17 初恋の話
私がフィリップ殿下と最初に出会ったのは記憶もないほど昔の話。
気づいたときにはエルルーナ家以外で一番会う人が殿下で、気づいたときには彼は私の婚約者だった。
繰り返される王妃教育のレッスンにくるくると目が回るような日々の中、時折エルルーナの家に訪れるフィリップ殿下。優雅でお話が面白くて、でも時折大胆で優しくて。好きとか恋とかそんな気持ちは幼い頃はわからない。ただあの美しい金糸のような方と一緒にいると楽しくて、会いに来てくださると嬉しくて、それだけで毎日頑張っていた。
殿下はエルルーナ家に来る時、いつも何か一つ手土産を持ってきて下さっていた。それは王宮だけでいただける茶葉やお菓子であったり、王族専用庭園にだけ咲き誇るバラの花であったり、王宮図書館にだけに伝わる特別な蔵書であったり。大人に知られれば怒られること。それが分かっているからこそ、幼い子どもの私たち3人はエルルーナの庭園の端でくすくすと笑いながら頂いた手土産を楽しんでいた。
けれど、6歳を間近にしてひとつ事件が起こった。
王宮の庭園でフィリップ殿下、私、リリーの3人で遊んでいるときに、殿下と私が攫われた。5属性の家と王家の血による継承を嫌う過激派により殿下と私が狙われ、幼い私達が抵抗できるはずもなくなすがままとなっていた。
炎魔法によって拘束され、目隠しをされ、暗くて湿ってカビ臭い倉庫に閉じ込められていた私と殿下。
遠くの部屋からは罵倒が聞こえ、寝転がされている床から伝わる冷たさに震えていた。雨漏りをしているのか、床は湿っていて、お気に入りのドレスはじっとりと重くなっていた。
箱入り娘として育てられていた私が、無下に扱われた経験などあるはずもない。大の大人の怒涛が響く中、ガタガタと震えている原因は寒さだけではなかった。
「エマ、大丈夫だよ」
その声だけが、救いだった。
王太子殿下は私以上に、比べるのも失礼なほどこの国にとって大切な存在だ。当然、蝶よりも花よりも宝玉のように丁重に扱われてきたはずで。ならば私以上に怖く、恐ろしくて、震えているはず。でも、フィリップ殿下の声はとても落ち着いていた。いや、懸命に落ち着かせていた。
「じきに助けが来る。僕の着けているブローチには特殊な魔法石が編み込まれているんだ。それを辿ってすぐに城の者が来るから」
そう私の耳元で小さくおっしゃり、だから大丈夫だから、とゆっくりとあやすように話した。私はその声にこくこくと頷くことしか出来なかった。
目隠し越しにも陽が登ってきたことがわかる程度に明るくなったころ、殿下の言う通りになった。王宮の騎士団が助けにやってきたのだ。
騎士団が束になってかかれば、いくら過激派の人間が武装をしているとは言えひとたまりもない。
暗い倉庫から助け出された私の目隠しが解いた時、一筋の光が射した。赤い太陽を背にして、堂々と立っている私とほとんど変わらない背。だけど、その顔には何度も蹴られた無惨な痣が残っていた。そんな痛々しい状況だったのに、あんなにも落ち着いた声で私に大丈夫、と何度も声をかけてくださったその姿は、まさしく光の王子だった。
これからは絶対にこの方を支えられるようになりたい、それが私がはっきりと自覚した恋心だった。
それから王妃教育を頑張って、頑張って……私に魔力が無いとはっきりと断言されたのはごく僅かの時間だった。
✳︎
「─ ─と、そういう話です」
私にとってはとても大切な思い出。だけど、10年も前の出来事だ。そんなことをずっと一人思い続けてきて滑稽と思われてしまうかもしれない。
「そんなことが……エマにとって……フィリップ様は本当に王子様だったのですね」
ぽつりとマーリャ様が仰った。でもだったらなぜ……と小さく聞こえた気がしたのは気のせいだっただろうか。
「エマ、私は…‥あなたを大切にしてほしいのです。だから本当は━━私━━いえ、これは言ってはならないことですよね。でも……エマの気持ちは分かりました」
わかったらこそ、とマーリャ様が大きく勢いをつけてベットの上で立ち上がった。
暗い中で、マーリャ様の意志を強く持った赤い瞳が輝いている。
「ま、マーリャ様?」
「私、エマが幸せになれるように鋭意努力致しますわ!前々からお手伝いいただいていているお礼も、それに今日助けていただいたお礼もしなくてはならないと思っていましたから。ねえ、良いでしょう?」
「ええっと……」
そのまま勢いよく、ベッドに倒れ込み、可愛らしい寝息が聞こえ始めた。
もしかしたら数滴のブランデーで酔いが回っていらっしゃったのかもしれない。私は乱れたベッドカバーを直すと、柔らかな枕に身を任せた。
小さい頃のことを思い出したのは、考えてみれば久しぶりのことだ。
あの頃は両親も優しくて、婚約者という立場も今ほど苦しく感じることはなかった。そしてリリーと殿下、3人で遊んだ日々は間違いなく素敵な思い出だった。だから、現実から逃げるようにあの頃を思い出すことがあった。けれど、最近はそういうこともなくなっていた。
「幸せに、か」




