4 新学期②
「ねえさま、ねえさまもサロンにご用事?サロンのお茶ってどれもとっても美味しいのね。ねえさまはどうしてわたくしに教えくださらなかったの?」
小鳥が囀ずるような話し方でリリーが私に話しかけた。学園の制服であるワンピースをすっかり着こなしたリリーの後ろには、すっと背を伸ばした殿下が居られた。私は慌てて頭を下げる。
「……お前がサロンに?」
怪訝な声が頭上から聞こえる。
7歳の頃、一度婚約破棄になってから私はここまで殿下のお近くに立ったことはない。二度目の婚約以降は王族の儀式に婚約者として同席したことは数度あったが、私は殿下の遠く後ろを歩いているだけで、普段の学園生活でも殿下のお近くには従者や高位貴族の子息達がいらっしゃって、私は話しかけたことも話し掛けられたこともない。
「……と、図書室の帰りにございます、殿下」
エルルーナ侯爵家の娘として私もサロンに立ち入る資格はある。だけどそこに入ったことは一度たりともない。ならず者が侵入しないよう、サロンは一定以上の魔力を持たなければ、そもそも扉が開かない特別な仕様になっているのだ。
「頭を上げて良い」
顔を上げれば、腕1本ほどの距離に殿下が居られる。整った造形のその顔に浮かんでいるのは、侮蔑の色。蔑み、憎しみ、哀れみを美しき碧の目に宿らせていた。私は小さく息を飲んだ。
「理解しているだろうがリリーの面倒は私が見る。エルルーナの当主にどう言われているかは知らぬが、お前は余計な事は考えるな、そして何もするな」
「……かしこまりました、殿下」
殿下のお顔には、昔エルルーナ家の庭園で遊んでいた頃の面影があって、そのため余計に悲しくなるときがある。全くの別人に見えればどんなに良かったのだろう、と。
あの頃はフィル、エマと呼び合っていて、殿下が来られる日は何よりも楽しみだった。殿下はよく、こっそりと王室御用達の茶葉を持ってきて下さって、内緒、とガゼボで二人で飲んだのだ。
「フィルさま、どうかされたのですか?ねえさまも怖いお顔をされて……皆仲良くしなくてはいけないと、私お母様に何度も言われておりますの」
「ああ、リリーは優しいね。しかし心配することはないよ。ただ領分についてはきちんと弁えてはならないと思っただけなんだ」
「領分ですの?」
「リリーが気にすることじゃないさ。さあ行こうか。立ったままだとリリーの体にも悪いし、講義にも遅れてしまう。ランチはテラスを押さえておくから、迎えを寄越そう」
タイミングを見計らっていたかのように、殿下の従者達が現れた。
その中には、魔法に関する事柄全てを取り扱う魔法院の現大臣子息・ウェイバー=サンデルセン様もいらっしゃった。サンデルセン侯爵家は『雷』の家で、ウェイバー様は3年生に在籍されている。
サンデルセン家は、5属性の家の中でも、お父様と並んで魔力量が権威を決めると強くお考えの家だ。私が婚約者に再び戻るのを、最後まで反対されていたと聞く。「恥を知れ」と、以前通り際にウェイバー様に言われたこともある。
私は壁に背中を寄せて、そっと頭を下げ、殿下やリリー達が去るのを待った。
殿下のお母様、つまり現国王妃殿下はサンデルセン侯爵家の出でいらっしゃるから、ウェイバー様と殿下は従兄弟にあたる。特に金糸のような髪は、良く似ている。
流れるような金髪と、弾むように揺れる黒髪が見えなくなって、私は閉じたサロンの扉を眺めた。
リリーは、今年で15となるのだけれど、未だに無垢で真っ白な存在だ。
私が7歳の時の事件以降、両親に一度も目を合わせて貰えていないことや、リリーが熱を出したときにいつも頬を叩かれ、罰を与えられてていること、そして殿下から侮蔑の目を向けられていることにきっと彼女は気が付いていない。
殿下とリリーのお茶会に同行しているときも、「きっとねえさまはおひとりが好きでいらっしゃるのね」と1人離れた席に座る私に天使のような笑顔を浮かべるほどだ。
最近、リリーや家族や、自分への気持ちが良くわからなくなる時がある。
幼い頃から周りの環境、態度、人間関係が大きく変わることが多かったからか、何が起こっても自分のことじゃないというか、本の向こうの別の世界で起こっていることのように思ってしまう時があるのだ。
7歳まではとても愛されていた分、急に全ての人から見放された時は悲しく、辛く、虚しく、毎日が灰色で塗り潰されたかのようだった。
リリーのみ愛されて、自分には何もなくて。毎日羨ましくて仕方がなかった。「おとうさま、おかあさま、許して、許して」と泣きじゃくったこともある。けれど、泣いても誰も私に触れてくれる人はいなかった。
だからきっと、いつか諦めてしまったのだ。
冷たく扱われても、小さく心が痛むことはあるけれど、それは仕方の無いことで。
だけど、殿下のことだけは。あの時遊んでいたフィルのことは。
今でも私はお慕いしているのだった。
私の事などもう見てくださらないとは分かっていても。
*
教室に戻ると、新入生と転校生の話で持ちきりになっていた。
貴族の子息女と言えども、噂話はとても好きなのだ。
「リリー様をご覧になって?妖精姫というお名前に違わぬお美しさでいらしたのよ。魔法学で権威でいらっしゃる教授から話し掛けに行かれていましたし……」
「ああ、遠目に僕も見たよ。しかしお身体が優れないときがあるそうだから、良く良く気を使わなければならない、と殿下からのお言葉だ」
「もちろん心得ておりますわ。それにそう、転入生がいらっしゃるというお話は聞きまして?」
赤毛のご令嬢は興奮したように、少し顔を朱に染めて続けた。
「南国のアリラハ王国からの留学生だそうですのよ。第一王子様と、第一王女様のお二人もいらっしゃるそうよ。炎と風の魔法の使い手と伺っておりますわ」
アリラハ王国と言えば、エデローラ王国と大陸は同じくするけれど、大きな山と砂漠を越えた先にある国だ。
気候はエデローラよりも温暖で、国の規模としては大きくはないが、王族は炎と風の2つの属性を扱える卓越した魔力を持つ、と本で読んだことがある。
「今日すぐに、ということでは無いそうなのですけど、国賓として迎えると正式に今日王家が発表なさったとお父様から聞きましたの」
そこで教授が入室され、お話は中断されていたが、リリーをサロンから送っていった後、殿下のお姿が見えないことに納得が行った。
もともと王族はわざわざ学園にはいられなくても、王宮教師が専属で教鞭を取られるため、殿下が学園に在籍する必要は本当はないのだ。
だけど、リリーが入学することを見越して、時間を縫って通われていらっしゃるのだ。
空いた席から目を反らし、私は教科書を開いた。
最初の講義は亜人について。
休み中の課題であった、亜人に関するレポートの発表の時間だった。
魔族対戦の後、国を完全に分けたけれど、古い書物を紐解けば、かつては同じ大陸内で人と亜人は混ざり合って生きていたということが確かに書かれている。
「━━━━以上の内容を噛み砕きますと、エルフやドワーフ、ヴァンパイアやリザードマンなどの亜人はそれぞれ耳や鼻、身体能力などで人よりも優れている部分はありますが、扱える魔法には属性はなく、画一的な単純な魔法のみです。魔法については結局、圧倒的に人の方が優れていると私は考えます」
『雷』のウェイバー様がすらすらと続けた。
「彼らは国を持たず、政治や文学、料理などの文化も発達させない後進的な民です。エデローラでは150年前の法律において亜人との関わりを完全に絶つ方針をまとめ、その方針は今も変わらず続けられています」
ウェイバー様が席に座られると、教授が満足げに頷いた。
「よろしい、サンデルセン君。エデローラでは進んだ魔法の研究を彼らに奪われぬよう、関係を絶った。150年前にヴァンパイアの一族が王族に取り入って、我らの文化を奪おうとしたからね。
さあ、今のサンデルセン君の素晴らしい発表を聞いて、レポートに加筆が必要だと感じた方はおられるかな?提出は来週の講義まで待とう。それでは、これで終わりにする」
私は、闇の魔法とも関わりのあるヴァンパイアを中心にまとめていたレポートを押さえた。私の提出しようとしていた内容は、ウェイバー様や教授の意見とは全く相容れないものだった。
ヴァンパイアは━━亜人は、人よりもずっと強く、そして自ら人との関わりを絶ったのだと。私はそう書いていた。
廃棄予定の本の奥底から見つけた、魔族大戦にて剣を振るった兵士の手記では、皆総じて、ヴァンパイアは人よりもずっと冷徹で、ずっと美しく、ずっと強靭で、そして卓越した魔力を持つと書かれていた。
それから、エルフやドワーフなどとは直接会うことはなかったが、人などよりも遥かに強いことは絶対で、魔族大戦は彼ら無しでは勝利はあり得なかったとはっきりと書かれている。
ウェイバー様はクラスメイト達に囲まれ、少し自慢げに微笑んでいる。すっと首元に風が通るのを感じて後ろを振り向けば、ウィノナー様が頬に片手をついて、私が読んでいた手記と全く同じものをもう片方の手に持っていた。
「貴女もこれを読んだでしょう?」と言うようにして、だけどウィノナー様はふわふわとすぐに去っていった。
何だか嫌なものを胸に抱えて、だけどレポートは出すことが出来ず、私も講義を終えた。
・エマ=エルルーナ
『闇』の令嬢。2年生
・リリー=エルルーナ
『闇』の令嬢。1年生
・フィリップ=リーデライト=エデローラ
『光』の王族。2年生
・アーリア=ウェルシュタイン
『水』の令嬢。2年生
・ウィノナー=ベルラーシ
『風』の令嬢。2年生
・ウェイバー・サンデルセン
『雷』の令息。3年生