしきものに巡り会うことはなかった。

 そんなときに『人生が変わるくらいの素晴らしい景色』の話を耳にした。

「それを見たからってすぐに答えにたどりつけるとは思わなかったけどね。だけど、少しでも変わるきっかけがつかめるんじゃないかと期待したんだ」




 その結果がこれだよと、鳴川は実に投げやりに笑った。




     ***


 ぴぴぴぴと、キッチンタイマーの音が鳴り響いた。

 サエはその音を聞いて久しぶりに息を吸い込んだような気がした。息苦しさはなくなったが、胸はきゅうっと苦しいままだった。

「そんな顔しないでよ」

 かわいそうな人生だったらしいからちょうど良かったのかもしれないよなどと、とても笑えない冗談を言う。

「それよりさ、僕の願いを叶えてくれるんだろ? 楽しみにしているんだからさ」

 鳴川は優しい顔でサエを見た。

「も、もちろん! このサエさんに任せて!」

 サエは大きな声で答えて、自分の頬に手の平を当てた。ぐっと力を入れて、耳の方へと引き上げる。強引に笑顔へと表情を変えると「よし!」ともう一度声を張り上げた。

 期待してるよと投げられた声に、今度はしっかりと笑顔を返した。

「それじゃあ、続きにとりかかるよ!」

 勢いをつけて保存袋を開ける。

 封じ込めていた切り干し大根の匂いがふわっと溢れ出る。時間を置いての再会で匂いがより強く感じられたような気がした。

「しっかり戻ったみたいなので水気をしぼります」

「へえ。食堂にコッヘルがあるんだね。しかも僕が使っているのと同じやつだ」

 厨房の様子を覗き込んだ鳴川が声を上げた。

「ねー。びっくりするでしょ? 私もいつもびっくりするの。だって元々お店にあったものと入れ替わっちゃうんだもの。道具まで思い出のものになるときとならないときがあるんだけど、何がちがうんだろう?」

 コッヘルの上で切り干し大根の水気を絞りながら言う。

「それ、まさか使うの?」

 篁が怪訝な顔でコッヘルを指差す。

 大きめのマグカップのような形をした鍋の底に溜まった戻し汁。しっかりと、あのいやな匂いが移っているようだ。

「意外と悪くないんだよ?」

 戻し汁は、水を足して沸かし豚汁用に使うのだという。

「ただ、戻し汁が多すぎると独特の甘みが強くて……あれはひどかったなあ」

 思い出し苦い表情になる鳴川。

「それで切り干し大根を戻す時の水はできるだけ少ない方がいいのね」

 サエがぽんと手を打つ。

「多すぎたら捨てればいいじゃない」

「山での調理の基本は、『使う水も、出すゴミも少なく』なの!」

「そうそう。ゆで汁や戻し汁は極力捨てない」

 ねー、と声をそろえるサエと鳴川。篁はばつが悪そうに黙り込む。その様子を見てサエは得意げに笑った。

 つづいてコッヘルの内側に刻まれた目盛を頼りに水を足し火にかけるのだが。

「篁さん! これも山の道具なんだって! こんなにちっちゃいのに、ちゃんと料理できるんだよ!」

 コッヘル同様食堂の厨房に現れた、手のひらにのるくらいの大きさのガスバーナー。見慣れぬ器具を前にサエは興奮気味だ。

 しかしすぐに真剣な顔つきになった。

 びしっと人差し指を立てて「いい?」と注意を引きつける。

「山ではガスも貴重。ムダ遣いはできないので、お湯が沸く前に切り干し大根サラダを完成させちゃうからね」

 わざわざそう言ってから調理に戻る。

「足りなかったらお店のガス台を使えばいいのに」

「郷に入っては郷に従えって言うでしょー」

「この場合の『郷』はどちらかというとお店の方だと思うけどなあ」

「僕はどちらでも構わないんだけど……」

 弱々しく鳴川が参戦するが、その声はどちらの耳にも届かない。

「そんなことないよ。お客様に寄り添うのがこの食堂のモットーですから。だから『郷』は鳴川さんの方よ」

「へえ。それはそれは素晴らしいモットーで」

「むむ。なんだか気持ちがこもってない言い方ね」

「気のせいだよ。それよりサエちゃん。そっちは大丈夫?」

「え? ……あ!」

 篁が指差した先。

 コッヘルの底から小さな泡がぷつっと上がる。

「お湯が沸いちゃう! 急がなくちゃ。……もう! 間に合わなかったら篁さんのせいなんだからね!」

サエはべえっと舌を出した。

 篁と鳴川はちらりと視線を合わせ、サエに気づかれぬようにと小さく笑った。




 急いでいても確認は怠らない。

 水で戻した切り干し大根と、ツナとマヨネーズ。調理台に並んだ食材を指差し確認してぱんと手を打った。

「作ります!」

 これでもかと気合いを入れるサエ。

 しかしその必要があったのかと首を傾げてしまうほどに、次の工程もまた単純なものだった。

 保存袋の中で切り干し大根と、ツナと、マヨネーズを混ぜ合わせるだけ。分量も何もない。袋に入っているものを全量投入して、ただ混ぜるだけなのだ。

 戻し汁にほとんどの匂いが溶け込んだのか、ふやけた切り干し大根は眉をひそめてしまうような匂いはしなかった。

 保存袋の中で材料が揃うと、むしろツナの匂いが他を圧倒する。油を切らずに使っているせいでより魚くささが強調されているようで、かき混ぜるたびにツナの匂いが舞い上がった。

 遅れて鼻に届いたマヨネーズのツンとくる酸味が、その瞬間だけは魚くささを忘れさせてくれる。

 それにしても、やってみるとこれはなかなか力とコツがいる作業だ。

 狭い袋の中できれいに混ぜ合わせるのは至難の業なのだ。

 絡み合う切り干し大根となかなかほぐれないツナの塊が箸の動きを鈍くさせた。

「これ、ちゃんと混ざってるのかな?」

 不安になって目の高さに掲げる。

 袋の一部にマヨネーズがべっとりと貼りついているのを見つけて苦笑が漏れる。

「そんなに神経質にやらなくていいよ」

 と鳴川は微笑んだ。

 山の料理だから豪快でいいということなのかと思ったが、どうやらそうではないようだ。

「ここで大切なのは袋に穴を開けないことだから」

 鳴川は言う。

 食べ終えたらゴミ袋として使うためらしい。

「わかった! 穴を開けちゃダメなのね!」

 サエは袋に箸の先が当たらぬように注意を払いながらかき混ぜる。

 かき混ぜるというよりは絡まった切り干し大根をほぐすといった具合に箸の動きを変えてみると案外うまくいく。

 そうなると楽しくなってきて、ついつい鼻歌がもれる。そのリズムに合わせてサエはさらに箸を動かした。

 塊はだんだんほぐれて、箸の動きも軽くなって。

 マヨネーズとツナの油が全体に馴染んでいくと、不思議といやな匂いはなくなって、食欲をそそる美味しい匂いになっていた。

 行儀が悪いと思っても、袋の口に鼻を近づけいっぱいに匂いを吸い込みたくなった。

 そんなサエの鼻先に別の匂いがたどり着く。

 火にかけていた例の戻し汁の匂いだ。

「あれ? くさく……ない?」

 サエは瞬きをひとつ。

 切り干し大根の匂いはほんのり残しつつ、しかし熱を入れた効果なのか、甘みを含んだ香りになっていた。美味しそうな煮物の匂いにも似ていた。

 すっかりそちらの匂いに気をとられるサエ。

「沸いた?」

 と鳴川も気にして覗き込む。

「沸いたみたいだね。それじゃあ、」

「ここにこれを入れるのね」

 フリーズドライの豚汁を取り出す。

 茶色いブロックをそのままドボンと湯に落とすと、篁が実に不快そうな顔を見せた。

「本当に入れたの?」

「入れたよ。それが何か?」

「灰汁みたいの浮いてなかった?」

「浮いてたかな?」

 とぼけるサエに、

「浮いてたね」

 苦笑いで真実を告げる鳴川。

「どうしてそのまま入れたのさ」

「え、だって、」

 サエと鳴川は顔を見合わせた。

「山では――」

「ああ、もう。いいよ。それは聞き飽きたよ」

 綺麗に揃った二人の声を遮って篁は大きなため息をついた。さっきからそればっかりだと悪態をつくと、サエたちはもう一度顔を見合わせて笑った。

 和やかな空気が漂う店内に、甘く香ばしい味噌の香りが広がった。




「これを食べたら、解決するのかい?」

 彼はテーブルの上に並んだ保存袋とコッヘルを見つめながら、そこにはないものに目を向けているようだった。

「本当に『見たかった景色』が見えちゃうのかなあ」

 サエがひそひそと篁に問う。

 篁は「さあね」とぶっきらぼうに言うだけで、予想や何かを口にすることはなかった。

「それじゃあ、……いただきます」

 鳴川は美しい姿勢で両手を合わせゆっくりと箸を手にした。

 しかしすぐには食べようとせず、顔を上げ、サエと篁に視線を向けた。

「僕なんかのために、本当にありがとう」

 不意に告げられた感謝の言葉に動揺してしまい、サエは大切なことを伝え忘れてしまった。

 思い出の料理を口にした時、彼の身に何が起きるのかを、事前に教えることはできなかった。




     ***


 サエがかけ忘れたブラックペッパーを自分の手で足し、切り干し大根を口に入れた。

「いつもの味だな」

 鳴川は小気味よい音を立てながら、うんと頷いた。

 パリッと歯ごたえのある切り干し大根は、臭みがないどころかみずみずしさや爽やかさが好印象で、味付けに使ったマヨネーズも悪目立ちすることなくちょうどいい。軽やかなコクを補ったくらいで、大根らしさを充分に味わわせる。

 もっともクセが残ったのはツナの風味だ。

 ほぐれた身が迷い込んだ程度ならば、うま味の一部くらいの存在であるのに、ごろっと大きめの塊に当たると、もろに魚の風味を感じた。しかし調理中とは異なり、鼻からの感覚に味覚が伴うとその匂いさえも深い味わいの一端となる。

 ああ、うまいな。

 そう思ったところに、ブラックペッパーのピリッとした刺激がやってくる。

 これで充分だと思った。見たかった景色が見られなかったとしても、心残りが何であっても、こうやって慣れ親しんだ味で終れるのならばそれでいいじゃないかと感じた。

「ありがとう。とても美味しいよ」

 顔を上げサエに礼を言ったつもりだった。

 しかし鳴川の前にサエはいなかった。

 鳴川は山の景色の中にいた。

「これは……まさか?」

 立ち上がり、辺りを見回す。

「いや、違う」

 それは山の景色ではあったが、彼が見たいと願っていた景色とは違った。

 事細かに記憶してはいないが、確かに見たことのある景色――昔、三日ほどかけていくつかの山を縦走したときの、最終日のテント場の景色だ。

 稜線のひらけた場所に建つ山小屋のおまけのようにあるテント場は、ゴツゴツとした大きな石が足もとにびっしりと転がっていた。

 特段整備されているというわけでもなく、先人たちが野営を繰り返したことで次第にこなれていったといった具合の空間だ。

 山岳用のテントがぽつんぽつんと並ぶ中、鳴川はちょうど夕飯にありついたところだった。

 陽はもう、隣の山の稜線にかなり近いところまで落ちている。

 早々に大きないびきを響かせているテントがあった。たった今到着したようでザックを担いだまま辺りを見回す者もいた。

 しかしテント場にいた登山者の多くは、鳴川と同じように、テントのそばでこじんまりと黙々と食事をとっていた。

「山の景色は山の景色でも、これは僕が見たかった景色じゃないんだけどな。間違ったのかな」

 鳴川は困った顔で笑った。

 笑いながら、自分の気持ちの有り様に戸惑っていた。

 どうしてかそれほど落胆していないのだ。

 初めに叶わぬ願いだと宣告されていたからだろうか。そうだとしても、自分でも驚くくらいに心は穏やかで、ほっとしてさえいた。

 鳴川はぺろりと唇を舐めた。

 口の中に残るマヨネーズとツナの味。大根の食感が恋しくなって、だけどもやっとした何かが胸にあって、なかなか次の一口に手を出せない。

「うわあ、ステキな景色! これがあなたが見たかった景色なの?」

 唐突に声が響いた。

 鳴川の逡巡をかっさらうようにサエの声が響き渡った。

 いつの間にか鳴川のそばに立っていて、物珍しそうに辺りを見回す。

 その目はキラキラと輝いて、今鳴川がひと通り眺めたものたちを同じように追っては、ひとつひとつに感嘆の声を上げた。

 周囲の人々がまったくこちらを気にしていないところを見ると、自分もサエもこの景色を目にしてはいるが、その一部としてそこに立っているというわけではないようだ。

 鳴川はサエと同じ方向に目を遣った。

「残念ながら、これは僕が見たかった景色じゃあない」

 言いながら、自分の言葉にわずかな違和感を覚えた。だけど気にせずにいくつものテントを漫然と眺めた。

「前に登った山の景色さ。この時は二泊三日の山行で、最後の晩ご飯に切り干し大根サラダを食べたんだ。毎日十時間近く山道を歩いてさ。あのときは初日から最終日まで、ずっとくたくただった。……だけどどうしてそんな日の景色を見ているんだろうね」

 走馬灯かなと口もとだけで笑った鳴川に、サエは真剣な眼差しを向けた。

「これはね、切り干し大根サラダが鳴川さんに見せてくれた景色なの。あなたの思い出の料理は、あなたが見たいと願うものを見せてくれるんだよ」

 それを自分も分けてもらったのだとサエは嬉しそうに笑った。『味だけでなく、思い出も感覚も分かち合うこと』というのが三途の川のホトリ食堂での決まりごとなのだと言う。

 それでこうして自分の思い出を一緒に眺めているのかと合点がいったが、サエの言葉には腑に落ちないことがあった。

「この景色が、僕が見たいと願ったものだって? 人生が変わる景色の方じゃなくて?」

 鳴川は今一度、しっかりと山の景色を見つめた。

 何度見たって変わらない。

 強い思い入れがある山行だったわけではないし、忘れられない出会いがあったわけでもない。

 ただ、一つだけはっきりしていることがある。

「『思い出も感覚も分かち合う』と言ったね?」

「ええ。そうよ」

「それじゃあ僕がこの時、どんな気持ちで切り干し大根を口にしたかわかるかい」

 鳴川の問いにサエは笑顔をたっぷりのせて答えた。

「くたくたなのも忘れちゃうくらい、幸せな気持ちでいっぱいよ!」

 サエの言葉をしっかりと聞いてから、鳴川は深く頷いた。

 汗でべとついた肌に当たる風は心地よくて、人々の声は雑多だけど煩くはない。ささやかな夕餉も、くたくたの体にはこれ以上ないご馳走だ。

「そうなんだ。僕は幸せな気持ちでいっぱいなんだ」

 鳴川は瞼を閉じた。

「くたくたになるまで歩いて、好きなものを食べて、なんでもない夕焼けを見て。僕はそれだけで、これでもかってくらいに満たされた」

 言いながら、頭の中に次々と浮かんだのは、なんでもない毎日の風景だった。

 今日も無事に仕事を終わらせた。つい選んでしまう唐揚げ弁当はこれで三日連続だけど、やっぱりうまい。缶ビールを開けるとき、プシュッといい音がした。テレビから聞こえた唄は昔よく聞いたお気に入りの歌手の声。冷たい布団が自分の体温でじんわりと温まっていく時間はもどかしいようでいて幸福で――

 人から見たらつまらないものかもしれない。

 だけど、どれもこれもが鳴川に歓びを感じさせる。

「僕はこんな毎日が、好きだったんだ」

 幸せだったんだと噛みしめて言った。

「それなら、もっと幸せそうな顔をしたら?」

 背後からコツンと頭を小突かれる。

 不機嫌そうな篁の声が聞こえた。

 サエが姿を見せた時のように、しれっとテント場の景色に紛れ込んでいた。どうしても言っておかなければ気が済まなかったようで、切り干し大根サラダは自分の口には合わなかったと悪態をつく。

 鳴川は、篁に言われて初めて自分が険しい顔つきになっていたことに気づいた。

 何が不満かと聞かれて、鳴川はいっそう眉間の皺を深くさせた。

「こんなものでも、幸せってことでいいんだろうか」

 言いながら、テント場の景色とコッヘルの中の切り干し大根サラダを見つめた。同僚らの言う幸せとかけ離れていることは明らかだ。

 だけど、最後の最後にこの景色を見せられたということは、これが『答え』なのかもしれないと期待させる。

 笑顔満面で答えようとしたサエを制して、篁は「さあね」と一言、強く言った。

「俺たちが決めることじゃないよ」

 それはサエに向けた言葉だったか。それとも鳴川に対してか。はっきりとしない調子で言い捨てる。

 しかし続く言葉は、しっかりと鳴川の方を見て告げた。

「いいんだって言われれば、あんたはそれで満足するのかい」

 意地悪な顔で言った問いかけに、鳴川はすぐには言い返せなかった。

強い西日に目を細める。

 自然と眉間に皺が寄ったのは、眩しさだけが原因ではない。

 何もかもが赤い色に覆われたテント場で、鳴川の顔は何よりも赤く火照っていた。太陽がじわりじわりと稜線に溶けていくように、篁の言葉が鳴川の体中に蔓延っていく。それが体の内で何かに変わっていくのを鳴川は確かに感じた。

 その『何か』が飛び出そうとするのを待ち構える鳴川に声をかけるものがあった。

「変わったもの食べてますね。こっちの方が簡単で美味しいのに」

 鳴川の思い出の中の若者は、切り干し大根サラダを見て鼻で笑ったようだった。彼の手元には、お湯で戻したアルファ米とレトルトカレーが見えた。山では切り干し大根よりもよく見かける食事の風景だ。

 そうだ。確かにこの日、テント場で出会った若者とそんな会話をした。

 食事のことだけじゃない。もっと難しい山に挑戦したり、誰もが憧れるような山を目指したりしないのかという話にもなった。こんな平凡な山行ばかりで楽しいのかと呆れた様子で彼は言った。

 その時の自分は、やはり誤魔化すような笑みを返すだけだった。

 鳴川は口をぎゅっと結んだ。

 あの時は言えなかった。

 だけど今は、言いたくて言いたくて、どうしようもなかった。鳴川自身よりも幸せそうな顔をして山の景色を、切り干し大根サラダを見つめるサエの姿を目にしてしまったら、その感情を無視することはできなかった。

「あの!」

 声をかけてみたって、若者に聞こえるはずがない。思い出の中の彼と今の鳴川は交わることがない。それでも鳴川は一生懸命にその言葉を発した。

「僕は、……僕はこれが好きなんだ。これが僕の幸せなんだ」

 鳴川はいつもより少しだけ背筋をのばした。

そうして自ら発した言葉は自分の中にすとんと落ちてきて、またひとつ、鳴川の中に幸せな気持ちをもたらす。

「これでいいんだよね」

 問いかけるような口調ではあったが、鳴川は誰かの答えが返ってくる前にもう笑っていた。

「僕の幸せは僕が決めるんだ。僕が幸せかは、僕が決めるんだ。それだけで良かったんだ」

 何を持っていないとか、だからかわいそうだとか、そんなことは自分にとっての真実ではなかった。

 自分にとって大切だったのは、ただ自分の幸せを『幸せ』だと認識することだった。

「こんな単純なことだったのに……僕は大馬鹿野郎だ」

 力一杯に言ってから、えいっと切り干し大根サラダを口に入れた。入れすぎて噛み応えが増した切り干し大根に手間取りはしたが、その食感さえも心地よいと感じた。

 噛みしめて、味わって。

 噛みすぎて顎が少し痛くなってきても、顔は自然と笑顔になった。

 それなのに何故だかボロボロと涙がこぼれてきた。

 鳴川は涙を拭い、口もとのマヨネーズをぐいと拭き取って豚汁を流し込んだ。味噌の香り。野菜と肉の食感はフリーズドライ特有のクセを含んでいるが悪くない。後味に大根の戻し汁の甘みがやってくる。元々の豚汁の風味を損なってしまうからこの食べ方は本当はそんなに好きではないのだけれど、だけど山に登った時にしか食べないものだと思うと、大切に思えてくる。

 切り干し大根サラダと、フリーズドライの豚汁。

 最期の晩餐にしてはささやかすぎるのだろうが、最期にちゃんと味わえて良かったと鳴川は深く頷いた。




     ***


 登山靴の紐を念入りに結び直して、鳴川は「よし」と言った。

 目元は赤く、腫れぼったい。

 だが表情は実に晴れやかだった。

「ごちそうさまでした」

 サエはもちろん、篁にもしっかり頭を下げる。

「もう大丈夫?」

 そう問いかけるサエはにこにこと嬉しそう。

 その笑顔に応えるように鳴川はくしゃっと笑った。

「どんなにくたくたでも、美味しいものを食べたらまた頑張れるからね」

「そうね! あんなにステキなご褒美をもらったんだもの、きっと三途の川だってスイスイ渡れちゃうよ!」

 流れをかき分けるような仕草を見せるサエ。

「ご褒美か」

 そう呟いた鳴川は寂しそうな顔で空になったコッヘルに視線を落とした。

「もう食べられないんだもんな。寂しいな」

「それなら、どうぞ」

 すかさず篁が自分の分の切り干し大根サラダを差し出した。一口味見をしただけだったようで、ほとんど手つかずの状態で残っていた。

「食べないの?」

「言っただろ。匂いが苦手なんだ」

 と鼻をつまむふり。

 サエはぷんと口を尖らせ「好き嫌いはダメよ!」などと口にするが、鳴川が嬉しそうに器に手をかけたのを見て、仕方ないなと笑った。

 一口目は愛おしそうに。

 二口目は、これでもかと嬉しそうな表情で切り干し大根サラダを頬張った。

 もう彼の前に山の景色は広がらなかった。

しかし鳴川は笑顔で切り干し大根サラダをたいらげて、登山靴の硬いつま先をトントンと鳴らした。

「いってらっしゃい!」

 サエは両手を大きく振った。

 照れくさそうにその仕草を真似て、

「行ってきます。ありがとう!」

 鳴川は声を張り上げた。

 律儀に篁にもしっかりと礼を言うが、返ってきたのは軽く右手をあげただけの味気ない挨拶だった。

 それでも鳴川はもう一度、二人に対して深々と頭を下げた。

 勢いをつけて体を起こす。

 背筋はしゃんと伸びていた。

「よし!」

 かけ声ひとつと笑顔を残して、鳴川は店をあとにした。

 じゃりっじゃりっと河原の石を踏みしめる音は、軽やかに、しかし来たときよりもずっと力強い音となって川へと向かう。

 その音を聞きながら、サエはキュッとエプロンの紐を結び直した。

 鳴川の背中が見えなくなると、また次の客がやってくるはずだ。

 ここで待ち、ひとり、またひとりと見送るのが自分の役目。

「私も、とっても幸せだよ!」

 サエは大きな声で言って笑った。


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