【第二話 星空の紙コップラーメン】
【第二話 星空の紙コップラーメン】
遠慮気味に開けた引き戸の隙間からこちらの様子をうかがってから、その老人は食堂の中へと足を踏み入れた。
立て付けの悪いガラス戸に手間取ったことを恥ずかしそうに振り返り、そして、店主と先客の顔を見た。
彼はことのほか落ち着いていた。
だが何か腑に落ちないようで首を傾げた。
「どうしたの?」
と店主が尋ねると、
「ああ、まあ、」
と言ってから我が身に起きた出来事を、ゆっくり丁寧に話し始めた。
「どうやら俺は死んだようなんだ」
***
「名前は樽前、年は七十。二度目の退職もとっくに済ませて、家内と二人静かに暮らしていたんだ」
四人掛けのテーブル席にサエと向かい合わせて腰かけた樽前は、一言一言をはっきりとした調子で発した。
年齢から思い描く『老人像』よりはだいぶ若い。
いや、若いというよりは『くたびれていない』と言うべきか。失礼な表現かもしれないと思いつつも、サエはそう思った。
渋い色合いの開襟シャツとしっかり折り目のついたスラックスは彼の体の線に比べて幾分かゆったりしていて、老いた肉体というものを想像させたが、けっして悲観的な印象は与えなかった。
「じゃあ、あらためて聞くけど、おじいさんは自分がどうしてここにいるかわかっているの?」
尋ねるサエに、樽前は穏やかな表情で頷いた。「俺は死んだようだ」と自らの死を自覚し言葉として発した人間とは思えない落ち着きようであった。
「何日か前のことだ。いや、数時間しか経っていないのかもしれない。よくわからないんだが、ちょっと前にヘンな奴らに会ってな。うん。『会って』というか、『そいつらの前に突き出された』というか」
記憶をたどり、うんうんと頷きながら、樽前老人は続けた。
「偉そうにふんぞり返った奴と、そのまわりに……ありゃ鬼か? まったくおとぎ話や何かでみたようなまんまの、こんな奴がいてさ、」
両手の人差し指を立てて立派な白髪頭の上に持っていく。
「睨まれるわ、なじられるわ、罵られるわ。それが延々と続いてさ。そりゃあもう、生きた心地がしなかった」
「そりゃそうだ。死んでるんだもの」
しれっと吐き捨てた篁の言葉が樽前の耳に届いていたかはさておき。彼はわははと笑って続けた。
「だけど、あれだな。会社のお偉いさんに怒られている時と一緒でさ、『はい、はい。申し訳ありませんでした!』って頭下げとけばなんとかなるもんでさあ、そのうちあきたのか、ため息ついて『もう行っていい』ってよ」
「十王審判って、そういうもの?」
との問いはサエから篁へ。
篁は「さあ」とだけ返してすっかりぬるくなったお茶をすすった。
それで樽前も自分の喉の渇きに気がついたようで、目の前に置かれていたお茶をぐいっと飲みほした。
「美味しいお茶だね」
樽前はにんまりと笑った。
「ありがとう。でも、ええと、」
答えに困るサエの代わりに篁が口もとに笑みをのせながら返す。
「産地もはっきりしない安物だよ」
樽前のものとはまったく違う意地悪な笑い方だ。それはもちろん、老人へのイヤミなどではなく、少女をからかうつもりで吐いた言葉。案の定、サエは敏感に反応してみせた。
「たしかに安物なんだけど、でも篁さんに言われるとなんだか、こう、」
「腹が立つ?」
「うん。なんとかしてやり返したくなる」
ううっと唸りながら両手の握りこぶしを高く上げたサエ。しかしその握りこぶしが何かしらの行動に出るのを、老人の笑い声が止めた。
「そうじゃない。お茶っ葉の良し悪しなんかじゃないんだ。うん。丁寧に淹れた美味しいお茶だよ。うちのお茶も安物だったけど、ちゃんと美味しかったよ。ああ、でももう飲めないんだな」
そう言って、空になった湯呑みを両手でしっかりと包み込んだ。
「そうだ。話を続けようか。それでな、なんだかこわい鬼を連れたやつにあっちへいけと言われてな、それでここまで来てみたら、大きな川がある。……あれは三途の川だろ? ってことは、やっぱり俺は死んだんだな」
樽前は照れたような表情を見せるだけだった。
***
食堂内にサエの唸り声が響いた。
両腕を胸の前で組み、納得いかないといった面持ちで首を傾げる。それだけでは足りなくて、「うーん」と重たい声を響かせた。
それは樽前のとった行動のせいだった。
自分の身に起きたことを一通り話し終えると、樽前はすっきりとした様子で食堂から立ち去ろうとしたのだ。
サエは慌ててその手を引いた。
「だって、ここに来る人はみんな、不安とか不満とか、三途の川を渡る前に困っていることとかがあって、それで『じゃあ、この店主サエさんが一肌脱ぎましょう!』ってことになるの!」
それなのに、何もしないうちに満足そうな顔つきで出て行かれると、どうしていいかわからなくなる。
「本当に困ったことない? ほら、お店に入ってきた時はちょっと顔色も良くなかったみたいだし、よくよく考えたら困ってたりとか」
なんとか自分の出番を得ようと必死に食い下がるサエだが。
「まあ、戸惑いはしたけどさ、話しているうちに『やっぱり俺は死んだんだなあ。仕方ないなあ』ってことでさ」
サエがどんなに頑張ってみたところで、当の本人は何の未練もないといった風で、清々しい顔つきをしていた。
「考えても、なんにもない?」
しまいにはねだるような声色になる。
「そう言われても」
「そこをなんとか!」
最終的にはすがりつき、
「だって、それじゃあ私がいる意味がなくなっちゃうよ」
泣き落としかというほどの弱々しい様子で樽前の手を握った。
困り果てた樽前の視線が自然と篁の方へ向く。
「どうしたらいいんだろう」
苦笑いしながら樽前が言う。
「どうしたらいいの?」
眉を八の字にしてサエが続く。
篁はわざとらしく大きなため息をこぼした。
「俺は何でも屋じゃないんだけどね」
煩わしそうにそう言いながらも、隣の席に置いていた鞄から何かしらの書類を取り出し、さらさらっとペンを走らせる。書き終えて、ペンのキャップをパチンとかぶせると、それが合図であったかのように、カウンターに小さな鬼が現れた。手のひらに乗るほどの小さな小さな青い鬼。
篁は書類を無雑作に畳むとその鬼に手渡した。
抱えるように書類を受け取った鬼は、篁が指を鳴らすと、その場から忽然と消えた。
「今のはなあに?」
「まあ、何も聞かずにお待ちなさいよ」
サエと老人の不思議そうな顔を眺めて、篁は口の端を上げた。
小さな小さな青鬼がふたたび食堂に現れたとき、彼はやはり何かしらの書類を抱えていた。
しかし今度は一枚の紙切れなどではなく複数枚のものであったため、彼はよろよろと倒れそうになりながら篁の前にたどり着いた。
篁はそれを受け取り簡単な言葉で労うと、書類に書かれていた事柄を淡々と読み上げていった。
そこに書かれていたのは樽前の生前のこと、そして死に際についてのことだった。
樽前は、まったくの健康体というわけではなかったが、生涯で重たい病気を患うようなこともなかったし、事故で亡くなるような痛々しい最期を迎えたわけでもなかった。
ある日の朝、ただ目覚めなかっただけだという。
平均寿命からいくと若いし、あまりに突然な最期ではあったが、樽前は自分の死に不満はないと言った。
「でもそういう人はここには寄り道しないでまっすぐ三途の川に向かうものよ」
青鬼にご褒美のお菓子を与えながらサエが言った。
それでも樽前にはやはり思い当たる節がなくて、代わりに答えを探すように篁がさらに書類を読み進めた。
「子どもや孫と別れるのが辛い?」
「生きてたって年に一度会うかどうかだったからなあ」
そう言って簡単に首を横に振る。
「それじゃあ、奥さんのことが心配だとか?」
これには少し考えたが、答えはかわらなかった。
「三人のこどもの誰とも同居しないみたいだけど? それに病気も抱えている。本当に心配じゃない?」
篁の問い詰めるような言いぶりに、樽前ではなくサエが噛みついた。
「そんな言い方したら、逆に気になって川を渡れなくなっちゃうじゃない!」
「そうしたらサエちゃんの出番じゃない」
「そ、そうだけど……」
自分の出番を作るために不安をけしかけるだなんて気が引ける。そう思いながら、サエはちらりと樽前の様子をうかがった。
「いやいや。女ってもんは強いもんだよ。周りを見ても、亭主が死んだって元気な母さんたちばっかりだ」
サエの心配をよそに樽前は声を上げて笑った。
どんなに書類をめくってみても、樽前の表情を曇らせるような事柄は出てこず、最後の一枚の最後の一行を読み終えたところで篁はお手上げのサインを出した。
サエは複雑な顔をしていた。
未練がないのは良いことだ。だが納得しないまま彼を見送るのでは、サエ自身に未練が残る。
どうしたものかと考えあぐねていると、ぐうっと誰かの腹の音が鳴った。樽前の方から聞こえたようだった。
「ありゃ、腹が減ってるわけでもないのに、立派な音が鳴ったな」
本人が不思議そうに腹をさすったが、確かにそこから音が聞こえた。
「死人が腹を空かせるなんて聞かないよ」
篁もそう言って訝しがったが、サエだけは待ってましたと言わんばかりに嬉々とした表情を見せた。
「やっぱりここに寄ったのには理由があるのよ! おじいさん、三途の川を渡る前の腹ごしらえはぜひ当店で!」
立ち上がり樽前にぐいと顔を寄せた。
「そ、それじゃあちょっと食べて行こうかな」
迫力に気圧されて樽前はこくりと頷いた。しかしいざ注文しようと思っても、メニューのようなものが見当たらない。壁に貼られている、本来は料理の名前でも書かれていそうな短冊にも文字は見当たらないのだ。
「何が食べられるんだろう」
苦笑いで問いかける樽前に、サエは満面の笑みで答えた。
「この『三途の川のホトリ食堂』はすごいのよ! お客様だけのスペシャル料理をお出しするんだから! 思い出のメニューを作れば、おじいさんがここに立ち寄った理由もきっとわかるはず!」
そうと決まればと、サエは例の短冊の前に立ち身構えた。
「さあ! 篁さん、早く」
待ちきれないといった様子で篁を急かす。
篁は「はいはい」と気のない返事をしながらあらためて鞄の中を探っていた。
一枚の書類を樽前の目の前に差し出し、長ったらしい説明文のあとの署名欄を指差す。
「はい、ここ。サイン」
「ええと、これは?」
「おじいさんの思い出をのぞくための許可が必要なの」
「俺の思い出? そんなものどうするんだ」
「思い出をのぞいて、おじいさんのためだけのスペシャル料理をつくるのよ!」
「そんなことができるのかい」
「ふふふ。任せといて!」
「なんだかよくわからないが、ここに名前を書けばいいんだな?」
樽前に戸惑う様子は見られなかった。「何かの縁だ」と流れに身を任せたようでもあったが、それよりはむしろ、これから何が起きるのかと楽しんでいるようだった。
鼻歌交じりで、樽前が記名する。
書き終えるなり、篁が書類を手に取った。
青鬼の時のように何か合図があったのかもしれない。しかしそれは誰にもわからないタイミングで実行されたようで、たった一度の瞬きの間に紙切れはどこかに消えてしまっていた。
直後には篁の右手が何かをつかんでいたような形でとどまっていたが、それが解かれてしまうとなんの名残もなくなってしまう。
いや。目を凝らしてよく見ると、空中に黒い糸くずのようなものが浮いていた。
それは樽前の書いた名前そのものだった。彼の筆跡がそのままその場に浮かんでいたのだ。
「死後の世界ってのはすごいな」
感心しながら樽前が自分の名前に手をのばす。だが指先が触れようとする前に文字はほどけてしまった。
一本一本の細く短い『線』になってしまった彼の名前は、頼りなく宙を泳ぎ、やがて何も書かれていない短冊にたどり着いた。そこで新たな文字となって彼らの前に現れる。
「ええと、」
最初に声を発したのはサエだった。
声を発するなり、すかさず首を傾げる。
「これは困ったなあ」
腕を組む。
ふたたびサエは重たい唸り声を響かせることとなった。
***
「なんでだよ」
篁には珍しく、感情的な発言となった。
「サエちゃんにはわからないかもしれないけど、」
そう言って短冊の前に立つ。
創作フレンチの名店で提供された前菜の盛り合わせ。
隠れ家天ぷら屋の絶品かき揚げ。
行列必至の老舗そば屋の究極のざるそば。
知る人ぞ知る下町の名店の名物ビーフシチュー。
江戸前の仕事が光る有名寿司屋のコハダの握り。
本場の味が楽しめる中華料理屋の至高の麻婆豆腐。
百年以上継ぎ足した秘伝のタレでいただく鰻店の蒲焼き。
「どれもこれも、『死ぬまでに一度は食べたい』と言われている逸品ばかりだよ」
篁は驚いたような感心したような様子で樽前の顔をのぞいた。
「こんなこと言っちゃなんだけど、見かけによらずずいぶんと良いものばかり食べているみたいだね」
「これは子どもたちが大人になってから記念日なんかに連れていってくれたものさ」
篁の言いぶりに気を悪くしたような様子はまったくない。それどころか樽前は照れたように笑っていた。
「こいつらにこんな店に連れてってもらえる日が来るなんて―と感慨深かったからね」
「だから思い出の料理にずらっと並んだってわけか」
「なんだか、味もたいしてわからないのに美食家を気取っているみたいで恥ずかしいな」
樽前は篁が読み上げた七つのメニューを見上げながら頭を掻いた。
そうしながらも、この店はどんな雰囲気だったとか、マスターが気さくな人でとか、料理がどれだけ美味しかったかとか、それぞれの思い出を嬉しそうに懐かしそうに話す。
隣りで聞いていた篁は「うらやましいよ」とたいして感情も込めずにさらりとこぼした。
「思い出もあるようだし、当然旨かったようだし。……それなのに、よりにもよって、どうしてそれを選んだ?」
こちらの一言にはさまざまな感情がこもっているようだった。
怒り、驚き、落胆。
それらは、とあるメニューを『飲み込もう』としていたサエに向けられたものだった。
「だってこれが一番輝いていたんだもの」
そう言って、手のひらに乗せていた文字の最後の一字を飲み込んだ。
「あそこに書いてあった、文字だよな」
樽前が一番端の短冊を指差した。
白紙の短冊。
そこにはついさっきまでたしかに文字が書かれてあった。それをサエが貼り紙でもはがすようにぺりりとつまみ上げ、あろうことか飲み込んでしまったのだ。
「こうすると、私、なんでも作れちゃうんだ」
サエは得意げに笑った。
だがもちろん、篁の怒りはおさまっていない。
「だから、よりによってどうしてそれを選んだのさ」
「だって、これが一番輝いていたんだもの!」
負けじと強い調子でサエが反論する。
「名だたる名店の名物料理よりそれが輝いてたって?」
「そうよ! あの短冊が、それはもうピッカピッカにね」
サエは壁に貼られた短冊を指差して自信たっぷりに言った。
サエが指した左端の白紙の短冊。白紙となる前に書かれていたのは―
『インスタントラーメン・塩味』
篁が納得するわけがない。
だが樽前はそれが何を意味するのか理解しているようだった。
「それはさ、たぶん、」
「ちょっと待った! それを喋っちゃったら私がいる意味がないでしょ!」
他の料理と同じように思い出話を始めようとした樽前をサエが制する。
「私がこれから作ります。ということで、」
サエはコホンと咳払いをひとつ。
そうしてからエプロンのシワを直して胸を張り、腰に手を当て元気いっぱいに言った。
「ようこそ、三途の川のホトリ食堂へ! まだまだ続くなが~い旅路に備えて、お腹いっぱい、心いっぱいに満たされていってね!」
サエの威勢はそう長くは続かなかった。
樽前の思い出を元に厨房に用意されたのは、袋に入ったインスタントラーメンと鍋。
「えっと……本当にインスタントラーメンを煮るだけの……」
飲み込んだ文字から作り方を探りながら、サエの表情はどんどん曇っていった。
「トッピングが特別とかじゃないの? 分厚いお手製チャーシューが載っているとか、カニとかホタテとかがてんこ盛りとか」
不機嫌そうに篁が言う。有名店のメニューを食べ損ねたことをまだ根に持っているようだった。
「そういうものもなく」
「え? そんなの作らなくていいじゃない」
「ダメ! ちゃんと作るの!」
「せめて『まるで生麺』的なやつならまだしも。昔ながらのインスタントラーメンでしょ」
どうしてそんなものが選ばれたのかと、篁の恨み節が続く。
「これが選ばれたことに、ちゃんと意味があるんだよ」
そう言いつつも、調理台に置かれたインスタントラーメンの袋が目に入ると、自信がなくなってくる。
サエはエイと気合いを入れて、『煮るだけ』の調理に取りかかった。
***
お湯が沸くのを待つ間、サエと樽前はカウンターを挟んで思い出話に花を咲かせる。
篁はまだふてくされているようで、横目でちらちら様子をうかがいながらも決して会話には入ってこなかった。
「奥さんは長年の経験。娘さんはタイマーを使ってきっちり。下の息子さんはお母さんと一緒で一本食べてみて好みの茹で加減で。あれ? 一番上の息子さんは?」
「つけ麺風にしたり冷やし中華風にしてみたり、ヘンな作り方しかしない奴だったよ」
樽前は思い出し笑った。
「今日は誰の作り方で作ろうかな?」
サエが腕を組み考え込む素振りを見せると樽前はすかさず「家内のやり方で」と言った。このラーメンはそれでなければいけないのだという。
とはいえ、あくまで普通のインスタントラーメンを、普通に作るだけの作業だった。
ぐつぐつとお湯が沸いたら麺を入れる。
触りたくても少しのガマン。
ひたひたと浸みてきたように見えたらひっくり返して一呼吸。そしてようやく箸を入れる。優しくほぐして、また見守る時間。
湯気と一緒に、お世辞にもいいにおいとは言えない油のにおいがにじみ出す。だけどだんだんと麺らしいにおいも立ちのぼってきて、それはもちろん『ラーメン』という完成品のかぐわしいにおいにはほど遠いのだけれど、インスタント麺独特の味わいが思い出されて不意打ちで食欲を刺激した。
サエはゴクリと唾を飲み込んだ。
口の中を麺の風味で満たしたい!
だけどまだガマン。
ここだと思うところで一本だけすくい上げて加減を見る。
麺のみの味気なさに気分は一瞬沈むけれど、それは跳躍の前の『ため』のよう。粉のスープの素を投入すれば、もう飲み干したあとかと錯覚するほどに鼻孔を、体全体を、美味しいエキスの芳香が駆け巡る。そのにおいはお店で食べるようなラーメンのにおいとは明らかに別物で作り物的なのだが、これはこれでたまらなく『旨さ』を感じさせる魅力的なにおいなのだ。
上る湯気を残さず吸い込むくらいの勢いでにおいを堪能したら、サエと樽前は顔を見合わせにんまりと笑った。
なんの変哲もない塩味のインスタントラーメン。付属の切りごまを振りかけてあっというまに完成だ。
「あ! 丼の準備を忘れてた!」
せっかく絶妙な茹で加減だったのにと焦るサエだが、食器棚の前でピタリと動きが止まった。
「どうしたの」
ラーメンのにおいにつられてか、ようやくサエたちの行為に興味を持った篁が声をかける。
「どんぶりが、ない」
サエの顔が青ざめる。
和洋中、あらゆるメニューに対応した食器がそろっているはずのこの食堂から、なぜかラーメンどんぶりだけが忽然と消えていた。
「その代わり、こんなものが」
サエは代わりに置かれていたものを作業台の上に運んだ。
「ああ。それでいいんだよ」
と樽前が笑う。
それは使い捨ての紙コップだった。
最後の仕上げは樽前が買って出た。
紙コップに少しずつインスタントラーメンをよそい、割り箸と一緒にサエと篁の前に差し出した。
二人ははじめ遠慮してみせたが、樽前が「みんなで食べなければ意味がないんだ」と勧めるので、それではと同じテーブルについた。
一口目は樽前から。
いただきますと言ってから音を立てて麺をすする。
何の変哲もないインスタントラーメンだが、口に運び、ゆっくりと味わい、目を閉じたところで樽前は口もとをほころばせた。
「そうそう。この味だ」
嬉しそうに、そして懐かしそうに言う。
その様子を見届けてサエたちも紙コップに入ったラーメンを手に取った。
「わあっ!」
とサエが声を上げた。
その声に驚いて樽前が目を開く。
「……これは?」
この三途の川のホトリ食堂において美味しいものを分かち合うためには、たったひとつ条件がある。
『味だけでなく、思い出も感覚も分かち合うこと』
ひとり思い描いていたはずの風景が目の前に広がっていることに驚き、樽前は手に持っていた紙コップを落としそうになった。
***
彼らは、色とりどりのテントがたち並ぶ湖畔のキャンプ場にいた。
砂地に素足。ひんやりとした涼しい気温。ちゃぷちゃぷと湖面をわずかにゆらすくらいに存在感を見せる風が体を撫でていくと、半袖のTシャツでは少し肌寒いくらいで、焚き火を囲んだくらいがちょうどいい。
ただし近づきすぎればたちまち頬は熱を帯び、暗闇も相まって眠気を誘う。
声も灯りも、家族の間で届く程度に抑える。
そんな夜遅い時間のキャンプ場。
頭上に広がる満天の星を見上げて少年が指差す。
「あれはオリオンだよ」
と言うと、それは冬の星座じゃないのと妹が言う。その横で屈託なく笑う末の弟は空の紙コップを差し出しておかわりをねだった。
それは樽前がかつて毎年眺めていた風景だった。
「うちの年に一度の行事でさ。こいつらが小さかったときだけど、夏休みに必ずキャンプに行っていたんだ。いつもは九時には寝させるんだけど、この時だけは特別で夜更かしを許す。夜更かしするとさ、お腹が空くだろ?それでこのラーメンなんだ」
樽前は子どもたちに目を向けながら、大事そうに紙コップを持った。
ラーメンを少しだけ作って、みんなで分け合い食べる。紙コップがちょうどいい量。
夜更かしと、夜中に食べるインスタントラーメン。子どもたちはそんな非日常が楽しみで、時には眠たい目をこすりながらラーメンをすする。
それは樽前にとっても特別な時間だった。
「何を話したわけでもないんだけど、こうしてみんなでゆっくりと過ごした時間は、今考えるといい時間だったな」
目の前に広がる情景を眺めながら樽前は笑みをこぼしたが、サエには少し寂しそうに見えた。
塩味のインスタントラーメン。
一口分の量。
波音を聞きながら、はぜる薪の音を聞きながら、子どもたちが遠慮気味に小声で話すのを聞き続けながら。
胃袋的にはちょっと物足りない気もするけど、満足感に包まれる時間。
未練なんてない。
最後にこんな心地よい景色を味わえるなんて、なんて幸せな最後なんだと樽前は思った。
そう思って笑顔を見せたはずなのだが、胸の奥に何かが引っかかっている。
樽前はその『何か』に気づかないフリをして、紙コップのラーメンをかき込んだ。
大急ぎで食べ終え思い出の景色から抜けだすと、慌ただしく二人に礼を伝え食堂を去ろうとする。
未練なんてないのだ。そう自分に言い聞かせ、三途の川を目指そうとガラス戸に手をかけた。
しかし彼の思惑通りにはいかなかった。店にたどり着いた時と同じようにガラス戸の建て付けの悪さに手間取ってしまったのだ。
そのわずかな足止めの間に、彼はふたたび幻影の中へと引き戻されることになった。
胸騒ぎがした。
望まぬ『何か』を見せつけられるような気がして、樽前はぎゅっと目を閉じた。
強くまぶたに力を入れて、そのちからをほどくようにして再度目を開けた時、彼はふたたびキャンプ場の夜の景色を見ていた。
満天の星空の下で涼やかな風を感じる。
それは変わらないのに、彼の目に映る何もかもがさっきとは違っていた。
瞬時に、時代が変わったのだと彼は察した。
湖畔の景色ではなく、草や木のにおいに包まれた森の景色に変わったというわかりやすい変化よりも先に、樽前はそう感じた。
同じように、暗闇の中にテントがたち並び、そこかしこにやわらかな灯りが灯っていたが、それは彼が良く知る幸福な夜の風景ではない。
ロッジ型ばかりだったテントはほとんどがドーム型のものに変わっているし、外で焚き火を囲むような家族の姿も少ない。
道具が変わり時間の過ごし方が変わったキャンプ場の中で、ようやく、見慣れた景色を見つけた。
ひそひそと会話する子どもたち。
それを笑顔で見つめる父と母。
彼らの手には紙コップがあり、そこからはあたたかな湯気と美味しいにおいが立ちのぼっている。
塩味のインスタントラーメンのにおい。
樽前は恐る恐る彼らのもとに近寄った。
近寄ると、彼らの会話がはっきりと耳に届いた。
「え? お父さんも星を見ながらラーメンを食べてたの?」
嬉しそうに笑う子どもには、樽前老人の思い出の中でオリオン座について説明していた少年の面影があった。
「そうだよ。ジジが作ったラーメンを、こうやって紙コップに入れてね」
父親が眼鏡を拭きながら言う。あごには無精髭。体つきこそ中年太りをなんとか回避しているようだが、フェイスラインにはたるみが見え始めている。
働き盛りの父とまだまだ無邪気な少年が顔を見合わせ笑う。そして一緒に紙コップのラーメンをすすった。
サエは、その姿を何も言わず眺めていた樽前の隣りに立った。
「巣立っても同じことをしてるなんて、ステキね」
フフと笑うサエ。
篁は「仲良し家族の典型だな」などと意地悪に言ったが、口もとにのせた笑みはやわらかだった。
その中で樽前だけがこわばった顔をしていた。
「これは、幻影だろうか」
戸惑った様子でそう言った。
「小さいころだけのイベントだったと言ったろ? それはさ、大きくなるにつれて参加してくれなくなったからなんだ。部活が大事だ、友だちとの約束が先だと。それでも強引に連れていったことがあったから、あいつらにとってはいい思い出なんかじゃないと思っていたんだけどな」
樽前は苦々しく笑った。
仕事ばかりの毎日で子どもたちと向き合う時間なんてなくて、それでも夏休みくらいは何かしなければと思い行っていたキャンプ旅行だった。それくらいしか自分にはできないのだと思っていた。
それすらもいつしか受け入れられなくなると、自分は家族のために―子どもたちのために何かできているんだろうかと考えるようになった。
「わかったよ。現世に未練はなかったけど、気になってはいたんだ。俺は何か残せたのかなって」
樽前はそう言ってうつむいてしまった。
心なしか肩が小さく震えて見えた。
「そんなことを気にしていたから、こんなおあつらえ向きのまぼろしを見ているんだろ?」
もういいよと、樽前は言った。
もう大丈夫だからと、とても大丈夫だとは思えない声色で言った。
「俺だって馬鹿じゃない。さっきの契約書みたいのに、のぞけるのは本人の思い出だけだって書いてあったのをちゃんと見ている。……これは俺の思い出じゃあない」
ありがとうと言い残してふたたび立ち去ろうとする。
だが、彼は食堂の出口にはたどり着かなかった。森の中の景色は彼の前から消えようとしなかった。
「まあ、落ち着きなさいよ」
そう言って樽前の前に立ったのは篁だった。
「あんたは、死んだ。それで死後の世界には十王審判っていうのがあってね、十人の王様が……まあ、簡単に言うと、あんたが天国に行くべきか地獄に行くべきかお沙汰を下す」
閻魔大王とか聞いたことあるだろ、と念を押すと樽前は戸惑いながらも頷いた。
その様子を見届けて篁は続ける。
「その十王の中に、とんでもなくお節介な王がいてね。死者が不利にならないようにと、遺族の記憶までのぞいて、死者の善行を一つでも多く拾ってやろうとするんだ。本当は初江王のお恵みを受けられるのは川を渡ってからなんだけどね」
篁は呆れたようにため息をこぼした。
青鬼を使いに出したことでお節介な王様の耳に入ったのだと、そこまで聞くと樽前はようやく何事か悟ったようで、驚き大きく開いた目にはやがてじわりじわりと涙がにじんだ。
「それじゃあ、」
「夢まぼろしなんかじゃないってことさ」
篁はもう一度ため息をこぼした。
しかし億劫そうにふるまいながらも、小さく震える樽前の背中をぽんぽんと優しく叩いてやった。
樽前は今一度、しっかりとキャンプ場の家族を見た。
少年が名残惜しそうにスープの最後の一滴を飲み干したところだった。彼は空になった紙コップをまじまじと見つめた。
そして視線を上げると屈託ない笑顔で強く宣言する。
「僕も大きくなったら、お嫁さんとかと一緒にキャンプに来てラーメン食べるよ!」
それを聞いた父親はまずは驚いてみせたが、すぐに優しい顔つきへと変化する。
我が子の頭をわしわしとかき回し、かつての少年は嬉しそうに笑った。
「そうだな。もうこれは、樽前家の伝統みたいなものだから、絶対に頼むぞ」
***
樽前は顔を洗うような仕草で涙を拭った。
涙を拭い顔を上げると、この食堂にたどり着いた時以上に穏やかな表情になっていた。
「まだあるかな?」
そう言って紙コップをサエに手渡す。
「あるんだけど……しっかりのびちゃったみたい」
鍋の中をのぞき込んでサエは申し訳なさそうに言った。
それでもいいと樽前が言うので、サエはのびきったインスタントラーメンを紙コップによそう。一口ずつだけ、自分と篁の分も用意して、ラーメンの入った紙コップで乾杯をした。
「こんなものだけど、『残せた』って答えでいいよな?」
「もちろん!」
サエは間髪を入れずに元気よく、
「いいんじゃない」
篁はのびきったインスタント麺には難色を示したが、樽前に対しては前向きな言葉を投げた。
樽前は二人の言葉をしっかり受けとめて、そして今一度キャンプ場の景色を眺めた。
思わず口もとが緩む。
目頭が熱くなる。
誤魔化すように紙コップのインスタントラーメンをすすり上げ、そして満天の星空を見上げた。