メモリーズ
人生に答えを見出そうとするならば、人は概ね二つの行為に及ぶと、僕は考えていた。名を遺そうとするか、自分探しをするか。
名を遺すとは、誰かに自分のことを証言させると言い換えてもいい。周知なされなかったら存在しないのも同じだ。だから人は生きている間、自分を知らしめるために孤軍奮闘する。そして死した後、自分の葬式が執り行われる。そこに大勢の人が集まりでもすれば間違いなく、その人は人生の成功者だった。
極端な例かもしれないが、徳川家康なぞはそういった意味で言うなら織田信長と違い、人生の成功者なのだろう。銅像なんか目じゃない。東照大権現になった。あるいは、本人は望んでいたかどうかは分からないが東郷平八郎などは東郷神社の祭神となった。それを言えば、靖国神社に祀られている人々はどうか。
いや、この話題をこのまま続ければ別の方向に行ってしまうから止めよう。ただ、些末な、取るに足らない僕でも名を遺したいという願望はある。自分の子供たちに対して、俺の背中を見て育ってくれと思ったことは多々あるし、せめて孫の顔を見て死にたいとも思う。僕の墓に来た孫が、これがおじいちゃんの墓だよと曾孫に言ってくれれば最高だ。
とはいえ、僕はどちらかと言えば、自分が何者かを探すことにこれまでの人生を費やしてきたように思える。名を遺すなんて畏れ多い。かと言って孤独死を恐れない、というわけでもない。本来なら、自分を探求するという行為は、孤独死もを辞せずの心構えでいなくてはならない。名を遺す行為とそれは、対局にあるはずなんだ。
けど、僕にはまだ、そこまでの勇気はない。それでもなお、せめて自分自身は自分のことを知っておきたかった。
どこから来て、どこに向かうか。ワイドショーの朝の占いを見て一喜一憂してみたり、ネットのサイトで性格診断してみたり。答えは自分の中にあると思っていた。明確な目標、なりたい自分がイメージ出来なくては、全ては不毛なのも分かっていた。
だから迷う。いつも悩んでいるように思われる。周囲には意志薄弱と思われているのだろうが事実、僕の自分探しの旅は進路も定かではなく流されてばかりで、偶然ここまでやって来た。
どうしてそうなったか。おそらくは、子供の頃の思い出が無いことが原因なのだろう。もちろん、記憶はある。だが、思い出が無いんだ。
例えば、歴史の授業で年表だけを暗記させられたらどうだろう。僕の言いたいことはそういうことなんだ。歴史はストーリーだ。記号の羅列ではない。
僕は子供の頃、両親の喧嘩を見て育った。二人は顔を合わせればいつもののしり合いで、父が居なければ居ないで母が父の悪行を僕に訴えていた。僕を味方に引き込みたかったんだ。だから、僕の家庭はいがみ合いと猜疑心でズタズタで、絶えず気味の悪い緊張感に包まれていた。
このパターンにハマったら大抵の子供は夜の街をうろつく羽目になる。そして事件に巻き込まれるか、事件を引き起こすか。
僕の場合、ラッキーだったとしか言いようがない。勉強机に向かって参考書さえ開いていれば親の喧嘩が収まる、これに早くから気付いたからだ。
五月蠅くしてはならないと言うのであろう、両親は憎み合っていても僕への愛情はあった。それでも僕は、家には居づらかった。塾にだったら両親は幾らでもお金は出してくれそうだったし、僕は家にいないで済む。だから、塾を幾つも掛け持ちし、家庭からの逃亡を図った。
そのおかげで今の僕がある。大して頭が良くないのに大学にも行けたし、世間でも名の通った会社に入れた。
けど、僕の思い出は真っ暗な田んぼや畑の風景にポツンポツンとある街灯と信号、それとバスの車内の薄明りだけだった。学校の修学旅行も遠足も運動会もない。それはもはや思い出ではなく記憶としか言い様がなかった。
何かを得るために何かを捨てなくてはならない。あれもこれも出来る人間は極僅かだ。多くの人達もそれを享受しているのだろう。けど、満たされたわけでない。渇きは依然として残るのだ。そうなったら誰しもが心の潤いを求めて、自分探しの旅に出る。
ただ、そんな僕にも思い出がないわけでもなかった。散々愚痴ってしまったが、思い出というのはよくよく考えれば僕だけのものではない。大抵が共有されるものだ。極端に言えば、自分にとっては無かったものだったかもしれないが相手に取ってみれば人生を変えてしまうものだったりもする。
それは“名を遺す”に通じるのではないだろうか。思い出とは僕だけのものではないし、言い換えれば、僕という人間が居たと立証できる者がいるということでもある。つまり僕の言いたいことは、自分探しの答えは自分の心の奥底にはないって場合もある、ということ。
当時、僕は神奈川県のある会社の設計部に所属していた。技術開発は様々な困難と出くわすが、やりがいのある仕事だと思っていた。それがこの十月から地方の品質管理部に転属を命じられた。期間は三年だと言う。正直、がっかりはした。誰かに注文を付けたり、衝突するのは性に合わない。けど、仕方がなかった。二人の子供はまだ小学生だったし、三年という短い期間だったから僕は単身赴任すると決めた。
問題は転勤先だった。三重県にある亀山市というところだ。田舎が嫌いだとか左遷のようで腹が立つとかじゃない。僕の故郷のすぐ隣だとうことが問題だった。会社の裏ルールとして故郷への転勤はご法度だった。便宜を図るような人事では統制がとれないというのである。当然と言えば当然で、このことを人事によっぽど言おうとした。だがそうしたら、誰かが代わりに行かねばならなくなる。それを考えると僕は二の足を踏んだ。
この件に関しては言えば、僕にも非がない訳でもない。出身は? と同僚に聞かれたら関西だといつも答えたていたし、本籍地はというと、神奈川県横浜市だった。基本、邪魔くさかったんだ。言葉の鉛で出身地を聞かれるのはいいとして、三重県がややこしかった。文化は間違いなく関西圏で、そこに住むほとんどの人が近いはずの名古屋弁ではなく関西弁に似た言葉を喋っていた。
それに、僕が生まれたのは横浜市で、両親も神奈川県の人だった。出身は? と聞かれたら神奈川県だと言っても差し支えはない。僕はただ、出身地を問う人の誰もが期待していた答えを言ったまでだ。けど、実家はどこかと問われるならばそうはいかないだろう。
そんな屁理屈を言わず三重県って言えばいいじゃないかと思うだろうが、この僕自身が三重県をよく知らない。鈴鹿サーキットとか伊勢神宮とかなら名前は知っているけど、家族で行くはずもなく、学校の遠足もそこへは行かなかったような気がする。だから、僕の転勤は新天地に向かうようだったし、実際に家を出る時は緊張していた。
かれこれ、一か月過ぎた金曜日のことである。僕の元上司の設計部長が亀山工場を視察に来ていた。僕は元部下だけあって案内に加えられていた。昼から来て会議の真似事を一時間ほど行い、工場で製品の製造過程を見ていく。ああでもない、こうでもないと工場側の偉いさんが説明していく。
僕は、その行列の最後尾に付いて行けば良かった。転勤して来たばかりで工場側の人間だとは言えないし、かと言って客側でもない。あまり出しゃばらない方が皆にとっては幸せなのだ。それは夜の宴会も同じだった。末席で目立たず、話しかけられた時には話す。ビール瓶片手に席を廻るなんてことはしない。ただ、飲み物が無くなったり、注文が出たりした場合は、内線電話を掛けはした。
宴会はというと、亀山市ではなく県庁所在地の津市で催されていた。工場側が松坂牛を御馳走しようと考えたのだ。とはいえ、松坂市は遠い。津市なら移動もその半分の時間で済むし、松坂牛を食べさせる老舗もある。
だから、宿泊の場所も繁華街の傍の都ホテルを取ってあった。亀山市から移動してきたらチェックインさせ、飯を食い、二次会が済めばホテルのロビーでお見送りする。そういう段取りだった。果たしてその全てが滞りなく済み、客も上機嫌でホテルのエレベーターに消えた。僕らはまた、繁華街に繰り出した。
打ち上げだというのであろう。時間は十一時前であった。繁華街にはもうほとんど人が見かけなかった。店の看板の明かりもまばらで、目に入るのは外国人ばかり。路地に入るどの交差点にも彼らは立っていてマッサージはいかがですかと声を掛けてくる。薄暗くて顔がよく見えなく、三、四人が固まっているのでなんだか薄気味悪い。
ここも、僕の子供の頃はもっと栄えていた。映画館があったり、本屋があったり、お洒落なアパレルの店があったりしてアーケードは賑わっていた。そもそも立地が悪いんだ。津の駅からタクシーで来なければならない。それでも、飲酒運転が厳しくなるまでは栄えていたという。繁華街は完全に、時代に取り残された場所になっていた。
僕ら五人はそのアーケードを進んでいた。上司の行きつけのスナックに向かうのである。彼らが自社製品のここが良いとか、外国の製品には負けてないとか、威勢のいいことを言っている後ろで僕は、例によって会話に加わることもなく少し離れて歩いていた。
ふと、お好み焼き屋のシャッターの前にうずくまった人を見かけた。酔っ払いだろうと思ったが、様子がおかしい。足を抑えて苦しんでいた。喧嘩でもあったのかと思い直したが、どうも知った顔のように思えた。
僕はなぜか、ほっておくことが出来なかった。行動を共にする四人とは打ち解けていたわけでもなかったし、僕がいない方がこの四人も楽しめるだろう。スマホをいじくる一芝居を打って、急用が出来てしまったと残念がって僕はこの四人と別れた。
歪んだ形相の男を前にして、僕はしゃがみ込んだ。そして、どうかしましたか、と問う。
「すまないが、靴の紐を外してくれ」
薄暗くて、しかもうつむき加減でよく分からなかったが、顔を近づけてみて確信した。やっぱりこの男を、僕は知っている。
男はチェスターコートにスキニーパンツ、そしてブーツを履いていた。その姿は、記憶にある男のイメージからは大きくかけ離れている。それに、さびれた繁華街にも不釣り合いだった。
年甲斐もなく随分とめかし込んだものだ。お目当ての女がどこかこの辺のスナックにいる。その子は歳も若いのであろう、そんな想像が僕の頭をよぎった。
「靴紐」
男はまた、そう言った。さっきから靴を脱ごうとしている。足がどうかしたのであろうか。僕は靴紐を外すのを手伝った。
右足は見事に折れていた。複雑骨折か、二か所以上折れているのか。靴を脱がすと足首は曲がってはいけない方向に曲がっていた。腫れもひどい。これでは確かに、靴を脱ぐにもしどろもどろになるはずだ。僕は言った。
「救急車を呼ばないと」
「ここではよしてくれ」
「でも」
「すまん。二十三号線まで連れてってくれ。そこで俺が呼ぶ」
なるほど、そういうことか。小綺麗にしているからには金がないわけではなさそうだ。スマホぐらい持っていよう。それを掛けなかったところを見ると男は騒ぎを恐れている。この人通りのないアーケードに救急車でも来たら目立つっていうもんじゃぁない。
狭い町だ。瞬く間に噂にもなるだろう。噂は尾ひれ葉ひれがつくと相場が決まっている。それを分かっているのだろう、男は僕におんぶしされ国道まで向かう最中、こうなった顛末を問われもしないのに話し出した。
要は、酔って階段から落ちたということだ。スナックはビルの二階にあって見送りの女の子とふざけていた。落ちてからはケンケンでもしてお好み焼き屋の前まで何とか来た。気のある女の子に無様な姿をさらせない。それは男の服装からみても容易に想像出来る。
男は僕の背で、119番に電話を入れた。やがて国道に出ると十分もせず救急車が到着した。担架に乗せられた男は、ちょっとわりい、と救急隊員を止めさせた。そして僕に名刺を差し出す。サラリーマンの性とでもいうのだろうか、差し出された名刺を断る術は持ち合わせていない。僕は、恐る恐る男の名刺を手に取った。
「すまなかった。あんたの、せっかくの金曜日を台無しにしちまった。俺はこういうもんだ。連絡先も書いてある。お礼をさせてくれ」
男は手を差し出した。これは間違いなく名刺の催促である。僕は固唾を飲んだ。名刺をもらっといて出せないなんて言い訳が通じるだろうか。生憎今は切らしていまして、後日お渡しさせていだだきます、はビジネスの場面で何度か言った覚えがある。良い悪いはともかく、後日渡せた人もいるし、渡せなかった人もいる。
この場合、どう断ったらベストか。そう悩んでいたのはちょっとの間だと信じたかった。渡したくないと感づかれもすれば、どんな言い訳をしたって白々しい。僕は慌ててカバンの中を見たり、ポケットを探ったり、探す素ぶりをした。
「渡す気はないみたいだな、にぃーちゃん」
男の豹変にどきっとした。こいつはこういうやつだった。すぐ頭に血が上る。渡さなかったらどっかでばったり会った時が恐ろしい。だが、渡せば同級生だと知られるかもしれない。いや、そもそもこの男が僕のことなんて覚えてるはずがないんだ。こいつと正面切って話したのは確か中三の三学期だけだ、大丈夫。
僕はそれに賭けた。覚えてないことにはかなりの自信があった。白々しくも、あ、あったと胸の内ポケットから名刺を出した。受け取ったその様子をドキドキして見守っていると男は、僕の名刺を一瞥しただけで、すぐにそれをポケットの中にしまい込んでしまった。顔色に全く変化が見えない。やっぱりだ。僕は胸をなでおろした。
「池田さん、今日は済まなかった。気を付けて帰ってくれよ」
男は救急車の中に運び込まれていった。
月曜日の朝になるとそんなことがあったのもすっかり忘れていた。僕にとってはもう終わったことであった。朝食のテーブルにつくと母は、はい、と相変わらず僕に箸を手渡してくる。置いときゃいいものをなぜ、わざわざ、箸を手渡す。
確かに子供の頃は毎日そうしていた。けど、家を出てからどれ程の歳月が経ったというのか。それに僕はもう人の親だ。いつまで経っても僕はあなたの子供に変わりないだろうが、僕はいつまでも子供ではない。それにこれを、僕の子供の前でやろうもんならたまらない。朝食を食べ終わると言った。
「かあさん、明日からパンにしてよ」
パンなら、どう頑張っても箸は手渡せない。父はというと、五年前に亡くなっていた。今はこの家も母一人だ。だから、この三年間は母と二人っきりで暮らさなければならない。母は自覚がないが強情で、箸を手渡すのはやめてくれと言ったって、どうせ聞き入れてはもらえない。聞き入れてもらえないなら方法を変えるしかない。
会社はというと、車で二、三十分の道のりだった。一方、津市までは三、四十分。実家周辺には鉄道は通っていない。その昔、亀山市と津市を鉄道で結ぶこととなり、ここにも駅が出来るはずだった。だが、出来なかった。地域の住民が反対したのである。この地はお伊勢参りの宿場町で江戸時代は相当な繁栄ぶりだった。当時の町の言い分は、駅が出来れは誰も泊まらなくなる。
今や陸の孤島であった。両親が流れ流れてここに家を建てたのはいいとして、おかげで塾に行くにもバス、高校に行くにもバス。それも一時間に一本しかなかった。
ともかく、夕飯はおいといて朝のストレスからは解消されようとしていた。気持ちが軽くなって仕事に励んでいた三時頃のこと。今度は通門の保安から僕宛てに内線が入ってきた。
『池田さん、お客様がお見えになりまして』
「お客さん?」
『ええ、フィリピンの方です』
「フィリピン?」
『ええ、女性です。ここに待たしておきましょうか?』
「女性?」
『なんなら、いないと言っておきましょうか?』
「いいえ、すぐ行きます」
何かの間違いかと思った。フィリピンの女性なんか知らない。変な噂を立てられても困る。僕は足早に通門へと向かった。
女はマリアと名乗った。ちょっと愛嬌のある顔のグラマーな美人だ。年のころは四十前後、僕と変わらないように思えた。
「これ」
そう言うと笑顔で包みを僕に差し出した。
「お礼です。蜂蜜饅頭。わたしから」
「お礼?」
彼女はデニムパンツのポケットから名刺入れを取り出した。赤い革製で、二つのポケットに自分のと貰った名刺が分けられていた。そこから彼女が摘まんで見せた名刺に僕は驚いた。これは、僕のだ。
「それをどこで?」
「横山さんから預かりました」
「と、いうとあなたは?」
今度は名刺入れの別のポケットから一枚取り出し、僕に渡した。
「よろしくお願いします」
『サラーマット』 彼女はスナックのママだった。
僕はようやく状況が掴めた。つまり、横山一義は田中ビルの二階にあるスナック・サラーマットから出て階段から転落した。その光景を見ていたママはというと、やっぱり心配になった。連絡してみたら横山一義は入院していて、慌ててお見舞いに行った。そこで僕の名刺を手に入れた、ということなのだ。
ママは責任を感じている。本来ならば救急車を呼ぶのは自分の役目だ。それを行きずりの人に任せたとなると悔やんでも悔やみきれないし、行きずりだった僕に対しても申し訳ない。彼女が言った。
「横山さんもお礼が言いたいと。改めて連絡しますって」
僕は、横山一義を覚えている。小学生からの同級生で、ある意味彼は有名人だった。癇癪を起して人のノートをビリビリに破ったり、椅子を持ち上げて教壇に向かって放り投げたりした。人の顔をグーで殴ったのを初めて見たのも彼だった。
その彼も中学では、一つの出来事を除いてはあまり記憶になかった。ほとんど出席してなかったように思える。聞くところによると母親は蒸発したそうで、父親の酒乱が原因だったようだ。夜中、酒に酔って暴れて駐在さんが連れて行くところを見たという友達もいた。仕事は大工だというが定かではない。僕の記憶では、その父親と一度も会ったことがない。ということはだ、参観日にも学校へ来ていなかったということになる。
横山一義はその父親を見て育った。グーで顔をぶん殴られたこともあったに違いない。彼はそれをそのまんま学校でやった。当然、体力に自信のない僕は寄り付きもしない。因縁を吹っ掛けられればイチコロなのだ。ずっと避けて通って来ていた。
それが中学三年生の冬、最後にして初めての接触となる。僕の中学はで三学期の終わり頃、二人三脚大会が催される。変わった伝統行事であったが、ずっと続けられているようだった。体育館の壁には札が掛けられている。水泳やら百メートル走やらの最高タイムと、それを出した本人、その日付が札には刻まれていた。そこに二人三脚もあった。記された日付が十年以上も前だったのを覚えている。
僕は幸運にも、横山一義と組むことになった。今までの話からいって不幸と言わずに幸運と言ったのはちゃんとした理由がある。実は大会の当日、僕はズル休みをする予定だった。三年生の終わりにもなると進路も確定していて、内申には影響が出ない。組む相手には申し訳ないとは思っていたが果たして、決まった相手が横山一義だった。やつはきっと休む。これで僕も安心してズル休みが出来るという寸法だ。
ところがだ、意外なことにその横山が、やる気満々だった。学校の帰り道に待ち伏せしていて、僕の姿を見るなり近付いてきて、当日は休むなよと言うのだ。青天の霹靂とはこのことを言うのであろう、その時僕はそう思った。
だが、ことはそれだけではなかった。横山は一位を狙うと言った。何を言い出すかと思えば、悪ふざけにもほどがある。誰に向かってそんな言葉を吐くというのか。横山はそこそこやるのであろうが、僕は体力も無ければ運動神経も発達していない。こうなればもう驚きを通り越して怒りしか覚えなかった。僕は、他を当たってくれとその時はそう答えた。
そのことがあって数日、僕は中学最後の塾の帰り道で、時間は夜の十時を過ぎていた。バスを降りると横山一義がベンチで膝を抱いて座っていた。そして言うんだ。横に座れって。
横山の話によると二人三脚大会で優勝すれば体育の成績が5にしてもらえるらしい。僕は馬鹿じゃないかと思った。誰がそんなことを言ったかと問うと、横山は体育の教師の名を言った。
「だから、練習に付き合ってくれ」
馬鹿にもほどがある。どうせ勝てるわけがないから先生はそんなことを言ったんだ。けど、いくら出席させたいからと言ってそれはなかろう。一方で、僕も馬鹿にされているような気になった。ズル休みを見抜かれているのも面白くない。だからこそ、敢えて無視してやろう。かかわるだけ馬鹿を見るし、先生も悔しがる。
「イケチン。おめぇ、俺が騙されてるって思っているだろ」
横山がそう言った。僕は言い返した。
「成績が5になるってことは誰かが4に落ちるって事だろ? それにお前はそもそも学校休みすぎなんだよ」
横山は鼻で笑った。「おめぇは昔からそうだ。冷めてんな」
「お前に言われる筋合いはないよ。お前だって勉強なんて無駄だと思ってるんだろ? それを冷めてるっていうんだよ」
「俺は、成績で5を取ったことがない」
僕は、はっとした。横山は高校へは行かずに就職する。先生の提案というか、挑発も一点の光だったのだろう。とは言え、まずは勝たなければならない。勝った後にごねるなり脅すなりするのは横山の自由だ。好きなだけやればいい。先生も困り果てるだろう。そうなれば僕の気持ちも晴れるというもの。
「わかったよ。だけど、負けたって勝ったって僕だけは恨むな」
僕らふたりは大会までの一週間、必死に練習した。結果はというと、優勝だった。予選は苦労したが、決勝では強豪チームがコケまくり、僕らは圧勝した。皆は運があったと言うが違う。僕らの頑張りにやつらは焦ったんだ。そしてリズムを崩し転倒していった。
因みに横山は体育の成績に5を貰えたらしい。これは本人から聞いたわけではない。高校二年だったか、野呂とかいうやつとバスで一緒になったんだ。そいつはパーフェクト男で通知表は文字通りオール5。大抵は、体育がよければ文科系は不得意なはずだ。だがやつは、譜面も読めるし、絵もよく張り出されていた。
バスはほとんど人が乗っていなかった。野呂はわざわざ僕の横に席を移してきて、どう? 調子は、と始まった。それから延々と喋り、中学最後の成績表の話をしだした。先生に頼まれて体育の成績を人に譲った、誰に譲ったのかは知らないが、というのだ。良いことをしたと誇らしげだったが、なぜわざわざ僕にその話をするのか。友達もいない僕なら誰にも喋らないと思ったんじゃなかろうか。野呂はよっぽど誰かに言いたかったのだろう、僕にはむしろ自慢にしか聞こえなかった。
横山と出会ってからもう一か月以上。工場は浮ついたクリスマス気分から抜け、年の瀬に向け慌ただしい空気が漂っていた。そんなある日、品質管理部の外線に僕宛てに電話が入った。取った女子社員によると斎藤という女性からである。はて? と思いつつ僕が電話口に立った。
「もしもし」
『あ、初めまして斎藤です。おかあさんと代わりますね』
「はい?」
『お久しぶりーーー、池田さん』
サラーマットのママだ。「あのぉー、ママさん、今日はどういったどのようなご用件で」
『横山さんが退院したの、それで、お祝いするんだけど、池田さんも来てね』
「いやぁ僕は」
『横山さんも来てって言ってたよ、お礼がしたいって。今週の金曜日。やっぱり年末で忙しいかなぁ。ダメだったら日にち変えますよー』
日にちを変える? まずい。これは断り切れそうにもない。彼女がここしか電話番号を知らないっていうのがさらにまずい。基本、彼女は善良なのだ。はぐらかしたって僕の心情はくみ取ってもらえないだろう。何度でも電話が掛かってきそうだ。これはなんにしろ、一度会ってライン交換するしかない。
「今週の金曜日ですよね、分かりました。時間は?」
『六時から店を開けますよ。食べ物はちゃんと用意しまーす』
「そうですか。少し遅れそうですから、先にやっていて下さい。あとから必ず向かいます」
『待ってますからねーーー』
電話を切ると僕は引き出しから横山一義の名刺を取り出した。そして机の上に置く。
『排水衛生設備 下水道工事 溶接配管工事 有限会社横山工業 代表取締役 横山一義』
横山一義は社長になっていた。彼の性格から考えると相当な苦労があったろう。いや、今も苦労しているのかもしれない。社員の生活がやつの肩にかかっているんだ。自分が社会に出た時と同じような中卒の子らも面倒見ているだろう。横山はその子らの未来も背負っている。
確かに、横山の顔は潰せない。やつは僕のことを覚えていないだろうが、社会人として僕もケジメは付けなければならない。果たして金曜日となり、僕がスナック・サラーマットのドアを開けた時、出迎えてくれたのがその社員らだった。四人いた内の一人は子供のように見える。皆、礼儀正しく僕に挨拶した。ママと若いホステスもやって来た。その向こうに横山の姿がある。松葉杖をまだ突いていた。横山が言った。
「池田さん、ここに座って」
骨折は二か所していたそうだ。くるぶしのところとそれから十センチほど上がったところ。手術して金具を入れた。そして約一か月ほど経過を見て退院してきた。まだリハビリは続けているそうだ。社員らは二本のマイクを順繰りに回しながら、おしぼりを振り回して『湘南乃風』を熱唱している。
横山が言った。
「ブーツが悪かったな」
歌に合いの手を入れるように横山の社員の一人が言った。
「年甲斐もなく、ブーツって」
「なぁろー」 横山はおしぼりを投げつけた。そして笑顔で言った。「池田さん、近頃の若いやつはこれですわ」
テーブルの向かいでママが愛嬌ある笑顔を見せ、焼酎を作っていた。
「おなか減ったでしょ。食べて」
各種揚げ物に枝豆、ハム、ソーセージなどのオードブルと目玉焼きが乗った焼き飯があった。
「わたしが作ったのよ、ガーリックライス。クックパッドっていうの」
僕は一口ほうばった。美味しいと感想を言いつつ、頭では違うことを考えていた。会社への電話である。僕は言った。
「あ、ところで横山さん。差し支えなければママにライン、教えてもらっていいですか?」
マイクで横山の社員が叫んだ。
「ライバル出現かぁぁぁ」
横山はまた、おしぼりを投げつけた。「ほっとけ!」 笑顔だったが、ひきつっている。
ママが言った。
「お気になさらずに。ねぇ、横山さん」
店に流れる曲は『ゴールデンボンバー』に変わっていた。
それからの小一時間で新たに客が二組入って来ていた。貸し切りではなかったようだ。それでも二組は皆、横山らの顔見知りのようで、席はというと入り乱れ、ずっと同じ場所に座っているのは僕だけだった。あっちこっちと忙しい横山は、合間を縫ってやってきて、僕のことを根ほり葉ほり聞き出す。神奈川県に住んでいて、子供は二人、単身赴任で三年間はここにいる、その後はどこに行くか分からないと告げた。大会社は辛いねぇと横山は言っていた。
時間はというと、九時を過ぎようとしていた。僕はバスの時間が心配になっていた。帰る前に代金を渡さねばと、ママを呼んで一万円渡そうとした。だが、断られた。と、いうよりも拒絶された。
それはまぁ仕方ないとして、横山にも帰ることを告げた。一曲だけ歌ってけとせがまれた。いやいやそれはと断ると打って変わって、歌わないと帰さないと今度は脅されてしまった。酔っ払いには逆らわないのが得策だと、『スピッツ』の『楓』を入れた。順番が回ってくるまでまだ四曲も予約が入っていた。
そして、ようやく曲が回って来た。画面に映る文字を必死に追っていると、店のドアが開いた。誰かがちらっと顔を出したかと思うとすぐにドアは閉じられた。僕はというと、なんとか歌い切り、席を立った。カバンをママから手渡され、コートを肩にかけてもらった。その袖に手を通していると横山が僕の手にタクシーチケットを握らせた。この時やっと、僕はさっきのドアの男がタクシーの運転手だったのに気が付いた。
「横山さん、ダメですよ。僕は店代も払ってないんです、そこまでしてもらっちゃぁ」
「お礼がしたいんでわざわざ来てもらったんだ。俺の顔を立ててくれよ」
「いやぁぁ、僕はただ負ぶっただけですし、まだバスがあります」
「そういう言わずに受け取ってくれよ。そうしないと気が済まない」
「いえいえ、今日は十分楽しませてもらいましたよ」
「受け取れないと?」
「はい」
「はいって………。水臭いことをいうなよ、イケチン!」
イケチン? それは僕の子供の頃のあだなだった。
「あっ、すまん。言うつもりはなかったんだ。最初会った時にイケチン、他人のふりしたろ?」
そう言うと横山は続けた。
「やっぱり言うわ。気を悪くせずに聞いてくれ。俺はずっとあんたに感謝していたんだ。離婚して嫁はいないけど子供はいてな、そいつは俺に似合わずよく出来るやつで今年大学に入ったよ。今、東京にいる。小さい頃からやつにはいつも言ってたんだ。何か一つだけでもいい、頑張れって。それで俺の通知表見せてな、これを見てみろ、俺はグレていたが最後の最後、体育だけは5になるよう頑張った。そう言えたのは、あんた、あんたのおかげだ。このとおり」
横山は深々と頭を下げた。うつむいた下で泣いているようだった。その横山が声を詰まらせ、こう言った。
「こんな馬鹿な俺でも子供に誇れる親になれた。ありがとう、イケチン」
顔を上げると横山は、必死に涙を手で拭った。ママがおしぼりを手渡す。僕はというと、茫然と立ち尽くしていた。
街灯の下、バス停のベンチで体育座りをする横山の姿が記憶に蘇る。夜、誰もいない校庭で、砂まみれになりながら肩を組んで走っていたのが思い出される。テープを切ったあの後、勝利の雄叫びも上げずに荒い息で、密かに笑顔を交わしたのが目に浮かぶ。
歓声なぞ無かった。観戦している者は皆、唖然としていた。盛り上がりに欠けた大会だと評した者もいた。案の定、表彰式台に立った僕らには冷たい視線が注がれていた。いたたまれなかったのだろう、そこで横山は僕にごめんと言った。自分が嫌われるのはしょうがないとして、僕まで巻き込んでしまったということなのだ。
自分は迷惑な存在。だから、もうこれ以上迷惑をかけてはならないと横山は卒業式の後でさえ僕に声を掛けて来ようとはしなかった。僕はというと謝られたあの時、聞こえていない素振りをした。そりぁそうだ。横山は謝ることなんてない。そもそも僕は、横山と似たり寄ったりの扱いを皆から受けていたんだ。
思えば、あの二人三脚大会は僕らの、せめてもの抵抗だったのかもしれない。今、横山一義に教えられた。傷つけられ、追い詰められ、ボロボロになっていた僕らは自らの境遇に対して力を合わせ共に立ち向かったんだ。そして僕らは、一矢報いた。
横山に見送られタクシーに乗った後も僕は、今まで味わったことのない感情に心が強く揺さぶられていた。酔っているのだろうか、雨も降っていないのに車のガラスは滲んでいるかのようである。暗闇に浮かぶ街灯や信号の明かりも、寂しげには見えなかった。
( 了 )