狼の伝説 其の二
アインツベルスの街は、イルーク河のほとりにある。
そこには、元々古い城の廃墟があった。
いったいいつの時代の物であるのか見当もつかない、とても古い廃墟だ。
長い間その廃墟は、無人のまま放置されていた。
一応、トラウスの領土ではあるが、戦略的にも交易を行ううえでも価値のない場所であったため誰も関心をもたない。
そんな土地で、ある。
最初にその土地に小屋をたてたのは、誰だかよくわからない。
おそらく、戦場から流れ着いたブルガリーア・エグザイルであったときく。
無人の地に、流浪の傭兵が流れ着きひとりで暮らしはじめた。
いつのまにか、その傭兵がたてた小屋のまわりに難民が流れ着きはじめる。
王国と、共和国が続けるいつ果てるとも判らぬ戦争で、住む地を追われた難民たち。
漂泊の民が、流浪の傭兵のまわりに、簡易な住まいをたて住みはじめた。
その地を管轄するトラウスの辺境伯が幾度か視察にきたが黙認したため、なし崩し的にその地は居住地となっていく。
ひとが集まると、いつしか市がたつようになる。
不思議なもので、ひとが集まるようになれば自然と商いを行う者もあらわれた。
主にまっとうな市で売買のできないもの、共和国から流れてきた麻薬や東方から密輸された呪術にからむ武具など。
そうした非合法の商品がやりとりされる、いわゆる闇市がうまれる。
そしてそこに、非公式の娼館もできた。
トラウスの辺境伯は、それでもアインツベルスを無視し続ける。
辺境伯であるルーベン伯爵は、難民が自分の支配する村や街の手前にできた緩衝地にとどまることを是としたようだ。
よってそこの秩序は、ブルガリーア・エグザイルの傭兵たちが保つことになった。
しかしそれはあくまでも、残酷な暴力と恐怖によって成り立つようなならず者の秩序である。
力のないものは粗雑に扱われ、ならずものに逆らえば犬のように殺された。
そんなならずものの支配する地も、いつしか街といえるだけの規模をもつようになる。
「狼」が流れ着いたのは、そんな「街」であった。
「狼」はブルガリーア・エグザイルのようにみえたが、その街を支配するものたちに関わろうとはしない。
酒場で飲んだくれ、娼館でおんなを抱き金がなくなれば用心棒をする。
ありふれた無頼のおとこに、みえた。
ただ「狼」がふつうのおとこと違ったのは、並外れた戦闘の技量をもっていたことと、決して弱い者をくいものにはしなかったところだ。
いつしか「狼」は、娼館のおんなたちに頼りにされるようになる。
「狼」は、おんなたちを守るために戦うようになっていく。
「狼」は、二桁の相手を敵にまわしたとえ血みどろになるまで傷ついたとしても、夜になれば闇に紛れひとりずつ殺していった。
アインツベルスのならずものたちは、「狼」を畏怖しよほどのことがなければ手を出さないようになる。
暴力の支配する街で、「狼」のウルフファングはひとつの法として認められた。
キッドがその街に流れ着いたのは、餓鬼のころだ。
親もなく住むところもない、難民のひとりだった。
そんな難民の餓鬼は、たまたま傷をおった「狼」の手当をすることになる。
そして、なんとなく「狼」の身の回りの世話をするようになった。
娼館のおんなたちと馴染みであったにも関わらず、「狼」は特定のおんなを身の回りに置くことはなかったからだ。
その餓鬼を「狼」は、キッドとよびかわいがった。
キッドは「狼」のあとをついてまわり、戦いを眺める。
「狼」の戦いは、いつも分が悪いものだった。
酒をくらい油断したときに大勢に囲まれ、傷をおって逃げ回ることもしばしばだ。
けれど必ず逃げ落ち、夜の闇にまぎれひとりづつ敵を葬ってゆく。
それはまさに、野生の狼がとる戦法に思えた。
狼が闇の中から現れ、一瞬でひとの喉笛を食いちぎりまた闇へとかえる。
「狼」の戦い方は、まさにそれだ。
いつしか街を支配するならず者たちは「狼」に敬意を現したのか、彼の庇護する娼館のおんなたちには無法なことをしなくなった。
特に「狼」が目をかけていた、マトリョーシャという名のブルガリーア・エグザイルのおんなには誰も手出しをすることはない。
マトリョーシャは実際のところの年齢は不明であったが、とても幼くみえる。
アインツベルスの娼館はそうした普通の色街では抱けないおんなを求めるおとこたちの落とす金で、成り立っていた。
かつてはおんなを傷つけることで悦びを見出すようなおとこたちも受け入れていたが、「狼」がきてからはそんな商売は許さなくなっている。
それでもアインツベルスの娼館には手足を欠いたものや、顔に傷を負ったもの、年端のいかぬ少女にみえるおんな等がおり、それらを好むおとこたちが客としてついていた。
マトリョーシャには、ひとりの常連客がいる。
そのおとこは、辺境伯の近衛士官であり金もあればその気になれば配下の兵を動かすこともできるおとこであった。
近衛士官は、本当はおんなを傷つけ快楽をえるおとこである。
だから「狼」をこころよく思っていなかったが、アインツベルスを支配するならず者が一目置く「狼」と正面きってことを起こす気はなかった。
そのため「狼」は、罠にかけられる。
架空のおんなが架空の揉め事をおこし、助けを「狼」に求めた。
そして「狼」は街を離れ、近衛士官がマトリョーシャの元へとくる。
「狼」が罠に気づき街に戻ったとき見たものは、血まみれとなり生死の境を彷徨うマトリョーシャだった。
姑息な手を使った近衛士官は、結局その報いを受けることになる。
それは、「狼」が街に戻った夜であった。
近衛士官が、油断していたとはいえまい。
何しろ彼は、百人を超える近衛兵に守られた城に住んでいたのだから。
しかし、夜の闇を纏う「狼」にとって、城壁も近衛兵も全く障壁とはならなかった。
夜の闇が最も濃く重くなる、夜明けの直前。
近衛士官は、狼の牙で全身を切り刻まれ苦痛にのたうちながら死の抱擁を受ける。
夜が明け朝日にさらされたのは、幾十もの真紅に染まった近衛兵の死体であった。
皆、ひと太刀で首の血筋を裂かれ、一瞬で死んでいる。
まさに、闇とともに訪れた狼に噛み殺されたかのような、死体たちであった。
ずっと傍観をきめこんでいた辺境伯ルーベンは、この件だけは見過ごせなかったようである。
アインツベルスの街は、辺境伯に雇われた傭兵たちに包囲された。
街を支配するならず者は、我関せずを決め込む。
「狼」を差し出すでもなく、もちろん辺境伯に敵対するでもない。
肝心の「狼」は、もう街にはいなかった。
そして、二度と街に戻ることもない。
「狼」が街を去ったその夜、キッドは街はずれの廃墟で「狼」と対峙する。
世界が赤く染め上げられたその夕暮れ、キッドは叫んだ。
「おれもあんたと一緒にいくよ、連れて行ってくれ!」
「狼」は振り向くこともなく、鋼のように冷たい声で言い放つ。
「だめだ。おまえは、ここに残れ」
「なんでだよ」
キッドは、振り絞るように叫んだ。
「なんでだめなんだよ、連れて行ってくれ、狼!」
「だめだ」
「狼」は、重く宣告を下すように繰り返した。
「おまえは、ここに残れ」
そしてその夜、孤独な月が世界を蒼く染めるなか、キッドはひとり街に残った。