【箸休め 『はじめて』のガトーショコラ】
僕はね、バレンタインデーが大好きだったんだ。
まわりの女の子たちは、『好きな人に告白するための勇気をもらえる』とか『お世話になった人に感謝の気持ちを伝えたい』とか、ソワソワしながら、いつもとは違うカワイイ反応を見せてくれるでしょ?
ちなみに僕は『アンタの分はついでなんだからね!』って言いながら、目も合わさずに渡してくれるコが理想。
男子は男子で、欲しいけどそんなことカッコ悪くて言えないから、一週間前くらいからなんだかよくわからない無言アピールを始めるでしょ。
そういうのも、見ていて楽しいから好き。
まあ、『渡さなくちゃいけない』とか『もらえなかった』ってことでバレンタインデーを忌避する人も少なくないわけだけど。
だけど、僕はバレンタインデーが大好きだった。待ち遠しくて指折り数える派だった。
どうしてかって?
それはさあ、お菓子をたくさん作れるからだよ!
僕はさ、お菓子作りが大好きなんだ。
実験のように材料を量って、泡立て具合とか混ぜ方、入れるタイミング……そういうのを完璧に合わせて作る作業も楽しいんだけれど、作ったものを美味しそうに食べてもらうのがまたすごく気持ちいいんだ!
でも、年中やるわけにはいかないから、だから、バレンタインデーに照準を合わせるんだ。
不器用な女の子の代理。もらえない男子への慰め。最近は逆チョコとか強敵チョコとかいうのもあるらしいからなおさら渡しやすくなった。
だからバレンタインデーが待ち遠しかったんだけどね……あーあ。今年は参加できなかったな。
もう少し、死ぬのが遅かったらなあ。
その男の落ち込みようはひどかった。
目の前に横たわる大河がかの有名な三途の川だと告げられた時にも、それなりに肩を落としたが、今は比べものにならない。
ふらりと立ち寄ったくたびれた食堂で食事をとり、いよいよ旅立とうと店の外に立った時、彼はふと生前のことを思い浮かべたのだ。
そして、バレンタインデーが近かったなと、その日にまつわる思い出話を語り出した。
興奮気味に、饒舌に。
勇ましい英雄譚を語るような情熱で口にするので、サエは思わず聞き入ってしまった。
胸を躍らせ、瞳を輝かせ、そうして彼の話を聞く。しかしそのうちに、サエは心の内に引っかかりを感じるようになっていた。
何かがおかしいと思いながら最後まで話を聞き、そして、彼を見送る。
「せめて、バレンタインデーのあとに死にたかったな」
悩みや後悔、未練の類いを解消するためにこの食堂に寄ったはずなのに、彼は店にたどり着いた時よりもやや重たい空気をまとって三途の川へと向かった。
その後ろ姿を眺めながら、やはり晴れない顔つきでサエは手を振った。
彼の背中が見えなくなったところで、サエはそっと両手を下ろした。その手をそのまま腰に当て、しばらくの間考える。
「むむむ? 『ばれんたいんでー』って……なんだ!」
万歳のような格好をして、なんともその場に不似合いな言葉を響かせた。
***
「ということがあったんだけど、篁さんは『ばれんたいんでー』って知ってる?」
あまりに予想外な質問に、篁は手にした湯飲みを落としそうになった。
じっとサエの顔を見る。
サエは自分の言葉の破壊力をいまいち理解していないようで、目をぱちくりとさせてから小首を傾げた。三角巾の裾でクセの強い巻き毛が軽やかに跳ねる。
「それ、本気で言ってるの?」
尋ねると、サエの頭は反対側へ傾いた。
「知らないのはおかしいの?」
「まあ、日本人なら大抵知ってるよね。賛否はともかくとして」
「どうしよう。それって、私は日本人じゃないってこと?」
「……本気で言ってる?」
自然とため息がこぼれる。
しかしサエは真面目な表情を携えて篁の隣に座った。
「だって、私、ばれんたいんでーのこと知らなかったんだよ? 聞けば、まわりの人たちへ感謝の気持ちを込めてチョコレートを配る日だって言うじゃない! 私、知らないとはいえ――日本人じゃないからとはいえ、失礼なことをしてきたのかなあ」
申し訳なさそうな顔で、感謝すべき対象を思い浮かべる。
そんなサエの言動を聞きながら、篁はどこから正すべきかと頭を悩ませた。
「サエちゃん、いくつか訂正があります。まずサエちゃんは間違いなく日本の人だから。それから、バレンタインは、それほど深刻な行事ではありません」
どちらかといえば若い女性向けの恋愛イベントなのだとか、それさえも最近は廃れてきているだとか、サエを落ち着かせるための情報を並べたのだが、表情が晴れる気配はない。
ハの字に下がりきった眉尻をそのままにして、しばらく黙り込んでしまった。
腕組みをして、むうっと唸り、眉の角度を徐々に変え。
やがて眉間に皺が寄り、サエの表情は険しいものになった。
ちらっと横目で篁の様子をうかがう。
篁は頬杖をついてサエの言葉を待った。
しかし何をためらっているのか中々口にしようとしない。
しびれを切らして篁の方からどうしたのかと尋ねると、意を決して協力を願い出た。
「あのね! ばれんたいんでーをやりたいの!」
まるで人生における一大事のように言う。
「私、みんなにありがとうの気持ちを込めてチョコレートを配りたい!」
鼻息荒く言うあたり、まだ行事の本質を捉え切れていないようだ。
「やりたいのならやればいいじゃない。止めないよ」
平然と言ってのけると、サエは篁の手をとってさらに語気を強めた。
「それには篁さんの協力が必要なの!」
サエの言葉に、篁はしばし考えた。
自分にできること。サエが頼りそうなこと。
バレンタインの風景と、手渡されたチョコレートの映像を頭に思い浮かべて、げっと小さく悲鳴をあげた。
「嫌だよ」
「まだ詳しく説明していないじゃない!」
「どうせ、チョコレートを買ってこいとかそういうことでしょ」
「そ、それは、」
「冗談じゃない。やりません。協力してあげません」
篁は念押しをしてサエの手を振り払った。
サエは悲しみと怒りが入り交じったような表情を見せたが、篁は決して折れなかった。
この時期にチョコレートを買いに行くということがどういうことなのか。バレンタインデーを知らないサエには想像できないのだろう。
まあ、正しく想像できていたとしても、何食わぬ顔で頼むのかもしれないが。
篁はその様子を思い浮かべてため息をこぼした。
それがきっかけになったのか。
ふと思いつく。
「そうだよ。サエちゃんが自分で作ればいいんじゃない。そこの厨房、思い出の料理を作るなら、いくらでも材料が湧いて出るんだから」
篁が言うと突然サエがおとなしくなった。
むうっと唇を尖らせて、拗ねたような顔で篁を見ている。
「どうしたの」
と問うと、
「それが……」
とか細い声が返ってきた。
「それが……できないの」
それを聞いて、今度は篁の方が言葉を失う。
サエには、十王様から頂いた特別な力がある。
店を訪れた人の記憶を覗き、その中にある思い出の料理を再現するという力だ。
これは一度きりのものというわけではなく、一度覚えてしまえば、何度でも再現可能なはずなのだが。
だが、サエは恨めしそうに篁を睨みつけるだけ。
「まさか、……そういうこと?」
篁がふと思いついて問いかけた。
サエはこくりこくりと頷く。
「そうなの! チョコレート、今まで一度もなかったの!」
「え? だって、結構な数の料理を作ってきたよね?」
驚きのあまり、いつもは冷静な篁も少し声をうわずらせる。
だけどないの、とサエは肩を落とした。
それで自分にすがったのかと合点がいったが、篁は頑として譲らない。
「とにかく、俺は買いに行かないよ」
そう言ってお茶を啜った。
「じゃあどうすればいいのよ!」
つい先ほどまで泣きそうな顔をしていたのに、サエはすっかり威勢を取り戻し、篁に八つ当たりをする。
「どんなに言ったってダメなものはダメ。せいぜい、五日の間にチョコレートに強い思い入れがある人が来店するように祈るんだね」
「篁さんのイジワル!」
「なんとでもおっしゃい」
右の口角だけを上げ嫌みったらしい表情を見せると、篁は店から出て行った。
サエは店内にひとり、ぽつんと取り残された。
三途の川の畔にある店だからといって、時間の感覚もなく営業しっぱなしというわけではないので、こういう時間は毎日やってくる。
だけど、今日はどうも寂しい。
このどこにもぶつけようのない気持ちを、誰かに受け止めて欲しいのだが、店にはサエしかいないのだ。
サエはどうしようもなくて、なんとなしに店内を見回した。
いつもは気にもかけなかったが、そういえば、この店にはカレンダーが見当たらない。
男が言っていたバレンタインデーというものは二月十四日だということだが、さて、今日が何日でその日まで何日なのか。
「うーん。たしか篁さんは『あと五日』って言ってたような……」
腕を組み考える。
よし、と思い立ち、店の奥から紙とペンを持ってくる。それで自作の『ひめくりカウントダウンカレンダー』を作り壁に掲げた。
一枚目に書かれた大きな文字。
あと五日という字の上に、太いペンでバツ印を重ねた。
「よし! 絶対に『ばれんたいんでー』するんだからね!」
この死後の世界で何に祈るというのか。サエは貼り付けたカレンダーに向かって柏手を打つ。
「チョコレートの料理に出会えますように」
そう言って熱心に祈りを捧げると、大きな声とアクションで「えいえい、おー!」と気合いを入れた。
しかし、そう簡単にチョコレートの料理というものには出会えなかった。
誰かの思い出をのぞき、短冊の文字と顔を合わせるたびに、サエは落胆する。
だがその料理は、それはそれで美味しそうで、作るのが楽しくなりついついチョコレートのことを忘れてしまうのだ。
そうして、客を迎えては料理をして、見送って。
いつもは時間の流れ方など意識したことがなかったのだが、サエはその流れの速さに驚いた。あっという間に数日が過ぎている。
「篁さん、もう時間がないんだよ? わかる?」
残り一枚になった手作りカレンダーを見ながらサエが言う。だが篁は、
「行かないからね」
と一言返すだけだった。
***
結局、チョコレートの料理に出会えないまま、二月十四日を迎えた。
その日、最初の客は若い女の客だった。
生前は甘い物が大好きだったようで、彼女の思い出を覗いてみると、記憶の料理が書き出された八枚の短冊のうち半分がお菓子の名前だった。
もう無理だと思っていたサエの目の前で奇跡は起きた。
そのうちの一枚に、たしかに『チョコマフィン』と書かれているのだ。
サエは目を疑った。
ゴシゴシとまぶたをこすり、見直してみたりもした。
だが見間違えではなかったようだった。
サエは思わず篁の方を振り返った。
篁は何も言わなかったが、合わせた視線は心なしか優しく見える。
サエは今一度、八枚の短冊と向き合う。
八枚ではあるが、もうそのうちの一枚にしか目が行かなくなっていた。
待ちに待ったチョコレートの料理がそこにある。
サエはそっと手を伸ばした。
指先が短冊に触れるそのすんでのところで体がこわばる。
視線はその一枚に釘付けになっている。
それなのに、サエはその一枚を選べなかった。
サエが選んだのはその隣、『麻婆豆腐』と書かれた短冊だった。
事情を知らない記憶の持ち主が、どうしてそれをと問いかける。
サエの視線は一瞬だけ、名残惜しそうにチョコマフィンを見上げたが、すぐに麻婆豆腐へと戻ってきた。
そして「うん!」と元気いっぱいに頷く。
「だって、これが一番輝いて見えたんだもの!」
サエの目には、チョコマフィンではなく麻婆豆腐と書かれた短冊が、他のどのメニューよりもキラキラと輝いて見えていた。
その輝きを無視することはできなかった。
「よーし! 作るよ! 頑張っちゃうよ!」
サエは腕まくりをして麻婆豆腐の調理に取りかかった。
***
「この先も大変だけど、気をつけて、いってらっしゃい!」
サエは店先で女を見送った。
三途の川へ向かって旅立った彼女は、途中何度も振り返り、明るい笑顔でサエに手を振る。
サエも笑顔で返して、彼女の姿が見えなくなるまで手を振り続けた。
そして、彼女が見えなくなったところで、その場にぺたんと座り込んだ。
自然とため息が漏れる。
「あーあ。せっかくのチョコマフィンがー。でも麻婆豆腐も美味しかったし、お姉さんも大喜びだったし」
送り出した彼女の笑顔を思い出し、ふふふと笑う。
「ちょっとだけ見直したよ。えらいえらい」
珍しく店先まで出てきた篁が、ぽんぽんとサエの頭をたたく。だが手のひらの感触とは違うようだ。
サエをねぎらい乗せられた、手のひらではない何かは、篁がその場から離れてもサエの頭の上に乗ったままだった。
落とさぬようにバランスを保ちながら手を伸ばす。
頭に乗せられていたのは一冊の本だった。
「これ……」
ピンク色の表紙にはキレイにラッピングされたトリュフチョコレートの写真。
バレンタイン用の、チョコレート菓子のレシピ集のようだった。
「た、たたた……!」
篁に喜びを伝えようとしたのだが、それよりも驚きの方が勝ってしまい、うまく言葉にならなかった。
「いつも頑張っているご褒美」
店内から声をかける篁は、厨房にもあるよと呼びかける。
サエが慌てて店の中に戻ると、甘い香りが微かに漂っていた。鼻をくんと鳴らし、なるべく多く香りを取り込む。チョコレートの匂いだとすぐにわかった。
「すごい!」
サエは満足そうな顔をしながら厨房に入る。作業台の上に置かれていた食材を見つけて、いっそう華やかな笑顔を見せた。
「これ、篁さんが持ってきてくれたの?」
嬉しさが過ぎて目に涙が滲んでいる。
篁はそっぽを向いたまま、
「下界のものをあまり持ち込むと怒られるんだけどね。でも他ならぬサエちゃんのためだから」
などと、感謝を催促するような台詞を吐き捨てる。
いつもならそこから多少の言い合いが発生するところだが、その憎たらしささえ許してしまえるほどに、サエは嬉しくて嬉しくてたまらなかった。
「篁さん、本当にありがとう!」
サエは満面の笑みで礼を言う。
篁の反応を待つことなく、すぐさま本をめくった。
チョコレートのクッキーにブラウニー。フォンダンショコラ、チョコシフォン。
チョコレートを使ったいろいろなお菓子が載っている。
「どれも美味しそう!」
次から次へとページをめくっては歓声を上げていたサエだったが、途中であることに気がついた。
「篁さんが材料を持ってきてるってことは、もうどれを作るか決まっているの?」
あらためて作業台の上に置かれた食材に目を向ける。
その顔ぶれと、本のレシピとを見比べて、正解を探す。
ようやく見つけるとまたしても大げさに声を上げるのだが、サエはすぐに困った顔を見せた。
「どうしたの」
篁が問う。
「作れるか心配になってきた」
「何言ってるの。もっと難しいものとか作ってるでしょ」
「あれは、お客さんの思い出に動かされてるようなものだから! ……自分で作るのは初めてなんだもん」
「え? はじめて? まったく?」
篁の声にサエははっきり頷いた。
「でも、お菓子作りは初めてじゃないでしょ。レシピもあるし、材料も揃ってるし、なんとかならない?」
「たぶん、なんとかなると……思う」
尻すぼみのサエの言葉に、篁からため息が漏れる。
「どうする? やめていいよ?」
その台詞だけであったなら、優しさから出た言葉だと思ったのだが。篁はそう囁きかけたあと、嫌な笑みを浮かべた。
その顔を見てサエの決意は固まった。
「作る! 絶対作るから!」
意地もあったが何よりは、せっかく用意してもらったものを無駄にしたくないという気持ちが大きかった。それなのに、篁は意地悪を重ねる。
「失敗したら、それはそれで材料を無駄にすることになるんだけどね」
そうやってわざとサエをけしかける。
サエはしっかり挑発にのって腕まくりをしてみせた。
「美味しいチョコレートのお菓子、作ってみせるんだから!」
かくして、『皆に感謝を伝えるため』であったはずのチョコレート作りは、篁を参らせるための作業へと変わってしまった。
***
誰かが示したレシピがあって、道具も材料も揃っている。
それは日ごろ料理をしている時と同じ状況であるように見えるのに、サエは中々動き出せずにいた。
泡立て器の持ち方はこれで合ってるよね、などと極めて初歩的なことから気を配る。
篁が定期的に投げつけてくる皮肉や嫌味を、いちいち相手している余裕などなかった。
「ええと、まずは湯煎でチョコレートを溶かす? あ、それより先に卵黄と卵白を分けた方がいいのかなあ」
本と睨めっこをし、誰かに問いかけるように作業行程を読み上げ、そして恐る恐る実践に移す。
「え? 湯煎って何度くらい? 熱くていいの? ダメなの? ここに卵黄を入れても大丈夫なの?」
あまりに疑問形の台詞ばかりを並べたせいか、篁でさえも心配そうな顔を見せる。
「本当にできるのかねえ」
篁はわざとらしく音を立ててお茶を啜った。
それでもサエは篁の方を見ることもなく調理に集中していた。
チョコレートとバターを湯煎で溶かし、そこに卵黄を入れる。
これがとても不思議なのだが、チョコレートと同じくらいの量のバターを入れたはずなのに、バターの乳臭さが勝つことはなかった。
かといってチョコレートの匂いがきつく香るわけではない。穏やかに匂ってくるチョコレートの甘さとほろ苦さ。それをバターがこっそり和らげてまるくしているような、そんな印象だった。
チョコレートとバターと卵黄がしっかり混ざったところで小麦粉をふるい入れる。丁寧に混ぜ合わせると、もったりとした生地のベースが出来上がった。
ここでチョコレートからはいったん離れ、メレンゲ作りに取りかかる。
「サエちゃん、チョコレートはあたたかいところに置いといた方がいいらしいよ。硬くなっちゃうと味が変わるんだって」
篁が言う。料理好きな姉から教わったのだそうだ。
他にも、卵白の泡立て方や混ぜる時のコツなどを逐一指導しながらお菓子作りは進んでいった。
「私ね、生クリームやメレンゲを泡立てるときは、機械じゃなくて自分の手でする方が好き。なんかね、混ぜている間は手順とかそんなに忙しく考える必要がなくなるでしょ? その間にね、美味しくできるかなとか、どんな顔で食べてくれるかなって考えるの。そうやって考えている時間はすごく幸せな時間だなって思う」
いつもは誰かの思い出の力を借りて手際よく料理をしているので、そんなことをゆっくりと感じている時間は多くはなかった。
「自分で料理するって、いいね」
サエは篁に向けて無邪気な笑顔を見せる。篁は「そういうものかい」と、まるで興味がないように言いながら、口元にはやわらかな笑みをのせていた。
サエの弾む心のように、ボウルの中のメレンゲはツンとツノが立つほどになった。
それをチョコレートの生地に混ぜようというところで、篁が深呼吸を勧める。
「乱暴にすると、せっかくのメレンゲが壊れちゃうからね」
「もう、篁さんったら心配性なんだから。ちゃんとわかってます!」
そう言いながらも、サエは言われたとおり深呼吸を繰り返した。
大きく吸って、大きく吐いて。
そうしてから、念の為にとレシピを見直す。
『三度に分けてメレンゲを混ぜる。一度目は三分の一の量をしっかりと混ぜ込む』
書いてある通りに、サエはチョコレートの生地の中に、しっかりとしたメレンゲをすくって落とす。
生地と触れた部分から、小さくしゅわっという音が鳴った。泡が溶けている音のようだった。
サエは心配になりながらも、メレンゲの白がしっかり溶け込むまで混ぜた。
二回目、三回目は、さっくりと軽く混ぜる。
なるべくメレンゲを崩さぬように、底からさらうようにして混ぜる。一混ぜするごとに、チョコレートの甘い香りがふわっと立ち上がった。
その匂いを嗅ぎ取りながら、サエは心地よくなる。
もっと匂いを楽しみたくてつい多めに混ぜそうになるのだが、レシピの指示を思い出して、『ほどほどに』を心がけた。
そうして出来上がった生地を型に移すところまでがサエの仕事。
なめらかな生地をまるいケーキ型へと流し込む。ボウルから垂れた生地が、折り重なるリボンのような模様を描きながら型の中へと着地する。
すべて流し終えた時には模様も綺麗に消えていた。
サエは表面のなめらかさを確認して満足そうに頷くと、余熱の終わったオーブンへと運ぶ。
パタンとオーブンの扉を閉じて、柏手を打った。
「サエちゃん、どこの神様に祈ってるのさ」
案の定、篁が指摘したが、サエは構わず祈り続けた。
初めての料理がうまくできますようにという願いを、どんな神様でもいいから叶えて欲しかった。
***
これほどに待ち遠しいと思えることが、果たして今までにあっただろうか。
サエはそう考えながらオーブンを覗いていた。
ぶーんと低い音で唸りながら、ケーキを焼き上げる。
見守り続けるうちに、徐々にチョコレートの匂いが香ってきた。
湯煎で溶かした時から今まで、チョコレートのお菓子を作っていながら、実はそれほど匂いというものを感じていなかった。
生地を混ぜた時にはふうわりと香ったし、鼻を近づければなんとか匂いは届く。
ただ、普通の距離感と刺激で対峙したなら、甘さと苦さには気づきにくかった。意外とそういうものなのかと驚きもした。
それなのに、ここにきて、チョコレートの香りが部屋の空気に染みこんでいくように広がっていく。じわじわと浸潤するように、どこもかしこもチョコレートの匂いに変わっていった。
サエはそんな変化を楽しみながら、ケーキが焼けるのをじっと見つめていた。
膨らんでいく様子を眺めていると、心の中が軽やかになる。
「ねえ、篁さん。ケーキをプレゼントするときはどうやって包んだらいいかなあ」
「『ラップに包んでビニール袋』でいいんじゃない?」
「プレゼントって言ってるでしょ!」
「え、ラップじゃ駄目なの?」
「えー、可愛くないじゃない」
「何を仰いますか。世の中には可愛いラップだってあるはずだよ」
「じゃあ、持ってきてみせてよ!」
「そうだ。これ以上下界の物を持ち込んだら、今度こそ大目玉を食らうかもしれない」
わざとらしく嘆いてみせて、サエの出方をうかがっている。
サエは、初めは口を尖らせて無言の抗議をしてみたが、その表情はすぐに笑顔へと変わった。
焼き上がりまでの残り時間が一分を切っていた。
サエは篁を呼んで文字盤を指差す。
そんなことではしゃぎすぎだよと篁は笑ったが、サエはもう篁の言葉に反応する余裕がなくなっていた。
オーブンの表示に合わせてカウントダウンを始める。
ごー。よん。さん、にい、いち。
焼き上がりを知らせる電子音が鳴り響いた。
待ちきれなくて、勢いよくオーブンの扉を開けると、チョコレートのあまい香りが噴き出して、サエをいっそう笑顔にさせた。
完成した『ガトーショコラ』を前に、サエは不機嫌な顔をしていた。
初めての料理ながら、それなりのものが出来上がったというのに、サエの機嫌は良くない。
「十王様たちにチョコレートを渡せないって本当なの?」
篁が言うには、十王というものはどんなときも公平性を保たなければならないため、人間からの贈与品は一切受け取らないらしい。
「えー。じゃあ、これどうするの」
「俺が食べてあげるよ」
「……まさか、最初からそのつもりだったんじゃないでしょうね!」
思えば、疑わしいことばかりだった。
篁がサエのためにレシピ本やら材料やらを用意したのが、まずそもそもおかしい。
篁は『頑張っているご褒美』などと言ったが、よく考えればそんなはずはないのだ。気まぐれで褒めることがあったとしても、それ以上のことは絶対にしない。自分の利にならぬことにはそれほど興味を持たないのが篁という人間なのだ。
そう思うと、今回の一連の出来事がすべて疑わしく思えてくる。
バレンタインデーについてサエに語った男さえも篁の差し金だったのではと考えたりもした。
「いやいや。いくら何でも、ガトーショコラ食べたさにそこまで面倒なことはしないよ。食べたいなら買えばいいんだし」
さらっと言った篁の言葉に、サエはそれもそうかと手を打った。
「でも、篁さんだとそういうことあり得るから」
「サエちゃん、結構ひどいこと言ってるよ?」
「ひどいのは篁さんの方だよ! 十王様に渡せると思って、たくさん感謝の気持ちを込めたのに」
サエはふてくされ顔でガトーショコラに視線を落とした。ひび割れの表面がなんだか悲しく見えてくる。
「まあまあ、そんな顔しないで。ほら」
さっと差し出されたものに、サエは反射的に口を開けてしまった。
口の中に放り込まれたのは、ガトーショコラのかけら。
いつの間にか、篁がちゃっかりとつまみ食いの用意を済ませていた。皿とフォークと、そして飲み物まで揃えているのを『つまみ食い』で片付けていいのかという疑問はあるが……。
だが、そんなことはどうでも良くなるほどに、サエは今、一瞬でチョコレートに支配された。
ふわっと口の中に広がったあまい香り、ビターな気配。
口当たりはと言えば、表面がサックと軽く歯に当たったかと思うと、そのあとにしっとりとした食感がやってくる。
「これがガトーショコラ。これが、私の初めての料理……!」
感激するサエに篁は優しく微笑みかけた。
「作って良かった?」
質問の意図はわからなかったが、サエは素直に頷いた。
「ということは、俺に感謝してるよね」
そう言って篁はにたっと笑った。
つまり、そういうことだ。
「俺にも貰う権利はあるってことでいいよね?」
篁は手際よくガトーショコラを一人前だけ切り分けた。
「まだいいって言ってないのに! 篁さん、ずるい!」
止めようとはしたが間に合わず。篁は見せつけるようにゆったりとした動きでガトーショコラを口に運んだ。
だが、不思議と苛立ちはなかった。
サエはふうっと息をついてから困ったように笑った。
「そんなことしなくても、ちゃんと篁さんにも感謝してるのに!」
にいっと、その言葉に力を入れて、苦笑をとびっきりの笑顔へと変えた。
篁だけではない。
サエはいろんな人に感謝していた。
ステキな能力を授けてくれた十王はもちろん、この店に来て思い出を語り美味しいものを教えてくれるすべての人たちにも、感謝しても仕切れない。
サエはその人たちのことをひとりひとり思い浮かべながら、もう一口、ガトーショコラを口に含んだ。甘いだけでなくしっかりと苦いのに、とても幸せな気分がやってくる。
サエは満たされた顔つきで篁の方に目を向けた。
「まあ、悪くないんじゃない」
などと憎まれ口をたたく彼だが、今日はそこに座っていてくれることが有り難いことのように思えた。初めての料理を一緒に食べてくれたことを、サエは心から感謝していた。
「篁さん、」
「なあに?」
「……ううん。なんでもない!」
だけどやっぱり、礼を言うのはなんだか癪なので、サエはそっと心の中で言葉にかえる。
『篁さん、いつもありがとう!』
そう思いながら、サエは満面の笑顔を見せた。
***
サエが初めて自分自身で料理をした日。
後片付けをする彼女の姿を眺めながら、篁は口元を緩ませた。
「ねえ、サエちゃん」
問いかけずにはいられなかった。
「そのケーキはサエちゃんの思い出の料理のひとつになるのかな」
篁は言いながら短冊に視線を向けていた。
サエは作業の手を止めずに、篁の問いに答える。
「どうかなあ。私、いろんな料理を食べてきたからね! それにしても、その中から八枚に絞られるんだよね? うーん。何が選ばれるんだろ」
洗い物をしながらの会話は、水の音にかき消されまいと声を張り上げていたせいで、その語気の強さが興奮によるものなのか、緊張によるものなのか、はたまた特段の感情は含んでいないのか判断に難しかった。
だがそのときのサエの声は、篁には喜びに弾んだ声のように聞こえた。
思い出の料理が選ばれる時を思い浮かべて、心を躍らせているように見えた。
「その日が来るということがどういうことか、わかってるのかねえ」
篁の呟きはサエの耳には届かなかった。
それでいいのだと、篁はひとり笑った。