【第四話 母と娘のポークチャップ】
【第四話 母と娘のポークチャップ】
その女は、きちんと整えられた身なりとは裏腹に、ずいぶんと荒々しい登場の仕方で、この食堂にやってきた。
***
それはまるで天災のようだった。
「何か来る」
カウンター席のいつもの場所に陣取っていた篁がぶるっと身震いをした。
「何か来るって、来るのはお客さんくらいでしょ」
サエは食堂内のモップがけをしながら篁の話を聞いていたが、ふと店の外が気になってその手を止めた。
確かに、何かが近づいてくる気配がある。
実際に五感で感じるようなものではなく、あくまでも概念的なものなのだが、ぞわぞわと心が泡立つように、何か嫌な予感がした。
まさにそれは篁が言う『何か来る』という感覚だった。
それはあっという間に食堂の前へたどり着く。しかし、禍々しい空気とは裏腹に、ガラス戸の向こうに見えたのは華奢な線の人影だった。
「やっぱり。お客さんだよ」
サエはほっと胸をなで下ろした。
女性のシルエットかなと思ったのとほぼ同時に、ガラス戸が勢いよく、やや乱暴に開け放たれた。立て付けが良くないせいで、半分くらいのところで引っかかる。
「なによ、これ!」
低く厚みのある女の声が感情的に言うと、サエはとっさに身構えた。
声があまりにも刺々しかったので、とばっちりを食うと思ったのだ。
店のある場所が場所なだけに、気が立った客が来ることも珍しくない。そういった客の多くがまずこのガラス戸に難癖をつけるわけだ。立て付けが悪くとも、落ち着いて丁寧に開ければ、それほど手を煩わせることはないのにといつも思うが、言うと余計に相手を苛立たせるだろうからとサエは口をつぐむ。
万が一のことを考えて、サエはモップの柄を握りしめ、それで立ち向かうとばかりに身構えた。
「ちょっと! 客商売してるなら、設備の整備もしっかりなさいよ。そういうところを手抜きしてると……」
店に入るなり頭ごなしに喋り始めた女が、途中でピタリと言葉を止めた。
唖然とした様子でサエを見る。
三角巾を巻いた頭のてっぺんから、つっかけサンダルの爪先まで。しかめっ面で睨めつけて、そして重苦しいため息をこぼした。
「店も店なら、店員も店員ね。味も素っ気もない格好で……。こんなところにある店なんだから、和服で雰囲気を出してみるとか、ゴシックなメイドコスチュームで死後の世界というものを演出したりとか。そういうことを考えたりしないのかしら。昭和レトロ? それならそれで、もっと突き詰めなさいよ。だいたい、昭和レトロって昭和のいつよ? 昭和が何年あるか知ってて言ってんのかしらね」
白いエプロンの裾をつまんでひらひらさせながら女はもう一度ため息をついた。
「篁さん」
サエは困り顔で助けを求める。
しかし篁は「パス」と一言返しただけでサエたちの方を見向きもしなかった。
篁の苦手なタイプなのだ。
前にこの手の女性客が来たときに、篁が一切黙り込んでやり過ごしたということがあった。
モカブラウンのパンツスーツに、首元には派手すぎないスカーフを巻き、長い髪はしっかりまとめ、ネイルはさりげなく且つ女性らしさも忘れずに。
いかにも『仕事ができるキャリアウーマン』といった風な出で立ちはまだいいとして、それに傲慢な物言いが加わると、篁の機嫌が一気に悪くなる。
男性相手ならば何だかんだと遣り込めるところだが、相手が女性となると途端におとなしくなるのは、篁曰く『触らぬ神に祟りなし』ということらしい。女性とやり合うには何かと気を遣うのだそうだ。
サエと篁が黙り込んだのを見て、女はもういいわと言って席に着いた。サエは慌てて水を差し出す。
「ところで、ひとつ聞きたいんだけど」
女は腕組みをし、真面目な顔を見せる。
「はい、なんでしょう」
少しこわばった笑顔でサエが応えた。
「私、若いわよね?」
「はい?」
「私の見た目よ。若いわよねって聞いてるの」
「ええと、それは……」
こういうときはどう答えるのが正解か。
篁は引き続き知らんぷりを決めているし、サエはどうしたものかと頭を悩ませる。
若いと言えば若いし、そうでないと言えばそうでないような――
思っていることがそのまま顔に表れていたのか、女の表情が険しくなった。
しかしすぐに「ああ、そうよね」と何かに気づいたようで、質問が悪かったと謝罪した。
今までの剣幕からは考えられないほどに、あまりに素直に謝られたもので、サエは目をぱちくりとさせた。
「私、いくつくらいに見えている?」
「ええと、」
少し考えてから、サエは問いに問いを返した。
「お世辞とか抜きでいい?」
様子をうかがいながら確認すると、女は気前よく「もちろんよ」と答えた。
「三十代後半」
「たぶん正解」
女はそう言って右手を差し出す。
こういうことかな、とサエも右手を差し出し彼女の手をつかむと、しっかりと握手を交わす形になった。
女はサエの回答に補足した。
「自分でも正確な年齢がわからないんだけど、たぶんそれくらいだと思う。その頃の顔だと思う」
女はそう言って頬に手を当てる。
その言葉でサエは事態を理解した。
「本当の年齢は?」
サエの問いに女は苦笑した。
「遠慮なしね。でもそういう方が好きよ。本当の年齢は、五十七歳。でもどうしてか、気づいたらこの姿になっていたの」
彼女は何事かと驚いたようだが、こういうことはよくあることだった。
生前のある時期に強い執着のある人間は、その頃の姿で三途の川の周辺を彷徨うことがある。
そしてそういう人間の多くが、川の畔にあるこの食堂に引きつけられてふらりと立ち寄るのだという。
「じゃあ、私は四十前のこの時期に何かしらのこだわりがあるっていうわけね」
ふむふむと興味深そうにサエの説明を聞く。
「それでね、ここに立ち寄る人はみんな、不安や不満、困っていることがあって、三途の川を渡れずにいるの。それを解消するのが、このサエさんの仕事よ!」
サエはどんと胸を叩き得意げに言った。
女は背筋を伸ばしたきれいな姿勢のままでサエの話を聞いていたが、やがて肩を落として頬杖をついた。
「あんたねえ……。不安、不満、困ってること? そりゃあ、あるに決まってるでしょ。私、まだ五十七よ。仕事だって老後のことだって、やり残したことはたくさんあるわよ」
ふうっと息を吐くと、女の表情はいっそう険しくなった。
「でもそれくらいで先に進めなくなるって言うなら、この店は大繁盛してるはずよね」
そう言って女は店内を見回した。
視線が一周して、ため息へと変わる。
彼女の目とため息が何を言わんとしているのか。サエはすぐに気がついて決まりが悪そうに作り笑いを見せた。
「困ってる人が少ないってことなんだから、繁盛しない方がいいの! でも、それでも来てくれたお客さんには誠心誠意、一生懸命おもてなしするよ!」
元気いっぱいに言ってみせても空元気に見えてしまって、女はサエにつられて笑うしかなかった。
「おもてなしはともかくとして。問題は私がここに立ち寄った理由よね」
眉根を寄せ、腕を組み、口を真一文字に結んで考え込む。
それを見つけるのは私の仕事だとサエが口を挟もうものなら、睨みをきかせ発言権を与えない。
しかし、しばらく考えても答えは見つからなかったようで、仕方なく降参することとなった。
「考えて見つかるものなら、この店に立ち寄ったりしないでしょ」
今までだんまりを決めていた篁が独り言のように言った。
彼の言葉は正論であることが多かったが、そのものの言い方にサエはカチンとくる。慣れているはずの自分でさえそう思うのだから、会ったばかりの人間ならばいっそう気を悪くするのではないかと客人の様子をうかがった。
しかし意外なことに彼女は、篁の言葉に同調しそれもそうねと頷いていた。
「やっぱりあなたに頼るしかないのかしら」
そう言ってサエを見る。
少し不服そうではあったが、それは、サエに対する不満というわけではなく、自分の手で解決できないことへの苛立ちなのだという。
「でも、餅は餅屋って言うしね。よし。サエさんとやら。その自慢のおもてなしで私を満足させてちょうだい」
女はいたずらな笑みを浮かべた。
その顔を見たとき、サエは誰かに似ていると思った。
咄嗟にカウンター席に目を向けた。
一瞬目が合ったはずなのに、篁は我関せずといった風に、無言のまま視線をそらす。
サエは女と篁の間で視線をいったりきたりさせながら、なんとも言えない不安を感じていた。
だが怯むわけにはいかないのだ。
「ま、負けないんだから!」
緩んでいたエプロンの腰紐をきつく結び直し気合いを入れた。
さらに自らを奮い立たせるには決まり文句が役に立つ。まるで自分に暗示をかけるかのように、いつもより何割増しかの笑顔も添えてサエはポーズを決めた。
「ようこそ、三途の川のホトリ食堂へ! まだまだ続くなが~い旅路に備えて、お腹いっぱい、心いっぱいに満たされていってね!」
見事にやりきったはずだったが。
「そんなのもあるのね。わー、かわいー」
ぱちぱちと乾いた拍手が食堂内に響いた。
その音に隠れて篁が必死に笑いをこらえている気配が伝わってくる。
「た、篁さん! ぼーっとしてないで、いつものあれ! はやく用意してよ!」
サエは恥ずかしさと腹立たしさで顔を真っ赤にしながら篁に八つ当たりする。
篁はニヤニヤと笑いながらサエの言葉に従った。
鞄の中から一枚の書類を取り出し、女の前に差し出す。テーブルの上でふわりと飛びそうになった紙の端を押さえるような手つきで、ペンを置く。一目で良い物だとわかる漆黒のボディはもとより、その持ち主の所作のさりげない美しさに、女はほうっと短く感嘆の声を上げた。
「あなたはオーナーさん?」
「ただの客だよ」
「そうは見えないけれど」
「確かに『ただの客』という表現では嘘になるかもね。でもオーナーなんかじゃない。ここは確かにサエちゃんの店だよ。そして俺は頼りになる常連客というところかな」
そして特別な役割を担った客なのだと篁は続けた。
トントンと指先で叩いて書類を示し、説明は必要かと問う。
女はさっと目を通し問題ないと返したが、少し間をあけてから「信じられない」とか「さすがは死後の世界ね」などと続けて呟いた。
「これでいいかしら?」
女は署名欄にサインして篁に返した。
「ああ。ここからはサエちゃんの仕事」
微笑みながらそう言って書類を手に取る。
篁が書類に不備がないことを確認するや否や、一枚の紙切れはぱちんと弾けて消えてしまった。紙は消えたが名前は残っていた。整った綺麗な字で書かれた女の名前がふうわりと宙に浮いていた。
ひらひらと、誰かの吐息に流されることもなく目当ての場所を目指して進む。その名前がばらばらに解け、文字でなくただの細い線となってしまう前にサエは読み上げた。
「えっと……苗字が『恵』さん?」
「名前みたいな苗字に、苗字みたいな名前で、ちぐはぐでしょ」
女は呆れた顔で笑みをこぼす。だが嫌いじゃないのだと付け加えて、文字の行方を目で追った。
何本もの黒い線に分かれた彼女の名前は、ゆらりゆらりと揺れながら、食堂の壁に貼られた八枚の短冊へとたどり着いた。
「私の死とともに、名前までもが消えてしまうという儀式なのかしら」
恵は遠くを見つめるようなうっすらとした眼差しで自分の名前だったものを眺めていた。もしも彼女の言う通りだとしたら、己の名前が黄ばんだ短冊に染みこんでいく様子を、人はどんな気持ちで見届けるのだろう。
彼女の憂いを打ち消すように、サエは満面の笑みを見せた。
「違うよ! これは、美味しい物を食べるための儀式!」
腕まくりをして、黒い線が新たな文字となって再生するのを待っている。
何も書かれていなかったはずの短冊には、間もなくして八つの料理の名が記された。それらが何のことなのか、恵にはすぐ理解できた。自身が親しみのある料理の名前ばかりだった。
「ふうん。さっきの書類、『記憶を覗く許可』というのはこういうことだったのね。それで、このあとは一体何をしてくれるのかしら」
隣に並んだサエに視線を落とす。
サエは真剣な顔つきで短冊と向き合っていた。しかしよく見れば、その眼差しはキラキラと輝き、喜びと期待に充ち満ちている。
輝く瞳が一枚の短冊に釘付けになった。
枝に成った甘い果実に手を伸ばすように、サエはやわらかな手つきで一枚の短冊に触れた。
一文字目に指先が触れる。
ぺりっと文字の端が剥がれた。
紙に染みこんだインクであるはずの『文字』が、短冊から見事に分離したのだ。
サエはその文字を剥がすなり、口に放り込むとゴクリと飲み込んだ。
その様子を見守っていた恵は引きつった笑いを見せる。
「いくら不思議なことが起きてもおかしくない場所だからって、この光景はさすがに驚くわね」
恵がそう言うとサエは笑顔を返した。
「こうすると、なんでも作れちゃうんだ」
いっそう表情を明るくさせて、サエは自慢気に言った。
「……何をしてくれるのか、楽しみにしてるわよ」
つられて笑った恵だが、瞳の奥には本人も気づかぬような、わずかな戸惑いの色があった。
***
サエは厨房に入るなり、まず冷蔵庫を開けた。
中から取り出した物を、満面の笑みとともに篁に見せつける。
「篁さん! 今日はお肉だよ! しかも肩ロース、トンカツ用!」
金属製のバットに入った肉を嬉しそうに披露するのだが、篁にも恵にも特段の感動はなかった。むしろ冷めた目でサエと肉とを見遣る。
「肉って言ってもねえ。俺、豚より牛派なんだよね。もしくはジビエがいいなあ」
篁は頬杖をつき、
「あら。最近の豚肉は中々いけるのよ。生産者の努力のおかげね。ありがたいありがたい。で、もちろんその肉も、名のあるブランド豚なんでしょうね?」
恵は当然のように言い放つ。
二人の態度にサエはむむむっと唸り声を響かせた。
「二人とも贅沢だよ! 牛でも鹿でもイノシシでもないし、豚は豚でも、名もない国産豚です! それでもきっと美味しいんだから!」
手に持っていたものを投げつけそうな剣幕だったが、そこはサエも冷静だったようで、久しぶりの肉だと喜びの歌を口ずさみながら調理にかかった。
「それじゃあ、作るよ! 今日はね、『ポークチャップ』という料理! 私、初めてかも」
肉料理というだけでも嬉しいのに、初めて見る料理とあって、サエは少し興奮気味だった。
そんなサエを適当にあしらいながら篁が恵に声をかける。
「どうしてこの料理が選ばれたか、心当たりは?」
篁の問いに恵はしばし考えた。
「ポークチャップは、私が母から唯一教わった料理なのよ」
彼女は言いながら、推理を続けていた。
それだけの理由でこの料理が選ばれたとは思えなかったのだ。
どうしてこの料理だったのか。
そしてそれがわかれば、この食堂に引き寄せられた意味も、三十代後半の年代にこだわっている理由もはっきりするのかと、真剣に調理の様子を見守った。
女の子はある程度の年齢になったら料理に興味を持つものだと信じていた。
母の手伝いをするうちに、その手際の良さに憧れて「自分も!」と、恐る恐る野菜の皮を剥くところから始めるのだと思っていた。
実際、多少は興味を持って、手伝いくらいは経験した。
米とぎ。もやしのひげ根取り。カレー用の菜の下ごしらえに、味噌汁の仕上げに味噌を溶くこと。
そこからステップアップしていくはずが、いろいろ飛び越え皿洗いにたどり着いたところで、彼女は料理への興味を失った。
学生が大切な時間を割くべきものは他にいくらでもあったのだ。
「勉強に部活にって忙しくしてたら、まあご飯支度の手伝いなんてまったくしなくなったわね。中、高をそんな感じで過ごしたら、もうそのまま一直線よ」
大学、就職と進めばなおさら。
自分のことをしているだけでも、時間がいくらあっても足りないくらいで、帰宅すればくたくたで。
料理に気を向ける暇などどこにもなかった。
そんな彼女に、ある日知らせが入る。
母が入院したという。
職場から駆けつけると、母親は鼻にチューブをつけ、集中治療室に入っていた。心臓の病気だったようで、紹介状を持って大きな病院に行ったその日、即入院ということになった。
そんな状態にもかかわらず、病院に到着した恵に母親は一枚の紙を手渡した。
料理のレシピが書かれたメモ用紙だった。
『ごめんね。数日間だけ家のことお願い。お父さんの方が帰りが早いから、なるべくお父さんにやってもらうけど、少しは手伝ってあげて』
一通り説明してから、母はもう一度「ごめんね」と謝った。
「父は私以上に料理ができない人だから、だいたいインスタントか買ってきたお惣菜だった。母は『手作り至上主義』っていう人だったから、それで私にレシピを託したのよね。休みの日だけでもいいから、ちゃんとご飯を作って、父と弟に食べさせてやってくれって」
母にとっては、ポークチャップは『簡単で、家族みんなが好きな食べ物』というイメージがあったようだった。
実際そうだったと思うと恵は言った。
好みがバラバラな家族なのに、ポークチャップはみなが好んで食べていた印象がある。
「カレーとかでもよかったんじゃない? さすがにみんな好きでしょ」
篁が口を挟むと、恵は苦笑をこぼした。
「うち、カレーは必ず辛口と甘口の二つを作ってたのよ。入っているものも微妙に違ってね。小さい子がいるわけでもないのに、母もよく面倒くさがらずにやってたわよね。もちろん、私は面倒だからそんなことしない。今でもしない」
なぜか自信たっぷりに言う。
そんな事情で教わった母の味。
「唯一ってことは、お母さんはそのまま……」
サエが材料を用意しながら尋ねる。
寂しそうな顔を見せるサエに対し、恵はあっけらかんと言い放った。
「今でもぴんぴんしてるわよ」
その答えにサエの動きが一瞬止まる。
その直後、勢いよく恵を見て、なんとも言えない複雑な表情を見せた。
「え? えー?」
ガッカリするのも違うし、素直に喜ぶのにも抵抗がある。だからサエは、泣きそうにも怒っているようにも見える顔で、必死に何かを訴えていた。
「それなら他の料理も教わっていそうなものだけど?」
篁が言うと、サエはうんうんと力強く頷く。
しかし恵は逆に「どうして?」と問い返した。
「あなたの若い頃なら、今よりもずっと『家事は女の仕事』っていう時代だったんじゃない?」
篁は冷静に問う。
そうだとしたならば、実母か姑かに厳しく手ほどきされていそうなものだ。
恵は「そうね」と深く頷いてから、一口だけお茶を啜って唇を湿らせた。
「仕事をしていようが、夫より収入が良かろうが、そういう時代だからやっぱり姑は厳しかったわよ。でもどちらの親とも離れて暮らしていたから、『家の味』みたいのを教わる機会がなかった。……必要もなかったかな」
恵はあえてそう言い直した。
自分自身だけでなく夫も仕事が忙しく、家で食事とることはほとんどなかった。
たまに料理をするとしても、野菜を適当に煮込んだだけの汁物だったり、肉や魚を焼くだけだったりで、名前のある料理なんて数えるほどしか作ったことがなかった。
そのひとつが、母から教わったポークチャップだった。
***
調理台に並んだ材料を見て、恵は驚いたような顔を見せた。
作り方は知っているはずだ。
それなのに、彼女は材料の一つ一つを確認して思わず唸る。
「豚肉、玉葱、トマト水煮缶。塩、コショウ、砂糖と、小麦粉。それからローリエ、サラダ油。うん。やっぱりシンプルね」
「と言うと?」
材料と睨めっこをしながらぶつぶつ呟く恵とカウンターを挟んで向き合って、サエも今一度材料を確認する。確かに作業台の上はなんとなく寂しくもある。
「これは母のレシピ通り。でも私が家で作るときは少し違うの」
最初はレシピに忠実に作っていたが、いつの間にか材料が増えたのだという。
「私のは、これにニンニクとコンソメが加わるの。他に香味野菜を加える日もある。まあ、二十年も作ってたら、自分流にもなるわよね」
「そっちの方が好みなら、入れたバージョンのも作れるよ?」
サエが尋ねると恵はただちに首を横に振った。
「あなたがこれを選んだってことは、きっと、こっちである必要性があるんでしょ? ぜひ母のレシピで作ってちょうだい」
店に足を踏み入れたときとは別人のように穏やかな顔つきで、恵は「よろしくね」と微笑みかけた。
誰かの記憶を覗いて思い出の料理を再現するとき、サエはその誰かと通じ合えたような気持ちがして嬉しくなる。
行程をひとつ進めるごとに、記憶の持ち主がだんだん近くに感じられる。
玉葱を粗みじんに刻むときは、涙が止まらなくて困ってしまうけれど、それすらも誰かの思い出を体験しているわけで、その奥にうっすら見える家族や友人や恋人との何気ない日常が見えてくると、なんとも言えず愛おしくなるのだ。
だからサエは誰かの思い出の一品を調理している時間が好きだった。
できあがったものを口にする瞬間ももちろんたまらないのだが、やっぱり、少しずつ形になっていく時間が心地よかった。
しかし、食い入るような眼差しで手元を見つめられていると、どうも落ち着かない。
好物の肉が目の前にあるというのに、なかなか集中しきれずにいた。
「ええと、玉葱は細かくしすぎずに……次はお肉の筋切りを……」
次第に手つきはぎこちなくなっていく。
「恵さん。そんなに真剣に見つめられると、ちょっとやりにくいよー」
今にも泣きそうな顔でサエが言う。
恵はまるで監視しているかのような目つきでサエを見ていた。
「だって、どこに問題解決のヒントがあるかわからないじゃない」
見逃すわけにはいかないのだと、いっそう目を輝かせる。
何を言っても聞き入れてもらえる気がしなくて、サエは「じゃあ、お手柔らかに」とだけ言って作業に戻った。
集中だ。肉だ!
そう言い聞かせ包丁を握る。
筋切りした豚肉をだいたい三等分に切り分け、それぞれに塩とコショウを振り、さっと小麦粉をまぶす。
熱したフライパンに少量の油を引き豚肉を並べると、じゃっと音が弾けた。すぐに肉が焼けるいい匂いが漂ってくる。自然とサエの口元が緩んでいった。
「焦がさずこんがりよ。いい?」
恵が厨房を覗き込んで言う。
「わかってますよー。ちゃんと作り方はここに入ってるんだから」
こういうときは普通、頭を指すものかもしれないが、サエは胸の辺りをトントンと叩いた。
程なくして、肉は両面こんがりと焼き色がついた。今すぐにかぶりつきたくなるようないい具合だ。肉のうまみが噴き出しているのではと思うくらいに、豊かな香りを含んだ蒸気がゆらりと立ちのぼっていた。
サエは「おいしそう、おいしそう」と繰り返し言いながら、肉を一つ一つ皿に上げる。
「料理中って味見したくなるよね?」
期待たっぷりに言った言葉だったが、
「このあとのソースで存分になさい」
冷たくあしらわれてシュンとする。
はあい、と力なく返事して、サエは菜箸を木べらに持ち替えた。
フライパンには肉から落ちた脂がたっぷりたまっていた。
そこに荒く刻んだ玉葱を投入する。
玉葱の水分がぱちぱちとはじけ飛ぶ。
茶色がかった肉のうまみをあっという間に吸い込んだ玉葱をしんなりするまで炒めたら、トマトの水煮缶を一缶まるまる投入する。
この料理はこれでほぼ完成したようなものだと恵が言った。
「あとはローリエと塩、コショウを入れて少し煮込むの。ね? 簡単でしょ?」
おかげで初めてでもそれなりにうまくできたわ、と恵はその日のことを思い出しているようだった。
「お砂糖は……」
並べた材料の中、ただひとつ残った砂糖を手に持ってサエは飲み込んだレシピを見返す。
「ああそれはね。トマト缶はメーカーとかによって酸味が強かったり、さっぱりし過ぎていたりって味がバラバラなのよ。だから、味見して砂糖で調節」
ようやく味見の機会がやってきた。
肉でないのは残念だが、期待に胸を膨らませながらサエはふつふつと沸いたばかりのソースをさじですくう。
息を吹きかけ軽く熱を取ったら、恐る恐る口に運んだ。
トマトの酸味が口に広がって、その奥から肉のうまみがやってくる。粗みじんの玉葱はまだ食感が残っていて、トマトの口当たりとのバランスがいい。
そこへ香るローリエがうまく全体をまとめていて、簡単なのにしっかりとソースとして成り立っていた。
「でもここにお砂糖を入れるのね。もう充分おいしいのに」
「もっと美味しくなるわよ」
疑うサエに恵は得意げな顔で言った。
「……うわあ! 本当だ!」
二度目の味見で、サエは満面の笑みを見せた。ティースプーン一杯にも満たないほんの少しの砂糖で味わいが大きく変わった。うまみの中に奥深いコクが加わった。
「これをお肉にかけるだけでもおいしそうなのに……」
サエがゴクリと唾を飲む。
「え? 違うの?」
今まで静観していた篁は、予想外の一言につい口を挟んでしまった。
サエと恵は顔を見合わせにたりと笑う。
「肉は、」
「こうするの!」
サエはもう一度恵と視線を合わせてから、皿に上げてあった豚肉をトマトソースの中へ一気に戻し入れた。
トマトと玉葱のソースの中に紛れ込んでいく豚肉を見ながら、恵は不思議な心持ちになっていた。
懐かしいような。
逃した光景を見遣ったような。
なんとも言えぬ感情が胸の奥で揺らめいていた。
それはトマトソースのように酸味を含んでいて、だけど感じようと意識すればしっかりとした甘みもある。
肉がかたくなってしまうから絶対に煮込んじゃ駄目よと恵は声をかけた。
味がからめばもうそれでいいからと、フライパンの中身を気にする素振りを見せながら、実際はサエの姿に釘付けになっていた。
恵はサエの姿に、ゆらりと揺れる幻想を重ねていた。
ただちに消えてしまいそうなその幻想は何だっただろう。自分はサエに何を重ねただろう。
今こうしてカウンターを挟んで向かい合っている、彼女と自分と。二人の姿に何を見たのだろうか。
そう感じた時、恵は言いようのない不安に襲われた。
***
篁は『知らぬ』ということが許せない男である。
サエが料理に集中している間に、彼自身も初めて目にする食べ物について調べていたようだが、それによってもたらされた情報はサエたちの耳には入らなかった。
目の前に美味しそうな食べ物がある。
その事実だけで充分なのだ。
「うん! いい匂い! おいしそう!」
肉とトマトソースを皿に盛り付け、サエは満足そうに微笑んだ。
「普通はソテーした豚肉に、ケチャップベースのタレをからめるらしいんだけどね。我が家はこんな感じよ」
でも美味しいからいいのよと付け加えて恵も笑う。
母の作り方に忠実に従ったからだろうか。
目の前に差し出されたポークチャップは、自分が作るものとは違うように見えた。
調味料の差はあれど、材料も切り方もほとんど変えていないのだから見た目は同じようになるはずなのに、恵には違って見えた。
さていただきましょうかという時に、サエが神妙な面持ちで恵の手を止めさせる。
「あのね、食べたら不思議なことが起きるから! それだけ心に留めておいてね!」
「ちょっと。説明が雑すぎない? 何よ、『不思議なこと』って」
「食べればわかるよ!」
「説明するならしっかりする。しないならまったくしない。どっちかにしなさいよ」
「でも……」
切ない顔で何度もポークチャップに視線を落とし、言葉にならない訴えを恵に投げかけた。
早く食べたい。説明しなくちゃ。だけどやっぱり今すぐ食べたい!
そんな感情の変化の中で立ち往生してしまっているように見えた。
恵はただため息をこぼすしかなかった。
サエの気持ちもわからなくはないが、恵としては、余計な不安要素を投入されたわけだ。
ポークチャップに向けて伸ばした箸の行方にもためらいが生じる。
しかし、サエがじっと見つめて待っているのだ。
観念して肉を一切れ、そっと口に運んだ。
一口分を噛みちぎり、咀嚼する。
そうだったわ、と恵は懐かしそうに頷いた。
肉のうまみ、玉葱の甘み、砂糖で調えたコク。すべてがしっかり溶け込んでいるのに、あくまでトマトの風味は爽やかで豊かな酸味で。こんがり焼いた豚肉のしっかりとした味わいから、しつこさだけをさらっと奪い去る。
後味は、寂しさを感じるくらいにさっぱりしている。だからもう一口、もう一口と欲しくなる。
母のポークチャップの味だと感じた。
「うちは夫と私の二人だけだから、肉の量は半分。でもトマト缶まで半分にすると残りをどうしていいかわからないから、ソースだけは分量通りの材料で作るのよ。」
肉の量が少ないせいでソースのうまみが足りないと感じると、恵はニンニクやコンソメに頼るようになった。
美味くはなったが『違う』と感じていた。
だがそれはどうしようもなくて、『うちのはこういう味』だと思うようにしていた。
だがあらためて母のレシピで作ってみると、余計なことをしなくても充分に美味しい。その味をうらやましいと思ってしまった。
それは、目の前に広がる光景に対しても感じたことだった。
いつからだろう。彼女の目の前から、古びた食堂の風景は消えていた。
代わりに、ごく普通の家庭で、ごく普通の一家が食卓を囲み、なんでもない話題で盛り上がる。そんな光景の中に放り込まれていた。
物がごちゃごちゃしていて片付かない居間に流れる空気は、ホームドラマの家族のような誰もが憧れるようなものではなくて、食卓を見てもレストランのように見栄えの良い料理が並ぶわけでもない。
本当に何もかもが普通で平凡で、ありふれていて。
だけど彼女はそんな光景をうらやましいと思った。
自分のとは違うのだと思っていた。
「これが『不思議なこと』の正体ってわけ?」
大雑把とはいえ事前に説明があってよかったと恵は思った。それほど取り乱さずに済んでいるのはきっとそのおかげなのだろう。
「あのね、これは恵さんの記憶なんだよ。料理も、この景色も、あなたが最期に見たいと、強く願った結果なの」
そしてそれを分けてもらったのだとサエは微笑んだ。
この三途の川のホトリ食堂には、美味しいものを分かち合うための決まり事がある。
『味だけでなく、思い出も感覚も分かち合うこと』
恵たちは今、彼女の思い出の中にいた。
それは、彼女がまだ学生だったころの記憶。
家の食卓で、両親と弟と四人揃って食卓を囲むという、特別でもなく珍しくもない光景だった。
若き日の自分の前に置かれた一皿に視線を落とし、恵はふうっと息を吐いた。彼らの前には、母が作ったポークチャップがあった。
「こんな家庭で育ったからかしら。家族揃ってのあたたかい食事とかそういうものは、私にとって『理想』だったの」
当たり前の風景ではあったが、それは深く濃く自分の中にすり込まれていていた、幸せな家庭というものの理想の形だった。
「そうね。さっきみたいのも、きっとそう」
恵は、楽しそうに料理をするサエと、それに口出ししながら見守る自分に、幸せな母と娘の姿を重ねたのだという。
しかし自分の人生を振り返ってみれば、その理想とはずいぶんかけ離れていた。
夫と二人きりの食卓を思い浮かべた。
別に不満はない。不満はないのに、寂しいと感じることがあった。ただ漠然と物足りなさを感じる時があった。
「引け目を感じていたのね、きっと」
恵は自分自身の発言を鼻で笑ってみせた。
「もしかして、若い姿になったのは、その頃に戻ってやり直したいとか、そういうこと?」
サエが小首を傾げる。
しかしすぐに恵が否定した。
「それは少し違うわ」
戻りたいと思ったのは確かだ。
だがサエが言ったのとは少し違う。
やり直したいのではなくて、もう一度選択してみたかったのだろう。
「んん? それは、やり直すのとは違うの?」
「違うの。もう一度選択したときに何を選ぶのかを知りたかったんだと思う」
こんな人生が待っていると知っていたら、若き日の自分はどんな未来を選択するのか、それが知りたかった。産まない選択をしたあの頃の自分に、何よりも仕事を優先した自分にもう一度問いたかった。
「例えば、仕事よりも家庭を選んで、母や姑にいろんな料理を教わって。それを夫や子どものために作って、そしてまた子どもに伝えて――そんな人生を選んだりもしたのかしらって」
恵は微笑ましい事柄を穏やかに話しているつもりだったのだが、何故かサエが険しい顔をしている。
「何よ」
じっと見つめる視線に対抗して、恵は眉をしかめた。
サエは唸りながら真剣に言葉を選んでいる様子だったが、それは長くはもたなかったようで、息継ぎをするような仕草で顔の緊張を解いた。
そしてぱちくりと目を瞬かせて、苦笑いを浮かべる。
「そうは言っても、恵さんは同じ道を選ぶ気がする」
「どうして?」
「うーん。『なんとなく』じゃダメ?」
「ダメよ! 何故その結論に至ったか、その理由をちゃんと考えないと、何の解決にもならないでしょ」
「でも……だって」
それ以外に言葉を見つけられない様子のサエに、恵はため息をこぼした。そのため息はすぐに微笑みへと変わる。さらに、呆れた顔へと変えて「まあ、私もそう思うけどね」と、さらりと言い放った。
「どうして?」
自分では見つけられなかった答えを求めて、サエが瞳を輝かせる。
恵はもったいぶるにいいだけもったいぶって、結局、
「なんとなくよ」
と、サエとまったく同じ言葉を吐き捨てた。
口元に意地悪な笑みをたたえていたのを見つけて、サエは全力で抗議に出る。
恵はそれを適当にあしらいながら、親子の様子をちらりと見た。
口ではそう言っていても、心の中に渦巻くものは、そう簡単にはなくならなかった。
***
彼女の足が止まった理由はわからなかった。
いくつかの『不思議なこと』を起こしたサエたちにも、過去に戻すということはできないのだ。
では彼女はどうしてこの食堂に引き寄せられたのか。
どうしようもないと自覚して、あきらめるためだったのだろうか。
「ポークチャップを食べるためでしょ」
いつの間にか団らんの風景の中に足を踏み入れていた篁が、さらっと言った。すました顔をしているが、口の端にうっすらトマトソースの赤い色が残っていた。
「えー。それだけ? お腹が空いていただけってこと?」
サエが声を上げた。
「そんなわけないでしょうよ」
あーだこーだと次々に言葉を重ねるサエを押しのけて、篁は食卓のそばに歩み寄った。
そしてポークチャップを指差し恵の顔を見る。
「同じ味にはならなかったんでしょ? だけどいろいろ工夫して、頑張ったんでしょ?」
そう言われて、恵は自分の中に風が吹いたように感じた。
そよ風のような弱々しい風ではあったが、靄の向こうにあるものに気づかせるには充分だった。
母のポークチャップは、特別なことをしなくてもしっかり美味しかった。
自分で作る時、同じ満足を得るためには、工夫をしなければいけなかった。
「そうね。でも工夫をすれば美味しくなったものね」
一言一言を言葉にすれば、靄はどんどん薄れていく。
同じ味を作れないことを悔やんだりもしたが、でも、努力して工夫して、そうして作った自分流のポークチャップも美味しいのだという自負がある。
二人分でも、違っても、ちゃんと美味しかった。
「そういうことだと思うよ」
と篁が言う。
恵は食卓に視線を落とし、
「そうみたいね」
と言って微笑んだ。
それに気づくために母のポークチャップを食べに来たのねと、今一度、『理想』だった家族の姿を眺めた。
「……やっぱり、私は同じ道を選ぶような気がするわ。だって、恥じるような選択をしたつもりはないから」
恵は無邪気な笑顔を見せた。
「そうだね」
篁はそれしか言わなかったが、恵にはそれで充分だった。
恵と篁は視線を合わせて笑った。
一人だけ、笑顔になれずに仏頂面をさらしている人間がいる。
「どういうことー」
篁と恵の顔を順に覗くが、二人とも意地悪な顔ではぐらかして教えようとはしなかった。
「お子様にはわからないんだよ」
と篁が言うと、恵が声を上げて笑った。
「何言っちゃってんのよ。私から見たらあなたもまだまだお子様みたいなものよ」
そう言って、篁の口元に残っていた赤い色を拭ってやった。篁は必死に抵抗したが、恵が「冥土の土産に、これくらいいいでしょ」などと言うので、あきらめて従った。
なおも一人だけ蚊帳の外に置かれて、サエの頬がぷうっと膨らむ。
「まあまあ。あなたも大人になったらわかるわよ」
恵はサエの頭をわしわしと撫でた。
こちらも全力の抵抗を試みるが、それでも恵はやめなかった。
しかし突然手が止まる。
不思議に思ったサエが恵の顔を見上げると、彼女はじっとサエの体を見つめていた。
「大人になるのよね? ……人間よね?」
疑念をたっぷり含んだ問いに、サエはたじろぐ。
「ええと……」
苦笑いのような照れ笑いのような微妙な笑顔で取り繕うが、恵の気迫に勝てるはずがない。
最後にはなぜだか「ごめんなさい」とか「許してください」などと口にして恵の前にひれ伏した。
「私、ずっと前からここにいるから、それより前のことは忘れちゃった。でも、間違いなく人間だよ!」
両手を高く上げてアピールする様は、威嚇する熊か何かに見えてしまって、「人間だ!」と主張するよりも、がおーっと効果音をつけた方がしっくりきそうだった。
そんなサエの姿を、恵は呆れた様子で眺めた。
「あなた自身は、ここにいる理由とか考えたりしないの?」
それでいいのと質問を重ねる。
サエは少し困った顔をして考えて、それから何かを思い出しにたっと笑った。
「どんな理由だとしても、ここにいられて幸せなの」
「どうして? こんなとこ、すごく退屈そうじゃない」
「そんなことないよ! ここにいるといろんな人と会えるし、何より、いろんなものを食べられるんだもの!」
サエは満面の笑みを見せたが、恵の反応は芳しくなかった。
「あなたの方が食べさせる側でしょう」
心底呆れたといった顔で恵はため息をこぼした。
「ここに立ち寄れて良かったわ」
恵は食後のお茶まで済ませると、旅立つ前に洗面台の前に立った。
しっかり化粧をしているというのに、その顔に豪快に水を浴びせた。
「スッキリした!」
顔を上げ、何か拭くものをとサエを急かす。
「恵さん、その顔……」
タオルを手渡したサエが絶句した。
ちらりと視界に入った鏡を覗き込むと、そこには本来の姿の恵が映っていた。
「あら。執着がなくなったせい?」
若いままが良かったわなどと冗談ぽく嘆いてみせるが、サエは真面目な顔で恵の手を取った。
「私はこっちの方が好き! とっても優しい顔をしてるもの!」
キラキラと輝く眼差しを向けてくる。
「あら、そう?」
と、またしてもおどけてみせたが、内心は照れくさくて仕方なかった。
ごまかすように、もう一度鏡に視線を向けた。
よく見れば母親にそっくりだと、恵は嬉しそうに笑った。その顔を見て、サエも笑顔をになる。
「サエさん。ありがとう。あなたのお店に来れて、本当に良かったわ」
そう言って力一杯にサエを抱きしめた。
「最期に自信を持つことができて、本当に良かった」
サエはその言葉に応えるように、そっと背中に手をまわした。
細い体が小さく震えていたが、サエは気づかないふりをして彼女の胸に顔をうずめた。
出がけに、あらためてガラス戸の整備不良を指摘して、彼女は旅立っていった。
「いい顔してたね!」
とサエが言う。
篁はいつもの席に座って頬杖をついた。
「俺は若い時の方が良かったな」
そう言って宙に視線を浮かべた。
サエは恵の顔を思い出す。
「ああいう顔が好みなの?」
「さあ。どうだろうね」
篁ははっきりとは答えなかった。
そんな篁の態度になんとなくイライラしている自分に気がついて、サエはいてもたってもいられなくなった。
「篁さんのせいだー!」
何の脈絡もなく叫びだし、使用済みのおしぼりの山を篁に向かって投げつけた。
ひとつ、あさっての方向に飛んでしまったおしぼりが、ガラス戸に当たりガタンと大きな音を立てた。続けて「ひいっ」と短い悲鳴が聞こえ、サエは慌てて店先へ向かう。
そこには怯えきった男が、こちらの様子をうかがいながら立っていた。
また新しい出会いがやってきたとサエは嬉しくなった。恵にたしなめられたばかりだというのに、次はどんな料理が食べられるのだろうと期待してしまう。
大急ぎで身だしなみを整えて、笑顔で次の客を迎え入れた。
そして喜びをいっぱい詰め込んで、例の決まり文句を口にするのだ。
「ようこそ、三途の川のホトリ食堂へ! まだまだ続くなが~い旅路に備えて、お腹いっぱい、心いっぱいに満たされていってね!」