狼の伝説 其の四
キッドは、海の底から海上へ浮上するように意識を取り戻す。
気を失っていたのは、ほんの一瞬か。
キッドは、空を見上げる。
そこがもう廃墟の地下ではない証拠に、銀灰色に輝く雲が見えた。
夜明け前の最も闇が濃いはずの夜空ではあるが、地上の輝きを受けた雲は鈍い輝きをみせている。
そして、その雲の切れ目から闇色の傷跡を思わせる夜が見えた。
狂っていると、キッドは思う。
夜であるというのに、なぜこの街は明かりをもとめるのか。
そして、街はとてつもなく騒々しい音に満たされている。
キッドは、この気狂いじみた街こそが、死者の街デルファイだと理解した。
死者の街デルファイ、ここの街の住人は別の名で呼ぶ。
彼らはここを、「シンジュク」とよんでいた。
キッドの頭の中には、ふたつの記憶がある。
ひとつは、王国でアインツベルス出身の傭兵として暮らした記憶。
もう一つは、ウクライナの戦場から流れてきた元兵士としての記憶。
まるで廃墟の続きであるようなこの路地裏で、キッドは軍用ハーフコートの裾にグルカナイフを隠しふたつの記憶の間で立ちすくんでいる。
目の前に、「狼」がいた。
コヨーテブラウンの軍用コートに見を包み、深い皺がいくつも刻まれた顔に笑みのような歪みを浮かべている。
「狼」は、キッドを見つめていた。
とまっどたように目を細めると、口をひらく。
「夢にみたとおりだ」
キッドは、なにか冷たいものが背を通り過ぎていくのを感じながら、「狼」の声をきく。
「この景色は、夢でみたとおりなんだ」
キッドは、「狼」の軍用コートに隠された手をみる。
そこには、ウルフファングがあった。
「狼」は、シンジュクでも「狼」なのだとわかり、キッドは少し笑う。
「狼」はくるりと踵を返すと、路地の奥へとすすむ。
廃墟の中の迷路のような路地裏であっても、極彩色の照明はそこここに輝き、蹲るおとこや立ちすくんでいるナイトドレスのおんなを照らしていた。
キッドたちは、夜の住人たちがゆらゆらと蠢く路地裏を足早に歩く。
「狼」は、確信をもってその扉の前に立った。
その扉には、キリル文字でこう掲げられている。
「Бесы」
キッドは、乾いた笑い声をあげる。
「悪い冗談みたいな名前の店だな」
「狼」は委細かまわず、その扉を開けた。
薄暗い店の中は、ゴシック調の装飾がなされている。
髑髏が貼り付けにされた十字架が飾られ、黒い床には赤い魔法陣が描かれていた。
黒い炎を入れ墨として顔に描いた、タキシード姿の大男が二人の前に立つ。
「ようこそ、いらっしゃい」
「狼」は、目の前にいるおとこを見ていない。
その向こうにいる、黒いレースに飾られたドレスをきた少女に目を向けている。
炎を顔に描いたおとこは「狼」の眼差しに気が付き、後ろへ下がった。
「狼」は、まっすぐ少女の前にゆく。
いや、少女なのかとキッドは疑問に思う。
その少女に見えるおんなの眼差しは、老婆のように諦念と哀しみと拭い去り難い苦しみの記憶に満たされていた。
「狼」は、そのおんなの前に腰をおろすと当然のように言い放つ。
「久しいな、マトリョーシャ」
マトリョーシャは、表情は変えずにうなずくと、バーテンに酒をだすように伝える。
そして、煙草を咥え紫煙を闇に吐きながら、呟くようにいった。
「おかしなことも、あるものね」
老婆のような眼差しで、マトリョーシャは「狼」を見つめている。
「夢の中で一緒に暮らしたおとこが、なぜここにいるのかしら」
「狼」は、深い皺の刻まれた顔を歪めると、マトリョーシャの手をとりレースの袖をまくって隠された腕を顕わにした。
憎しみを埋め込んだような赤い傷跡が、いくつもそこには刻まれている。
マトリョーシャは咎めるような目で「狼」をみると、袖をもとに戻した。
黒い炎を顔に刻んだおとこが、「狼」の後ろに立つ。
「その娘は、千ドルだ。先払いだよ」
「狼」は、満足げで穏やかな笑い声をあげる。
その後に行った動作は、旋風よりも速かった。
「狼」が振り向きざまに放った裏拳は、正確に炎の入れ墨男の顎先を掠っている。
大男は、何かを思い出すように遠い目を一瞬すると、穏やかに笑う「狼」に手を差し出そうとしそのまま足をもつらせて膝をつく。
そのこめかみに、「狼」の膝がめりこんだ。
入れ墨男は、昏い床に沈む。
「てめぇ!」
カウンターでバーテンが、トカレフをかまえた。
しかし安全装置のないその拳銃が火を吹くより前に、キッドの投げたグルカナイフが額に食い込む。
キッドはカウンターに落ちたトカレフを手に取ると、携帯電話をかけながら拳銃を抜こうとしているバウンサーを撃つ。
腕をトカレフで撃ち抜かれたバウンサーは、尻もちをついた。
キッドはバウンサーの顔面に靴底をめりこませ、拳銃と携帯電話をとりあげる。
携帯電話を耳に当てると、騒々しい叫びが耳に入ってきた。
「おい、いったいそこで、何がおこってる!」
キッドは嘲るような笑みを浮かべながら、電話に喋った。
「気にするな、おれたちは死者に会いに来ただけだ」
電話の向こうに一瞬沈黙がおち、掠れた声がきた。
「なんだ、おまえ。何者だ」
「我らは、レギオン」
そうこたえると、キッドはげらげら笑う。
そして携帯電話を床に落とし、踏み潰した。
キッドの笑いがとぎれると店の中は、とても静かになる。
おんなたちは、死体をみても悲鳴をあげることはなく、深海にゆらめく死体のように静かになりゆきを見守っていた。
マトリョーシャを連れてキッドのとなりにきた「狼」は、腕から血をながし呻いているバウンサーへ悪魔のように優しく手をさしのべた。
そっと血を流すおとこを立たせると、落ち着いた声で語りかける。
「それでは、行こうか」
バウンサーは苦痛に歪んだ顔で、問いかけるように「狼」をみる。
「狼」は、静かに言った。
「お前が電話をかけたところ、この店の二階にある事務所だよ」
バウンサーは、何かを言おうとしたがキッドが顔面にトカレフの銃口を突きつけると口を閉ざす。
無言で促すキッドに従い、バウンサーは出口に向かった。
その扉は、木製で重厚な気配をただよわせている。
バウンサーはドアノブに手をかけたが、拒否するように首を振った。
キッドは舌打ちすると、首筋をトカレフの銃口でたたく。
バウンサーは、ため息をついて扉をひらくと叫んだ。
「おれだ、撃つな!」
キッドは、バウンサーの背中から殺風景な事務所をのぞき込む。
そこには、五人のおとこがいる。
三人がソファに腰を降ろしており、拳銃を抜いているのはソファの後ろのふたり。
キッドのトカレフが火を吹いたのは、そのふたりが銃を撃つのと同時だった。
銃声が、交叉する。
バウウンサーは盾の役割をきちんと果たし、銃弾を受け死のダンスを踊った。
発砲したふたりのおとこは、綺麗に額を撃ち抜かれ床に沈む。
「狼」は死の疾風となり、部屋を吹き抜ける。
ウルフファングが、抜き放たれた。
ソファに座っていたふたりのおとこは、一瞬にして首筋を切り裂かれ真紅の血飛沫を迸らせる。
残ったひとりがホルスターから銃を抜こうとしたが、ウルフファングはそのおとこの右目をえぐり取った。
絶叫があがり、眼球がゴルフボールのように床を転がる。
マトリョーシャは、その一部始終を静かに見ていた。
何事もなかったように煙草を出すと、火をつける。
キッドは、目を抉られ悲鳴を上げながらのたうつおとこの鳩尾につま先をめりこます。
「いつまでも、うるせえ」
キッドが片目になったおとこの眉間に銃口をつきつけると、片目のおとこは黙った。
おとこの荒い息が、部屋に響く。
「武器は、どこにある?」
キッドの問いに、片目のおとこは眼差しで答えた。
キッドは、残った目の視線を追って部屋のロッカーへ向かう。
鍵穴に銃弾を撃ち込み、ロッカーを開くとそっと口笛をふく。
「カラシニコフかよ。上等だ」
キッドは、そこに並ぶ自動小銃のひとつを手にとった。
年代物の、AK74である。
キッドは、予備弾倉を軍用コートのポケットに突っ込む。
片目になったおとこは、叫んだ。
「てめえら、こんなことしやがって。ただですむと、おもうなよ!」
「狼」が、ウルフファングの冷酷に輝く切っ先を残ったほうの目につきつけると、おとこは再び黙る。
「狼」はとても優しく、語りかけた。
「おれたちは、車が必要なんだ」
片目のおとこは、苦しげに息をしながらポケットに手を突っ込むとキーを出した。
「裏の駐車場、コンパーチブルは一台しかないからすぐに判る」
「狼」は、穏やかに微笑んだ。
「ありがとう」
キッドが腰だめにして撃ったカラシニコフの銃弾が、残った目を破壊する。
おとこは後頭部から派手に血と脳漿をまき散らせて、死んだ。
「狼」は、ゆらりと立ち上がると、マトリョーシャに声をかける。
「行こうか」
マトリョーシャは無言で頷き、煙草を床に捨てピンヒールのパンプスで踏みにじった。
駐車場にあったコンパーチブルは、フォード・マスタング一台きりだったのですぐに判った。
「狼」がハンドルを握り、マトリョーシャが隣に座る。
キッドは後部シートの背もたれに腰掛けた。
「狼」がマスタングのエンジンをかけ、ギアをバックにいれる。
ハンドルを回しながら後退し、車首を駐車場の出口へ向けた。
それとほぼ同じタイミングで、駐車場の出口を塞ぐように大きなドイツ車が出現する。
キッドはあざ笑いながら、カラシニコフをフルオートで撃った。
反動で跳ね回ろうとする小銃を、うまくコントロールしてフロントガラスを撃ち砕く。
泡をくったように後退するドイツ車に、「狼」はマスタングのフロントをぶちあてた。
半回転したドイツ車のガソリンタンクあたりにキッドは、カラシニコフを撃ち込む。
ドイツ車は、火に包まれた。
あわてて車の外へ飛び出すおとこたちを、キッドはセミオートに切り替えて撃ち殺していく。
「狼」は、満足げに頷き煙草をとりだすと火をつけた。
マトリョーシャが、「狼」にたずねる。
「どこへいく、つもりなの」
「狼」は、皺の刻まれた顔を笑みの形に歪める。
「天国か、地獄のどちらかだな。まあ、おれに言わせてみれば」
「狼」は、紫煙を吐き出しながらマスタングのギアをつなぐ。
後輪が煙をあげ、マスタングは野生の馬のように飛び出す。
「そいつらは、隣あわせにあってどっちにいっても大差はない」
マトリョーシャは風にあおられる髪を押さえ、呟くように言った。
「馬鹿ね」
後ろでキッドは笑い声をあげながら、弾倉を交換した。
マスタングは狭い路地を疾風のように駆け抜け、大通りへとでる。
いきなり出現したマスタングに驚き、道行く車たちは抗議のクラクションを鳴らしながら停車していく。
キッドは、浴びせられる罵声とクラクションに、カラシニコフの銃弾で応えた。
後部座席に仁王立ちとなったキッドは、見境無く小銃の弾をまき散らす。
停車した車から、あわててひとびとが逃げ出していくのをみながら、キッドは喚声をあげる。
動く者がいなくなっても、キッドは弾倉が空になるまで打ち続けた。
道の両脇にあるショウウィンドウのガラスが撃ち砕かれ、粉雪のような破片をまき散らす。
キッドは空になった弾倉を捨て、新たな弾倉を装填すると空を見上げる。
いつのまにか、夜が終わり朝が来つつあった。
空は、インディゴで染めたように、青くなっていく。
キッドは、そっと微笑む。
「ああ、やっと静かになったな」
まるで、すべての音がカラシニコフに撃ち殺されたというかのように静寂が世界を満たしている。
まさに死者の街と呼ぶにふさわしい、静けさだ。
満足げに笑うキッドの額に、ぽつりと赤い穴があく。
そして、後頭部が破裂したように赤い飛沫につつまれる。
その瞬間、弔いの鐘のように銃声が轟いた。
後頭部から血をまき散らせたキッドは、マスタングのトランクへ倒れ込む。
「狼」は、その様を見届けると口の端を歪めながら拳銃をとりだす。
「この島国の警察にも、中々優秀な狙撃手がいるようだ」
「狼」は、拳銃をマトリョーシャのこめかみにあてる。
マトリョーシャは、つまらない冗談を聞いたかのように微笑んだ。
「警察にはこういえ。銃で脅されて、無理矢理つれてこられましたとな」
「わかった」
マトリョーシャは、幼子のように頷く。
「狼」は、満足げに笑った。
一発の銃弾が、その笑みを撃ち砕く。
「狼」は眠るように深くシートへ沈みマスタングは、真紅に染められる。
銃声は、少し遅れてやってきた。
もう一度、弔いの鐘が轟く。
マトリョーシャは、別れをいうように唇を動かすと、煙草を吸って青い空へそっと紫煙を吐き出す。
世界はまだ、静寂に閉ざされている。
空はゆっくりと、青さを増していった。
白い煙草の煙が、ゆっくりと青い空へ登ってゆく。
まるで魂が、空へ帰るかのように。