【第一話 冷たいサンドイッチ】
【第一話 冷たいサンドイッチ】
「まずはじめの六日間はただひたすら歩きました。真っ暗闇の中を当てもなく、前だと思う方に足を出し、それだけを繰り返し、七日目にようやく誰かと会いました。声が聞こえるだけで顔も姿もわからず本当にそこにいるかどうかも疑わしくて、だけどその声は私に言うのです。
『私が裁くべき事柄においてお前の罪は人並みだと言えようが、だがしかし、それを罪ではないとするわけにはいかぬ。よって、お前の進路を山水瀬と定める』
と。私はそれからその声が示す方向へと歩き、やはり七日ほど歩き続けましたところ、大河にたどり着いたのです」
「それでそれで?」
「小石の転がる河原を越えて水辺までたどり着いてみますと、その大河はなんともまあ……対岸も見えぬような立派な大河で。対岸が見えぬのですから『海だ!』と思おうとすれば海にも見えてくるのですが、だけれど私にはそれが川だと妙に納得できてしまうのです」
「そこから橋は見えた?」
「ええ見えましたとも。きらびやかな宝石で飾られた、朱塗りの橋が見えましたとも。しかし私が渡るべきはそこではないと、橋の守り人に追い返されました。それで肩を落とし川辺を歩いておりますと、流れのゆるやかな浅瀬を見つけたのです」
「それが泰広王がおっしゃる『山水瀬』よ!」
「そのようですね。ですが、いくら浅瀬とはいえ、あれを渡れなどとは酷なことを」
「それでも渡らなければいけないのよ!」
「ええ。わかっています。けれどなかなか意欲がわきません。それで『えいや!』と己を奮い立たせ深く息を吸い込んだところ――」
「トコロ?」
「肉の焼ける匂い、甘い砂糖菓子の香りが、こう、風に乗って鼻先を」
「つまり! おいしそうなにおいに気づいてしまったのね?」
「そうなんです。それで私は浅瀬を渡らず、ここに来てしまったのです」
「それはそれは」
少女は嬉しそうに笑いながら男の話を聞いていた。
化粧っ気のない年ごろの少女らしい顔つきが、いつもより三割増しで目を大きく開き、来訪者を全身で受けとめるかのように、友好的な笑顔を見せる。
終始その顔つきで、ときどき大げさに相づちを打ちながら聞いていたわけだが、この話はここでお終いと言わんばかりに、そばに置いてあった真っ白なエプロンを大仰に広げてみせた。
身につけて、腰紐をきゅっと縛り、仕上げにきれいな巻き毛を三角巾で包み込む。祭りの衣裳でも着せてもらった幼子のように、得意げにポーズをとってみせた。
決めポーズには、決めゼリフがつきものだ。
「ようこそ、三途の川のホトリ食堂へ! まだまだ続くなが~い旅路に備えて、お腹いっぱい、心いっぱいに満たされていってね!」
あまりに元気いっぱいに言うものだから、来訪者はつい自分の置かれている状況を見誤ってしまいそうになるのだが、この場所はその名の通り、三途の川のほとりにある食堂。
つまり死者だけが訪れる、『あの世』の食堂というわけだ。
***
「サエちゃん。あのやりとり、もう何回目?」
頬杖をつきながら、ため息交じりで言う男。
カウンター席の一番奥の席を勝手に特等席だと指定して、顔を出せば一日中その場所を占拠しながらしかしコーヒー一杯しか頼まない男。
彼と同じような、いかにもおもしろくないといった表情になりながら、サエは空になったコーヒーカップを取り上げて、湯飲みに注いだほうじ茶を差し出した。
「篁さん。『上がり』って知ってる?」
「お茶だろ」
「お寿司屋さんでは食事の最後に出るらしいよ」
「まあその場合、粉茶が一般的ではあるがな。そもそも、上がりの語源は遊郭で『来客に出された茶』らしいから、むしろ歓迎の意が込められているのかもな」
篁と呼ばれた男はわざと大きめに音を立てて茶をすする。毎月のように散髪しているという短く清潔に保たれた髪に、シワのない真っ白なワイシャツ、糸くずひとつ抜け毛一本ついていないダークグレーの背広は三つ揃いで抜け目なく。
そんな男が昭和の雰囲気漂う食堂で年季の入ったカウンターの天板に肘をつき、大きめの湯飲みを両手で包むようにして、ズズと飲む。自然とこぼれた「ほっ」という声のような呼吸のような音は、喉を通った熱いお茶が連れてきた安心感ゆえか。それとも少女のいら立ちを誘うためのイタズラ心からか。
サエは篁が発したほのぼのとした「ほっ」とはほど遠いトゲトゲしい吐息をもらしてみせた。わざとらしく、おおいなる怒りを込めて。
「あのね、篁さん! 私が言いたいのはつまり……」
『意味を込めた自分の行動』について解説を加えるのは、なんて間抜けな行為だろうなどとためらっていると、言葉の続きを取り上げるように、立て付けの悪いガラス戸がガタガタと必要以上に大きな音を立てて開いた。
店の入り口に姿を現したのは、ずいぶんとくたびれた様子の男だった。
背中を丸め両膝に手を置いて体を支えながら、全身で呼吸する。
「あら。今日はまた、お忙しいことで」
などと茶化しながら篁はゆったりとお茶をすする。
その動きとは対照的に、サエは大慌てでカウンターの外へ出て……もう一度戻ってたっぷり水の入ったグラスを手にすると、飛び出しそうな勢いで来客の前に立った。
「大丈夫ですか?」
言いながらグラスを突き出す。
細かい傷が目立つプラスチックのグラスの中でクラッシュアイスがしゃりっと跳ねた。
男は礼を言いながらそれを受け取ると、たちまちのうちに飲み干してしまう。おかわりはと尋ねると、もう一度丁寧に礼を言い、そしてヨレヨレのジャケットの袖で口もとを拭った。
「それよりも、ここはどこですか。私は、私はここまでずっと歩き通しで」
「ハイハイ。ゆっくり聞くから。とりあえず席に座って休んでね」
困惑している客人の体を支えて立ち上がる手伝いをすると、サエはそのまま四人がけのテーブル席に導いた。
「ここは……食堂、ですよね」
男はぐるりと見まわした。
カウンター五席、テーブル三卓の小さな店。
ビールメーカーの色褪せたポスターが白壁の一番目立つ場所を陣取り、その脇にオマケのように並ぶメニューの短冊。煙草か揚げ油かそれとも年季か。いい具合に薄茶色に滲んでいるが、おかしなことに何の文字も書かれていない。
「あ、二杯目からはセルフサービスね」
サエは笑顔でカウンター横に設置された冷水機を指差した。
男は目をぱちくりさせながら返す言葉を探しているようだ。
その様子を他人事のように眺めていた篁はわざと大きくため息をこぼした。
「説明すべきはそんなことじゃないだろ」
篁に言われて、サエはハッと手を叩く。
「そうだった!」
そしてすぐさま来訪者の向かいの席に腰を下ろしぐいと顔を近づけた。
「そうだったの! ごめんなさい、横道それちゃって。私、ここの店主のサエ。そっちは……まあいいとして。不安、不満、困っていること、なんでも言ってね。きっと力になるよ!」
サエはそう言って男の手を両手でしっかり握った。
しかしその強引さをもってしても、男の表情は晴れなかった。
「店主ってなんですか。ここはどこですか。私はどうなってしまったんだ!」
叫びに近い声色で男は言った。
それを茶化したわけではない。
うやむやにしようとしたわけでもない。
ただ、いつもの習慣として―いわば反射的にサエはそうしてしまった。
「ここは三途の川のホトリ食堂で、私は店主のサエ。……ということで、」
咳払いを一つ。
喉の調子を整えて、抜群の笑顔と決めポーズを披露する。
「ようこそ、三途の川のホトリ食堂へ! まだまだ続くなが~い旅路に備えて、お腹いっぱい、心いっぱいに満たされていってね!」
もちろんそれで男が納得するわけがなかったし、なにより、篁の厳しい視線がサエに突き刺さることになる。
「ま、状況整理のためにも、まず自分の身に起きたことを順に辿っていくんだな」
男二人は視線を交わし、サエを見て、そしてふたたび視線を合わせると悟ったように頷いた。
男は仁山と名乗った。しがないサラリーマンだという。
五十手前で独り身で、田舎に両親はいるけれど基本的にはひとりだった。
職場の仲間ともそれほど深い仲ではなく、学生時代の友人たちも、年に一度連絡を取り合うかどうかというくらいで、かといって一人で楽しめる趣味をもっているわけでもなく、本人曰く『本当につまらない人間だ』ということだった。
仁山は混乱を解消するために、篁の助言に従って食堂を見つけるまでのことをたどりはじめた。
それは、篁が思わず「今日はもう何回目さ」とこぼしてしまうような話で、つまり、この場所を訪れる人間はだいたい同じようなことを言うのである。
自分が何処にいるのかわからなくなって、誰ともわからぬ声に川の渡り方を指示されて、そして今に至るのだと。
そして目の前の川が『三途の川』だと知り、自分の身に起きたことを、全てでないにしろ理解するのだ。
「みんなそうやってここに来て、まあ、大抵はご飯を食べて出発していくよ。そういうわけで。山水瀬を渡る前に腹ごしらえでもいかが?」
サエが腕まくりをしてみせると、男は困ったような表情を見せた。口も閉じきらず目を泳がせて何か思考を巡らせたのち、まことに言いにくそうに切り出した。
「ここから引き返すということはできないのでしょうか?」
「引き返すというのは、現世にってこと?」
サエが聞き返すと仁山は真面目な顔で頷いた。それを見てサエと篁は顔を見合わせた。
「だってよく聞くじゃないですか。三途の川まで行ったら、死んだばあちゃんが対岸から『まだ来ちゃだめだ』って。それで目が覚めたら病院でした……みたいな」
言いながら、仁山の顔色はどんどん青ざめていった。それは、二人の反応が芳しくなかったからであろう。
「難しいですか?」
仁山の問いにサエは口ごもりながらも答えようとするが。
「難しいんじゃなくて無理だね」
篁は気遣う素振りも見せず、平然と言ってのけた。
「さっき、ここに来る前に山水瀬を渡るよう言い渡されたと言ったでしょう。それは十王の一人目、泰広王のお沙汰が下されたってこと。十王の審判が始まった証拠さ」
「それはつまり……」
「死の淵を彷徨っているんじゃなく、完全に死んだんだよ、あんたは」
篁の言いぶりに、サエは目をつり上げて激怒した。
「言い方ってものがあるでしょ!」
箸やら皿やらを投げつけようと身構えたがそのあとの損害を考えて思いとどまる。やり場のない怒りをどうしてやろうかと悩んだ結果、結局ものに当たった。厨房に積んであった使用済みのおしぼりをぶつけることにしたのだ。
きれい好きの篁は思いのほか応えたようだった。
べえっと舌を出してとどめを刺すと、サエは篁を蚊帳の外に追いやって、仁山と話を続けた。
「残念だけど、そういうことなの」
「そうですか」
仁山は肩を落とした。だがある程度返答について予測はついていたようで、ひどく落胆したという風ではなかった。
そういった表情は、この三途の川のホトリ食堂ではよく目にするものだったが、それでもサエは仁山のような人間と出会うたび、胸をぎゅうっと締めつけられるような気持ちになった。
なんとかしたい。
そう思ってしまうのだ。
「お腹空いてない? なにか作るよ! なんでも作るよ!」
サエはそう言って勢いよく席を立った。
「食べたいものですか? そうは言っても……そう言われてみれば、こちらに来てからはお腹が空いた覚えがないなあ」
「そうね。そういうものだもの。でも、ここでしっかり食べていけば、川を渡るのも楽チンになるよ」
「本当ですか? それなら、なにか頼もうかなあ」
「よし! 私に任せて!」
「でも、残念ながらなにを食べたいかがわからないんです」
「それも任せてくれて大丈夫!」
サエは元気よく胸を叩いた。そうして篁の方に視線を送る。
篁はまだ不機嫌さが残っている様子だったが、「仕方ない」とわざとらしいため息を付け加えて言ってから、一枚の書類と一本のペンを取り出した。
「あんたの思い出を覗くことを許可してくれ」
さあ書けと、仁山の真向かいに移動して書類を突き出す。
「なんですか?」
「いいから書いて」
トントンと、署名欄を指で指示しながら急かす。
「でもこれ、文章が難しくて何を承諾するのかまったくわからない――」
「いいから書きな」
最終的には無理矢理ペンを握らせた。
言われるがままに名前を記入し拇印まで押してしまった仁山は心配そうな顔で事の行方をうかがっていた。
書類は篁の手に渡ると、ぱちんと弾けて消えた。粉々になるのとも違う。ぱちんと、消えたのだ。その書類があった場所には仁山が書いた彼の名前を構成する四つの漢字だけが残り、それもすぐにバラバラにほどけた。
それらは、風に舞うひとつまみの綿毛のように、揺れながら、時折強く吹かれながら例の『何も書かれていない短冊』の表面にたどり着いた。
文字は短冊に染み込み、新たな単語となってその場に現れる。
八枚の短冊に、八つの料理名が記された。
「これは……」
「これは、仁山さんが持っている食べ物の記憶だよ」
「それで『記憶を覗く許可』なんてことを言ったんですか」
まあな、などと無愛想に言う篁に代わって、サエが耳打ちする。
「篁さん、十王様たちと仲が良くって。だからあんな特別な力をもらえたんだよ。他にもいくつかあるらしいんだけど」
素直に「うらやましいな」と言うサエは、
「でもね、私もステキな力を一つだけもらえたの」
と微笑みながらメニューの短冊の前に立った。
細くしなやかな指を、料理名を表わす文字へとのばす。人差し指と親指で文字の端をつまむと、ぺりりと短冊から剥がしてしまった。
あろうことか、サエはその文字を一文字ずつ己の舌に載せた。
「なにを――」
仁山の戸惑う顔を見ながらサエは再び笑顔を見せた。
「これが一番輝いて見えたから」
「だから、どういうことなんですか」
「こうすると、私、なんでも作れちゃうんだ」
そう言って、サエは舌先に載せた文字を一気に飲み込んだ。
「たしかに、あれもこれも私の好物です。ですが、君が選んだものだけは、それほどでもないというかなんというか……」
仁山は困ったような驚いたような口ぶりで言った。
サエが選んだのは『サンドイッチ』と書かれた短冊だった。
「大丈夫、大丈夫。私を信じて」
サエは言いながら厨房に入る。
「具材は三種ね。玉子、ハムときゅうり、それにイチゴジャム」
まずは固ゆでの玉子を荒く潰して塩・コショウ・マヨネーズ、それからほんの少しの砂糖で味付け。
「フォークで混ぜれば、味を馴染ませているうちに玉子もほどよい細かさになるのね」
自分自身の動作なのに、なるほどなるほどと呟きながらサエは手を動かす。
きゅうりは斜め薄切り。軽く水にさらしてシャキッとさせて、紙タオルで水気を拭き取る。
「ハムもそうですが、パンもマーガリンもスーパーで手に入る普通のものですよね。本当にそれが私の最後の食事になるんですか」
仁山は実に不安そうだった。
いや、ここまでくれば不安に感じるのも馬鹿馬鹿しいとばかりに、不満そうな気配を見せるようになった。どうしてここまできてサンドイッチなんか―というところだろうか。
しかしサエは笑顔を絶やさず手を止めず、黙々と『普通のサンドイッチ』を作る。
「マーガリンはたっぷりめ。ハムサンド用にはうっすら和ガラシも」
呪文のように唱えながら、一枚一枚、丁寧に塗っていく。
その様子を見ていた仁山の表情に変化があった。
「バターじゃなくてマーガリン。マスタードも和ガラシだし、まるでうちの母が作るサンドイッチみたいですね。そういえば、晩ご飯の片付けが終わったあと、母は私と父の会話に声だけで参加しながらサンドイッチを作っていました」
それは、カウンター越しにサエを見ているようでありながら、そうではないどこか遠くの景色を眺めているような視線だった。
「サンドイッチを、夕食後に?」
調理に集中しているサエに代わって篁がたずねる。
篁の言葉を聞いて、仁山は「あっ」と声をもらした。
「そうですね。夕食後にサンドイッチを作っていました。夜に作って冷蔵庫で寝かせて、朝に切り分け弁当箱に詰めるんです」
言いながら、仁山は自分の記憶をたどっていた。
「昔、私にとってはサンドイッチの弁当というのが年に一回の楽しみだったんです」
***
それは小学生のときの話です。
そもそも、普段の昼食は学校の給食なので、『弁当』というだけでも私には特別なものに感じられました。遠足に運動会、家族とのドライブやハイキング。そういう時にしか食べられない『弁当』というものは、入っているもの自体はなんでもない料理だったとしてもそこに詰められているというだけで、他にはないご馳走のように感じたものです。
小さな弁当箱のフタを開けるときのワクワク感。
好物の唐揚げは入っているか。
ご飯には何味のふりかけがかかっているか。
朝起きたときウインナーを炒める匂いがしていたのに朝食に出されなかったから、きっとここに入っているのだろう。
そんなことを考えながら、期待しながらフタを開けました。
そんな弁当の中でも、特に待ち遠しいものがありました。
私の通っていた小学校では季節ごとに遠足がありましたが、その弁当は冬の遠足のときにだけ持たされるのです。
ああ、冬の遠足ですか? そういえば、東京出身の友人にも「冬に遠足に行くのか」と驚かれたことがあります。
一応、『スキー遠足』と呼ばれるものなんですけど、私が住んでいた地域はあまりスキーが盛んなところではなかったので、滑れる子どもは少なかったんです。
だから、スキー遠足とは名ばかりで、クラスの半数以上はソリ組でした。
バスで近場のさびれたスキー場に行き、駐車場付近の雪野原にレジャーシートを敷いてその上にリュックサックを放り投げ、私たちはソリ専用のコースを目指して駆け出すのです。リフトも階段も、上を目指すための設備など何もないだだっ広い斜面を、プラスチックのソリを片手に登るのです。
上にたどり着いたら、友人たちと横一列にならんでせーので滑り出し、斜面に突き出したこぶを越えるたび大きく跳ね、時にはソリごとひっくり返ったりしながら、あっという間に滑り降りてしまいます。
疾走感が連れてくる興奮が冷めないうちに、私たちは再びコースのてっぺんを目指します。
そんなことを何度か繰り返していると、やがて教師たちの声が聞こえてきました。
コースの終点辺りを見遣れば、何やら叫びながら大きく手を振っています。
遅れて登ってきた他のクラスの生徒たちが、
「あと一回すべったら、昼休憩だってさ!」
そう大きな声で呼びかけます。
私は名残惜しい気持ちになりながら、しかし弁当のことを思い出し、誰よりも速く滑り降りました。
雪原に敷かれた色とりどりのレジャーシートと、無雑作に置かれた赤いソリ青いソリ。
シートが風で飛ばぬように重石にしていたリュックサックから弁当箱を取り出して、かじかんだ手でそおっと開けました。
一口大の、真四角に切りそろえられたサンドイッチがびっしり詰められ、隙間を埋めるように、ほんの少しの唐揚げと彩りのためのミニトマトが添えられていました。寒さで指の自由がきかなくなっても食べられるようにと、箸を使わなくてもよい弁当になっていたのです。
それに、荷物の置き場所も食事場所も外ですから、おにぎりやなんかのご飯ものだと冷えすぎて美味しくないのです。うちの母はそれを嫌って、冬の遠足には必ずサンドイッチを持たせてくれました。
思い出話をしている間、仁山の顔つきはまるで子どものころに戻ったかのように晴れやかで生き生きとしていた。シワだらけのジャケットがあまりにも似合わないほどだった。
「サンドイッチと温かなココア。それがご馳走のように感じたのです」
篁は気の利いた言葉で会話を盛り上げるようなことはせず、ただ「ふうん」と声をもらした。しかしそれはうらやましさを含んだ響きに聞こえた。
「実際、『普段は食べられない』という意味では間違いなくご馳走だったのかもしれません。うちはどちらかというと貧しい家庭でしたから、サンドイッチ用のパンとかイチゴジャムなんてものは贅沢品の類いでした。そういうの、今の若い人にはわからないでしょう」
仁山の問いに篁は「残念ながら」と首を振った。
「さてさて。玉子とハムとイチゴジャム。それぞれはさんだら重ねて、パンが入っていた容器に戻して冷蔵庫へ」
レシピ本の文面を読み上げるような調子でサエが言う。
「それで一晩おくわけだけど、今日はそんなに待っていられないので―」
「どこかで聞いたセリフだな」
篁が茶化すが、サエは気にせずに冷蔵庫のドアを開けサンドイッチを中に入れた。扉を閉めて十数える。そして同じものを取り出して顔の高さに掲げた。
「冷蔵庫の中で時間を早送りしてみたよ」
サエは満面の笑みで言った。
「これを切り分けて、お弁当箱に詰めて……」
「今食べるならわざわざ詰めなくてもいいだろ」
「ダメ。今日の料理はお弁当なことに意味があるんだから!」
「雰囲気が大事だって?」
「そういつも言ってるでしょ」
サエは口を尖らせる。
そうしながら仕上げた弁当を、サエは仁山の前に差し出した。
「はい、完成。召し上がれ!」
テーブルの上、見覚えのある弁当箱が置かれて、仁山はたじろいだ。
ごくりと唾を飲み、弁当箱のフタを持ち上げる。
玉子の黄色。ハムときゅうりはうっすらピンクと鮮やかな緑。真っ赤なイチゴジャムは、『甘いものは最後に』と思っていてもつい真っ先に手をのばしたくなるほどに魅力的で。どれから食べようかと顔を近づけると、醤油とニンニク、そして揚げ物らしい香ばしい匂いが鼻先に届く。店などで食べるものとは違って少し濃いめの味つけの、懐かしい母の唐揚げだ。
仁山は無我夢中で手をのばしていた。
指先でサンドイッチをつかむ。
一晩おいたことで幾分かしっとりしたサンドイッチは、重ねてあった分だけフワフワの食感も半減している。その代わり、中の具とパンがよくなじんでいて、一口だけ噛みついても無様にくずれることがなかった。
玉子は多すぎないマヨネーズの味に玉子の白身のぷりっとした食感。時々、黄身の塊がくずれてホロリと口の中でほどける。
ハムサンドはきゅうりの青さと歯触りが良い。安物のうすっぺらいハムだとしても、燻製の香りと塩っ気が、寒さで味覚が薄れている身には心地よかった。
仁山はふと我に返った。
気づけば、弁当箱を抱えたまま雪の野原に放り出されていた。
夢などではない。
肌に刺すような冷たさと、しかし晴れた陽射しの暖かさが防寒着を通して伝わってくる。
仁山は遠足のその場所にいた。
青いソリに腰をかけ、弁当箱のサンドイッチに次々と手をのばしていた。
「大人になってもっと美味しい食べ物をたくさん知ったはずなのに。サンドイッチだって、有名なお店のものだって食べたりしました。……それなのに、どうしてこんなに、このサンドイッチは美味しいのでしょう」
仁山はひとつ、またひとつと口に運びながら目を真っ赤にしていた。
食事の途中でココアを口にふくませれば、それは玉子やハムの塩気や風味とは少し不似合いなのだが、だがその一口が連れてくる甘さと喉を通るときの焼けるような熱さ、そこから体の奥の方が温かくなっていく感覚が心地よい。鼻の奥、まだカカオの残り香が消えないうちに、仁山は次の一切れを頬張った。
冷えても美味しいようにと作られたサンドイッチ。
寒くても食べられるようにと詰められたサンドイッチ。
もちろん大好物の唐揚げも入っていて、弁当箱の中は母の愛情で満たされていた。
それはまさしく仁山の全身に染みついた、何ものにも代えがたい唯一無二の味だった。
一口、一口と食べるうち、仁山はたまらなく惨めな気持ちになった。
「母さん……申し訳ないことをした。先に旅立つなんて親不孝を、私は」
仁山はついに涙を流しながら、イチゴジャムのサンドイッチを口に放り込んだ。マーガリンの乳臭さとジャムの甘さが口いっぱいに広がった。
それはまるで仁山自身の複雑な心の内をそのまま表わしているかのようだった。
「仕事もうまくいかず、人生もなんの希望もなく、だから私は自らの手で……」
泣き崩れた仁山の手からこぼれ落ちそうになった弁当箱とサンドイッチをサエは支えた。そのまま仁山の手も包み込んで、しっかり握って、そして優しい声色で言った。
「いいんだよ。ただね、この味を覚えて行って。この景色を覚えて行って。大丈夫。だって仁山さんのためだけに作られたサンドイッチだもの。これを食べたら雪山だって登れちゃうんだから。だからしっかり食べて行ってね」
いくつかのメニューの中からサエが選んだのは何の変哲もないサンドイッチだった。
冷え切ったサンドイッチだった。
だが仁山はたしかに美味いと思った。
***
「もし良かったら、お二人もどうですか」
仁山は残り少なくなってからサエと篁に声をかけた。目元の赤みは消えないが、あふれ出ていた涙はすっかり止まっていた。
「いいの?」
「ええ。こんなもので良ければ」
「『こんなもの』って。一応、作ったのは私だけど」
「ああ、すみません。そういう意味ではなかったのですが……」
「わかってるよ。あんたにとっては特別でも、俺から見たら普通のサンドイッチだものな」
そう言って篁が一つつまむ。
「篁さん!」
サエがたしなめたが当の仁山は嬉しそうに笑っていた。
「いえ、そのつもりで言ったので。篁さんの言うとおり単なるサンドイッチです。そうなんですけど、なんとなくこの味を二人と一緒に分かち合いたいと思ってしまったんです」
仁山の笑顔に、サエは心からの笑顔で応えた。
「私たちで良ければ、ぜひ! ……あ、でも一つ問題があるんだよね」
玉子のサンドイッチをつかみかけて、サエはとっさに手を止めた。
「腹をくくりなさいな」
すかさず、篁は自分自身が手に持っていたハムのサンドイッチをサエの口に押し込んだ。
この三途の川のホトリ食堂において美味しいものを分かち合うためには、たったひとつ条件がある。
『味だけでなく、思い出も感覚も分かち合うこと』
そういうわけで、サエはたちまち雪山の中に放り出されたのである。
「うわ、寒い! あ、カラシがつーんと! …………あ、でも美味しい! もう一個食べてもいい?」
ぶるっと震えたり、カラシの刺激に涙ぐんだり、美味しいと喜んでみたり。何かと忙しいサエを尻目に篁は仁山にそっと名刺を手渡した。
「何が出来るというわけではないけど、十王には顔が利くから、本当に困ったらこれを見せるといい。黄泉がえらせるというのは無理だが、まあ、少しは役に立てると思うよ」
ただししっかり報酬はいただくけどねと付け加えて篁は笑った。
差し出された名刺を一旦は手に取った仁山だったが、印字されている文字をさらっと目で追っただけで、すぐさま篁に突き返した。
「大丈夫です。私にはサンドイッチがありますから。三途の川を渡る決心も、もうつきました」
「そうかい。それなら」
篁は名刺をしまい、代わりに今度は右手を突き出した。
「大変だろうけど、頑張ってくれよ」
「ええ。今度こそ、頑張ります」
仁山は同じように右手を突き出し、力強く篁の手を握った。
間もなくして仁山は三途の川の山水瀬に足を踏み入れた。
サエも篁も河原まで出向いて見送りはしたが、三途の川は対岸の見えぬ大きな流れだ。やがて仁山の姿は川面の霧に包まれてサエたちからは見えなくなった。
「仁山さん、大丈夫だよね」
「さあ。どうだろうな」
「……うん。大丈夫だよ! だってうちの店でご飯食べてったもの!」
自信たっぷりのサエに、篁は皮肉たっぷりの笑みを見せた。
「ハイハイ。そうだねー。そうだといいねー」
「なんでそんなに棒読みなの! もっと心を込めて、ハイ、やり直し!」
「誰がやるか」
「やるまでコーヒー淹れないからね! お茶も出さないからね! っていうか、これぶつけるよ!」
河原の石を手に持ったサエ。
その姿を見て篁は焦りながら遠くの方を指差した。
「そんなことより、サエちゃん。あれ。あっち。ホラ、次のお客さんが来たみたいだよ」
「え、ほんと? どこどこ? 今日は忙しい日だね」
言いながら目を凝らしたサエは、遙か彼方に人陰を見つけると、そちらの方へ向かって大きく手を振った。
「ようこそ、ここは三途の川のホトリ食堂だよ! まだまだ続くなが~い旅路に備えて、お腹いっぱい、心いっぱいに満たされていってね!」