狼の伝説 其の三
そして、キッドと「狼」は再び街外れの廃墟にいた。
深夜を半ば、過ぎていたであろうか。
いつしか雨は過ぎ去り、酷薄な輝きをみせる月は雲の切れ目から忘れ去られた傷跡のように漆黒の夜空をひき裂いている。
廃墟は、滅んだ神の屍がごとき姿を蒼ざめた月明かりに晒していた。
キッドは、深海に沈んだ太古の街のような廃墟に佇む「狼」の背に向かって声をかける。
「なんで今更、この街へ戻る気になった。マトリョーシャはとっくに死んだって、知ってるだろ」
マトリョーシャは、近衛士官から受けた傷から奇跡的に回復した。
けれど、それから数年後に、流行病で命をおとすことになる。
街のものは、マトリョーシャに手を出せば「狼」が舞い戻り制裁を与えると信じていた。
だからであろうか、穏やかな晩年を過ごしたという。
今や辺境伯ルーベンも代替わりしており、「狼」のことは本当に伝説となっている。
その伝説を知るものも、数えるばかりしか残っていない。
まあ、むしろ忘れ去られたから、こうして舞い戻ったのだろう。
けれど、なぜ。
今更と、言わねばならない。
特にキッドとしてみれば。
「狼」は、ふらりと倒れた石柱に腰をおろす。
キッドもその前に、座った。
「おれがアインツベルスの街にいたころ、ひとりの呪い師と知りあった」
「狼」は、ひとりごとのように喋りはじめる。
「その呪い師は、狂った老人にみえたので誰も相手にしなかったが、おれが聞いたその話は妙に真実の匂いが漂ってた」
キッドは呆れたように鼻で笑ったが、「狼」は気にすることもなく喋り続ける。
「呪い師は、こう言っていた。この廃墟は、王国よりも古いものだ。魔族が地上を支配していた頃に、魔族の手によって築かれたものであると。だから、妖魔がここを未だに守っているのだ。そう、言っていた」
キッドは皮肉な笑みを浮かべていたが、確かにこの廃墟は夜になると妖魔が徘徊するとは聞いていた。
アルフェットの海より東で妖魔をみるのは、珍しいことだ。
奴らがいるということは、魔法的印がある場所なのだとはいえる。
「そして呪い師は、こうもいった。ここには死者の都への入口があると」
キッドは、思わず失笑する。
「冥界への入口だったら、遥か南のアルケミアにあるってきくぜ。まあ、それはおとぎ話だがな」
「狼」は、なぜか少し途方にくれたような目をして喋る。
「アルケミアの地下にあるのは有名だが、そこだけにあるものではない。死者の街への入口は、いたるところにあるんだ」
キッドは、舌打ちする。
「なあ「狼」、あんたぁまさか、死者に会うためにここへ来たっていうんじゃあないだろうな」
「狼」は、困ったようにキッドをみている。
その無言は肯定のしるしなのだと、キッドは理解した。
キッドは、やれやれとため息をついた。
「狼」は、なぜか言い訳をするように口をひらく。
「まあ、その呪い師のことはずっと忘れてたんだがな」
キッドは、思わず吹き出す。
「狼」は、困ったような顔をして言葉をつなげる。
「夢をみるように、なったんだ」
キッドは、笑いをとめ「狼」をみる。
「狼」は、祈りを捧げるもののような目をしていた。
「この廃墟の奥深くから死者の都へと入り、死者と出会う夢をおれは繰り返し繰り返しみるようになった」
漆黒の夜を、しんとした静寂がとおりすぎてゆく。
その瞬間、キッドは気配を感じたようにはっと目をあげる。
「狼」も、ゆっくりうなずいた。
背筋に冷たいものを押し付けられたようなその気配は、紛れもなく妖魔のものである。
キッドは、立ち上がると鉈のようなロングナイフを抜いて振り向きざまに一閃させた。
絶妙のタイミングで、襲いかかってきた妖魔の頭を薙ぐ。
影から這い出てきたような闇色の獣が、頭を半ばで断ち切られ地面に転がった。
「狼」も、ウルフファングを抜いて背後から忍び寄っていた妖魔の首をはねる。
妖魔は、猿の身体にハイエナの頭を繋げたような姿だ。
四足歩行だが、前足が長いので二足で歩いているように見える。
その姿はおぞましいことに、ひとの身体を歪めて作り上げたようにみえた。
いつの間にかキッドたちは、妖魔の群れに囲まれている。
「狼」は獣の敏捷さでウルフファングをふるい、妖魔の囲みを破った。
妖魔の濁った血が、闇を赤く彩りはねられた頭が地面にころがる。
キッドは、「狼」のあとに続きロングナイフをふるった。
妖魔は、身体を裂いた程度では死なない。
ただ頭を切り飛ばせば、ひとに向かってくることはなくなる。
「狼」とキッドは、廃墟の中をかけながら妖魔たちを切り裂く。
妖魔は直接ひとに触れなくても、そばにいるだけでその生気を吸い取り衰弱させていくことができる。
立ち止まれば、キッドたちにとって死を意味した。
「狼」は容赦なく妖魔たちの首を切り飛ばし、走り抜けていく。
キッドは、「狼」には明白な目的地点があるのだと感じとる。
「狼」は迷うことなく廃墟に転がる瓦礫を越え、地下に続く階段へと飛び込んだ。
月明かりでかろうじてあたりをみることができた地上とは違い、地下は液体のように濃厚な闇に閉ざされている。
キッドは一瞬闇に飛び込むことを躊躇したが、「狼」の迷いない走りに促される形で地下への階段に飛び込む。
目を圧し潰す闇の中で、キッドは「狼」の足音を追いかける。
「狼」はその名のとおり野獣の夜目を持っているのか、全く速度を変えず階段を走りぬけていく。
キッドは心臓を鷲掴みにする恐怖を置き去りにするように、走った。
その恐怖に呼応したかのような、妖魔の咆哮が前方からあがる。
声の大きさからすれば、そいつはかなりの巨体だ。
「狼」が腰から何かを抜く気配を、キッドは感じる。
火砲の発射される轟音が闇の中に、谺した。
妖魔が絶叫のような怒りの声をあげ、炎につつまれる。
火砲は、陶器の筒にジェル状の油をつめたものを発射する武器だ。
命中すると筒が割れ飛び散った油に火薬の火がうつり、目標は炎につつまれる。
妖魔のふるった前肢に「狼」は弾き飛ばされ、キッドの頭上を越えた。
キッドは弾き飛ばされた「狼」の下を通って、妖魔の喉笛を咲く。
灰色熊ほどの大きさはある妖魔は、喉から血を迸らせながら呻いた。
キッドは滝のように流れ落ちる血を避け、一歩さがる。
「狼」がキッドの背を踏み台にして跳躍すると、ウルフファングを薙ぎ払った。
火に包まれた妖魔の首が、地に落ちる。
動く松明となった首のない妖魔の身体を躱しながら、「狼」とキッドはさらに地下階段を下った。
妖魔の炎に照らされ、地の底にある扉が見える。
頑丈そうな黒曜石の扉が、行く手で闇色に輝いていた。
キッドは生まれてこの方、これ以上不吉な扉を見たことはない。
これこそが、冥界への扉だと思える。
夜の闇を磨き上げはめ込んだようなその扉を、「狼」は無造作に開けようとした。
キッドは、思わず声を発する。
「おい、あんた本気で」
「狼」は、少し振り向いて笑顔をみせる。
何の気負いもなさそうな、穏やかな笑みであった。
「狼」は誰にともなく、呟く。
「夢でみたとおりだ」
キッドは、自分に呆れながら「狼」の後ろに立った。
それがどこであろうと、もう置いていかれる気にはなれなかったというべきか。
夜をこじ開けるように扉を開き中へとはいる「狼」を追って、キッドは扉の奥へと進んだ。