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【第九話 君がいない正月、餅のない雑煮】

【第九話 君がいない正月、餅のない雑煮】


 老人は、背筋をしゃんと伸ばし、一歩一歩を踏みしめながら前に進んだ。

 数歩進んでは、立ち止まる。

 首を傾げ、自身の四肢を不思議そうに眺めるともう一度首を傾けた。それでも何も納得できなかったようで顰めっ面になる。しかし不満があるといってそこにとどまってもどうにかなるわけでもなし。渋々、また歩き出すわけだ。

 そんなことを何回か繰り返してきたところ。

「どうしたの? 体がどうかしたの?」

 大きな川の畔、まあるい石の転がる河原で少女に声をかけられた。

 老人はまず呆気にとられた。

 一足遅れていくつかの感情がやってくる。

 恐れ。戸惑い。好奇心に警戒心。

 いろいろやってきて、最後に『安堵』に落ち着いた。

「ああ、やっと人間に会えたよ。このまま王やら鬼やらしか出ないんじゃあ困ったもんだと思ってたんだよ。なあ、こいつはどういうことだい。俺はどうしてこんなに若返ってんだい」

 老人の問いに、少女は目を丸くして驚いた。

「若返って?」

 声をうわずらせるのも無理はない。

「ああ、そうか。これくらいの見た目なら、嬢ちゃんから見たら若くはないか。けどな、俺にしてみりゃだいぶ若返ってんだ。なんたって、一〇六だったのが七〇かそこらになってんだから、ええと」

 老人が指折り差をかぞえていると、少女は「ええっ!」と声をあげた。

「一〇六歳?」

 驚きとともに信じられないという顔をするものだから、老人はふんと鼻息荒く言い放った。

五色辰雄(ごしきたつお)。大正五年一月五日生まれ。紛れもなく一〇六歳で――俺は死んだんだな」

 老人は来た道を振り返った。




     ***


 へえ、と思わず声が出た。

 煤けた壁紙に古くさいポスター。椅子もテーブルも、何もかもが懐かしい。昔ながらの定食屋のような趣のある店だった。

 だからだろうか。こんなところで遭遇した店だというのに、どうもしっくりくるのだ。

 おまけにその店にあどけない少女がいるというのだから安心感はいっそう濃くなった。

 しかしどうしてこんなところにこんな店があるのだろう。

 そう考えながら、ぴくっと眉を動かした。

「三途の川を目指せって言われたんだから、ここは賽の河原ってことでいいんだよな」

 確かめると、少女は元気いっぱいに「そうだよ」と答えた。

「こんだけ生きたのに賽の河原で足止めをくうたあ、おかしなもんだね」

 おまけにそこに食堂があって自分以外の客も座っているというのだから理解が追いつかない。

 見た目だってそうだ。

 店内の鏡を覗いてみれば、映っているのはたしかに『若い』ころの自分の姿だ。

 身体(からだ)だって若い。

「最後はほとんど歩けなくなってたからな。背中もうんとまるくなっちまって、口ん中も寂しくて。頭は――こっちはあんまし変わんねえか」

 豪快に笑って頭頂部をぽんと叩く。

 自分の笑い声の元気さにこれまた驚いた。

「ここに来るお客さんにはよくあることだよ」

 少女が言った。店に来てからずっとニコニコと愛想よく話を聞いていた。

 肩口にフリルのついた可愛らしいエプロンを身につけて、くりんとした栗毛の髪の毛は真っ白な三角巾できちっとまとめている。

 風貌からすれば、この子は店員であることは間違いないようだが――

「店の人は出掛けてんのかい」

 店内を見回しても店員らしき人影は他に見当たらない。

 五色の言葉に少女は一度首を捻った。

 そうしてから言葉の意味に気づいたようで、愛想のよい笑顔は得意げな顔へと変わる。

「ここは三途の川のホトリ食堂。私は店主のサエだよ!」

 サエと名乗った少女は『店主』という言葉をやたらと強調して言った。

「それであっちが(たかむら)さん!」

 どうもと、カウンター席の男が会釈する。身なりのいい男だ。

「それで――三途の川のホトリ食堂と言ったかい。この店はいったいどういうところなんだい?」

 五色が尋ねると、サエはこの店について説明を始めた。

 三途の川の畔にあるこの店は、何らかの理由があって川を渡れずにいる人が立ち寄り、進むための力を得ていくという場所。

 簡単にされた説明のその部分までを聞いて、五色は思わず苦い顔をした。

「渡らなくて済むんなら、そっちの方がいいじゃないか」

 そう言うと、サエは目をぱちくりとさせ篁を見る。篁はふうっと息を吐いてから、

「あんたが考えているのとは、事情が違うんだ」

 と言った。

「生きているときには、三途の川はあの世とこの世の境界のように認識していたかもしれないが、実際は違う。三途の川までたどり着いたということは、死後の審判がすでに始まっているということだから、川を渡らないからといって生き返るものではないんだよ」

「へえ。そういうものなのかい」

 そりゃ初めて聞いたと感心したが、同時に疑問が湧いてきた。

 生かすか殺すかの判断がついていないというならともかく、そうでないならどうしてこんなところで足止めをくらってしまうのか。

 確かサエは『何らかの理由』と言っていた。

「それはあれかい? 渡り賃が足りなかったとかかい」

「そうじゃないよ。渡れない理由はおじいさんのここにあるの」

 サエはそう言って自分の胸の辺りに手を当てた。

「ここかい?」

 五色も真似て胸元に手を置く。

 死んでいるから当たり前のことなのだが、とくんとくんと、鼓動は伝わってこない。

「心臓の音は聞こえないかもしれないけど、川を渡れない理由は聞こえてくるかもしれないよ!」

 サエが元気いっぱいに言う。

「不安や不満、困っていること、それから……心残りなんかはない?」

 サエに言われて、胸に手を置いたまま考える。しかし出てくるのは『心残り』とは相反する感情だ。

「俺はさっさと死んじまいたかったからなあ。今さら未練みたいなものはこれっぽっちもないんだよ」

 胸の辺りからは何にも答えが出てこないとわかると、五色はつるんときれいな頭を二度撫でた。

「さっさと死にたかったとはまた奇妙なことを言うね」

 篁が珍しく興味を示す。

 五色は「そうかい?」と片方の口の端を上げてから、生前のことを思い出し言った。

「俺はさ、一〇六まで生きたんだよ。だけど、何もそこまで長生きしたかったわけじゃねえんだ」

 長く生きれば生きた分、嫌なことも増えるものだ。

 奥さんだけでなく子どもにまで先立たれ、だんだんと体の自由がきかなくなって。話すことも聞くこともままならないし、頭の方も、覚えていられることがとんと少なくなってしまった。

「いちばんきつかったのは食いもんだね。俺は昔っから食べることが何より好きだったから、年をとってから『おじいちゃん、これはノドを詰まらせるからダメよ』とか『これは硬いからつぶしてからね』とか『こんな塩っぱいもの食べちゃ体に悪いでしょ!』とかさ。何だかんだと言われてうまいもんは取り上げられちまって。ありゃほんと、参ったな」

 年をとってから口にしたものを思い出してみると、ため息ばかりこぼれる。

 だから死んでせいせいしてるんだと続けると、サエは眉根を寄せた。

「それじゃあ、五色さんはどうしてここに来たのかなあ」

 首を右に左に傾けてすっかり考え込んでしまった。

「最期に、何にも気にせず食いたいもん食って人生終えたいってのじゃ、理由にはならないかい」

「それくらいだと、川を渡れないってことはないはずなんだけど」

 困った顔で篁に助けを求めるサエ。

 しかし篁は言葉で応えるようなことはなく、代わりに、鞄の中から一枚の紙切れを取り出した。それを五色の前に差し出して一番下を指差す。

 五色はびっしりと文字が書かれた書類を上から目で追った。なにやら、読む気をなくすような言い回しが並べられた書類は、甲だの乙だのと書いているから契約書の類いだということはわかったのだが、それ以外はいまいち理解が難しい。

「ええと、つまり、なんだ、俺の記憶を覗いて……料理を作るから…………許可しろ、ってことか?」

 わかる言葉だけを拾い上げて篁の指差す位置までたどり着くと、サエと篁がそろってこくりと頷いた。

「なんかあとで多額の費用を請求されるとか、そういうことじゃあないんだろうな」

 眉をしかめ問い詰めると、サエは焦って否定した。

「本当かい? んじゃあ、まあ、嬢ちゃんのこと信じて名前を書くが、裏切ったりしないでくれよ」

「もちろん! 私を信じて! きっと五色さんが満足する料理を作ってみせるから!」

 サエはドンと自分の胸を打った。

 それじゃあと、五色はペンを借りさらさらと名前を記す。思えば、文字を書いたのはいつ以来か。最後の方はペンを持つことすらままならなかった。

 しっかりとした線で、名前を書いた。

 なんだか誇らしくって、しばらく眺めていたくなった。

 だというのに、無情にも篁がそれを取り上げてしまう。

 ああ、と上げた声が彼の耳に届いたかは知らない。彼はこちらを見ることもなく、取り上げた書類に名前がしっかり書かれたことを確認していた。

 小さく頷きサエに視線を送ったかと思うと、パチンと指を鳴らす。

 何がおきるかと見張っていれば、なんとも不思議なことが始まった。




 五色が書いた文字は、あっという間に文字ではないものになった。

 それでは何に変わったのかと問われれば答えに困るのだが、それはまったく、五色の名前ではなかった。

 紙に書かれたインクの文字は、紙繊維との結びつきを解かれ自由となる。黒い一本一本の『線』となり、宙にふわふわと漂った。

「こりゃあ、すごいな。さすがあの世だ」

 言いながら目を凝らす。

 インクの艶っぽさを保ったままくねくねと揺らめきながら動く様は、気味の悪い生き物のようで、見ているうちにぶるっと身震いがきた。

 その文字がやがてあるところにたどり着くと、五色の体はふたたび震えた。しかし今度のは、気味悪さから来るものではなかった。期待とか好奇心とか、そういう、もう長い間味わうことがなかった気持ちからだった。

 脈打つはずのない胸が、トクンと鳴ったような気がした。

「これから、五色さんの思い出の料理がここに並ぶよ!」

 サエは得意げな顔で言って、壁に貼られた八枚の短冊の前に立った。食堂や居酒屋でよく見かける、メニューが書かれているような短冊だ。しかしここの短冊には何も書かれていない。

 先ほどの線が朱色の枠で囲まれた短冊のその表面にたどり着いて、じわりじわりと染みていった。

 煤けたような色合いの紙に染みた黒いインクは、それぞれの場所で形を変える。

 八つの紙に、八つの料理名。

 右から左へと、順に視線を巡らせる。

 サエの顔も、五色の視線と同じ動きで短冊を眺めた。

「なんだかどれも美味しそう」

 うっとりとした表情を見せる。

「どれもうまいぞお。なんたってうちのばあさんの得意料理だからなあ」

「五色さんのお祖母さん?」

「ああ、違う違う。俺の祖母さんじゃなくて奥さんのことな。ばあさんはさあ、何作ったって美味かったんだよ」

 短冊に書き出された料理はどこにでもある家庭料理ばかりだ。しかし自分の記憶を覗いて選ばれた料理というからには妻のものであるに違いないと五色は思った。

 実際、どれもこれも『ばあさんの味でなくっちゃ』という思い入れのあるものばかりだ。

 思い出の中で味わっていると篁が薄く笑った。

「よっぽど好きだったんだね」

「そりゃあ、もう! 俺が自慢できるものなんて他になかったからね。家に来るやつにゃあ、だいたい食わせてやったよ。『ばあさん、こいつにあれ食わせてやってくれ』って言えば、パパパーってつくっちゃうんだからさ、自慢のし甲斐があるってもんだよ」

 言いながらもう一度短冊を見上げる。

「こん中なら何がいいかねえ」

 あれもいいなこれもいいな、などと言いながら、顎をさすり目を細め、ときどき口もとを緩ませる。

「どれも食べたいかもしれないけれど、どれを作るかはもう決まっているんだ!」

 隣でサエが屈託ない笑顔を見せた。

「決まってるって?」

「そう。決まってるの」

「誰が決めたんだい。嬢ちゃんかい?」

 そう尋ねると、サエは笑顔のまま首を横に振った。

「違うよ」

「なんだい。もったいぶってないで教えてくれよ。あっちの兄ちゃんか?」

「それも違うの! あのね、五色さんの名前が、五色さんがここで食べる料理を教えてくれるんだよ!」

 何を言っているのかと首を傾げる。

 しかしサエは気にせずに、短冊に向けて片方の腕をのばした。

 細い指の先が一枚の短冊に触れる。

「これだけが他のと違って、キラキラ輝いているの!」

「キラキラと輝いて? どこが?」

 短冊を眺めてみてもどれも同じようにくすんだ紙で、どこにも『キラキラ』という要素は見当たらない。それなのにサエは、まるで宝物でも見つめるように瞳を輝かせてその一枚を見つめているのだ。

 サエの手は愛おしそうに短冊に書き出された文字を撫でる。

 一番下の文字に触れたところで、いっそう華やかな笑顔を見せた。

 何かが起きるのだろうと、感覚的に理解した。

 サエが文字の端っこに爪を立てた。カリッと削るような音がしたかと思うと、その端っこはやわらかく浮き上がった。

 いたずらで貼ったシールを剥がす子どものように、ゆっくりとしっかりと、短冊の文字を剥がしていく。

 しかしそれはあっという間に終わった。

 剥がした文字はたった二文字だったからだ。

「雑……煮」

 宙ぶらりんになった文字を読み上げて、五色はぽんと手を打った。

「雑煮が俺の最期のめしだってことか?」

「そういうこと!」

「作るって言ってたが、嬢ちゃんが作るのかい」

 言うとエヘヘと笑う。

 しかしこちらの顔は渋くなった。

「俺はもうばあさんの雑煮を食う気満々になってんだよ。こういうのはさ、死んだばあさんの幻みたいのが出てきてチャチャっと作ってくれるもんなんじゃないのか?」

「ううん。私が作るよ! でも五色さんの思い出の味そのままだから安心して!」

「ばあさんの味を再現できるってのかい? 娘や嫁たちでもそううまくはできなかったのに、食ったことがねえ嬢ちゃんが、どうやってばあさんの味を――」

「大丈夫! こうすると、私、なんでも作れちゃうんだ!」

 サエはそう言って、指先でつまんでいた『雑煮』という文字をひとつずつ舌の上に載せた。

「おいおい。今度は何が始まるってんだ」

 五色の心配をよそに、サエは笑顔のまま二文字を飲み込んだ。




「うちの雑煮はさあ、醤油味のつゆに山菜がたっぷり入ったやつでさ。そこにあれだよ、ナルト。ナルトがなくっちゃ駄目だね。俺は汁物ってえとなんでもナルトを入れる(たち)だからね。なくっちゃ駄目だ。そんで三ツ葉なんかを散らしてさ。ああ、忘れてた! 餅だよ、餅! 最近食わせてもらってなかったからすっかり忘れてた。先にさ、パリッと焼いた角餅をふたつ、椀に入れとくんだよ。焦げ目はそこそこ付いてた方がいいね。あの焦げがまた醤油のつゆに合うんだよ」

 思い出しているだけでよだれが出てきそうだった。

 が、同時に寂しくもなった。

 妻が作った雑煮を最後に食べたのは、もう二十年以上も前だ。

「かあさんが死んだあとは娘や息子の嫁さんが味を継いでくれはしたんだが、やっぱりどうも同じ味とはいかなくてね」

 そんなことを話しているとつい不安になってしまう。

「これから作るのは、もちろんばあさんの雑煮だよな?」

 厨房を覗いて、並べられた食材に目を通した。

「昆布にかつぶし、干し椎茸。鶏肉、根曲がり竹、つきこん、ゴボウとフキ、ゼンマイ。おお、ナルトも三ツ葉もちゃんとあるな。あとは――」

「素麺?」

 一番端に置かれていた真っ白な麺の束を手に取って、サエは不思議そうな顔をした。

「素麺だって?」

 たしかに作業台に置かれていたのは素麺で、五色が恋い焦がれたものは見当たらなかった。

「餅がねえじゃねえか!」

「あれ? たしかにお餅、ないかも」

 サエはそう言って、作業台の上だけでなく厨房の戸棚の中まで探し始めた。しかしどこを見ても餅はないようで、難しい顔をして五色を見遣る。

「本当にお餅が入るの?」

「あったりめえだろ。雑煮だぞ? 餅の入らねえ雑煮なんてあってたまるか」

「でも最近は食べさせてもらってなかったんでしょ」

 篁が口を挟んだところで、五色とサエは顔を見合わせた。

「どういうこと?」

 とサエが問う。

「さっき言ってたでしょ。『最近食べさせてもらってない』って」

 篁は言ってからちらりと五色に視線をくれた。五色は渋い顔で答えた。

「餅は喉に詰まるから危ねえって、子どもや孫たちが食わせてくれねえんだよ。それで代わりに俺の分の雑煮には素麺を入れるんだ。まあ、元気なころから余った雑煮には素麺を入れて食ってたから、思い出の料理ってやつに入ってても間違いじゃあねえが……」

 篁の言葉に五色は頷いた。頷いたが、納得はいかない。

「せっかくこの体になったんだもの、やっぱり餅が食いてえし、当然食わせてもらえると思うだろ」

 それなのに、材料として並んだのは『素麺』。

 五色は大きなため息をこぼした。ここでも好きなものを食べられないなんて、なんて無慈悲な仕打ちだろうと思った。

「だけどまあ、食えるだけでも有り難いと思わなくっちゃな」

 せめて妻の味そのままの雑煮であってくれと、そう祈るしかなかった。




     ***


 サエが調理を始めてしばらくの間、五色は眉根をぎゅっと寄せぐちぐちと不平を並べていた。

「しかし、あれだな。最期に雑煮を食わせてくれるっつうから、俺の心残りってやつは『食いたいもんを腹一杯食う』ってことだと思ったのに、どうやら違うみてえだな」

 五色は言いながら腕組みをした。仕方なく口にしていたものを今ここで食べることにいったいどんな意味があるのかと問う。

「作ってみれば、きっとわかるよ!」

「それにこの店に来た以上、出てきた料理を食べないことにはどうにもならないからね」

 篁が皮肉のように言う。

 そのせいで五色は余計にむっとした表情になったが、意外なことに「まあそれもそうだな」と言ってあっさり引き下がった。

「せめて美味いもん食わせてくれよ、嬢ちゃん」

「任せて! きっと満足させてみせるから!」

 サエは元気いっぱいに言ってコンロに鍋を置いた。

「まずはお出汁をとるよ! ここに昆布と水を入れて一時間くらい置いておいた鍋があります」

「おうおう。なんだか料理番組でも見てるみてえだな」

 不機嫌だった五色は満を持して始まったショーに釘付けになる。

「火にかけて、お湯が沸いてきたらグツグツなる前に昆布を取り出して」

「そんなもんでいいのかい」

「沸騰したところで火を止める! ここにかつお節をドバーッと入れて」

「入れて?」

「ちょっとだけ待ちます!」

「待つことが多いねえ。俺みたいのはせっかちだから、出汁をとるとか向かないね」

 五色は言いながらケラケラと笑った。

 鍋からは昆布と鰹の香りが力強く立ち上っている。それをいっぱいに吸い込んで、サエはにんまり笑った。カウンターの向こうで五色も同じように笑っている。

「これだよこれ。ばあさんが料理してると台所からこの出汁のいい匂いがにおってくるんだよな」

 この匂いだけで一杯やれるんだよと続けたが、最後に酒を飲んだのはいつのことだったかしらというところまで話が及ぶと、次第に表情は曇っていった。

「ほんとに、長く生きたっていいこたぁねえな」

 寂しそうに言いながらも、もう一度、出汁の匂いを胸いっぱい吸い込んだ。

 鰹を入れて二分ほど。

 仕上げに濾せば、琥珀のような色をした出汁の完成だ。

「ここに具を加えていくよ!」

 鶏肉は小さめのひとくちサイズ、水で戻した干し椎茸は薄切りにして戻し汁を使うのも忘れない。フキやゼンマイは水煮のものをざくざくと適当な大きさに切り、ゴボウのささがきは薄すぎず。そして、

「これは……ちっちゃいタケノコ?」

「小さいタケノコって、お菓子のあれみたいな?」

「そうじゃなくて、こんな感じ」

 サエは『ちっちゃいタケノコ』を手に取って見せる。

 太さや長さは立派なアスパラガスという具合だが、節があったり先に向かって細くなったりという様相はタケノコそのものだ。

「根曲がり竹って知らねえか? 俺が住んでるところじゃあ、普通のタケノコよりこっちの方がよく食うぜ」

「篁さん、知ってる?」

「母の実家で何度か見たことがあるけど、たしかそこでは姫竹と呼んでいたよ」

 篁が言うと五色はへえっと声を上げた。日本は広いんだななどと感心しながら、サエの手もとを覗き込む。

 根曲がり竹は斜め切りに。

 リズム良く包丁を入れていく。

「長年ばあさんの雑煮は食ってたけど、作ってるとこをみるのは実は初めてなんだよな。そうかそうか。頭ではわかっちゃいたけど、なかなか手間がかかるもんだね、こりゃ」

 生きているうちにもっとねぎらうべきだったと頭を叩く。

 その姿を横目で見ながらサエはうふふと笑った。

「そうね。でもね、奥さんはとっても嬉しそうにこのお雑煮を作っていたと思う」

「そんなことまでわかるのかい」

「うーん。はっきりとっていうわけじゃないけど、思い出の料理を作っているうちに、そういう気持ちになっていくの」

 自然と口もとがほころんで優しい気持ちになるのだとサエは言った。

「サエちゃんはいつも楽しそうに作ってるけどね」

 篁が言うとサエは「そう?」と返して首を傾げた。

 調理のときに感じる『嬉しい』とか『楽しい』という気持ちは、たしかに自分の気持ちと重なってどちらのものかわからなくなるときがある。

 しかし店に来た人への愛おしさのようなものが一緒にあふれてくるから、きっと作っている人の気持ちが多分に混じっているのだとサエは信じていた。

「いやあ、ここまでしっかりばあさんのやり方なのに、どうして餅じゃねえんだろうな」

 五色はあらためて言って首を捻った。

「どうしてかなあ」

 五色の言葉にのりながら、サエは切った具材とつきこんにゃく、そして干し椎茸のうま味がしっかり染み出た戻し汁を鍋に入れた。

 あらためて熱を入れた出汁のいい香りがふわっと香った。しかし顔を近づけてみれば、その奥に鶏肉の脂の匂いや山菜の青い匂いが潜んでいる。我の強いそれらの匂いは出汁の香りに馴染んでいくことでうま味へと変わっていくのだ。

「美味しそう!」

 たまらず声を上げる。

 しかしすぐに五色がフンと鼻で笑った。

「馬鹿言っちゃいけねえよ。雑煮は醤油。醤油が入ってからの匂いを嗅ぐまで美味そうっていうのはまだ早えよ」

「そういうもの?」

「そういうもんだ」

 自信たっぷりにいうものだから期待が膨らむ。

 少し煮て食材に火が通ったところで調味料を投入。酒とみりんと醤油をお玉で大胆に計ってさらりと回し入れた。

 強い醤油の香りがツンと鼻に届く。

 初めは刺激的だったのにそれは次第にやわらいで、炒め物のときの香ばしさとは異なる、あまい醤油の匂いが厨房に広がった。

 先ほどまで君臨していた合わせ出汁の香りは、ほんの少し脇に追いやられる。

 今は醤油が先頭に立って、出汁の華やかさと食材のうま味を引っ張っているようだった。

「どうだい?」

 そう聞いた五色の顔はちょっと意地悪だった。だけどまったく不快に感じない。

 サエは大きく息を吸い込んで匂いを味わった。そうしてから満面の笑みを添えて答える。

「本当だ! すごい!」

 サエはそう言ってもう一度匂いを嗅いだ。

 これだけでも十分うまそうだが、五色がこだわる『餅入りの雑煮』を想像してみれば、彼がそれだけこだわる理由がわかってくる。

 ここに香ばしく焼き色を付けた餅を入れたら、それは美味いに違いない。

「だけど、今回はこれ! 素麺を茹でます!」

「ったく。なんで餅じゃないのかねえ」

 五色はまだあきらめきれない様子で素麺の束を睨みつけた。




 ぐつぐつと、たっぷりのお湯が沸いた鍋の真ん中に素麺の束を差し込んだ。握っていた手をそっと離す。中心から外側に向けて花開くように広がった麺の束は、そのままじわじわと湯に沈んでいった。

 そこに菜箸を入れて8の字にかき混ぜる。ぱらぱらとほぐれた麺は対流にまぎれ激しく泳いだ。

 茹で上がりはあっという間だ。

 せわしない麺の動きを見ていたら、キッチンタイマーの表示がもうゼロに近くなっていた。

 慌ててザルを用意して、カウントダウンを始める。

「じゅー、きゅー、」

「ああ、もういい! ちょっと早いくらいがいいんだよ。嬢ちゃん、あげちゃいな!」

「え? あ、はい!」

 鍋を掴み、一気にお湯を流した。

 もうもうと上がる湯気がはれて真っ白な麺が顔を覗かせると、遅れてタイマーが鳴った。

「本当にこれで大丈夫?」

 流水でしっかり洗った麺を一本啜る。

 五色の言う通り、ちょうどよくぷりっとした食感に仕上がっている。

「な? 言っただろ。伊達に長生きしてねえよ」

 豪快に笑った五色に対し、

「作ってるところを見るのは初めてって言ってなかった?」

 サエはじっと冷たい視線を投げる。

「いや、素麺くらいは――ねえな。あれ? 俺、素麺を茹でたこともなかったのか」

 なんでもばあさんがやってくれたから、と生前のことを思い出す。

「それは幸せな人生だったね」

「それなのに『さっさと死にたかった』なんて。そういうこと言うとバチが当たるんだよ!」

 篁に続いてサエが言うと五色は一瞬ムッとしたが、すぐにバツが悪そうな顔へと変わった。毛のない頭をポンと叩いて

「でもよ、幸せだったのはばあさんが生きてたとこまでだから、しょうがねえじゃねえか」

 五色は壁に貼られた短冊の方に目を遣った。それぞれの料理に染みついた思い出を噛みしめているように見えた。

「あれだってさ、もうずっと食ってねえんだ。ばあさんにしか作れねえ味だからよ」

 そう言っているうちに五色は何かに気がついたようだ。あ、と口を開けたまましばらく一点を見つめていたかと思うと、急に悲しそうな顔をした。とてもとても寂しそうで、今にも泣き出しそうな顔だった。

「もしここに来たことに本当に理由があるっていうんならさ、そりゃやっぱり、俺はこのときに死んどくのが幸せだったってことなんじゃねえかな」

 五色は自分の体を差した。七十代のころの姿だ。多少の病気や体の不調はあったが、今よりずっと元気で、何でもできた。

「だけど最後の方はどうだった? さっきも言ったけどよ、動けねえわ、物忘れはひどいわ、食いたいもんは食えねえわでさんざんだったろ。戦争とか乗り越えて必死に生きてきたのに、最後にまたいろんなもの持ってかれちまってさ。だからさ、このときの……幸せなときの自分でさ、最期を迎えたかったんだと思うぜ」

 まるで他の誰かの考えを代弁するかのような言い方だった。

 だけど間違いなく彼自身のことなのだ。

 自分の言葉を噛みしめて、ぐすっと鼻をすすった。しかし涙はこぼさなかった。

「やってられねえよな、ほんと」

 五色はそう言って不器用に笑った。




     ***


 テーブル席に卓上コンロが置かれた。

「そんなものもあったんだ」

 長く通っている篁も、初めて見たと驚く。

 その上にどんと置かれた大きな鍋。

「そうそう。これな。うちはあれだよ、セルフサービスってやつでな。なにせ人数が多いもんだから、食いたいやつは自分でよそえって」

 大きな鍋と大量のお椀。そしてひとくち分に分けてタッパーに並べられた素麺。仕上げのナルトと三ツ葉も忘れずに。

「五色さんも自分で?」

 サエがお椀を手渡すと、五色は苦虫をかみつぶしたような顔で自分の手もとを見つめた。

「俺は、」

 しばし考えた。

 視線はお椀から素麺へと移り、そこから鍋へと転じる。

 最後にサエの顔にたどり着いてグイと下唇を突き出した。

「どうしたの?」

 サエが言うとまた視線がお椀に向かう。

「自分で盛ったことないんじゃない?」

 篁が嫌な言い方をした。

「え? だって今五色さんが自分でセルフサービスだって」

「そりゃ、ばあさんが生きてるときはばあさんがやってくれたし、そのあとは……介護状態だったからよ」

 気まずそうに言っていた五色だったが、お椀と鍋との間で何度か視線を往復させているうちに決意したようで、突然「えい!」と声を上げた。

「俺にだって出来らあ! ええと、まずはあれだ……汁か?」

 勢いをつけた割に最初からつまずいてサエに問う。サエは小さく笑ってから

「まずは素麺だよ!」

 とタッパーの蓋を開けた。

「おうおう。そうだ。素麺からだなあ。そんでお次は、」

「次はお雑煮!」

「そうだな。ここで雑煮だ。ん? なんだ? 具ばっかりにしてえのに、うまくいかねえな」

「それは、こうやって――」

 サエがお手本を見せる。

「やっぱりこっちで盛り付けしちゃう?」

 サエが言うと五色はお玉をぶんどった。

「男が一度やるって言ったら、最後まで責任持ってやるんだよ。――ほら、見ろ。上手いもんだろ」

 たっぷりの具材と少なめの汁をお椀によそって得意げな顔を見せる。

 仕上げに、薄切りにしたナルトと刻んだ三ツ葉を散らし五色家の雑煮の完成だ。

「餅じゃねえけどな」

 フンと鼻を鳴らす。

「でもとっても美味しそうよ!」

 五色に続いて雑煮を盛り付けたサエが歓声を上げる。

「雑煮というか、こういう別の料理みたいだけどね」

 意外なことに一番美しく盛り付けしたのは篁だった。

 サエも五色も、自分のと篁の椀とを見比べて悔しそうな顔をする。

 さらに五色はサエと見比べて、今度はニヤリと笑った。

「どうやら俺が二番ってとこかな」

「そんなことないよ! 私の方が美味しそうなんだから!」

「嬢ちゃんは普段からやってるだろ。でも俺は初めてだぜ?」

 どうだ? と意地悪な顔をする五色に、サエはぐぬぬと唸るだけ。言い返すのにいい言葉は浮かばなかった。

「そういうことは後回しにして、早く食べた方がいいんじゃないの、お二人さん。素麺、のびるよ」

 篁に言われて「あ!」と声を上げた二人。見れば篁はすでに箸を手に持ち、一口目にはつゆを、とお椀を傾けている。

「五色さん、私たちも!」

「おお。食うぞ!」

 腕まくりして、箸を持ち。

 麺を持ち上げたところでサエは気づいた。

「あ。説明」

 しかし時すでに遅し。

 五色はずるずるずるっと小気味いい音を立てて素麺をすすり上げていた。




 そういえば、死ぬ少し前は麺類でさえも細かく刻まれて、スプーンで流し込むようにして食べていたなと思い出した。

 久しぶりに豪快に麺をすすった。

 ただそれだけなのに、気持ちがいいもんだなと思った。

 その気分のまま、雑煮のつゆを口にふくむ。醤油の香り。鶏肉のうまみ。汁に染み出た山菜の風味は滋味深く。まぎれ込んだつきこんにゃくがつるんと口の中で跳ねる。喉を通るとき鼻に抜ける出汁の香りは満足感とともに名残惜しさを連れてきた。

「やっぱりうまいねえ」

 五色は唸った。

 するとどうだろう。

「ばあちゃんのお雑煮、美味しいね!」

 自分が発した声に重なるように、幼い子どもの声が響いたのだ。

「なんだい、こりゃ」

 何ごとかと周囲を見渡せば、五色はいつの間にやら食堂とは違う場所に座っていた。

 よく知った風景だ。

 それは仏間と座敷をひと続きにした、五色家の『大広間』だった。

 五色はその部屋の上座に陣取って、子どもや孫、そしてひ孫たちと正月のご馳走を囲んでいた。

「夢でも見てるのか」

 目の前でひ孫がニコニコ笑いながら雑煮を食べている。この子は今はもうすっかり大人になって三人の子どもの世話に手を焼いている子だ。他の子どもたちも、五色が最後に会ったときよりだいぶ若いし幼い。

「これはね、五色さんがこのお雑煮を食べたときの景色だよ」

 サエが言う。振り返ると五色の家の中にサエの姿があった。その隣には篁もいるではないか。自分の家に二人がいるというのはなんとも不気味な光景だった。

 しかし彼らにこそ現実味を感じるのは、つまりそういうことなのだろう。

「幻、みたいなものか?」

 五色が問うと、似たようなものだが少し違うというような答えが返ってきた。

「この食堂ではね、『味だけではなく、思い出も感覚も分かち合うこと』っていう決まりがあるの。お客さんの思い出の料理を食べると、その時に見た景色や味わった感覚を体験することができるんだよ」

「なんだか小難しい話になってきたな。まあ、なんだっていいや。俺にとっちゃあ、こりゃご褒美でしかねえ」

 五色は言いながらあらためて部屋の中を眺めた。

 畳敷きの部屋に三つ並べた座卓には、お重に詰められたおせち料理や煮しめ、子ども用のポテトフライなどが並んでいる。

 朝からこんなにしなくてもいいよと言うのは一番上の息子。そのお嫁さんは「お正月ですもの。ねえ、お義父さん」と五色に笑いかける。

「その通りだ。正月にケチ臭いこと言っちゃいけねえ。――たぶん、そんなことを言ってたんだと思うぜ」

 懐かしい、正月二日の風景だ。

 皆の顔を見れば、三十年ほど前の正月の風景だとわかる。全員ではなかったが、遠方に住んでいる息子、娘の一家や孫の一家、そしてひ孫が集まったせいで、いつもはガランと寂しい家の中が今は鬱陶しいくらいに騒がしくなっている。

 五色は目を細め、緩みに緩んだ口をきゅっと結んだ。

「二日の朝に雑煮を?」

 篁が声をかける。

「ああ。もちろん元旦にも食うんだけど、この頃は二番目のせがれが年明けてからようやく帰省するってのが多くてさ。それでも、やっぱりばあさんの雑煮が食いてえって言うから、二日の朝にも雑煮が出るんだよ。だけど俺や大晦日から泊まってる奴らは二日続けてってことになっちまうだろ?」

 それでできたのが、雑煮に素麺という形だった。

「餅も一日目に腹一杯食っちまうと、飽きてな。二日目はもういいやってなるわけよ。だけど雑煮の汁だけすするってのは、なんか、こう、食った気がしないというか。それで素麺ゆがいてくれって話でさ」

「ほんと、おとうさんは我が儘だからねえ」

 これまた懐かしい声が聞こえて五色の胸を熱くさせた。

 雑煮が苦手な子どもたち用にと炊いた白飯と味噌汁を持って登場したのは、二十年以上前に先立った五色の妻だった。いつもニコニコと笑っていて、しっかり者で。彼女が家にいるというだけで安心できた。

「いいねえ。俺も五体満足みてえだし、何よりばあさんがいて、子どもや孫も賑やかで。この頃は二日の朝が一番賑やかだったからなあ。いいもんをたっぷり見渡せて、久しぶりに気分がいいや」

 五色が言うと隣でサエがポンと手を打った。

「だから五色さんの思い出の料理は、お餅が入ったお雑煮じゃなくて素麺が入ってる方だったのね!」

「どういうことだい?」

 五色はサエの顔とお椀の間で視線を往復させる。

「たくさんでお雑煮を食べるのは、二日の朝だったんでしょ?」

「そうだけど?」

「きっと、みんなが揃ってるこの風景を見ることに何かの意味があるんだよ!」

「この風景をか?」

 五色は眉をしかめ正月の風景に目を遣った。

 この景色に、幸せを感じる以外のどんな意味があるというのか。

「頭使うことはあんまり得意じゃねえんだけどなあ」

「難しく考えなくていいんじゃない? この景色を見ていれば何かしら感じるでしょ」

 そう言って篁は素麺をすする。こちらは五色とは違って音も小さく、どちらかといえば上品で。撥ねた汁でスーツを汚したくないからねと言うから、つい五色も渋い顔をしてしまう。

 篁という男自体はいけ好かないが、その発言にはなるほどと膝を打った。

 見ていればきっとわかるのだろう。

 しかしじっと眺めていれば、めでたい日の景色のはずなのに、腹の辺りがずんと重くなってきた。妻の笑顔も子どもたちの笑い声も、幼いひ孫たちの泣き声でさえも幸せだと感じたはずなのに、五色は今、物足りなさを感じている。

 そうだ。

 幸せだけど、足りないのだ。

「人数多くて賑やかだけど、揃ってるようで揃ってねえんだ。一番面白えやつはいないし、……俺よりだいぶ早く逝っちまったあいつも見当たらねえ。合いたい顔が足りねえんだ」

五色はその場に足りない顔を思い浮かべた。

 ひい、ふう、みい、と指折り数える。

「この辺は元日にしか来れないし――」

 なな、やあ、こ、と今度はたたんだ指を戻していく。

 そうして浮かべたたくさんの顔にはいろんな思い出がくっついてくる。そのひとつひとつを拾っていけば、なんとも、口もとがにやりと緩んでしまう。そういえばこんなことがあったな。あのときは楽しかったな。あれは結局どうなったんだっけ――などと味わっていると、突然息が詰まった。前に餅を飲み込み損ねた時にこんな感じになったなと思ったが、雑煮に入っているのは残念ながら餅ではない。

 それではどうして苦しくなったか。

 そのとき思い浮かべた顔は、誰の顔だったか。

 ああ、と吐息のような声が漏れた。それはたちまちのうちに家族らの声に掻き消されたが、五色の耳にはもっとも色濃く、強く響いた。

「どうかしたの?」

 サエが声をかける。心配そうな顔を見せるから「なんでもないよ」と強がりのひとつも返してやりたいのだが、今はその一言がすんなり出てこなかった。

 代わりに懺悔に似た、己の生を省みるような言葉がふっと浮かんでくる。

「人間ってのは、欲張りなもんだな」

 五色は言ってすぐ近くにいたひ孫の頭に手を乗せようとした。しかしどうにもうまくいかない。自分自身はその場にいる感覚はあるのに、そこにあるものに振れることは難しいのだ。

 小さな頭を撫でてやるつもりだった手をそっと引いた。

 その手をどこに置いていいかわからなくなって、ぎゅっと握りこぶしをつくる。それは何かを掴む仕草のようでもあった。

「こないだの正月にはこの子の息子が、ニコニコ笑いながら俺に雑煮を食わせてくれたんだ」

 そう言って五色はすぐそばにいた女の子の顔を見つめた。

 指折り数えているうちに思い浮かべたのは、この幼い女の子がやがて産む子どもの顔だった。

 浮かんだのは幼い顔だけではない。

 三十年も前の景色を眺めているはずなのに、つい最近会ったばかりの家族の顔が頭を(よぎ)る。

 これより何年も経ってから生まれる者。結婚という縁で五色の家と繋がった者。

 それらの顔が、次から次へと浮かんでは消える。そのたびに五色は嬉しくなったが、同時に寂しくもなった。妻や息子、娘たちほどの強いつながりはなかったとしても、彼らがかけがえのないものになっていたのは間違いない。もう会えないのだと思うと胸がぎゅうっと苦しくなった。

「若いうちに死んでりゃ幸せだったのになんて言っときながら、そうなったら会えやしねえ玄孫(チビ)たちの顔を思い浮かべて恋しがるなんてな。まったく、どうしようもない奴だよ俺は」

 自分の勝手さに呆れて、思わず笑いがこぼれた。

 乾いた笑いだった。

 しかし隣りでそれを聞いていたサエが正反対の笑いを見せる。

 嬉しそうに、そして愛おしそうに、笑うのだ。

「失くしたものもあったかもしれないけど、そればっかりじゃなかったみたいね」

 そう言っていっそう晴れやかに笑顔を咲かせた。

「そういうことみてえだな」

 五色は言った。

 言いはしたが、五色の心はサエの笑顔のように晴れ晴れとはしていなかった。その理由がはっきりしなくて、胸の中はいっそうもやもやともたついた。

 だからだろうか。

 篁が意地悪な顔で放った言葉にすぐに反応することができなかった。

「それでもやっぱり、できることなら長生きしたくなかったって?」

 本当に憎たらしい顔をするものだ。

 五色はしばらく、返す言葉を探していた。

 篁の言葉をまったく否定できたのなら、こんなに悩むことはない。否定できないということはつまり、少なからずその気持ちを消しきれないところがあるということだ。

「いいこともあったってわかったのに?」

 サエが言う。

「結局幸せなのはどっちか、ってことさ」

 篁の口もとは小さな笑みを含んでいた。それは、その問いの答えを知っている顔にも見えたし、見当がつかずに白旗を揚げているようにも見えた。

「どっちがよかったんだろうな」

 五色は家族が賑やかにしている風景を眺めながらぽつりと呟いた。

 誰かがいても、誰かがいない正月二日。

 餅ではなく素麺が入った雑煮。

 どちらが『幸せ』なのか。

「わかんねえな。わかんねえけどさ、」

 すっと下を向いた視線。

 両手で包み込んだお椀の雑煮はほんのりぬくいくらいで、麺も不快なほどにのびている様子は見られない。

 ごくりと喉が鳴った。

 五色は素麺をずるずるっと啜って、噛みしめた。

 麺に染みた醤油と出汁の味。ぷりっとした鶏肉の食感。三ツ葉の独特な香りが鼻に抜け、根曲がり竹や山菜、ゴボウの風味が賑やかに後を追う。二口目、たいして噛まずせっかちに飲み込んだ麺の中に紛れていたつきこんにゃくの存在に冷や冷やしたが、餅のように詰まることはなく。むしろつるんと喉を通った感触が楽しい。好物のナルトは汁の熱さでだいぶやわらかになっていたが、ひょいと口に放り込めば「これこれ」と妙な安心感を与えてくれた。

 ああ、うまいな。

 五色はそう思った。

 目の前の景色を見ればいっそう。

 そこにはまだいない、いくつかの顔を思い浮かべればなおさら。

 三途の川の畔にまで来て食べる餅の入らない雑煮は、確かにうまいと感じた。

「わかんねえけどさ、大正から令和までいろんなものも見れたし、ひ孫どころか玄孫(チビ)たちにまで会えたし、最後にこんな面白えことも体験できたし、俺の人生、そんなに悪くなかったんじゃねえかなと思うわけよ。……うん。悪かねえ。ここに来たせいで、そうとしか思えなくなっちまった。嬢ちゃん、…………ありがとよ」

 五色はサエに向かって笑いかけた。

「こちらこそ!」

 サエは例の眩しいくらいの笑顔を見せながら、雑煮が入ったお椀を目の高さに掲げた。

「美味しいお雑煮を、ありがとう!」

 屈託なく言う。

「どういたしましてだ」

 五色はへへと笑って自分のお椀をサエのお椀にコツンと当てた。兄ちゃんもやるかいと篁の方を向くが彼は「遠慮するよ」と少し離れたところで淡々と麺を口に運ぶ。

「そうだな。早く食っちまわないとな。いつまでもここにいるわけにはいかねえものな」

 そう言って五色は目を細めた。

 大広間に集まった家族が、大きな口を開けて笑う。そこここで違う話題に花を咲かせながらも、誰かがおかしなことをすれば皆がそちらを向いて顔をほころばせる。

 同じ場所にいて、同じものを食べる。

 幸せな景色が広がっていたが、いつまでもとどまっているわけにはいかないのだ。

 五色は大袈裟に音を立てて素麺を啜った。雑煮の味が口の中いっぱいに膨らんで寂しさを追いやる。つるりと素麺を喉に流せばつい出る「うまい」という言葉は、口にするたびに五色の心を満たしていった。

 寂しさがまったくなくなったと言えば嘘になる。しかし五色はもう満足していた。

「長生きもしてみるもんだな」

 五色は自分の言葉に笑った。

 素麺が入った雑煮も悪くないなと言いながら、最後の一滴まで余さずたいらげた。




     ***


 空になった椀の底を睨みつけ、ちっと舌打ちを響かせる。先ほどまでの笑顔はどこへ行ったのやら。

「最後なんだから、やっぱり餅が入ったのも食いたかったなあ。なあ嬢ちゃん、本当に餅はないのかい?」

「もう。五色さんは本当に欲張りね」

 サエは呆れたように笑う。その横で同じように口もとを緩ませながら篁は「欲張りでいいんじゃない」と言った。

「ああしたいとかこうしたいとか、そういうものがあった方が次の人生で頑張れるでしょ」

「なんだい。もう次が決まってるのかい」

「いや。これからの審判次第だよ」

「こっからまだ色々あるっていうのかい。勘弁してくれよ」

 不機嫌な顔を見せたが、すぐにその表情はやわらいだ。

「まあ、仕方ねえな。人生ってのはそういうもんだ。いいこともありゃ悪いこともある」

 遠くを見つめた彼の目に何が見えていたのか、サエにはわからない。一〇六年という人生の中で味わった辛苦を思い起こしているのかもしれないし、かつて手にした栄光を振り返っているのかもしれない。

 いずれにせよ五色の口もとが最後にニタリと笑ったのを見つけて、サエは嬉しくなった。

 えへへと笑うと五色が眉をしかめる。

「なんだい、気味が悪いな」

 そう言われてもサエは笑顔のまま、店の外まで五色を見送りに出た。

 店の前、河原の石を踏みしめた五色が妙なことを口にした。

「そうか。俺の年で賽の河原なんておかしなことだと思ったが、嬢ちゃんの方だったか。こうやって俺みてえなやつの相手をするのが石積みの代わりなんだな、きっと。早く終わるといいな」

 言葉の意味が掴めずにサエは首を傾げる。五色はそんなサエの反応など気にすることなく、自分はすっかり清々しい顔になって大河へと歩き出した。

 一度だけ振り返り、「ご馳走さん!」と声を上げる。川を渡れなかった原因は解消されたはずなのに、その姿はまだ『若い』頃のままだった。長く歩くにはその方が都合がいいやと五色は笑っていたが、そういうものかしらとサエはまた首を傾げることになる。

 いってらっしゃい、といつものように手を振り送り出すことはできた。しかし五色の背中が見えなくなると、彼が残した言葉が気になり、高く掲げた手がその場所でぴたりと止まってしまう。

「ええと…………早く終わるって、何が?」

 篁に助けを求めようにも『我関せず』を貫いてこちらに目を向けようともしない。

「篁さん!」

 呼びかけてみても反応はない。聞こえないふりをしているのか、それとも本当に聞こえていないのか。

 篁の隣の席に腰掛けて顔を覗き込んだところでようやく「なあに?」と返ってきた。

「さっきの、どういう意味だと思う?」

 真剣な顔で尋ねると、飄々とした態度で答える。

「ああ。何か言ってたね。気にしなくていいんじゃない」

 賽の河原で石を積むのは小さな子どもというのが定説だから単純にそう言ったのではないかと付け足して、篁はお茶を啜った。

「そういうこと?」

 そうは言うが、どうも五色の残した一言が気になってしまう。

 五色が消えた方向を見遣り、むむむと唸った。しかし唸り声以上には何も出てきやしない。首を捻ったり腕組みをしたりしてみたが、どうしたって駄目だった。

「そんなことより、早く片付けた方がいいんじゃない。次のお客さん来ちゃうよ?」

「あ! そうだった!」

 サエは慌てて後片付けを始める。

 疑問は疑問のままだったが、きれいにたいらげられたお椀を見ていると、そんなことはどうでもよくなっていった。

「次はどんなお客さんが来て、どんなお話を聞かせてくれるのかなあ」

 期待たっぷりに言うと篁が呆れたように笑った。

「『どんな料理を食べさせてくれる』じゃなくて?」

 その言葉を否定はしない。

「でも、お話を聞くのも楽しみだよ! だって、どんな人の思い出も幸せを分けてくれるんだもの」

 サエはそう言って壁に貼られた八枚の短冊を眺めた。

 次はどんな人が来て、どんな料理が書き出されるのだろう。この店に来る人は川を渡れずに困っている人なのだからそんな風に思ってはいけないのかもしれないが、期待せずにはいられない。

「こんなに楽しそうなのに、どうして石積みしている最中だなんて思えるんだろうね」

「え? 何か言った?」

「なんでもないよ。空耳じゃない? もしくは次のお客さんの声とか」

「そんなわけ――」

 あるはずがないと思いながらも、耳をそばだてて店の外の気配をうかがう。

 聞こえたかもしれないが、気のせいかもしれない。

 サエは暖簾をめくり河原の彼方を見遣った。

 万が一に備えて身支度を整える。

 エプロンの紐をきちっと結び直し髪をなで、そしてにいっと口角を上げた。そうやって準備万端で客を出迎え、お決まりの台詞とポーズを披露するのだ。

「あ! 本当にお客さんが! …………ようこそ、三途の川のホトリ食堂へ! まだまだ続くなが~い旅路に備えて、お腹いっぱい、心いっぱいに満たされていってね!」




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