9 異国の人④
リリーの主催という形で開かれたお茶会は、結局リリーの体調が悪くなったために中止となり、マーリャ王女への謝罪と、エルルーナ家からのお叱りで終わった。エルルーナ家からも謝罪を出したとのことだったけれど、私も個人的にマーリャ王女へ謝罪のお手紙を書いた。
それからシュゼットが治療してくれた私の肩は打ちどころが悪かったようでまだ鈍く痛むけれど、痕は残らなさそうであった。
お父様から来たのは、リリーの世話のためにわざわざ身に余る学園に金を払って通わせているのに、結局体調を崩させていては意味がないだろう、というお叱りの言葉であった。
何を言っても言い訳にしかならないけれど、長らくフィリップ殿下とリリーがお茶を共にするところを何度も見てきていた私は、リリーがどのぐらいで体調を崩すのかはある程度わかっている。しかし今回はいつもよりもずっと早かった。それに、いつもと少し様子が違った気がした。
けれど結局、王女という身分の異なる方が同席されているお茶会では、よほどの事がなければ侯爵家の当主ですらなくただの長女である私に中断をする権限などなく、不敬に当たるとしてお父様に叱るだろう。しかもリリーが機嫌を損ねればなおのことだ。
何をしても、しなくても、結局お父様はリリーが一番大事で、あとのことはどうでも良いのだ。
あのリリーの腕を触った時の痺れるような感覚だけは今も指先に残っているけれど、それをお父様に言ってもそれこそ何かの言い訳と思われてしまったようで、虚言を言う前にリリーに謝罪するようにと言われてしまった。
*
そして、あれから1週間ほど経ち、教室内でフィリップ殿下とラシュナリ殿下が国内の偵察から戻られたというお話が流れ始めた頃、私は王宮に入っていた。
名ばかりの婚約者であるとはいえ、いずれは王家に嫁ぐ身であるからと王妃教育を受けることが責務となっている。マナーに始まり、歴史、政治学、刺繍、ダンス、楽器、など、王妃教育ではありとあらゆる教養のレッスンを受ける。どの教師も王宮専属の方でいらっしゃるから、水準は高く、そして大変厳しい。私は着いて行くのでなんとかというレベルだ。出来が悪ければ叩かれることもある。
そして、どの教師も口を揃えて言うことが、「妹のリリー様はあんなにお出来になるのにどうして?」ということだった。
私が7歳で婚約を解消したあとはずっとリリーが王妃教育を受けていた。一流の教師たちが口を揃えて、他国の王族にお披露目する日が楽しみだと言われていたリリーの後釜が私であって、あからさまに残念そうな態度でいる方も少なくなかった。特に変わりなくレッスンをしてくださったのは、『風』のウィノナー様の叔母様に当たる、歴史を教えてくださる方ぐらいだった。
「エマ様、お帰りの前に王妃殿下がお呼びです。<花輝の間>までいらっしゃるようにとのことです」
一等厳しいダンスのレッスンを終えた時、私が王宮にいる際に付いている女官のアリサが言った。
肩を痛めているところを思わず庇いながらダンスをしていたら何度も手の甲を叩かれてしまい、腫れてこそいないもののじんじんと傷んでいた。一度冷やそうと思っていたところだったけれど、王妃殿下━━フィリップ殿下の生母ではなく、国王陛下の後妻に当たる方だ━━がお呼びならば一刻も早く向かわなくてはならない。
急いで身支度を整えて花輝の間まで向かう。時折、こうして王妃教育の帰りがけに呼ばれることがあるのだ。
フィリップ殿下の生母は、『雷』のサンデルセン家の出の方だ。しかし、フィリップ殿下の弟君を出産されてしばらくされてから亡くなられ、元王妃殿下は、サンデルセンの分家筋の方でアリエルエ王妃殿下様とおっしゃる。強い光属性魔法を扱える世継ぎももういらっしゃるということで、5属性の本家と比べれば位の落ちる家柄ではあるが国王陛下が愛してお選びになった方と聞いている。そして、アリエルエ王妃殿下様との間にもお一人男児がいらっしゃる。
花輝の間は、元々はフィリップ殿下の生母が作らせた部屋と聞いている。部屋中が花畑のように、国内外の珍しい季節の花々が飾られた豪奢なお部屋で、今はアリエルエ様の特にお気に入りのお部屋だ。
「お待たせをいたしまして申し訳ございません。エマにございます」
「ああ……来たのね。座ってちょうだい?」
金とオレンジのグラデーションのような長い髪をさらりと指で流した。王妃殿下は目元の特にはっきりとした美しい女性だ。こぼれ落ちそうなほど胸元が開いたドレスを着ていらっしゃり、真っ白な胸元に大きな大きな碧のネックレスが輝いている。
「急に呼び出してごめんなさいねえ。わたくし、たまに貴女のお顔が見たくなるの。どう?フィリップは元気かしら?」
「……息災でいらっしゃるかと存じますわ」
「まあ、会っていないの?こちらに戻ってすぐにリリーさんのところに行ったって聞いているけれど。あら、これは言わない方が良いことだったかしら?では王妃教育は最近はどうかしら?私も王妃として、次の王妃のことはよくよく教育しておくようにと陛下に言われているから、つい厳しい人間ばかり付けてしまいますけれど。王妃教育、つらくないかしら?」
「……いえ」
「そう?ならよかったわ。なにせわたくしは後妻ですから王妃教育は受けていなくて大変さがわかりませんの。……でも、あなたも大変ね。いっそ子を為したらすぐにリリーさんに譲られたらどうかしら?そうしたら王妃教育は要らなくなるわよ。それかはやくリリーさんのお身体が良くなると良いわね。そしたらあなたもすぐにまた譲るのでしょう?愛されない王妃なんてただただ苦しいだけですもの」
美しい花でも触れただけで肌からじんわりと毒を染み込ませる花があると聞く。王妃殿下のお話になるお言葉はその毒のようだ。じんわりと、心に黒いものが広がる。
リリーの身体がもし治ったら、すぐにまたリリーが婚約者に戻るだろう。それは私の意思は関係ない。エルルーナも、周囲も、王族も、そして何より殿下自身が私ではなくリリーを選ぶだろう。
「なんてね。これはここだけの話にしてちょうだいね。お顔が見られて安心したわ。もう行って良いわよ」
王妃殿下が満足したように笑い、私は部屋を退室した。
王宮内の石階段をゆっくりと降りる。ダンスで疲れた足でヒールを履いて降りるのが難しく壁に手をつくと、刺すほどの冷たさが体に伝わった。
すると、目の前にフィリップ殿下を先頭にした集団が歩いて行く。王妃殿下からの呼び出しで王宮の奥の方まで来たけれど、普段はここまで入ることはなく、フィリップ殿下を王宮内で見かけることも滅多にない。頭を下げると、フィリップ殿下が私に気がついたようで、目をきゅっと細めた。
「リリーがまだ身体を壊したと聞いた。しかも話を聞けばお前がリリーに詰め寄って責め立てたというじゃないか、どういうことだ?」
先ほど、フィリップ殿下がこちらに戻られてすぐにリリーの元に見舞いに行かれたと聞いた。恐らくリリー付きの使用人がリリーが倒れた時のことを殿下に話したのだろう。私がリリーに触れて突き飛ばされたことを、リリーが嫌がるようなことをしたとお伝えしたのかもしれない。
「……申し訳ございません。しかし、恐れながら、私は妹のことを責め立ててなどは」
はあ、と深く殿下はため息をついた。碧の美しい目は私のことを視界にすら入れていない。
「自分の弁明か。随分と浅ましいことだな。……来月に王宮で開かれる演奏会に参加することをリリーは楽しみにしていたというのに、参加できなくてはリリーが可哀想だ」
「……演奏会、ですか」
「お前は招待されていないだろうな。国王陛下がアリラハの貴族を招待されて開催する演奏会だ。私はヴァイオリン、リリー嬢もピアノ奏者で参加をする運びとなっていた」
なんでも器用にこなすリリーは、特にピアノを得意としていた。
私が招待されていないということは、先日の歓迎パーティとは異なりお飾り役としてすら不要なのだろう。
「体調が戻ってもしばらくリリーに近づくな。お前が近くにいるとリリーも気が休まらないかもしれない。そもそもリリーの世話は私がすると先日言ったつもりだったが」
「……かしこまりました」
そのまま踵を返し、殿下は王宮へと消えて行った。方向的に王族の私室がある東の塔へ行かれたのだろう。あのパーティの夜、リリーが上っていたというあの塔だ。
私は、その塔を見ながら王妃殿下とフィリップ殿下のお言葉を思い出していた。
お飾り役としても不要で、リリーが戻ればもう選ばれない存在で。
でももし、本当にその時がきた際、私はフィリップ殿下に、リリーに何か言えるだろうか。
フィリップ殿下もリリーも、私が殿下をお慕いしていることなどきっと全く気づいていらっしゃらないだろう。例えばそれをお伝えしたら、何かが変わるだろうか。
(━━きっとそんなこと、私はできないけれど)
自分の馬車がない私が王宮から学園まで戻るには、お金を払って馬車を借りなくてはならない。いつもは寮の近くまで送ってもらうけれど、今日は学舎の丘に寄ろうと思っていた。リリーの世話で人が足りないそうで、シュゼットもリリーの部屋を出たり入ったりしていて忙しそうだから、何か甘い物でも渡そうと思っていたのだ。
少し重い体を馬車でしばらく揺らし、降りた街は遠くに海の匂いがした。学舎の丘は海に近いのだ。
私は街には詳しく無いけれど、前にシュゼットが気になると言っていたパティスリーがあったので、そちらへと向かった。
「……ラシュナリ殿下?」
途中で、思わず小さな声に出してしまった。赤煉瓦のパティスリーの前に、背の高い男性が立って中を覗いていた。赤の混ざった鮮やかな茶髪はこの街ではそう見ない色で、それはラシュナリ殿下の色だったはずだ。
「エマ嬢。奇遇だね」
かなり小さな声ではあったけれどラシュナリ殿下が振り返った。
「一人、かな?御令嬢が街で一人歩きは危ないよ」
「……お声がけしてしまって申し訳ございません。ラシュナリ殿下こそ……お一人でしょうか」
「そうだね。まあ言わないで出てきてるいるし」
「えっ、ではお忍び、」
今度は先ほどよりも大きな声を出してしまい、しー!とラシュナリ殿下がジェスチャーをされた。何人か通り過ぎていったけれど特にこちらには気が付いていない様子だ。
「フィリップが王宮に戻ったから僕はそのままこっちに戻ってきてね。せっかくなら街に寄りたいと思って寄ってみたんだけれど、」
ラシュナリ殿下は、私の顔を少し見て、「少し時間あるかな?」と言った。
「あの、本当に護衛も付けずに大丈夫なのでしょうか?」
ラシュナリ殿下が一人では入りにくいからとお誘い頂き、先ほど殿下が覗いていたお店に入った。とても評判で良い店と聞いたことがあるけれど、多分王族が入られるようなお店ではない。
街を一望できる日当たりの良いテラス席もあったけれど、ラシュナリ殿下の要望で店内の席を案内された。
私は緊張でティーカップを落としそうだった。他国の王太子殿下と私が一緒にいる状況に対してもそうであるし、もし、ラシュナリ殿下に何かあれば外交問題どころの話では無い。
「大丈夫だよ、炎と風の魔法で少し操作しているから。余計に見られて貴女に迷惑がかかっても申し訳がないし」
私が周りを気にしている様子を見て、ラシュナリ殿下が仰った。
確かにラシュナリ殿下は褐色の肌に整った容姿でかなり人目を引くはずだけれど、店内の他の御令嬢たちも誰もこちらを向かないことは少し不思議であった。
「蜃気楼っていうまあ、都合の良い姿隠しみたいな魔法かな」と言って、テーブルから少し離れたところを指でつん、と触られると、そこだけ薄い膜が張られているように揺れた。常時発動の魔法は魔力消費量が桁違いのはずだけれど、それを何気なく行っているのは、やはり凄いと思った。
ラシュナリ殿下が頼まれたチェリータルトと、私のレモンパイが運ばれてきたところで、
「エマ嬢、この間は妹が迷惑をかけて申し訳なかった。エルルーナ家からわざわざ謝罪も頂いたようだけれど、妹が自分が無理をさせてしまったと言っていたよ。妹君のことと、貴女のことを心配していた」
ラシュナリ殿下に謝られ、私はパイを喉に詰まらせそうになった。
「そんな、こちらの家からお誘いをいたしましたのに申し訳ございません。大変にご迷惑をおかけいたしました」
「体調はどう?」
「良くなっていると聞いておりますわ」
「貴女は?肩を強く打ったと聞いたが」
「私は全然……。ご心配をいただきありがとうございます」
ならよかった、とラシュナリ殿下が笑った。目元をくしゃっとさせて笑われるところはマーリャ王女とよくにていらっしゃる。
「あとはエマ嬢が用意してくれたお菓子が美味しくて、それにもお礼が言いたいと。周りからは逆にしか見えないと言われるのだけど、僕は甘いものが好きな代わりにマーリャは逆に甘いものがだめでね。でも、良く分かったね」
「パーティの時に何となく甘いものを避けていらっしゃるように見えたので、その、差し出がましいかもしれないと思ったのですが……」
「いいや、ありがとう。それで、エマ嬢にひとつ相談があるのだけれど」
「はい、何でしょうか」
「学園で、マーリャの側にいてくれないだろうか?」
「マーリャ王女のお側に、ですか?」
思っていなかった単語に、おうむ返しにしてしまった。
「うん。学園の案内をしてもらったり、学年は違うから可能な範囲で良いけれど、移動を共にしたりとか。迷惑でなければお願いできないだろうか」
「それは……側近ということでしょうか?」
「いや、側近ではなくて友人として、と思ってほしい」
私が何とも言えずにいると、ラシュナリ殿下が続けてお話になった。
「正直なところを言うと、こちらの王家からの推薦で別の御令嬢にお願いをするはずだったけれど、当のマーリャがエマ嬢が良いと言っていてね。僕もそれが良いと思っている。
マーリャは大人びて見られることがあるけれど、兄から見れば結構子供っぽいし、負けず嫌いな性格でね。まあ捻くれたところもあるけれど、この国に慣れるまで側にいてあげてほしい」
どうかな。と続けた。
「その、大変有難いお話だと思っておりますわ。お声がけいただきましたのは本当にありがとうございます。ですが、私は……魔力量がほとんど無く、学園の中でも特に何ができるわけでもありません。マーリャ王女と、ご友人のような関係になるには、私では釣り合わないかと存じます」
他国とは言え、王族からの誘いを断るのは本来は身分不相応もいいところだ。だけど、ラシュナリ殿下にはおそらくちゃんとお伝えしても良い気がした。そのために、高度の魔法を使って目に付かないようにしてくださったのかもしれない。
何かに選ばれたことがない私は、声をかけて頂いて純粋に嬉しかった。けれど、学園での私の居場所は一番下だ。例えば魔法学のクラスも基礎のFで、マーリャ様はおそらくリリーと同じ応用のSクラスになるはずで。
「魔力のことなど気にしていないよ。そういったことは全部関係なく、貴女に側にいて欲しいと思っている」
真っ赤な宝石のような目が、しっかりとこちらを捉えている。よく、目を見て話す方なのだと思った。
魔力も関係なしに、真っ直ぐそう言われたのは初めてで。
「……私でご迷惑でないようなら、どうぞよろしくお願いいたします」
「ありがとう。よろしく頼むよ」
ほっとしたようにラシュナリ殿下が笑った。
「あ、ですが、確かマーリャ王女のご案内は確か妹がすると……」
「その話も来ていたけれど、リリー嬢はこの間の様子を聞く限りご迷惑をかけそうだったから、申し訳ないけれど、断らせてもらったよ。……妹君が体調が悪いのは昔から?」
「そう、ですね。14の頃から体調を崩すことが多く」
14か、とラシュナリ殿下は唇で呟いた。
「あの、何かございましたか…?」
「……いいや、あまり聞いたことがない症状だったから、少し気になってしまってね。今日はそろそろ出ようか。遅くなってしまっては心配をかけるね」
ラシュナリ殿下は、残っていたタルトを美味しそうに召し上がると、立ち上がった。
店を出ると、空の遠くがオレンジとピンクを溶け合わせたような色に染まっていた。
「結構遅くなってしまったね。帰りは馬車でも?」
「いえ、どこかで馬車をお借りして寮まで戻ろうかと思っております。ラシュナリ殿下はお帰りは大丈夫でしょうか?」
私よりずっと高いところにあるラシュナリ殿下が、少し眉根を寄せた。
「御令嬢がこの時間に一人で馬車を借りるのはもっと危ないよ。ちょっと、秘密のルートで帰ろうか。━━馬車や船で気分が悪くなったことはある?」