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【箸休め二 彼岸のオムライス】

【箸休め二 彼岸のオムライス】


     ***


 その日は、(たかむら)の様子がおかしかった。

 開店準備のため店先の掃除をしていると、河原の向こう、靄の中から篁が現れた。

 そこまでは日常的に見かける風景なのだが、今日は違った。まっすぐに向かってくる篁のその手には、いつものビジネスバッグの他に、小ぶりの買い物袋があったのだ。

 それはどう見ても『あちらの世界』のものだった。確か前に、下界のものをいろいろ持ち込むと十王に叱られると言っていたはずだ。

 それなのに堂々と持ち込んで店にたどり着くと、何食わぬ顔で厨房に入った。

「篁さん?」

 おはようとか、いい天気だねとか、ちょっと厨房借りるよだとか、何か言うことはないのかと視線を送ると、篁はサエの頭上を指差した。

「今日は暖簾かけなくていいから。一日貸し切りね」

 それだけ言って、作業に戻った。

 袋の中からガサゴソと。

 何を持ち込んだのかと気になって、掃除もまだ途中だというのに、サエは厨房に急いだ。

「鶏肉、卵、マッシュルーム、玉葱、それとケチャップ?」

 篁の隣りに立って、調理台の上に並べられたものを確認していく。

 こんなものもあるよと、篁が次に袋から取り出したのは

「パックご飯。サエちゃん見るの初めてでしょ」

 プラスチック容器に入った白米が二つ。

「なにこれ。温めるだけでいいの? 便利だね!」

 とは言ったものの。

 サエは振り返る。

 厨房内、作業台とは背中合わせの棚に置かれた炊飯器は、必要なときには勝手にご飯が炊き上がる。

「ここにはもっと便利なものがあったみたいね」

 サエはエヘヘと笑った。

「それで、こんなにいろいろ持ち込んで、何をするつもりなの?」

 サエが尋ねる。

「オムライスを作るんだよ」

 そう言った篁は、店に着いてからほとんどサエの顔を見ようとしない。

 飄々としていて人のことを小馬鹿にしたりもするが、しっかりと視線を合わせ話をする人だと思っていたのだが。

 しかし今日は、サエの方から覗き込んだとしても、かちっと目が合うことはなかった。

 おかしい。

 今日の篁は何もかもがおかしい。

 上着を脱ぎ、シャツの袖をまくり、しっかり手を洗って――

「わあ! 篁さんがエプロンしてる!」

 珍しい光景に、サエは嬉々として声を上げてしまった。

 篁が、食材とともに持ち込んだ、黒いしっかりとした生地のエプロンを着けていた。

「篁さんって料理できるの?」

 興味津々で尋ねるサエ。

「ほとんどしないね」

「でも、エプロン姿、サマになってるよ?」

「そうでしょ? 俺は何を着てもサマになるからね」

 ようやく篁らしさを見せたが、やはりサエの顔は見ない。

 サエは口を尖らせた。

 話しかければ答えが返ってくる。

 その答えがサエを満足させるだけの情報量かと言えばけっしてそうではないが、最低限の答えには至っている。

 それでも、目が合わないというだけで、サエはとても寂しくなった。

何だか知らないが、篁は今日はもうずっとオムライスのことばかり考えているのだろう。

 オムライスのいったい何がそれほど彼を突き動かしているのだろうか。作らなければ死んでしまう病気にでも罹ったというのか。

 そんな馬鹿な話があるかと、自分の考えに肩を落としながら、サエは篁の様子をうかがった。

「どうしてここで作るの? いろいろ持ってきたら怒られるんでしょ?」

「二人分食べるのが嫌だったの」

 篁は電子レンジでパックご飯を温めながら言う。

 サエは首を傾げた。

 自分ならば、怒られることよりも、一人で二人分食べる方を選ぶ。

「それに、二人分食べるのが嫌なら一人分で作ればいいじゃない。それで解決するのに」

 そう言うと篁は首を横に振った。

 ずっと二人分を作ってきたから、その分量の方がやりやすいのだと言う。

 なんだか意味深長な台詞だ。二人分とはどういうことか、相手は誰かとつい勘ぐってしまう。

 サエは篁をじっと見た。

「そんなに見つめられちゃやりにくいんだけど」

 料理の手際はそれほど良くないからと言いながら、慣れた手つきで玉葱を粗みじんに刻んでいる。特有のあの刺激には弱いようで、篁の瞳にはうっすら涙が張っていた。

 玉葱を刻み終えると、次はマッシュルームだ。こちらは軽く汚れを拭いたら薄切りに。

「どうしてオムライスを作るの?」

 なんだか今日は『どうして』ばかりだと嘆きながらもサエは尋ねた。

「命日だからね」

 篁は『この一言で十分わかるでしょ?』と言わんばかりの言いぶりで答える。

「命日って――篁さんの、ではないよね?」

「俺は死人じゃない。前にもそう言ったでしょ」

「じゃあ誰の命日なの? ――あ、二人分の!」

「そう。二人分の」

「それは、どういったご関係の人で……」

 テンポ良くサエの問いに答えていた篁が、ほんの少しの間をとった。トントントンと、包丁がまな板に当たる。手は止めず。マッシュルームを切り終えると、ようやくサエの顔を見た。篁の目には玉葱の余韻がまだ残っているように見えた。

「弟。らしいよ」

「弟さん?」

 なあんだと咄嗟に出てきた感情はいったい何だったろう。わからずとも、サエは気を取り直して質問を続ける。

「篁さん、弟さんがいたの?」

 何だか意外に思えて声を上げたが、『弟』という言葉のあとに付けられた一言にサエは首を傾げた。

 らしい、とはどういうことか。

「らしいはらしいだよ。あくまで、『らしい』。『らしい』としか言いようがないんだものしょうがないでしょ」」

 篁が『らしい』と発するごとにどんどん意味がわからなくなっていく。

 解読できる自信を微塵も感じられなくて、サエは早々に降参の白旗を上げた。

「わかった。ちゃんと説明するよ」

 と言ったあと、

「俺にはね、一年とちょっとだけ弟がいたときがあったんだ。ちょっと、面倒な家庭でね」

篁は呆れた顔でため息をこぼした。




「俺の家はさ、そこそこの権威と金だけは持ってる家で、地元の名士とか言われる存在でね」

 隠し立てするようなこともなく、篁は問われたことに対し、淡々と自分のことを話した。

 食う、寝る、食べる。

 これらに困ったことは一度もなかった。

 しかし幸せな家庭に育ったと言われると素直には頷けない環境だったと自分では思っている。

 悪びれもせずいろいろなところに『女』をつくる父と、腹違いの姉たち。母親というものが定着したことがない家で篁は育った。

 そんな話をされたら、大抵の人間はかける言葉に悩むものだ。元々の『名士の子』という立ち位置もあって、顔色をうかがうような大人たちがまわりに多くいた。

 そういう目に囲まれて篁は育ったのだ。

「別に本人はなんとも思ってないのにね」

 嘲笑うように言って、まな板の上の鶏肉に包丁を入れる。言葉とは裏腹に、肉を切る手に余計な力が入っていた。

押しつけるように、切る。

 篁に『弟』ができたのは、高校一年の終わり、桜の咲く時期だった。

 『あなたの子です』と、ある日突然、小さな男の子を連れた母親が現れた。篁の父は身に覚えがなかったらしいが、迷うことなくその親子を引き取った。

 籍を入れたわけでもないし、本当に父の子か疑わしいような状況だったから、家族はみな母子のことを居候というようにしか感じていなかった。

「そもそもね、うちは昔からみんな勝手で家に寄りつかないから」

 鶏肉を切り終えると、篁はフライパンを手に取った。

「あ。塩とコショウ、忘れちゃった。サエちゃん、ある?」

「調味料とかはちゃんと使えるよ!」

 ちょっと待ってね、と戸棚を覗く。

「はい。塩と、コショウ! 他に必要なものはない?」

「そうだなあ。サラダ油とバターもないね。ケチャップはちゃんと持ってきたのになあ」

「油は大丈夫だと思うけど、バターは……あったかなあ」

 この食堂の冷蔵庫というものは不思議なもので、客の思い出の料理を作ろうとするとその材料が現れるという仕組みになっている。

 普段から基本的な調味料や飲み物というものは常備されているようだが、そういえば賞味期限などというものはどうなっているかと気になるところだ。

「あった!」

 冷蔵庫の上段にガラスのバターケースを見つけた。中にはまっさらなバターが入っていた。

 蓋を開け、大丈夫かなと匂いを確かめてみる。しかし駄目になったバターがどんな匂いなのかサエは知らない。嫌な匂いはしないし見た目も問題なさそうだ。

 必要な分だけを切り分けて篁に渡す。

 それじゃあ、と篁は調理を続けた。

 まずはオムライスの中身、チキンライス作りから。

 サラダ油を熱して玉葱を炒める。フライパンの上で玉葱の水気がじゃっと弾けた。木べらで混ぜながら火を入れて、表面がうっすら透き通ってきたらマッシュルームと鶏肉を加える。

 サエは隣で美味しそうな匂いを嗅ぎながら、篁の手際の良さに驚いていた。

「料理、できなさそうなのにね」

 いたずらな目で篁の様子をうかがう。

 得意そうにするでもなく、照れをみせるでもなく。時々フライパンを振りながら、余裕の表情で具材を炒める。

「しないよ。滅多にね。オムライスだって年に一回しか作らないし」

 言いながら、温めておいたご飯をフライパンへ落とした。

 塊をほぐすように木べらを入れる。

 上下を返し、フライパンを揺すり、最後に一度、二度と煽って、ご飯と具材を混ぜ合わせた。

「炒飯みたいね」

「炒飯はもっとパラパラしてるでしょ」

 篁のチキンライスは、具材のうま味を吸い込んでしっとりして見えるのに、混ぜるとふわりと軽かった。

 そこへ調味料が加えられる。

 塩・コショウとケチャップを入れてからは、炒めるというよりはさくっと混ぜるだけといった具合で、全体がケチャップの色で綺麗に色づくと篁はさっさと火を止めた。

 一足遅れて立ち上る、ケチャップの酸味と甘みを含んだ熱気。

 サエは美味しそうな匂いに包まれ表情をとろけさせる。

 できあがったチキンライスを等分に分け皿に上げた。軽く楕円の形にまとめ、これで準備は完了となる。

 篁はふうっと息を吐いた。

「サエちゃん、聞きたいんじゃないの?」

 片眉を上げ、意地悪な顔をする。

「な、なんのこと?」

 サエは取り繕って調理道具などを洗い始めたが、それほど量はなく、あっとう間に逃げ道を失った。

「だって、」

「だって、何?」

「さっきから色々聞いても微妙にはぐらかすから、無理に聞いちゃいけないのかなって思って」

「いつもかなり強引に『教えて! 聞かせて!』ってやってるじゃない」

 店に来た客を出迎える姿を真似ながら篁は笑った。

「聞かれたくない話なら、ここには来ないよ」

 篁がそう言うものだから、サエは自分の中にあった遠慮をいったんどこかへ放り投げることにした。

「それじゃあ、教えて! 弟さんはどうして死んじゃったの? 篁さんは……どうしてここでオムライスを作ってるの?」

 細かい疑問ならもっとある。

 しかし中でも特に気になる二つを並べた。

 篁は頷いた。

 ――ように見えたのだが、サエの疑問に答えることなく卵を割り始めた。

「えー!」

 サエが不満の声を上げる。

「安心しなさいな。ちゃんと話すから」

 卵を二つ、ボウルに割り入れた。

「自分のことを話すのは、何かしながらでもないとなんだかくすぐったいでしょうに。それに、作りながらの方が、このお店っぽくていいでしょ」

 どこまで本気なのわからない態度で篁はヘラヘラと笑った。




     ***


 母子が家に来て一ヶ月ほど経ったときのことだった。

 日曜の昼近くに目覚めた篁は、台所でその男の子と遭遇した。

「何してんの」

 声をかけるとびくっと体を縮めた。食器棚や戸棚の扉が開け放たれていたから、何かを探している最中だったのだろう。

 もしくはいたずらでもしていたか。

 そろりそろりとこちらを振り向く。

 この一ヶ月まともに顔を合わせたことがなかったので驚いた。たしかこの春小学生になったと言っていたはずだが、新一年生というものは、こんなに体が小さかっただろうか。ランドセルを背負っている姿を想像できぬほどに小さく、そして痩せている。

「あの、ごはん……」

「君の家ではご飯は食器棚から出てくるの?」

 寝起きで機嫌が悪かったこともあってきつい言い方になった。自覚はあった。

 しかし気にすることなく冷蔵庫を開けてペットボトルの水を飲んだ。

 彼は食べるものを探しているようだった。

 母親は、篁の父から得た金で開いた店が忙しいようで、帰らない日が多くあった。

「帰ってきてないの?」

 聞くと、こくりと頷く。

「いつからご飯食べてないの?」

「きのう。あさごはんは、たべた」

「いつもそうなの?」

「いつもはパンがある。けど……」

 視線が戸棚の方へ向いた。

 いつもは母親が必要な分だけ置いて行くらしい。あるはずのパンがなくて、それで探していたというのだ。

「それは困ったね。でもさ、冷蔵庫にだって食べるものあるでしょ。食べればいいじゃない」

「れいぞーこのはダメだっておかあさんが。それに、たべるものなかった」

 たしかに、もう一度開いて確認してみると、食材はあるが、彼が見つけてそのまま食べられそうなものは入っていなかった。

 ぐうっと腹の虫が鳴る。

 一度ではおさまらず、うめき声のようにしばらく鳴り続いて、そして止まった。

「おなかすいたよ……」

 今にも泣き出しそうな顔をして彼は言った。

 情が湧いたわけではない。

 しかし放っておけなかった。

「何か食べる?」

「たべる!」

 腹を空かせて動けなくなっていた人間とは思えぬ程に、目は輝き、立ち上がった姿は力強かった。

「何が食べたい?」

 冷蔵庫に何が入っていたか、その材料で自分が作れるものは何か。そんなことを考えていたら、

「オムライス!」

 という元気いっぱいな答えが返ってきた。

「オムライス?」

 姉が作っているのを横で見ていたことはあったが――

「オムライス。作り方」

 篁はインターネットで作り方を探して、冷蔵庫の中身と照らし合わせる。

「卵と玉葱はあるけど、肉もマッシュルームもないよ」

 言うと彼の目には涙がたまった。

「泣いたって出てこないよ。あきらめなさいな」

 しかし彼は涙をためたまま歯を食いしばっている。どうしても食べたいと言うのだ。

「わかったよ。その代わり、美味しくなくても黙って食べること。いいね」

 強い口調で言われたにも関わらず、彼は嬉しそうな顔をして大きく頷いた。




 レシピの通りの材料はなかったので、仕方なく、マッシュルームは無し、鶏肉はベーコンに替えてオムライスを作った。

 初めてにしては上出来だったと思う。

 ケチャップで自分の好きな絵を描いたあと、彼は大喜びで頬張った。

「そのせいですっかり懐かれちゃったんだけどね」

 篁は卵をかき混ぜながら大きなため息をついた。

「日曜は母親がたびたび帰ってこないんだよ。ひどいときは夕方くらいまでほったらかしでさあ。そうすると、俺を頼って来るわけ。毎回毎回オムライスを作らされて。ああ、二回目からはちゃんとレシピ通りのを作ったよ。マッシュルームが入るとね、やっぱり違うんだよ。味が。鶏肉も、食べ応えに影響するから冷凍庫に常備するようになって」

 でもそのうち彼は図々しくなってきて、部屋に押しかけてまでオムライスを作れと言うようになった。

 ――というようなことを、これでもかというくらいに迷惑そうな顔をして話したのに、サエは良いものでも見たというような顔でフフと笑った。

「弟さんと仲良しになったのね」

 それは腑に落ちない言葉だった。

 篁はしかめっ面で卵をかき混ぜる。

 途中、牛乳をほんのわずかと、塩・コショウを少しずつ入れてしっかり混ぜた。

「でもオムライスを作ったのは、一年とちょっとの間だけ」

十年前の今日、彼は突然どこかに消えてしまった。

 フライパンにサラダ油とバターを落として火をつけた。ここからは肝心なところだから、ちょっと口数が少なくなるかもしれないと篁は言った。




 きれいな四角に切った小さなバターの欠片は、熱く熱せられたフライパンの上で、じわりじわりと溶け形を変えていった。

 まず角がなくなった。

 足もとから崩れるようにかさを減らし、サラダ油の中に広がっていく。まだ二つの油の境がわかる。

 フライパンの水平を保ったまま円を描くように大きくまわすとバターは馴染んでいって、もとの形はまったく無くなった。

 それでも、ここにいるよと主張するようにふつふつと泡を生み、うっすら茶色く色づいていく。

 あちこちに細かい泡が現れると、篁は一気に卵液を流し込んだ。

 すぐに周囲が固まり始めた。

 しかし篁は動かず。

 じっと待っていたかと思うと、ようやく固まり始めた内側の卵液に木べらを入れ大きく渦を描いた。

 内側から、外側へ。

 底の方にできていた薄い膜が木べらの動きに導かれ、ドレスのように優雅なドレープを作る。

 薄っぺらだった卵が、ふんわりと空気を含んだ。

 そのまま火を入れる。

 表面の卵液が乾き始めたところで取り分けてあったチキンライスを、中央から少しはずれたところにそっと置いた。

 広い(がわ)を、まるで布団を掛けるようにご飯に覆い被せ、フライパンの縁に追いやりながら徐々に(くる)んでいく。

「やっぱり、一つめはうまくいかないな」

 篁は苦々しく笑う。

 傾けたフライパンに皿を当て、返すようにしてオムライスを盛り付けた。しっかりと包めずに裾からチキンライスがはみ出す不格好なオムライスになった。

「でも美味しそうだよ!」

 サエは嬉しそうに言って顔を近づけた。

 バターの香りと、卵のあまい匂いが食欲をそそる。たまらなくなって、いっそう鼻を近づけると、顔を覗かせるチキンライスからケチャップの匂いもやってきた。

「一年ぶりの勘は取り戻した。次のは綺麗に作るからね」

 そう言って、篁は二つめのオムライス作りにとりかかった。




     ***


 あとの話は食べてからにしようか。オムライスが冷めてしまうから。

 篁が気を利かせてそう言ったのに、サエはぶんぶんと首を横に振った。

「だって、弟さんがどうなったか気になるじゃない」

「どうもなにも。いなくなって、そこで話はおしまい」

「……本当に?」

 スプーンを受け取って、サエは篁の顔をじっと見た。

「いなくなって、おしまい」

 彼は突然いなくなった。

 十年前の秋分の日。晴れた日だった。

 その日もせがまれてオムライスを作る約束をしていた。それなのに、買っておいたはずのマッシュルームが見当たらなくて。結局それは姉が使ってしまっていたということがあとになってわかるのだが、篁はどうしてかその時は妥協ができなくて、午前中の少しの時間で近所のスーパーに買いに出た。

 その間の出来事だった。

 学校の宿題をしていたはずの彼は、篁が帰ると忽然と姿を消していた。

 誘拐されたんだとか、近くの川で足を滑らせたんだろうとか、様々な話が上がったが、どんなに探しても彼は見つからなかったし、帰ってこなかった。

 息子がいなくなってからは、母親も家に寄りつかなくなって、いつの間にか家族関係は解消されていた。

 一年を過ぎたら誰も探さなくなった。

 テレビや新聞では、どこかで誰かが姿を消せば、『誰それちゃんがいなくなって、今日で何年です』などというフレーズをよく聞くのに、彼にはそれほど探してくれる家族がいなかったようだ。

 せめてもと思い、篁は毎年彼がいなくなった日にオムライスを作っている。作り慣れた二人分の分量で。一つは自分が食べ、もう一つは父や姉たちが食べてくれた。

 七年が経ったころ、彼の母親から連絡が入った。戸籍上彼が死んだとする届けを出すことにしたと。

 それから秋分の日は、彼がいなくなった日ではなく、彼が死んだ日になった。

「篁さんは探さなかったの?」

 唐突にサエが口を挟んだ。手にはしっかりケチャップの容器を握っていた。

「サエちゃん、ケチャップかけないの?」

 サエの前に置かれたオムライスはまだそのままだ。宣言通り、二つめはきれいなオムライスになった。それを崩すのが勿体ないらしい。

「食べない方が勿体ないでしょ」

 篁はそう言って強引にサエのオムライスにケチャップをかけた。

「ああ……」

 サエが声を上げる。

 なめらかな黄色い面に書かれたのは『サエちゃんへ』という文字。

「プレゼントみたいでいいでしょ」

「えー。どうせならかわいい絵が良かったのに」

 ぷうっとふくれた頬。しかし名案が思いついたようで一気に笑顔が咲く。

「私も書いてあげる!」

 ケチャップをぶんどり、篁のオムライスに何かを書き始めた。

 こちらも名前を書き始めたようだが、同じようにとはいかない。

「あれ? 画数が多くてうまく書けないよー」

 『篁』という字を書くつもりが、線を引けば引くほどぐちゃぐちゃと重なりとんでもないことになる。

「ああ! もう! こうなったら、こうしちゃうんだから!」

 失敗した文字にさらにケチャップを重ねぐるぐると塗りつぶし、空いたスペースに星マークを散らした。

「タイトルは?」

「星空とお月様!」

「星はわかるけど、これじゃあ太陽でしょ」

 篁は真っ赤なぐるぐるを指差す。

「なにより、ケチャップかけすぎ」

 はあっとため息がもれたが、そのため息は笑みに変わった。

 そういえば、彼はケチャップが大好きで、これでもかというくらいかけていた。もしかしたらオムライスが食べたかったのではなく、『ケチャップをたくさん使える料理』が食べたかったのかもしれない。

「それじゃあ食べようか」

 篁は思い出し笑いをこらえながら、いただきますと両手を合わせた。

「いただきます!」

 サエもしっかり言ってあとに続く。

 卵の表面にスプーンを入れた。

 やわらかな感触の奥にしっかりとチキンライスの抵抗がある。もう一押しして底まで差し込むと、両方をきれいにすくい取った。

 口に運ぶ。

 やっぱりかけ過ぎだよと笑いながら、まずはケチャップの味を確認する。濃いなと思ったところに卵の甘みがやってきて緩和してくれる。そのあとに加わるチキンライスのケチャップ味は、はじめに入れたケチャップのように強く舌を刺激するのではなく、ご飯と具材をまとめるように程よく香る。

「どう?」

 篁はサエを見た。

「篁さん、すごい! とっても美味しいよ!」

 口のまわりにたっぷりケチャップをつけてサエが満面の笑みを見せた。

 よほど気に入ったのか、二口、三口と続けて食べて口の中をいっぱいにする。

「美味しいね!」

 口の中が空になるたびにサエはそう言って笑った。

 今日は家族の誰も都合がつかなくて、一人で食べるよりはいいかと思ってここに来たのだが、もしかしたら失敗だったかもしれないと思った。

 サエの仕草や笑顔が、どうしたって彼の姿と重なってしまうのだ。

 まずいな、と思って上を向いた。

「サエちゃんの中身が五歳児なの、すっかり忘れてたよ」

「ん? 何か言った?」

 オムライスをペロッとたいらげて、サエは満足そうだ。

「なんでもないよ」

 と篁が言う。

「そう? それならいいや! ごちそうさま! ねえ、篁さん。オムライス、とっても美味しかった! また来年も作ってね!」

 サエは嬉しそうに言って、これ以上ない笑顔を見せた。




「それで、篁さんは探したの?」

 厨房に二人並んで後片付けをしながら、サエは話の続きをねだった。

「探したよ。そうしたらここにたどり着いたんだ」

 探しているうちに迷い込んだのが死後の世界だったから、自分でもその時点でもうあきらめていたのだろう。

「それはいつのこと?」

「彼がいなくなって一週間もしないうちじゃなかったかな」

「それって篁さんが高校生のときのお話だよね? あれ? でも初めて会ったときはもう今の篁さんだったような……。あれ? 初めて会ったとき? 私と篁さんはどんな風に会ったんだっけ?」

「俺が初めて来たときはサエちゃんもいなかったし、この店もなかったよ」

 もしそのときに三途の川のホトリ食堂があって、サエがいたなら、どうなっていただろうと篁は思った。

 彼はこの店にたどり着いただろうか。

 思い出の料理を食べただろうか。

 最期の料理として、何が選ばれただろうか。

 洗い終えた皿に視線を落とす。

「いや、立ち寄らなくていいなら、それに越したことはないか」

 篁は視線を上げた。

 壁に飾られた白紙の短冊が目に入った。明日はどんな客が来て、どんな料理が並ぶのだろう。

「篁さん! 私と篁さんが初めて会ったときのこと覚えてるんでしょ? どうしてか私、まったく思い出せないの! ねえ! 教えてってばぁ!」

 ゆっくり感傷にふけっている時間はなさそうだ。

「その話はまた今度。それよりサエちゃん、初江王(しょこうおう)からの伝言なんだけど……」

「え! なになに?」

 無邪気な笑顔を向けられて、篁は「仕方ないな」と笑みをこぼした。



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