【第三話 誰がためのシナモンロール】
【第三話 誰がためのシナモンロール】
目の前に差し出されたオーブンの天板には、ぐるぐると渦を巻いた形のパンが並んでいた。
焼きたてのパンというものはこれほどまでにおいしそうな匂いがするのかと驚きもしたが、それ以上に少年を魅了したものがあった。
まず鼻先に届き、かつ最期までまとわりついた甘い不思議な香りだった。
小麦の甘さとも違う。酵母の少し独特なにおいとも明らかに異なる。それはまさしく『かぐわしい』と表現したくなる香りで、甘くはあるのだが、鼻の奥までしっかり届くのに爽やかに抜けていく。
少年は深呼吸するようにその香りを吸い込んで目を輝かせた。
だが、その直後に表情は陰った。
『思い出の料理をごちそうしてあげる』
と言われたはずなのに、彼はその食べ物に見覚えがなかったのだ。
腕組みをし、首を傾げ、むむむと唸ってみたが、それでも答えは変わらなかった。
「俺、このパン知らないんだけど」
一緒に天板をのぞき込んでいた少女と男の顔を順に見て、少年はばつが悪そうに笑った。
「だってさ。サエちゃん」
ため息まじりで男が呼びかけると、少女は分厚いミトンを着けたままの両手を腰に当て、得意げな顔を見せた。頭に巻いた三角巾からのぞくやわらかな巻き毛が元気に揺れる。
「大丈夫! もうちょっとしたら、きっとわかるから!」
サエは自信たっぷりの笑顔を見せたかと思うと、後片付けやら何やらとせわしなく動き回る。
その一生懸命な眼差しに、少年は何かを思い出しそうになった。それはとても大切な何かだった。
***
目の前に現れた大河が三途の川だと理解した時、少年は恐怖や戸惑いよりも、ただただ感動したという。
「順応性というか怖いもの知らずっていうか。若い人ってすごいね、篁さん」
「サエちゃんだって十分若いでしょ」
「私は……あれ? 私っていくつなんだろ」
少年が自分の身に起きたことを興奮気味に話し続けている中、食堂の店主であるサエと常連客の篁は少し疲れた様子でそんなやりとりをしていた。
「三途の川のデカさにもびっくりしたけど、まさか、こんなところに食堂があるなんて」
少年は久しぶりに喋るのをやめてぐるりと店内を見渡した。
「しかも昭和レトロってやつ? こういう食堂、本物は初めて見たわ。すげー」
制服のポケットからスマートフォンを取り出すなり、あちこちに向けて写真を撮る。
「あんなもの持ってこれるんだね」
と驚くサエに、
「結構色々持ってこれるよ。でも、何を持ってこようと、川の向こうの衣鈴樹ってとこで恐ろしいばあさんにもれなく没収されるけどね」
篁は何でもないことのようにさらりと答えた。
食堂に足を踏み入れた時から、少年はずっと落ち着きのない様子だった。同じ場所にじっとしてはいられず、カウンター席の端から端まで順番に腰かけてみたり、かと思えばくたびれた冷水機を物珍しそうに眺めたり、薄汚れた壁に貼られた古めかしいポスターやら何やらを真剣な眼差しで睨みつける。
忙しく騒々しく何かをし続けていたわけだが、ほんの少しの時間の空白ができると、眉根を寄せ表情を曇らせた。
「これから俺、どうすればいいの?」
間違いなく困っている。動揺している。
それなのに少年は、泣くでもわめくでもなく、おどけたように笑ってみせた。
彼は八日ほど前に死んだ。
まだ十五歳になったばかりだった。
「ああ、ここに来た経緯とかはいいからね」
そう言った篁は、少年がたどり着いた時には随分と疲弊しているようだった。
「どうせ他の奴らとそう変わらないだろうし。だから、いいね?」
と釘を刺されたにも関わらず、――いや、少年はそれが『釘』であったことにも気づかずに、食堂にたどり着くまでの道のりを一通り、しっかりと説明したのだ。
たしかに篁の言うとおり、少年の話はこの食堂ではよく聞く話だった。細部に多少の違いはあれど、皆同じようなことを言う。
どこともわからぬ場所を歩き、鬼に睨まれ泰広王とやらの前に突き出され、川の渡り方を指示されて、「さあ、行け」と追い立てられた後、へとへととになりながら積み石の塔が建ち並ぶ河原にたどり着いたのだと。
そこで美味そうな匂いに気がつき吸い寄せられるように店へと向かうのだが、不思議なことに腹は減ってはいない。
それでどうしたものかと怯むと、店の中から「ようこそ! 三途の川のホトリ食堂へ! まだまだ続くなが~い旅路に備えて、お腹いっぱい、心いっぱいに満たされていってね!」と元気いっぱいに声を投げられ、なんとなく足を踏み入れるわけだ。
「いらないって言ったのに」
篁が苛立ちを隠さずに言ったが、少年は何が気に障ったのかわからないといったふうに篁とサエを見た。
「俺、どうすればいいの?」
サエに耳打ちするように問いかける。
「篁さんのこと? これからのこと?」
「どっちもかな」
少年は苦々しく笑った。
「篁さんはどうでもいいとして、」
「こらこら、サエちゃん。『どうでもいい』はないでしょ」
「いいの! 篁さんが入ってくると話が遠回りになるから!」
黙っていてとつけ加えてサエはべえっと舌を出す。篁はほんの少しだけむっとしたような素振りを見せたが、サエの視線がさっさと少年の方に向いたのを見届けると口の端をくいと上げた。
そんな二人のやりとりを見ながら、少年は屈託なく笑った。
「それで、俺はどうすればいいの? やっぱり、このあとどこかの世界に転生とかするの?」
ニコニコと警戒心ゼロの顔を向け問いかける。
その様子と発言に、サエはポカンと口を開けた。
「どこかの世界? 転生?」
サエは右へ左へと首を傾げる。
「転生しないの?」
「転生って、輪廻転生のことかな?」
「リンネ? いや、なんか違うっぽいけど。え? だって俺、死んだんでしょ?」
「そうよ。死んだの。そこは合ってる」
「でしょ? じゃあ、やっぱり転生するでしょ」
「え? ……たぶんすると思うけど、それはここで決めることではないし」
「そうなの? ここって、パラメーターとか特殊スキルとか行き先とか、そういうの決めるところじゃないの?」
「ええと、ちょっと何を言っているか……」
まったく噛み合わない会話にサエの方が音を上げた。
「篁さん!」
眉をハの字にして助けを求める。
だが篁はサエに視線を向けはしたが、何も言わずにいた。何かを待っているように、じっとサエと視線を合わせているのだ。
サエはそれが何を意味するのかすぐに気がついて、唸りながら口を尖らせた。
「はいはい。『黙っていて』とか言ってすみませんでした! 謝りますから、たすけてください!」
最後の『い』の辺りに苛立ちを詰め込んで言う。
「しょうがないな」
篁はにたっと意地悪な笑みを浮かべた。
「いいか、少年」
「崕です。崕ヤマト。左に山って書いて、右に……なんか、こういうの」
少年が宙に指で文字をなぞってみせる。
「これは現実だ」
指の動きに目を向けることもなく篁が言った。
少年は、篁が何を言わんとしているのか理解できずに目を丸くしている。
「わかってるよ。これは現実で――俺は死んだんでしょ?」
「そう。死んだ。そして、これから『こっち』でどう過ごすかを十王審判で決める」
「『こっち』っていうのは、異世界的なアレですか? そこでどう過ごすかっていうと、『強さを突き詰めるか、それともまったり日常生活か』みたいな」
「言っただろ。お前は死んだんだ。この先には、単なる極楽と地獄があるだけだ」
「転生してチートとかは……」
期待を込めた問いかけだったが、篁の表情が険しいままであるのに気がついて、少年の勢いは削がれていった。
「……そういうのじゃ、ないんすね」
「そういうのはここではやっていない」
「ってことは! やっているとこもあるの?」
「何度か死んでみれば、いつかはそういうことにめぐり逢えるかもな」
「そうかー。いつかはあるかもしれないのかー」
どこまで理解しているのか、崕と名乗った少年は悲しむよりも先に、どこかにあるかもしれない『異世界的なアレ』を思い浮かべながら目を輝かせていた。
しかしそれは長くは続かなかった。
希望や好奇心に彩られていた眼差しは、やがて光を失い、視線はどこか一点に定められたまましばらくの間動かなかった。
それは急激な変化ではなく、パンパンに張りつめていた風船がゆっくりとしぼんでいくような変化だった。
崕はふっと息をつくように儚い笑みをこぼしてから、「あーッ!」と大きな声を上げた。
怒りのような嘆きのような、どちらでもなくどちらともとれるような声を張り上げ、その後にはやけにスッキリした顔つきで天井を見上げた。
手も足もだらしなく放り出し、椅子の背もたれに体をあずけて、天井の一点を見上げていた。
「そっか。転生とかないのか。じゃあ、俺どうしたらいいんだろな」
***
しみじみと人生を振り返るには若すぎたのか。
いやそれは決して年齢のせいじゃない。
もしも、このまま年をとって天寿をまっとうしていたとしても、やっぱり自分は、こんな心持ちで三途の川を眺めたのかもしれないと崕は感じていた。
「怖いけど、きれいだ」
今日は少し暑いから、と言ってサエが開けた引き戸の向こうに、大きな大きな川が見えた。
死後の世界に暑いとか寒いだとかがあるのかと不思議には思ったが、崕は何も言わずに三途の川を見遣った。
たどり着いたときには好奇心や興奮のせいでずいぶんと大げさに目に映ったが、心穏やかに眺めてみると、それはずいぶん禍々しくて、だけどとってもきれいな流れだった。
崕はそう思った。
なんてきれいな流れだろうと思った。
それを眺める自分の心は、どうしてこれほどまでに落ち着いているのだろうと思った。
涙のひとつもこぼれないのかと、そう思った。
「だとしたら、俺はどうして生まれてきたんだろう」
その問いは誰の耳にも届いていないようだった。
そもそも声には出していなかったのかもしれない。
己の声帯を震わせてその一言を絞り出したと錯覚するほど、崕の心の中にはその疑問以外のものが見当たらなくなっていた。
三途の川のほとりにあるこの食堂では、時間の流れというものがいまいちわかりにくかった。
崕がたどり着いてからどれくらいの時間が経過したのか。
彼が騒がしかったうちはあっという間に時間が過ぎていくような気がしたが、今はゆっくりゆっくりと流れているようだった。
そうして考えてみれば、本当はつかの間の時間だったかもしれないのに、サエは静かすぎる状況が続いていることに耐えきれず不必要に声を上げた。
「わー!」
両手を高く上げ、万歳でもするような体勢で篁と崕とを順に見た。
ついでにこれでもかと全身を引っ張り上げ背筋を伸ばす。
もう伸ばせないというところまでたどりついたのか。ふうっと息を吐きながらいつものサイズに戻ると、「よし!」と気合いを入れた。
「ここに来たってことは、何か未練とか心残りとかあるんだと思うの!」
厨房に入っていたサエはカウンターを乗り越えるくらいの勢いで崕に噛みついた。
ここはそういう人間が寄り道をする場所なのだと続けると、崕は困った様子で視線を右上の方へ上げる。
「俺の心の問題ってこと?」
「そう! だから、不安、不満、困っていること、なんでも言ってね。きっと力になるよ!」
さらに身を乗り出して迫るサエに、崕はたじろぎもせず、「ふうん」と軽く声を発するだけだった。
「どうかな?」「ないかな?」「あるよね?」 などと、たいした間も開けずにサエが問いを重ねると、カウンター席の端の方から重苦しいため息が聞こえてきた。
「サエちゃん。ちょっとの間黙っていてあげなよ」
さっきの仕返しとばかりに篁が自分の唇の前にバツ印をつくった。
サエは悔しくて何か言い返してやろうとするのだが、崕の様子を横目でうかがうとおとなしく篁の言葉に従った。
少年は呆けたような顔つきで微動だにせず、自らの頬杖にようやく支えられて座っていたのだ。
サエの目には『呆けたよう』に見えたが、どうやら彼は真剣に考えていたようだった。
その証拠に、サエがなんとかこらえて待ち続けていると、やがて「わかった」と声を上げた。
「わかったのね? それで、どうだった?」
サエが『もう待ちきれない』と目を輝かせている。
それでも少年はいたって冷静に、そして穏やかな声色で答えを口にした。
「たぶん俺、次に進みたくないんだと思う。生まれかわりたくないんだよ、きっと」
言ってから、瞬きを一度だけした。
自分の言葉を噛みしめるようなゆっくりとした瞬きだった。
俺には、なんにもないんだ。
たくさん考えて、小さいころから今までとか、いろんなことを振り返ってみたんだけど、やっぱりなんにもなかった。
やりたいこととかもなかったし、心から楽しいって思うようなこともなかった。ただ毎日学校行って、家帰ってご飯食べて寝るってさ。
自分にとってもまわりにとっても、当たり障りのない毎日って言うの?
人生、そんなものだと思ってた。
これからも、ずっとそんなものなんだろうなって、なんとなく思ってた。
でも、こんなのがずっと続くんだとしたら、生きている意味があるんだろうかと考えたことがあったんだ。
不満があったわけじゃないと思うんだけど、でも、こんな人生になんの意味があるんだろうかって。
まあ、考えてみただけで、答えを見つけようとはしなかったけどね。え? だって、見つかるわけないもの。そうでしょ?
転生して異世界で冒険三昧、みたいなことも用意されてなかったみたいだし。
だから。
もう一度人間やりたいかって言われたら別にいいかなって。
だからといって動物とか虫とか植物とかは生存競争とか大変そうだからイヤだし。
そういうわけなんで、俺、次の人生とか生まれかわるとか、パスだわ。
まるで昨日見たテレビの感想でも話すように、崕はよどみなく淡々と打ち明けた。最後には、あっけらかんと笑ってみせた。
そこに悲壮感のようなものはいっさい存在しなかった。
***
サエはどうしていいかわからなくて、とりあえずお茶を淹れることにした。
三つの湯飲みを用意して均等に注いでいく。
「サエちゃん、俺コーヒーがいいなあ」
篁がマイペースに言う。
サエは篁の前に、乱暴に湯飲みを置いた。
一方、崕少年には「熱いから気をつけてね」と優しい一言を添えて差し出す。崕もしっかりと頭を下げて礼を言った。
ずずずっとお茶をすする音が重なる。
「というわけで、ここで働かせてもらうってのはどう?」
口火を切ったのは崕だった。
「バイトの経験とかはないけど、たぶん働けると思う」
ぐっと拳を握ってみせる。
その根拠のない自信もそうだが、何より、今までの客たちにはなかった発想にサエは驚くしかなかった。
「ええと。そういうのって、」
言いながらいろいろと考えてみるが何も浮かんではこない。しかし崕は期待たっぷりにサエの返答を待っている。
崕には愛想笑いでごまかし、くるりと向きを変えると、忙しく表情を一転させて篁に助けを求めた。
「そういうのって、大丈夫なのかな?」
困惑を隠さずにすがりつく。
篁は「さあね」とわざわざ意地悪な台詞を言ってからサエの問いに答えた。
「ここで働くとかいうのはともかくとして。本人にその気がないのなら、生まれかわっても意味がないからね」
「生まれかわらないとどうなるの?」
「魂が消滅するとかじゃない?」
これについては篁もはっきりとしたことは知らないようで、お手上げのサインを見せた。
「え、でも二人はずっとここにいるんじゃないの?」
サエたちのやりとりを聞いて崕がすかさず口をはさむ。
「俺はいろいろ行ったり来たりしてるんで」
篁はあえて答えをうやむやにし、
「私は……ええと、ちょっといろいろありまして」
照れ笑いを浮かべたのはごまかすためだったのか。それとも純粋に照れくさかったのか。
どちらかを明らかにしないままサエは胸のあたりで腕を組み難しい顔をする。
「どちらにしても、たぶん十王様のおゆるしが必要なんじゃないかな?」
そしてそのためには、とりあえず三途の川を渡り次の王に会う必要があるだろうと篁が補足した。
「えー。そうなのか。それはまた……」
崕の視線は自然と店の外へと向かう。
向こう岸の見えない大河に、思わず表情が濁る。
「そこまでしなくちゃなんないなら、別にふつうに生まれかわるのでいいか」
意外なことに、あっさりと方向転換をした。
「え? 生まれかわりたくなかったんじゃないの? どうしても嫌だから、ここに来たんじゃないの?」
「『どうしても』ってわけじゃないよ。正直、どっちでもいいんだ、俺は」
自分の言葉に「うん」と頷いて、崕はお茶を啜った。たまにはこういう年寄りくさいのもいいねと笑う。そして何事もなかったかのようにぼんやりと店の外を眺めるのだ。
「サエちゃん、不満そうだね」
同じくお茶をすすりながら篁が声をかける。
「不満ではないけど……」
そう言いながらも、サエは不満そうな顔つきで腕組みを解こうとしなかった。
「料理していないのに解決しちゃったんだもの。そもそも解決したのかどうかもよくわからないし。本当にこれでいいのかなあ」
むうっと唸り声を上げるサエ。不満と言うよりは不安になったようだった。
「たまには楽していいんじゃないの」
「でもそれじゃあ私のいる意味がないような気がするの」
「サエちゃんはホント真面目さんだねえ」
皮肉のように篁が言うので、サエは表情をいっそう険しくさせた。
篁はその姿を見ながら意地悪に笑うと、そのままの顔つきで、サエと真っ直ぐに視線を合わせた。
「でもさあ、意味がなくなるからやるの?」
意地悪であるのに、いつもよりも少しだけやわらかな声色であると感じた。そう感じると笑顔までも優しく見えてくる。サエを包み込むように、導くように、そっとささやいた一言のように思えてくる。
だがそれはサエの勘違いだったのかもしれない。
「まあ、それならそれでもいいんだけどね」
篁はその幻を打ち消すように、いっそう意地悪な笑みを口の端に浮かべた。本当に憎たらしい顔をしてサエから視線をはずす。
ちらっとずらした視線の先は、壁に並んだ白紙の短冊に向けられていた。
知らないうちにその視線の行方を追っていたサエは、一呼吸分遅れて短冊を見る。
何も書かれていない短冊。
サエはぎゅっと口を結んだ。
短冊を見上げて、頷いた。
一度では足りない気がして、二度三度と繰り返した。
そうしてから崕を見て、篁を見た。睨みつけるような強い眼差しを二人に向けてから、にいっと屈託のない笑顔を咲かせた。
「違うよ! そんなんじゃない。私がやりたいからやるの!」
言うなり崕の目の前に進み出て仁王立ちをする。これでもかと胸を張り、両手は腰に当て、瞳をキラキラと輝かせた。希望と自信をたっぷり詰め込んだ輝きだった。
「いい? 私があなたの思い出の料理を作ってあげる! それを食べたら、モヤモヤした気持ちなんてどこかに吹き飛んじゃうから! そうしたら、もっと前を向いて先に進めるようになるんだからね!」
「別に俺はそんなことしてもらわなくても……」
「ダメよ! 私がやるって言ったらやるの! 食べてもらうの! それが三途の川のホトリ食堂のきまりなの! そういうことだから、作るよ。頑張るよ。えい、えい、おー!」
そんなきまり初めて聞いたよと篁が呆れ顔でこぼしたが、サエは聞こえないふりをして両腕を突き上げた。
「ということで、篁さん! いつものアレ、お願いね!」
すっかり機嫌を良くしたようで、おねだりにウインクをおまけする。
しかしその調子も長くは続かなかった。
「今日は無理だよ。立て続けにお客さんが来たから用紙が底をついちゃった」
空になった書類ケースを鞄から抜き出し、ひらひらと扇ぐ。
「そんなことってあるの? すぐに届けてもらえたりしないの? じゃあ、私はどうすればいいの!」
「いい機会だ。たまには自分の頭で考えてごらん」
矢継ぎ早に質問を浴びせるサエの動揺っぷりには触れもせず、篁はしれっと言い放った。
怒ったり悩んだり落ち込んだりと、様々な感情の間を行ったり来たりしていたサエに、篁がようやく声をかけた。
「『崕くん』のために何をすべきか、よーく考えるんだよ」
わざとらしいくらいに『崕』という名を強調する。
意地の悪い言い方だとしてもきっと意味のある言葉を投げてくれているのだと信じ、サエは頭の中で篁の言葉を復唱した。
何度も復唱して、口ぶりを真似て、そしてはっと気がついた。
「『崕くん』」
サエは言いながら崕の顔を見た。
自分の発した言葉なのに、不意を突かれたような反応を見せる。
「はい、なにか?」
その様子を怪訝な目でうかがいながら崕はしっかりと返事をした。
「崕くん?」
「だから、なんですかって」
「崕くんだよね?」
「……頭だいじょうぶ?」
「崕くんだ」
「ちょっと篁さん。なんかおかしくなってますよー」
「そうだ。崕くんだ! わあ、なんですぐ気づかなかったんだろ!」
サエは興奮した様子で崕を指差し声を上げた。篁の顔を見て、崕くんだよと訴える。しかし喜びにほころびそうになった顔は一転してやや曇り、彼女の口からは誰に対してなのか「だって、ここ数日忙しかったんだもん!」などと言い訳じみた言葉が漏れた。
「でも大丈夫! 崕くんが『崕くん』だってわかったからもう大丈夫! このサエさんに任せておいて!」
元気いっぱいにどんと胸をたたく。
「あ、ええと……じゃあ、よろしく」
呆気にとられた崕くんはそう返すので精一杯だった。
***
真っ赤なオーブンが低く重く唸っていた。
この古めかしい食堂には似つかわしくない新しめの家庭用オーブンレンジは、食器棚隣の作業台に置かれていた。他のものとの配置のバランスを考慮した様子もなく、まるで今日だけ特別にそこに居座っているような不自然さがあった。
だがいい仕事をしているようだ。
扉のガラス部分から焼き具合を確認していたサエはにんまりしている。ついでに、くんと鼻先を上げ匂いをいっぱいに取り込むと、さらに笑顔をふくらませた。
「そんなに顔近づけなくても、ここまで匂い来てるよ」
サエの様子を見て崕が笑った。
「見てると飽きないでしょ?」
間髪を入れずに篁が問う。
崕は柔らかな表情を見せながら頷いた。
「なんか、知ってるヤツに似てて。あんな風に真剣な顔したり、かと思えばこれでもかってくらいに喜んでみたりしてさ。そうやってお菓子とか作るんだけど、いつも出来が微妙なの。んで、それをヘンなゆるキャラの袋に入れて配るんだ」
サエと似ているらしい誰かの姿を思い浮かべながら崕は微笑みをこぼした。
しかしその笑みは徐々にこわばり、やがて悲しい色を帯びた。
サエと篁がああでもないこうでもないと口論している間に崕少年はぽつりとこぼした。
「一生懸命で、キラキラしてたな」
その台詞の端が耳に入ったようで、篁が崕の方へと視線を流した。鋭い眼差しで崕をとらえそっと口を開く。
篁の口が何かしらの言葉を発する前に、オーブンレンジの電子音が焼き上がりを知らせた。
崕はとっさに表情を繕おうとする。うまくできずに気まずい空気が流れたが、サエの弾んだ声がすべてをかっさらっていった。
「できたよ! みんな、準備して! オーブンを開けたら、匂いがぶわーって広がるからね!」
「だから、さっきからもう十分おいしそうな匂いがしてるってば」
そう言った時には崕から悲しみの気配は消えていた。
サエのもとへ駆け寄り、無邪気に笑ってみせる。先ほどの告白と直前の顔つきのせいで、その笑顔は作り物のように見えてくる。隣に『本物』があれば尚更だ。比べものにならないほどに晴れやかで、純粋に嬉しさだけを表したような顔で、サエがオーブンの天板を運んだ。
「じゃーん」
と口で効果音をつけて披露する。
クッキングシートが敷かれた天板の上に渦巻きの形をしたパンが整然と並んでいた。そこから立ちのぼる熱気と匂い。
サエの言葉通り、オーブンを開けるやいなや、食堂内はかぐわしい香りで満たされた。
美味しそうなパンの匂いだ。
パン屋の前を通れば似たような匂いが漂っているが、『目の前で、たった今』焼き上がったパンの匂いというものは別格だ。
加熱された穀物の甘い匂い。
焦げ臭くなる手前の、良く焼けた香ばしい匂い。
それらの匂いがほんのりとした熱をともなって、じんわりと鼻腔に染みこんでくる。
それだけでも幸せだと思うのに、サエが焼いたパンにはそれ以上の香りがあった。
甘く、刺激的で、そして爽やかな不思議な香り。
崕は天板に顔を近づけて、その辺に充満している匂いを体いっぱいに吸い込んだ。
ああ、やっぱりいい匂いだ。
崕は目を輝かせパンを見る。
こんがり焼き目のついた渦巻きのパン。内側の螺旋に縁取りをしたように焦げ茶の蜜らしきものがある。その焦げ茶が何ものなのかは知らないが、しっとりと生地に染みこんでいるようで、そこがずいぶんとうまそうに見えた。
崕はゴクリと唾を飲み込んだ。
だが、食べたいという気持ちと同じくらいに、疑問が頭を占拠しようとしている。
『あなたの思い出の料理』
サエは確かにそう言った。
それなのに、崕はこの渦巻きのパンに見覚えがなかったのだ。
「俺、このパン知らないんだけど」
そう伝えてみてもサエはまだまだ自信たっぷりに「大丈夫」という。
そう言いながら、こそこそと何かをしている。
えいっと背伸びをして、食器棚の高いところから何かを取り出そうとしているようだが、崕の意識は渦巻きのパンへと向いていた。
自分の思い出の料理などではないが、美味しそうなのは確かだ。
すっかり匂いに魅了され、つい手を伸ばしてしまった。
まだしっかりと熱いパンを一つ掴み、顔のすぐ前まで近づける。小麦の匂い。香ばしい匂い。甘い匂い。そして最も少年を惹きつける匂いは、香辛料のようにピリッとして、ハーブのように華やかで、蜜のように甘く甘く彼の心を絡め取る。
疑問が消えたわけではない。
だがもう我慢できなかった。
「食べていい?」
そう尋ねながらも、答えを待たずに口に運ぼうとする。
「ちょっと待って!」
慌てて振り返ったサエは食器棚から取り出した何かを落としそうになる。うまく受け止められず、『何か』はサエの腕の中でお手玉のように何度か跳ねた。
その様子を横目で見ながら、崕はもう渦巻きのパンにかぶりついていた。待てと言われたが間に合わなかった。
怒られるかな。
そう思いながらパンにかぶりついていた。
口いっぱいにあふれた香りと甘さが鼻に抜けていく。その最中にサエのお手玉が止まった。『何か』の正体が崕の目にはっきりと映った。
見覚えのあるキャラクターがプリントされたラッピング袋。
「……どうして」
パンを噛みちぎりながら、言葉が漏れた。
その問いに答えが返ってくる前に、ラッピング袋は崕の前から消えた。
袋だけではない。
サエも篁も、食堂も何もかもが消えた。
代わりに崕の前に現れたのは、彼が見慣れた風景だった。
「これ、うちじゃないか」
知っている壁や天井に束の間の安堵がやってくる。
しかしそれはすぐに違和感に変わった。
ダイニングテーブルが違う。カーテンの柄が違うような気がする。そして、キッチンで洗い物をしている母の顔がずいぶんと若々しく見えるのだ。
実際、それは若いときの母の姿だったのだろう。髪が長い母を見るのは久しぶりだった。
だとすると、リビングを散らかし遊んでいる小さな子どもは幼い頃の自分だろうか。
小学校に入る前くらいの自分と、もう一人、同じくらいの年頃の女の子がそこにいた。
「昔の……夢を見てるのか? なんでこんな夢を」
「パンを食べたからよ」
いつの間にか、崕の背後にサエが立っていた。
サエは大人びた口調で続ける。
「あれはね――あのシナモンロールはね、ある女の子の思い出の料理なの。この食堂ではお客さんの思い出の料理を作って、その場にいる人たちみんなで味わうことができるの。でもね、」
この三途の川のホトリ食堂において美味しいものを分かち合うためには、たったひとつ条件がある。
『味だけではなく、思い出も感覚も分かち合うこと』
崕はゴクリと唾を飲み込んだ。
口の中にまだ残っていたらしい甘い香りがふうわりと香った。
「ある女の子って、」
声が少しうわずった。
サエが思い出をのぞいたということは、『ある女の子』は食堂を訪れたということだ。
それはつまり。
不意に目の前の子どもが顔を上げた。幼い頃の自分ではなく、もう一人の、女の子の方だ。彼女が顔を上げ、崕たちがいる辺りに視線を向けた。崕がよく知る女の子だった。
「女の子の名前は三国紗那さん。知ってるよね?」
寂しそうな顔で問いかけるサエに、崕は無言のまま頷いた。
よく知っている。
一生懸命で、キラキラしていたあの子だ。
***
「私ね、こうすると何でも作れちゃうの」
そう言ってサエは指でつまんでいた『文字』を口の中に放り込んだ。
その姿を隣で興味深そうに見つめる少女がいた。
彼女はこの店を訪れたとき真っ先にこう尋ねた。
「崕ヤマトという男の子は来ていませんよね?」
毅然とした態度をとってはいたが顔面蒼白で、言葉に表せぬほどの不安が顔に張り付いていた。
「大丈夫? 落ち着いた? まずはご飯でも食べて元気を出してね」
「お腹も空いていないし、今何を出されても喉を通る気がしないわ」
「それでもあなたが食べたくなるようなもの、私は作れるよ。ね。信じてみて」
そうやってなんとかなだめ、サエは彼女の記憶にある料理を探った。
客の心の内を写すという八枚の短冊には、母親の手料理や友人たちとの会食の思い出が表れたが、その中からサエが選んだのは『シナモンロール』だった。
それが選ばれたと知ると、少女はうつむいてしまった。肩の辺りで切りそろえた黒髪がさらさらと流れ彼女の表情を隠してしまう。しかし、顔を見ずとも言葉を聞かずとも、彼女の悲しみがひしひしと伝わってくるのだ。
肩が小さく震え、必死に声を飲み込む気配がみてとれて、サエはたまらず少女を抱きしめた。
少し経って落ち着いた頃に、サエはそっと顔をのぞき込んだ。
「作ってもいいかな?」
ほんの少しのためらいのあと、少女は決意したように頷いた。
「まずは、材料をそろえるよ! 強力粉にお砂糖、牛乳、ドライイースト」
「それと卵、バター、グラニュー糖と……シナモン。どれもちょうどの分量で冷蔵庫から出てくるなんてすごいわね。いったいどんな仕組みになっているの?」
冷蔵庫のドアを開けたり閉めたり繰り返して、その謎を解明しようとする。
「すごいのはあなたの方だよ。全部の分量をしっかり覚えているなんて! 私は記憶を飲み込んだからスラスラ出てきて当然なんだけど」
感心したような、少し悔しがるような言いぶりでサエが言った。
「何回も作って練習したもの」
少女は微笑みを見せたが、どこかぎこちない。
本来ならば、客の思い出の料理というものはサエが一人で作るものなのだが、少女は一緒に作りたいと申し出た。それは気を落ち着かせるためでもあったが、なにより、その料理の思い出が『食べた』ことではなく『作った』ことであったからだ。
「牛乳は人肌に温めて、粉とイーストを混ぜて、」
サエが作り少女がそれを手伝うという構図で始まったパン作りであったが――
「粉に牛乳を入れて混ぜてね。最初はベタベタ手にくっついて大変だけど…………ああ、私がやるわ。いい? こうやって捏ねていくとだんだんまとまってくるから」
いつの間にか生地が入ったボウルは少女の手に移り、サエの方が助手の役目を担うことになっていた。
「あれ? おかしいな?」
と首を傾げるが、
「サエさん、ここでバターを入れてちょうだい」
さあ早くと指示が飛ぶので深く考えている余裕がなくなった。
「ま、いっか」
生地を捏ねる少女の目がキラキラと輝いているのに気がついて、サエはふふふと笑った。
少しずつまとまってきた生地にバターが練り込まれていく。生地のぬくもりがゆるやかに伝わると、イーストや小麦の匂いを包み込むようにバターが香った。
「ここからさらに捏ねます」
講師のような口調で少女は続けた。
作業台に取り出した生地に体重をかけ、手のひらの付け根の辺りでぐいと押す。平たく伸びた生地をたたみ、また押して。
何度も何度も、強く強く、力を込めて捏ねる。それは、どうにもならない感情をぶつけるような行為に見えた。
少女はぎゅっと口を結び、黙々とこね続けた。
時々、店の入り口の方で物音がすると、少女はびくっと身を縮め、恐る恐るそちらに目を向けた。
風かなにかで揺れただけだとわかると、ほっと胸をなで下ろす。しかし一方で寂しげな顔も見せるのだ。
誰かを待っているのか。それとも、来てくれるなと願っているのだろうか。
そんな彼女の逡巡は、生地の発酵を待つ間も続いていた。
「ねえ、少し話をしてもいいかしら」
ボウルの中で膨らみ始めた生地を見つめながら、少女はぽつりと言った。今一度入り口のガラス戸に目をやり、控えめなため息をこぼしたあとのことだった。
彼女は自分の身に起こったことをゆっくりと丁寧に話し始めた。
彼女は修学旅行の途中、鉄道の事故に遭ってなくなったのだという。他にもたくさんの死傷者が出て、同じ学校の生徒が死んでいくのも目撃した。
「ここに来る途中で会った人もいた。その人からさらに他の人の話も聞いた」
だが、一番知りたい人の情報はいつまでたっても聞こえてこなかった。
「それが、最初に言っていた子?」
サエが尋ねると少女ははっきりと頷いた。
「保育園の時からの幼馴染みでね、いつもふらふら・へらへらしている、どうしようもないやつ。目標もないしプライドもないし、自分がない。どうしてあんな風に育ってしまったのかとガッカリしているわ」
辛辣な言葉を重ねるが、少年の姿を思い出しながら話す彼女の眼差しには慈愛のような優しさが感じられた。
「でも、ここに来たかが気になったのね?」
サエは話しながらお茶の用意をしている。
「そうね、」
少女はサエの問いに少し考えた。
それほどかからずに答えは用意できたようだったが、それを口にするべきかどうかでまた頭を悩ませている。
少女は困ったように笑ってから言った。
「その前に仕上げてしまいましょうよ」
少女は腕時計に目をやった。時間だと言いながら生地の様子を確認する。
話から逃げたのではなく、より美味しいパンを作るためのタイミングを逃したくなかったからだ。そう思いたかったのに、ほっとした自分がいるのは明らかだった。
「せっかくお茶がはいったのに。あ、ここでは『そういう時間調節』とかができるから、あとにまわしても大丈夫だよ? ねえ、先にお茶にしない?」
サエの言う『そういう時間調節』というものが何であるかまったくわからなかったが、少女は「猫舌だし、ちょうどいいのよ」などと言って強引に作業を再開させた。
発酵の済んだ生地を四角く伸ばし、その上にグラニュー糖とシナモンパウダーを満遍なく散らす。今までは小麦やバターが香っていたのに、シナモンの登場によって辺りの香りは一変してしまった。
「いい匂い。私、シナモンの匂い好きよ!」
サエが屈託なく笑う。
「あとは巻いて切って……巻き寿司みたいね! わあっ! 渦巻きがきれい!」
少女の作業を眺めサエが声を上げた。
ぐるぐると渦を巻くパン生地。その内側を縁取るシナモンの茶色い螺旋。等間隔で美しく並べられた渦巻きは、そんな図柄のハンコを押したような印象を与えながら、しかしどれも少しずつ異なって愛らしくもある。
香りだけでなく、見た目でも人の心を惹きつける。
オーブンへと天板を運ぶ少女の表情も自然と和らいだ。
「これで、もうお茶にしても大丈夫?」
そわそわしながらサエが言う。
「そうね。そうしましょうか」
そして焼きたてを食べるのもいいわねと少女は笑う。
だが焼き上がりを口にしたとき、少女から笑顔は消えることになる。そんなこととはつゆ知らず、少女はオーブンを眺めながら、シナモンの香りに包まれながら笑っていた。
***
オーブンミトンをはずして、シナモンロールをひとつ手に取った。
焼き上がりは、真ん中がせり上がるようにぷっくりと膨れていて、同じように見えていた十二個の渦巻きは、その膨らみ方に個性が表れていた。
まったく別の顔をした渦巻きの中から、少女はひとつを手に取った。
すぐにサエにも勧めて、一緒に焼け具合を確かめるように促す。
せーので口に入れた。
サエはかぶりつき、少女は渦巻きの一番外側を一口分だけちぎって口に入れた。
シナモンの香りでいっぱいになるのだと思っていた。それ以外は忘れるくらいに強い芳香が体いっぱいに広がるのだと思っていた。
しかし少女は今、必死に他の匂いを思い出そうとしていた。
幼馴染みの家の匂いだった。
古ぼけた食堂でサエと一緒にシナモンロールを口にしたはずなのに、少女はどうしてか幼馴染みの家のリビングに迷い込んでいた。
「あなたの思い出の料理を食べたからよ」
サエに事情を説明されてぐるりと室内を見回すと、ああやっぱりと少女は頷いた。それは確かに自分の中にある、あの日の記憶だった。
「私のシナモンロールのレシピは、そこの本に載っていたものよ」
少女はリビングの床に散らばった本の内の一冊を指差した。ちょうど小さな男の子がパラパラとめくっていたところだった。
「あら、ずいぶん懐かしいものを出してきたのねえ」
キッチンから二人の様子をうかがっていた少年の母親が声をかけた。
尋ねられてもいないのに、昔はいろいろ作ったのよなどと饒舌に語る。それを聞いて、少年の手が止まった。母の言葉に気をとられただけではない。そのページにあった写真に目を奪われたからだった。
天板の上に綺麗に並べられた白と焦げ茶色の渦巻きが、たまらなく魅力的に見えたのだ。
「おかあさん! パン作れるの? 僕、このパン――」
彼の小さな手が、シナモンロールのページを指していた。
どこまで母親の耳に届いたかわからない。ただ彼がどんな顔で言ったかは母の目にはっきりと映っていたはずだった。
だからだろうか。
少年の母親は困ったように笑って言った。
「作れたけど、最近は…………ね」
そのあとに一瞬だけ視線がある方向を向いたのを少年は見逃さなかった。
茶色い引き戸の向こうの部屋を見たのだ。その戸の向こうにいる、寝たきりの祖母を見たのだ。
少年の顔から期待の色は消えた。
それどころか、彼は申し訳なさそうな顔をして、そっと本を閉じていた。
「へえ、そうなんだ」
つとめて興味がないという風に振る舞って、少年は本を閉まった。
母親はごめんねと言いながら、壁の時計を見た。そして慌ただしくパートへと出かけていった。
「私はそれをそばで見ていた。だけどヤマトは何も言わなかったわ。おばさんにも私にも、ただへらへら笑って見せるだけ」
そんな彼を見るのが嫌だったと少女は言った。
「目標もプライドも自分もない、どうしようもないやつなんて言ったけど、本当は違うのよ。ヤマトは優しいからなんでも譲ってしまうの」
相手が悲しまないように。嫌な気持ちにならないように。負担をかけないように。そのためにはどうしたらいいのかを考える。
だから彼は我が儘を言うどころかささやかな希望を口にすることもなかった。
「まわりのみんなは『あいつは空気が読めるいいヤツだ』なんて言っていたけど、私は好きじゃなかった。だって、みんなが褒めれば褒めるほど、どんどんヤマトが見えなくなってしまったんだもの」
だから少女はシナモンロールを作った。
うまくできるまで何度も何度も作り続けた。
作ったところで何の意味もないのかもしれない。だが、あの日彼が引っ込めてしまった彼の意思をなかったことにはしたくなかった。
彼のために練習してきたシナモンロール。
何も変わらないかもしれない。
だけど作ることで、渡すことで、何か変えられるかもしれない、変えてみたいと少女が強く望んで作ったシナモンロール。
だからこそ、サエに任せるのではなく、最後にもう一度、自分の手で作りたいと願ったのだ。
「だけど結局、渡せなかったんだけどね」
少女は寂しそうに笑った。
なんとか体裁を保っていた笑顔は次第に笑顔とは呼べない顔つきになっていった。
もう駄目だ。
そう悟った彼女は我慢をやめて、声を上げて泣いた。
そんな少女をサエはそっと抱きしめた。
最後に少女は涙を拭って打ち明けた。
私ね、事故に遭って自分が死んだってわかったとき、一瞬だけど、ヤマトも死んでいたらいいのにって思ってしまったの。
一緒にいたいからとかじゃなくて。……だって、そうすれば生まれかわってやり直せるじゃない?
今度生まれてくるときは、ヤマトの思うように生きてほしいと考えたのよ。
でも本音は違ったわ。
私、ヤマトには生きていてほしい。
できることなら、来世なんかじゃなくて、ヤマトとしてもっとたくさんのものを見て、もっといろんなことを経験してほしい。
そう思っていたからここにたどり着いたし、あなたがシナモンロールを選んでくれた。そうでしょ?
サエさん、本当にありがとう。
話し終えたとき、少女は笑顔を見せていた。
ここにたどり着いてから初めて見せた、心からの笑顔だった。
「これに入れればいいかなあ?」
同じように笑顔を見せながら、サエがどこからかラッピング袋を取り出す。お世辞にも可愛いとは言えない風貌のキャラクターがプリントされている袋だ。
少女はふふふと笑った。
「それにカードでも付けておけば、もう充分ね。私もきっと成仏できるわ。ああ、でも念には念を入れて」
少女は彼への大事な贈り物を前に、しっかりと手を組み合わせ目を閉じた。
そうして願いを込める。
『どうか、ヤマトがキラキラと輝けますように』
彼女が三途の川に向かってから間もなくのこと。篁が一人の少年の死をサエに知らせた。
鉄道の事故に巻き込まれた修学旅行中の中学生が、搬送先の病院で亡くなったのだと言った。
事故の日から数日経ってのことだった。
***
「ははは。優しいなんて買いかぶりだよ。ただ……逃げてただけだよ」
崕は崩れ落ちるようにその場に座り込んだ。三国紗那の記憶の中、幼いころの自分と彼女とが向き合っているそのすぐそばだった。
この幼い少年は、笑顔で隠した心の内で一体何を思っていたか。
母を困らせてしまった。失敗した。選択を間違えた。次は失敗しないように。間違えないように。母が喜ぶ答えを。みんなが喜ぶ答えを。そうしなければ――
頭の中はそのことでいっぱいだった。
それは、ほんの数分前に自分を虜にした魅力的な渦巻きの存在を、きれいさっぱり忘れさせてしまうほどのことだったのだろう。
崕の頭の中には、その瞬間の困惑や後悔は思い出されても、シナモンロールのことはまったく残っていなかった。
「どうして、こんなものを見せるかなあ」
崕は笑った。
悲しみを押しつぶして、無理矢理笑ったような歪んだ表情だった。
たしかに、たくさんある選択肢から相手の望む答えばかりを選び続けていたかもしれない。そのせいで自分が本当に望んでいることが見えなくなっていたかもしれない。
「俺、何かしたかったのかな」
と不意にこぼれた。
口に出してはみたものの、その一言はあまりに空っぽで、崕は尚更むなしくなった。
そんな崕に、サエは隠して持っていたシナモンロールを手渡した。
微妙なフォルムのキャラクターが描かれた袋にいくつかの渦巻きが押し込まれ、袋の結び目には小さなメッセージカードがくくりつけられていた。
『私は、ヤマトに会いたいよ』
メッセージは、彼女そのものを表したような、力強くて綺麗な文字で書かれていた。
「ヤマトに、会いたい……か」
読み上げながら、少女の顔を思い出していた。今目の前にいたなら、どんな言葉をかけてくるだろう。そしてどんな言葉を望むだろう。
そう考えてしまっている自分に気がついて、崕は大きなため息をついた。そう簡単にはいかないよと、彼女に言ってやりたかった。
そんな崕の背中に声がかかる。
「阿呆か」
言葉とともに、体を小突かれた。
遅れて現れた篁はシナモンロールを頬張りながらフンと鼻で笑う。
「すぐに答えが出るなんて誰も思っちゃいないよ。今までの人生を悔いるのも、この先の身の振り方を考えるのも、十王審判の長い道程の中でいくらでもできるから、好きなだけ悩んで苦しめばいいさ。だけど、ひとつだけ、今すぐ答えを出さなければいけない問題があるぞ」
篁の言葉にサエが「あ!」と声を上げた。
「そうだよ! 急がなくっちゃ!」
サエの見事な慌てっぷりに、今度は篁がため息をついた。
「何かあるの?」
恐る恐る尋ねる崕。サエは答えられそうにないとみて篁に視線を移した。
「彼女に会いたくはないかい?」
予想しなかった問いかけに、崕の思考は停止しかけた。
会いたくないかと尋ねただろうか。
それは会える可能性があるということか?
しかし――
「あいつは何日も前にここに来たんだよね?」
「ええ、そうよ」
「今はどこにいるの? まさか、どこかで待ってるとか?」
自分自身が彼女と会いたいのかどうかもまだわかっていないのに、崕はすがりつくように尋ねていた。
「残念だけど、それはないわ。十王様のお裁きは何日ごとにと決まっていて、遅れることは許されないの。そろそろ次の王様のところへ着くころよ」
頭の中で日数を数えながらサエが言う。
「じゃあ、どうして『会いたくないか?』なんて聞くんだよ。ムリなんだろ?」
「そうだ。無理だよ。でも無理をすれば会えるんだ」
確かに十王の審判に遅れることはできないが、早めにたどり着く分には問題ないのだと篁は言った。
しかしただ急げばなんとかなるという話ではないという。
「十王の審判を受ける者は日に三千を超える。その中から彼女を見つけるのは、まあ無理だろうな。そうなると、次の王、初江王の従者に話を通して協力を仰がないといけない。それができるのは俺くらいだが、俺は忙しい身でな。まあ、頼まれれば嫌とは言えないお人好しだからなんとかするが。しかし行動を起こせば、人の記憶について他言してはいけないというルールを破ったことがばれてしまうから、俺もサエちゃんもお咎めを免れられないだろうね。これは困った。だからといって、こんなに想ってくれている彼女を放っておくのも人としてどうかと思うわけだよ。まあ、少年が気にならないと言うなら、それでいいんだけどさ」
淀みなく早口に言ったせいで、崕だけでなくサエもまた、篁の一言一句を聞き取ることはできなかった。
だが、わざとらしい悪意が込められていることはよく理解できた。どちらを選んでも、誰かの表情を曇らせることになる。それを篁は大仰に言ってみせたのだ。
崕はすっかり怯んでしまったようで、肩をすぼめて篁の話を聞いている。
そんな崕に追い打ちをかけるように、篁はより意地の悪い口調で続けた。
「すべてがまるく収まるなんて選択肢はないわけだけど――その上で改めて聞こうか。彼女に会いたいかい?」
意地悪な言い方だと責めるサエを横目で見ながら、篁は崕と向き合った。崕はなかなか目を合わせようとはしなかった。
「俺はどうすればいい?」
いつもの癖で答えを求めていた。
それに対して言葉を投げたのは篁ではなくサエだった。
サエは厳しい顔で首を横に振った。
「違うよ、崕くん! 今大事なのは、あなたがどうしたいかだよ!」
「そんなの、わからないよ。俺には何もないんだから」
「大丈夫! ちゃんとあるよ! きっとあるから!」
崕の手を掴み、眉根を寄せて言った。
捕まれた手に目をやったついで、崕は今一度、三国紗那からの贈り物に目を向けた。
微妙なゆるキャラのイラストと、その奥に見える渦巻き。袋を通してもシナモンの香りが漂ってくる。ふうわりとやわらかく漂うのに、その芳香は力強く、崕の胸の奥を刺激する。
体の奥深くで何かがふつふつと沸き立つのを感じた。
「『私は、ヤマトに会いたいよ』」
崕はか細い声で少女の言葉をなぞった。
彼女の望む『ヤマト』は本当にいるだろうか。
そしてそれは自分自身も望む『ヤマト』なのだろうか。
そんなものがあるのかどうかもわからないし、それが正しいものなのかどうかもわからない。
だけど心の中で沸き立つものがあった。
それを見ないふりで遠ざけることは、もうできなかった。
崕はくっと奥歯を噛んだ。キリキリと音が聞こえてきそうなくらいに噛みしめて、次の言葉への助走をつける。
「俺!」
思っていたよりも強く声が出てしまい、照れ笑いのあとに仕切り直す。
「俺も、あいつに会いたい」
静かにそう伝えた。
ぴりっと胸の奥が痛んだ。
あの日の母の表情が頭によぎる。二人も同じように困った顔をしているかもしれないと思ったら、視線を上げることができなくなった。
それでも崕は、胸の痛みに耐えながら続けた。
「篁さんにもサエさんにも迷惑をかけるかもしれない。それでも俺、あいつに会いたい!」
崕はそう言って深々と頭を下げた。
少し間があって、呆れたような気配のため息と、吐息のように漏れた笑い声が聞こえた。
二人がどんな様子で自分を見ているのかが気になって崕は顔を上げようとする。しかし大きな手のひらに頭を掴まれ押し戻された。
「何するんだよ!」
「ちゃんと自分で考えたご褒美だ。ほら、褒めてやる」
いっそう強く押しつけながら篁が言う。
「これのどこがご褒美だ! どうせくれるなら、もっといいものをくれよ!」
崕は九十度よりまだ深く腰を曲げたまま抵抗するが、意外にも篁の腕は力強くもがいてみてもどうにもならなかった。
「調子に乗るなよ。たった一歩踏み出しただけだろうが。いや、一歩どころか、お前の場合は靴を履いたくらいだ。しかも片方だ。脱げないようにせいぜい気をつけろよな」
よくわからない例え話を聞きながら、崕はもがき続けた。やられっぱなしであることへの腹立たしさはあったが、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
そんな崕に対して、篁は息継ぎのようにため息をこぼした。
「あのな、少年。世の中はもっと簡単に考えていいんだ。もし困ったら、『お願いします』と『ごめんなさい』を言え。それでなんとかなるものさ」
篁の腕から強引さが抜けた。
代わりにぽんぽんとやわらかく触れた手のひらからは、元気づけるような温もりが伝わってきた。
「あと『ありがとう』も大事だよ!」
篁の言葉に乗っかって、サエが得意げに言う。こちらも「ご褒美だよ」と崕の頭に触れた。サエの手のひらからは、じんわりと優しさが伝わるようだった。
少年はゆっくりと顔を上げた。
二人の表情が目に入る。
心配など必要なかった。
サエも篁も、笑顔をたたえて崕を待っていた。
それがたまらなく嬉しくて崕も同じように笑顔を返した。まだまだぎこちなさが残ってはいるが、サエや少女のようにキラキラと輝く笑顔だった。
崕はしかめっ面で、シナモンロールの入った袋と向き合っていた。
それはまるで、プリントされたゆるキャラと睨み合いをしているようで、サエは思わず笑ってしまった。
どうしたのと崕に聞かれて、サエは慌てて取り繕う。
「崕くんこそ、難しい顔してどうしたの?」
三国紗那を追うためには一刻も早く出発しなければいけないというのに、崕はすぐには動かなかった。
「あのさ、これ持って行けないかな」
そういってゆるキャラの描かれた袋を指差す。彼女と一緒に食べたいのだという。
「もちろんよ! あ、でもいつもはお持ち帰りはやってないから、他の人には内緒ね」
サエは自分の口元に人差し指を当てて笑った。ついでに篁にも口止めをする。
篁はカウンターのいつもの席に陣取り、頬杖をついて二人の様子を眺めていたが、何か思いついたようで嫌な笑みを口元に乗せた。
「そんなもの持って行ったら、衣鈴樹の婆さんと間違いなく揉めるだろうね」
いいのかい、と試すように言う篁。
しかし崕は怯むことなく、むしろ強気な笑みを見せて言葉を返す。
「それでも持って行きたいんだ」
「揉めたらどうする?」
「『お願いします』『ごめんなさい』『ありがとう』でなんとか乗り切る!」
「そうか。まあ、せいぜい頑張るんだな。ほら、追いつけなくなるぞ。急げ急げ」
追い払うような仕草を見せると、あとは知らぬとばかりに顔をそらした。
それでも崕は篁に向かって丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございました!」
篁は何も答えなかったが、崕は満足そうに笑った。
「サエさんも、ありがとう」
「どういたしまして! 三国さんによろしくね!」
こちらは向き合い握手を交わす。お互いにぎゅっと力を込めると、どちらからともなく笑みがこぼれた。
そうして崕は旅立っていった。
途中、一度だけ振り返り大きく手を振った。そのあとは前だけを向いて、彼女のもとへと駆け出した。
その後ろ姿が川面の靄に隠れてしまうまで、サエは彼の旅立ちを見送った。
「会いたいから会いに行く。うん。いいね」
サエは満足そうにひとり笑う。
「やりたいからやる」
そう言って、店の前に転がる小石をひとつ拾い上げた。
他の石の上に重ねてみると、ぐらぐらと揺れた。落ち着く前にもうひとつ石を拾い積み上げる。
「私は……」
ひとつふたつと石を積み、崩れ落ちたところで後ろを振り返った。
無地の暖簾と、立て付けの悪いガラス戸と、
「サエちゃん、コーヒー飲みたいなー」
意地悪で無遠慮な常連客がサエを待っている。
「もう、しょうがないなあ」
サエは立ち上がり「よし!」と気合いを入れると、満面の笑みを見せた。